| 光の春 | |||||||
朝の息はまだ白く薄曇に広がっていたけれど、午後は透明感のあるトルコ石のような色から、少しばかりぼやけた水色に空が姿を表した。 報告を終えて校舎から出れば、古びた青銅のような色の木々の間にも、白や薄紅をした季節の兆しが見える。 どうせ今日はすることもない、と、僕は足をそちらに向けた。 やることは、これから山積みになる。 遅くとも来週には散りそうな梅、その下で小さい手まりを沈丁花。 勢いをまだ保ったままの山茶花や椿の、大輪の間にまに、小さくとも次の力が潜む。 そして時が来て咲けば、その芳香の力で人を引き止め、振り向かせて、春は何処か、と、探させずにはおかないのだ。 それにしても、梅と沈丁花が少し近すぎる。 沈丁花は梅に少し遅れて咲くだろうけれど、梅の香りが落ちきる前では、二つの香りが混じってしまって、つけすぎた香水のように強烈な印象が残るに違いない。 学校の庭師は、そうしたイメージを持たないで乱雑になんでも植え込んだのだろうか。 マフラーの下の首が少し窮屈になったので、ホックを外して詰襟の襟元を緩めた。 コートを着ているし、校則云々はもう言われないだろう。 僕は、結果を出したのだ。 この学校では予測外の、ある人物には当然と見做される、僕にとっては最大限の結果。 医学部合格。 成績が中の下だった生徒が二年の暮れに上位を取った時も、三年で文系から理系コースのクラスに入りなおした時も、僕の担任は本気にしていなかった。 今日、生徒を怒鳴る時だけ滑舌の良い進路指導が、僅かに口ごもりながらも僕を祝福する言葉を吐いた。 その時、こちらに向けられた職員室中の視線の殆どが、優等生よりも変り種に向けるような驚きを含んでいたことに気づいたのだ。 保護者をなくし、人の厄介ものになった少年が、逆境をばねにして成長する。 確かにそう多くはないが、皆無でもない物語が、抜群の進学校でもない高校に出るとは、どうやら誰も思っていなかったようだ。 ほどほどに成長し、ほどほどに頭に文字や数式をつめて受験会場でぶちまけ、空っぽになってほどほどの大学に飛び込んで、卒業すればほどほどの会社に入社する。 たまに出る頭の良い奴も、理数系と言うよりは理工系、良くて経済学部。 それが、私立大学とは言え医学部に現役合格を生んでしまった。 もともと理系クラスに医者志望がいて、そいつは合格間違いなし、と太鼓判を押されていたのだが、僕まで合格するとは進路指導も思ってなかったらしい。 一学年で二人、医者になれそうな人間が出た、というのは、ほどほどの高校には大ニュースとなったわけだ。 馬鹿らしい。 雨や生徒の体重で少しばかり緩んでがたがたになった敷石の上でバランスを取りながら、僕は一輪大きくなった紅梅の蕾を睨んだ。 無理とは言わないが、正直難しいと思っていた、だの。 一年から真面目にやっていれば三年でクラス変更しないで済んだのに、だの。 自分たちに目がなかったことを認めずに、ただ生徒が怠慢だったと責めるような言葉。 それで、いやこれは誉めている、と付け足されて分からない僕だと思っている。 子供に努力次第で無限の可能性があるように言っておきながら、自分たちで勝手に予見して勝手に線を引いて、実際に這い上がってきた人間を異物扱いする大人たち。 頭でっかちの失敗を待ち構えている、そんなのは、教師じゃない。 尊敬される先達ではない。 しきりに肩を叩き、ひたすら空虚な言葉を吐き続けた男を、僕はその場限りの謙虚さで15分やりすごした。 まだ、僕を拾った所長の方がましな存在だ、と思いながら。 「加納」 後ろから呼びかけられて、黙って振り向いた。 予定されていた合格者、瀬田文彦だ。 「合格ったんだってな、加納。おめでとう」 「瀬田こそ、凄いな」 僕は私立。公立は一つ合格したが、国立までは無理だった。 国立でも、旧帝国大学の流れを汲まなければ三流以下だと、僕の公立合格を切り捨てた所長は、いつの間にかちゃんと合格者名簿から僕の学校名と瀬田の名前を拾っていた。 どうやって手にいれたかは知らないが、家庭教師センターなんかやっている男の手元に名簿があっておかしいわけでもない。 「おめでとう」 散々、こいつの名前を元に所長に揶揄されたが、問題ない。 