Overture


1


 この時期は、うっとうしい。
妙に薄青い空はすぐに白と灰色の不均衡の雲の下に消され、時折期待させるだけのように 覗いては、町を行く人々よりも急ぎ足に頭上を通り過ぎていってしまう。
かと思えば、合間にはただ眩しいだけの太陽を覗かせて、春の日のような温もりではなく、 目に見えない紫外線の害毒を撒き散らしては人の上着を悪戯に剥ぎ取り、或いは急に雷雲 を巻き起こしてずぶ濡れにする。
紫陽花の花だって慰めになどならない。あの空と同じ色をした花は、丹精込めようと然程 物珍しくもないし、梅雨ならば水遣りなど、と思っているのか住人は大抵放っておいた挙 句に枯らしてしまうのが落ちなのだ。
そして、雨。
人の行動は雨が降れば20パーセントもの制限を受けるのだとか言うが、僕の場合は多分 その倍動きたくなくなる。
部屋から出ないで、ずっと蝸牛以上に殻にこもっていたいほどだ。
何故と答えるのに千言万語を費やしても、答えは一つだからこれ以上は言うまい。
どうしても、僕はこの時期を好きにはなれないのだ。


 地上には、人工的な花が咲いていた。奇妙にしらじらしい、色とりどりの癖に従順さを 示して一方向に流れて行く傘の花。
昼食を食べ終えて、僕は大学のカフェテリアでぼんやりと、何処で実を結ぶやらも知れな い学生達を眺めていた。
他学部も出てくるこのカフェテリアに、僕が顔を出すことは数えるほどしかない。
ここで食事をしていられる時間は、僕のいる碓氷ゼミの人間には余りない。交替で実験を している僕らは、与えられた時間を出来るだけ効率良く使うように心がけている。
遊ぶのが好きな金持ち連中ですら、自分の受持ち時間の2時間前から待機しているのが常 だからだ。世紀の発見などというものはないとしても、チャンスは逃したくない。
 僕は自分の分担を終え、レポートも書き終えて、久しぶりに数時間の自由を得た所だ。
決して美味とは言えない珈琲を流しこんで、僕は窓際のカウンター席に伏せる様に姿勢を 崩した。少し、身体が重い。流石に数日の徹夜明けは辛いのだろう。
帰るまで、カフェインが持てば良いのだが。
傘を持って立てば良いだけなのだが、僕は少しそうして息をついていた。
今日は歩きだ。というのか、……今日も歩きだ。
行きたくない場所へばかり行かされる。逃れたいと願う場所ほど、僕を取り囲んで、先へ 進もうとする努力を阻む。
それでも姿勢を起こすと、僕は傘を掴んだ。
その途端、小さな驚愕の声が背後から沸き起こる。
当てたか?しかし、傘に手応えはなかったから、痛いはずもないだろう。
「やぁだ。……ヤスちゃんじゃなぁぃ?」
 その声に浮かんだはずの表情を消すまで。1秒半はかかったろう。
しかし僕は振り向いた。
「え?瀬里ったら、加納くんと知り合いなの?」
同じゼミの樋口明日美が、僕と背中あわせに座っていたとは気づかなかった。彼女は少し 離れたテーブルで、同じ年頃の女性と座ってスパゲッティなど食べていたのだ。
「知り合いも何もぉ。ヤスちゃんよ、うちのパパのお気に入りって」
 疫病神。そう言ってやりたいのを、瞬時に僕は握りつぶした。
来島瀬里。そも、お前はふた駅先の女子大の学生だろうが。
「ちょ〜ど、よかったわぁ」
 どこか舌足らずに聞こえる甘い声。しっかり巻いている髪は何時間かけたのだろうか。
スリップドレスなんか着て、軽薄そうに見えるほどだがカーディガンも忘れてはいない。
樋口と知り合いだとは、思っても見なかった。
立ちあがってこちらに踏み出した瀬里に、樋口が驚きの目を向ける。その振舞いとは逆に 瀬里は人に自分から近づくような真似をしないのだ。
 まして、顔をスレスレに寄せて、
「今晩、皆呼ぶつもりだったの。ヤスちゃん時間空いたなら来てよ。ね?」
そこいらの男なら腰骨までバラバラになりそうな声で誘ってくるとは思わない。
「今夜は、ちょっと」
 僕は言葉を濁した。視線が集中しないうちに瀬里の目だけを睨みつける。
しかし、瀬里は口元をハート型に歪めると、素っ頓狂な声で聞こえる様に言ったのだ。
「えぇ〜〜〜?パパ悲しむってばぁ。最近ヤスちゃんあたしにもパパにも冷たいしぃ」
 周囲から一気にざわめきが立つ。
(あれ、来島?)
(「せりりん」とか言ってる子でしょ?I女。けーはくそうなお顔)
(彼氏?ここにいたのかぁ?やるねぇ)
(でも、見た目よりは成績いいんでしょ?)
(彼氏?あれ、どこ学部?見ない顔〜)
 視線が瀬里から、幾分それてこちらに向かう。
「……そのうち、手が空いたら行くよ」
 できるだけ穏便に済ませようと、僕は大人しい声を出し、座るように目で促した。
しかし樋口が横合いから、余計な口を出す。
「え?でも、加納くんレポート終わったばかりでしょ?」
間抜け女め。僕は内心、五つくらい罵詈雑言を怒鳴ってから樋口を向いた。
それでも、彼女は慌てて黙り込む。瀬里は勝手に携帯をケースから取り出した。
「じゃ、皆に召集かけとくわねっ♪」
「おい。勝手に……」
丸くて、黒い瞳がきらめく。男子学生の視線が、少し硬質さを増した。
白くて健康的な指を立てて振りまわし、
「駄目〜っ。皆、ヤスちゃんなら会いたがるはずだもの。勿論、パパもね」
猛烈な勢いでその場でメールを打っている彼女から目を逸らしきれないまま、樋口も立ち あがる。僕を向いて、
「驚いた。ちゃあんと、女の子とも付き合ってるんじゃない」
「そんなのじゃないんですよ」
 珈琲の苦さより嫌な感触が、胃から喉へと這いあがろうとする。僕は何とか、それだけ は飲み下して樋口を見た。
「バイト先の所長が、たまたま彼女の父親ってだけです」
と、小さな画面から顔を上げぬまま、瀬里が言ってくる。
「でも、ヤスちゃんパパのお気にだしね♪」
 やめろ、と怒鳴りつけたいのを我慢して、せめて携帯は奪おうと瀬里に手を伸ばす。
彼女は一歩さっと下がって、そ知らぬ顔でメールを打ちつづけた。
ピッ、と小さな音がする。
「あ、パパにも送信したわ。すぐ返事くれると思うの」
 余計な真似をするな。そう言いたかった。
「あ、あのねヤスちゃん。夕方まであたしここにいて、パパに迎えに来てもらうつもり。
良かったら一緒に乗ってかない?」
 もはや。僕達の周囲は好奇心と羨望と歪んだ推測のどしゃぶりだった。
最悪の悪目立ちだ。それを僕が嫌いぬいていることを知っていて、瀬里は無邪気な表情を 作るのを止めようとはしなかった。
「どのみち、この格好じゃ行けない。……所長にはお詫びいれておくよ」
 僕の今日の服装は、白いスタンドカラーのシャツと適度に褪色したジーンズ。いかにも 洗いざらしのこの格好が、所長の気に入るはずがない。
それは瀬里にもすぐに理解が出来たのか、ぷぅっ、と頬を膨らませた。すぐ萎んで、
「じゃあ着替えてきてよ。下だけでも替えて来て。そしたら、パパにはあたしがちゃんと 言っておくから」
 当然のことのように要求してくる。
彼女が嫌うことは何か、僕は知っている。