僕が求められたのは医学部合格だ。 特定の誰かに勝つことではない。 「―――うん」 時間を置いて頭を掻いた瀬田は、ガリ勉の印象は薄い。 取り立てて知的な外見ではなく、運動神経もとみに鈍くもなく、普通そうに見える。 これが、典型的な優等生だったり、太っていたりすれば、コンプレックスを刺激されたかも知れないが。 ごく普通。成績抜群なだけで、性格にも突出した何かはない。 大人たちの求めた世界にすんなりと溶け込んで、すいすいと泳げるだろう。 世の中には、そうした恵まれた存在もいる。 それを羨ましいだろうと僕を散々つついてくる所長にも、もう慣れた。 「へへ、ヤッチマッタ!って感じだよな」 僕は、瀬田文彦ではない。また、彼にとって代われもしない。 医学部合格だって分不相応のように考えられてきた。 それが大人の勝手な判断だと、結果で証明したのだから充分だ。 「そうかな」 ヤッチマッタのじゃない、ヤッテヤッタんだ。 僕はそう思った。 どうしたって枠組みからは出られない。何をはみ出しても世間は壊せない。 犯罪者か精神異常者にでもなって一時的に周囲をかき乱しても、結局はその社会の内側で処理されるだけのことだ。 そうしたら、その枠組みをどうにか作る側になるまで、その中で最上の結果を出して、勝ってやるしかないじゃないか。 「荊木の奴、自分のクラスじゃないからって泡吹きそうだったって」 進路指導の苗字を出しながら、瀬田は上機嫌だ。 「どっちか落ちたらレミィマルタン出せって上田を揺さぶってたって噂。知ってた?」 そんな馬鹿げたことをうちの担任に言ってたのか、と呆れつつも首を横に振る。 僕たちの将来はよっぽど悪く終わるか落ち零れない限り医者だというのに、一高校教師にとっては賭け事程度の重みだったわけだ。 「どうでもいいよ」 「―――そうだな」 三年で理系に移動した僕は、何故か、文系クラスから裏切り者扱いされた。 表立っての意地悪はなかったけれど、無視とか、聞こえよがしの悪口とか。 僕が家族を事故で亡くした、という事情は、口数が減ったことの理由にはならず、ただ彼らは、日常から、普通の枠からはみ出したものとして僕を扱った。 僕の人生の責任は、僕にしかないと言うのに。 今日は報告だけで帰るから何もないけれど、数日中に、文系にも噂は聞こえるだろう。 やっかまれても、彼らはその成果を取り上げることなんかできやしない。 瀬田と違って私立どまりだった、と言うのがせいぜいだ。 好きに、言えばいい。 「な、加納。良かったな」 無邪気に喜べるという点では、僅かに瀬田が羨ましく、憎らしくもあった。 二人とも実際は、医者になり得るスタート地点に立ったばかり。 そのスタートに立つ気持ちが、違う。 「うん」 それでも、良かった。 不可能に近いと言われた状態から、間違いなく僕は勝ち取ったのだ。 もう一つの、不可能に挑む資格を。 生きていないかもしれない。僕のことなんて忘れてるかもしれない。 どれほど頑張ったところで、僕は教師たちにさえ、やり遂げると期待されていなかったのだから。 だけど、いつかは会えると信じている。 僕がただ過去にしがみついて泣くのではなく、そこから前に進んでいる限り。 自分の生命を削ってでも僕を助けようとしてくれた人と再び会う日は、必ずやってくる、と。 「な、加納」 そう親しくしたわけでもない瀬田に何度もなんども呼ばれるのは奇妙な気分だ。 理系クラスでは、親しくも疎遠にもならない程度のつきあいだったので、同じような合格者が出て、浮かれているのだろうか。 「なぁ」 しつっこさから、何らかの応答を求めていると分かったので面倒ながらも返事した。 「何?」 目の前にいる、平凡そうな、可能性だけは非凡ともいえる少年。 それが、ゆっくりと頭から手を下ろし、まっすぐに僕を見て口を開いた。 「髪の毛、触ってもいいか?」 えっ、と、問い返す間もなく、詰襟が近づいてきて、三年間で擦り切れた袖口が、こちらの目の高さにまで上がる。 引く力は、く、と、小さなものだった。 指を離し、急に瀬田は怯えた目をする。 「ごめんな、加納の髪の毛、中学の時に好きだった女と、似てて」 それだけを言うと慌てて二歩離れ、なおも何か言いたげに視線を左右に揺らす。 「か、髪だけだよ、他は似てないからなっ」 「そりゃ、そうだろう」 余り、男らしい風貌ではないことは知っている。 ある種の趣味の連中には好ましいタイプだと、昔後見人だった男がしつっこく言ってくれたから、それもよく分かっている。 怒りも呆れもしない僕を、瀬田はまだどこか目線を固定できずに見ている。 「別に、禿にされなきゃいいよ。触るくらい」 何だってんだ、と付け足せそうな口調で言ってやると、予想外だったらしく、今度はお愛想で笑ったものか、と悩む顔になる。 百面相。僕にはこんなにくるくると表情を変えられない。 それとも、あの日の前は、僕も瀬田と同じように振舞っていたのだろうか。 父親の前で。或いは、西風の前で。 あの日が来なければ、僕は医学部を望むこともなく、所長に身を委ねることもなく、平凡に文系の学部を選択し、ありきたりに喜びを報告し、凡庸に日常に埋もれたのか。 それは幸せだっただろうに、踏みにじりたいほどに価値がないことに思われる。 所長に行動の首根っこを抑えられ、時折組み敷かれる日々より、平凡で真っ当な生活が劣るなんてこと、あるわけないのに。 「なぁ、加納?」 今度は、何故か、瀬田の表情は心配そうなものに変わっていた。 「大丈夫か?気分悪いのか?」 「別に。変に見えるか?」 瀬田は頷き、再び僕の近くまでやってきた。 「合格したのに、加納、あんまり嬉しそうじゃないし……」 「あんまりまだ、実感なくてさ」 とんでもない嘘だ。 掲示板の受験番号の表示は、身を震わせるほど嬉しかったさ。 ただ、瀬田は言葉どおりに受け取ったようだった。 「そっか。そうだよな。加納、途中からだもんな」 また、頭を掻いている。禿になるのは僕ではなく瀬田のようだ。 「ごめん。ずっとさ、色々話してみたかったんだけど」 三年の理系クラスでは、僕と瀬田は、志望が医学部だと言うだけで、周囲に勝手にライバル設定もされていたみたいだった。 どっちも、そうした周囲の態度は流していたし、会話も最低限しかしていない。 僕には話すようなこともなかったし。 「加納、帰宅部だったし」 「瀬田は。何部なんだ?」 そんなことさえ知る必要もなかったが、『吹奏楽』という、らしいんだからしくないんだか分からない返答がきた。 そこで僕は、流石に話しの接ぎ穂をなくす。 「加納、なぁ加納」 何も知らない、ただ、お互いが望む場所にゆけると決まっただけの級友は、それでも話しかけてきた。 「メールとか、する?」 「携帯のなら」 短い文面しか受け取れないそれは、正直、実用的とは思えず、更に、やりとりは所長やセンターとだけで。 「教えてくれる?」 医者志望の瀬田となら、或いは、連絡を取り合っても良いのかも知れない。 所長だって、駄目とは言わないだろう。頭の良い相手なら。 そう思っても、僕はすぐには頷けず、瀬田は、残念そうな顔になった。 「……駄目か?」 「今日、置いてきてて」 当座の嘘は、瀬田の顔を何故か明るくした。 「じゃ、じゃあさ、俺のショートメール」 ポケットを探って瀬田は自分の携帯を取り出し、ボタンをかちかちやりながら、またポケットに手を突っ込む。 「あ〜、今日シャーペン置いてきてるや。何かある?」 仕方なく僕はコートからメモとシャーペンを取り出すと、瀬田が言うアドレスを、一応書き込んだ。 「これ、俺のだからさ。暇したらメールくれよ」 この場限りだろうな、と思いつつ頷くと、携帯を握ったまま、両腕を振り上げて満面の笑顔になった相手が叫んだ。 「あーっ、やっと言えたっ!」 そのまま伸びをする姿勢になった時、雲が切れたらしい。陽光が、校庭の隅っこの植木にも、温度をおすそ分けするように差し込んだ。 「加納。な〜ぁ、加納。加納ったらぁ」 板倉が、しつこくしつっこく呼ぶので、僕はクランプの固定を新木に任せてそっちに行った。 資料検索をしているかと思ったら、途中でネットサーフィンか、呆れたものだ。 「なぁなぁ加納」 「何だよ」 「こいつ、お前の高校出?」 アドレスには確かに、瀬田の行った大学名、そして、無用心なことに学生紹介のページが大写しになっていた。 ファイヤーウォールかけてないんだろうか。