自分の要求が、どうでも良いと思われて却下されることは我慢がならないのだ。たとえ、 相手の言うことがもっともなのだと冷静に見ていても、この女はこの態度を止めない。
相手が折れるまで、諦めることを絶対にしない女。
「いいよね?ヤスちゃんこれ以上、あたしを虐めないでしょ?」
 どちらが虐めているんだ、と言ってやりたかったが、僕は一つ頷いて踵を返した。
「あ、じゃあ、後で携帯メールするねぇ。切ったら駄目よ?」
「ちょ、ちょっと加納くん、……ねぇどうするのよ?この騒ぎ」
 樋口の後半の言葉は、瀬里に向けたものだ。
「え?騒ぎって?」
 彼女達に、ゴシップ好きそうな数人の学生が声をかけている。
瀬里はこんなことは日常茶飯事だから平然としたものだ。
こちらに対して飛んでくる口笛は無視して、僕は紺色の雨傘を広げると、カフェテリアを 抜けて正門出口へと向かった。
樋口の奴、いい気味だ。


 碓氷教授のマンションの近くには、小さな花屋敷と呼べそうな家が何軒かある。
それは大概人が住んで真っ当に管理されているのだが、中にはどう見ても住居と言うより 崩れかけた東屋の風情のものが数軒見られる。
そこを通るときは、何故か僕は一際足を緩めて静かに歩いてしまう。
今は紫陽花も盛りで、……それは余り好きではない。だが、黒ずんだ板塀は今時どこにも なく、中途半端な長さと傾きのアンテナを蔦が絡め取り、軒には木工薔薇がうねっている この小さな空間を行くとき、多分僕でなくても一時の静かな佇まいに酔うだろう。
そこを数歩歩くと、教授のマンションに至る角を曲がる。
と、すぐ目の前、僕の腰の高さくらいに、黒色の花が咲いていた。
いや、……傘だ。誰かがこちらに背を向けて、雨の中しゃがみこんでいるのだ。
狭い道一杯に、傘の骨は細く、それでいて強靭そうなラインを向けて揺れていた。
 どう避けたものかと思案していると、ひょい、と……まるで黒い百合が蕾を振るように、 横を向いた。
これまた艶やかな、花のような横顔が、目線だけをこちらに向けてくる。
黒く、緩やかにウェーブを形作る髪、開いている部分は細いが、黒目がちの瞳。
鼻梁は細く、唇はしっかりしたラインは確かに男のものだろうに、美しい。
月並みだが、そう表現するほかはなかった。
しかしそれより僕を驚かせたのは、相手が僕の知っている顔であったことだ。
向こうはどのみち覚えていないかもしれないが。
(『七瀬』)
 にこ、と綻んだ口元が、動いた。
前にこの男と出くわした時は、その傲慢とすら言える態度に反感を覚えたほどだった。
それが、今はどうだろう。
天使の笑みだ。
多分、堕天使の笑みでもあるのだろうと、本能に近い部分が囁いた。
「こんにちは」
 月並みな挨拶なのに。何故、鼓動は増したのだろう。恐怖か?陶酔か?