それはそれで拙いだろう、と思いつつも、目をやれば確かにそこには瀬田文彦の名前がある。 「あぁ、同じ学校だけど……良く知ってるな」 「出身教えただろ、俺も。もう忘れたのかよ」 忘れた、というと恨まれそうな雰囲気なので、そらっ惚けて名前をクリックする。 まあ大概の学生紹介ページにありがちな、『工事中』というアイコンが出てきて、それもそうか、と戻そうとした時。 「お、『ライバル』だって。何だこれ」 隅っこに小さく出ている文字を、僕からマウスを取り上げて板倉がクリックした。 現れたのは、テキストだけの画面。 ずっと、連絡してない奴がいる。 向こうは忘れてしまったかも知れないけど、自分は覚えている。 そいつは学校は違うけど、同じ医学部を目指してて、ずっと意識していた。 でも、話せたのは、ほんのちょっとだけ。 お互いが現役で合格した、と分かった日に、校庭の隅っこで話をした。 そいつに事情があって、必死に勉強してたってのは後から人に聞いた。 不幸続きだったらしいんだけど、そんな風には全然見えなかった。 今でも覚えている。 ぐらぐらする石畳の上で、バランスを取りながら、自分の話を聞いてくれた。 怒らなくて、大人で、もっと早く話せば良かった、と思った。 同じ志望だからライバルだって皆が言っていて、意地になって話さなかったのに。 嘘をついて、髪の毛も触った。柔らかかった。 メールを教えたのに、その後すぐ携帯をなくして、解約してしまった。 連絡をくれてたら悪いことなのに、何だか、新しいメールは言えなかった。 相手は、自分よりずっと大人な気がして。 色々あった事を誰にも見せない、強い奴かも知れないと思って、教えなかった。 色々あって落ち込むと、そいつを思いだす。 お日様が当たって、女みたいにきれいな髪の毛。 どんなこと言われていても真っ直ぐだった背筋。 あいつより俺は強いか、と自分に問いかける。 ちょっとのことでもぐらつかずに、真っ直ぐにいられるか、と。 あいつが元気でいれば、自分も頑張れそうだ。 いつも有難う、K。悔しいから、今は連絡しない。 板倉のにやにや笑いが視界の端で広がりきる前に、僕はマウスを取り返してブラウザを叩ききった。 「……ライバルっつーよりラブコー……わっ!」 そのまま視線を移動して横目で睨んでやると、降参の印に板倉は両手を上げる。 「ごめん、悪い、でも、すんげー尊敬されてるじゃん」 「勘違いだ」 こんな奴、知らない。と言いたいが既に板倉は納得しきった顔になっている。 「怒るなよ、加納〜。メルアド出てたぜ、『変態!』ってメール送ってやったら?」 「先輩、また誰か引っ掛けた?」 「新木っ」 引っ掛けたってなんだ。気色の悪い。 「……それと、ずれてるぞ、それ。教えた通りの位置でやれよ」 指摘されてぶすっと調節をやり直した新木を見ながら、勝手にむず痒い文章にされた腹立たしさをどうにか沈めようとしていると、背後に板倉が張り付いた。 「い〜たくら〜」 「そう言わずにさ、メル友くらいしたげたら?大人なKくん」 あの後、メモは所長に見つかって、破かれた。 これからのことを考えたら、高校の連中などと同じ穴に居すくまるな、と言われて。 自分の立場を弁えろ、と叱られて言うなりになるしかなかった僕は、大人しく従うしかなかった。 そんなことと知らずに、瀬田は、ずっと美化した思い出を後生大事に抱えている。 恐らく、瀬田の本質は、あの日と変わっていないだろう。 光を浴びてはしゃいでいた春浅い午後の、あの時と同じ純粋さを持ったままだ。 「違うっての」 「えー。折角ウェブでアピールしてるのに?」 少し考えて、僕はこう言ってやった。 「腹が出て来て同じ事言えるなら、会ってやるよ」 「うっわ、加納ちゃん意地悪」 僕はあれから、色々と経験してもっと汚れてしまったけれど。 あの午後の嬉しさは、覚えている。 今までの道で、やっかみも苛立ちも意外そうな眼差しもない、ただ一度の賞賛を。 忘れていない人間がもう一人いたなら、多分、それでも間違ってはいないんだ。 それで、充分だった。 |
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