答えはすぐに出た。
「加納寧くん……だったね」
 それは問いかけではなく、既に終わっている確認の言葉だった。
たった一度会っただけ、しかも名乗りはしなかった人間を覚えていることはそうそうない。
僕はどう、声に答えたものか迷った。いや、否定だけは有り得ないことを知りながら何か が麻痺したのだ。
 手招きされて、その場にしゃがんだままの彼の前に、同じ様に背を屈める。
「別段、私は取って食いやしない。おいで。教授の大事な人を無下にするものかね」


 知られている。背筋に冷たい雨が染みた気がした。
碓氷教授は、この男の親戚の女性を妻にしていたのだ。亡妻の溺愛ぶりは過去の風聞での み知っているが、教授はその為に、再婚の話を一切断ったほどだ。
しかし、教授が誰も傍に寄せなかったわけではない。
不本意なことに、僕は彼に興味を持たれ、無理やりに手元に引き寄せられた。
悲しみからか探求心からか歪んだ教授の欲望は、ゼミの学生でしかないはずの僕へと向け られてしまったのだ。
今は、研究の合間に、バイトを終えて帰ってきた僕を否応無しに自分の膝下に組み敷いて そのことで何とか満足を得ている様子ではある。
 僕の緊張を気づいたのか、口の端の薄い笑いが少しだけ増した。
もしかすると歪ませたのかもしれないが、美貌の主の表情を形容するには相応しくない。
「……とやかく言う気はない。教授は以前と変わらず、私達に協力してくれているのだか ら。礼を言わねばなるまいね」
 逃げ出したいとさえ、思った。この男は危険だと、警鐘は乱打される。
しかし、七瀬の注意は僕から逸れて、紫陽花の葉の上を這う蝸牛に向けられた。
「誰が、これを風情あるといったのだろうね?」
ぴん、と細い指が、殻を弾く。
「世話するものがいない場所には、どんな美しい花も荒れ果てる。咲かせる努力なくして、 美しいものなどこの世にはない」
 ぱちっ、と音がした。砕かれた蝸牛は、銀色の跡を残しながら葉から滑り落ちる。七瀬 の足元へと。
「その努力を続けるものへの援助を、私は惜しんだことはない」
 呟く様に言って、彼は立ちあがる。爪先が移動し、地面で蠢く生き物の上に降りた。
ぐじゅ、と音がする。
「害虫なら、退治するに如くはない。だが、君は別段教授をどうこうしたわけでもなさそ うでね。将来ある青年は好きだよ」
 僕より数歳上の若さで、既に未来などない者のように、彼はそう言った。
ゆっくりと、僕も再び雨の道に姿勢を正す。
「紫陽花は好きかね?……這い寄る蛞蝓や蝸牛さえいなければ、私は好きだが」
花ではない花の上を伝う露を、男のものとしては格段に美しい指が掬い取る。
「……僕は、別に」
 視界が不意に、曇った。
この世にはもう存在しない声が、一瞬雨の音を圧して僕の鼓膜を揺すった。
「嫌な思い出でも?」
 七瀬の声に、すぐに僕は現実に自分を引き戻す。絶対に、この男の前で自分を出しては いけない。いや、僕は誰の前であろうと、自分を崩す気はない。
目の前の男が、終始にこやかそうに見せているのと同じ様に。
「さあ」
 好まないが曖昧な答えを返す。この男は、一時の興味とさえ言えない気紛れで、僕へと 言葉をかけただけなのだから。
「そうかね。……大切な人の、花かと思うような顔をしているが」
 僕が何か言うよりも早く、空間を別の、機械的な声が遮った。
「悠架(はるか)様。お時間です。お戻りを」
 一体、この男は路地の何処に潜んでいたのだろう。長身、物堅そうな眼鏡、一筋の乱れ もなく整えられた服装。
「もうそんな時間かね」
 手首の時計を覗きこむ七瀬は、同性ながら見惚れそうな優雅さと気品がある。
それを際立たせるためにいるように、男は均整の取れた体つきではあるが気配が薄かった。
「……楽しかったよ、加納君。いずれ、ゆっくりと教授とでもお越し戴こうか」
 それ以上は言葉を発さずに、七瀬悠架は身を翻して路地の出口へと黒い傘を揺らしつつ 向かう。
「五十嵐と申します。非礼はお許し下さい」
 手短にそれだけを告げた男は一礼し、風景に溶け込む様に七瀬の後を追った。
やがて、見えない場所から車が走り去る音が聞こえるまで、僕は動けなかった。
数年の生命を一瞬で断たれた、蝸牛のように。


『紫陽花はね、肥料の種類で色を変えるんだ。寧、見てごらん』


 クローゼットから、春に誂えられたもののうち、地味なスラックスと上着を選ぶ。
「気の進まぬ会合なら、止めにしたらどうだ」
 不機嫌な声が、腕の形を取って僕を拘束にかかる。
「久々に来る人も、いるものですから」
 そっと、絡んできた左腕を押さえる。外させるにはまだ早い。相手の右腕が伸びて、僕 の手をつかむ。撫で擦るような動きに変わり、首筋に吐息がかかった。
「一度、『所長』と話をしたいものだな。学生のお前をそこまで縛る権限があるものか、 言ってやろう」
 その言葉は、僕があなたにそっくり返したい。碓氷博光教授。
「お気持ちだけで」
 ゆっくりと、力を込めて僕は碓氷教授から身を離した。
二人きりの時となると、教授の手が僕から離れることは少ない。男を傍に侍らせて楽しい のかと疑問に思うが、そんな問いかけは無意味だから敢えて尋ねない。
「僕の学費を出してくださったのは、所長ですから。悪くは言わないで下さい」
 その代わり僕は、家庭教師のバイトを、医師免許受験の半年前まで続ける契約を結んだ。
学業でもバイトでも成績優秀ならば、高価な医学書を買えるほどのボーナスも出る。
所長の望むことの手助けをすれば、それよりも、もっと……。
「……破棄できないのか」
 教授が強く出られないのは、僕との関係が明るみに出るのを畏れるからだ。当然だろう。
教え子の、しかも男を寝床に引きずり込んでいると分かれば、僕も彼も破滅するしかない。
だとすれば止めれば良いのだが、僕はともかく、教授は手放す気はないらしい。
「僕が医師免許を取れば、そこで解消の契約ですから」
 そう。それまでだ。取ってしまえば、後は取り消しをされないように身を改める。
へまをしなければ、所長でさえ僕をそこから引き摺り下ろすことは難しい。
あの男にも、強く出られないわけはあるのだから。
「私とも、……そんな風に考えているのか。寧」
 スラックスをはいてから、僕は振り向いて、まさか、と答えた。
「あなたは、僕にとってはいつまでも恩師ですよ。『教授』」
「ここでは違う。お前は、私のものだ。……私だけのものだ」
 再び手が伸びてきて、頬を捉えられた。諦めて目を閉じる。覆い被さってくる口元から、 さっき淹れた珈琲の香りがした。
口の中に、苦味とざらつきを帯びた舌が、何かの生き物のように入ってくる。
たっぷりと、時間をかけて口中を味あわされた。
「……博光さん」
「遅くなるのでも良い。電話しなさい。迎えに行くからな」
 濡れた声が、耳元から吹きこまれた。僕は素直に頷いた。
そうできるほどの時間があるだろうかと思いながら上着を取ると、驚いたことに教授は着 せかけてくれた。
「こうしなさい。この方が、お前に良く似合う」
 襟もとのボタンを、一つ緩められる。亡妻の服装にもこの男は口を出したのだろうか?
「じゃあ、……行ってきます」
 女が付き合っている男に対してするように頬にキスを返し、僕は碓氷の部屋から出た。
先ず間違いなく、夜明けまでこの部屋に戻ることはないだろう。
階段を降り、オートロックのエントランスに出ると、数メートル先の道路に見なれた車が あった。
 用意の良いことだ。
窓が二つ、ほぼ同時に開いた。
 助手席には瀬里。そして後部には壮年の、逞しさに何故かそぐわないほどの沈着冷静さ が備わった男が座っている。
来島大悟。K2家庭教師センターの所長で、来島瀬里の父親。
当然のように、後部座席のドアが開く。
 相手を怒らせない程度の歩調で、僕は車に乗りこんだ。
「久しぶりだ。教授の手から、逃れる決心はついたかね?」
 声と同時に、腿の辺りに手が置かれた。
「教授は、……」
「まあ良い。今日は均を除いて皆が揃った。お前が来ると言うのではしゃいでいるようだ」
 不快感を堪えた。しかしこの感触は、一歩間違えれば僕の身体を良いように翻弄できる。
瀬里は行儀良く前方を見ていながら、父親の手の動きもわかっているのか目に楽しげな光 を浮かべていた。
「色々と、話したいこともある。明日は大学まで送るから、そのつもりでいなさい」
 僕は観念して、肩から力を抜いた。満足げに、所長は置いた手で僕の足を軽く叩いた。



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