報われぬ夏


2


 ゼミ合宿の場合、サークルのそれとは大きな違いがある。
サークルの合宿と言うと、大概皆想像はつくだろう。海に泳ぎに行ったり、高原でテニスに興じたり と遊びが目白押し、写真を後で無意味なほどにばら撒いて仲間だけで楽しむために撮りまくる。
楽しいから結構だ?ああ、確かにそうだろう。何となし楽しいから、で当たり構わずゴミを撒き散ら し、一時の暑さ凌ぎに別の熱にうつつを抜かし、気がつくと線香花火などあげてぼうっとしている始 末だ。
 楽しかった「だけ」の思い出のアルバムなど、将来に何の意味がある?と、僕は思う。
これらのことは、ゼミ合宿にもある程度当てはまる。海に行けば泳ぐし、高原に行けばドライブやテ ニスをする場所もあるし、僕だってラケット程度は持って行く。
ただ。それらは目的として二の次だ。
ゼミ合宿に行くからには、それなりに意味がある期間を過ごすことになる。
例えば、それは……。


 殆ど貸しきりの旅館の廊下に、不似合いなほどに白々と、模造紙に描かれたあみだ籤。
ほぼ午後きっかりにここに到着した僕らは、まずこの籤を選ばされた。
「しっつもーん。何すか、これ」
 と最初に大きな声を上げた板倉隆介が、頭を院生の西山和文に張られた。
「黙って引いておけ。後から分かる」
 既に隠された部分の上には、既に樋口の印がある。女性は彼女と、今年とある会社の研究室に移っ たばかりの大塚早苗二人きりだ。
本当はもう一人女性が居るのだが家族の旅行と重なってしまい、カナダの空の下だそうだ。
これはふざけた話だと言う連中も居たが、碓氷教授は許可した。
その時の表情は、僕は敢えて見なかったから分からない。
今年のゼミ合宿参加者は総勢15人。実は私立の医大の割にそんなに大きなゼミではない。合計は20名。
内5名はよりによってこの時期他大学との共同研究の発表と重なってしまい、最終日にしか来られな
いことが分かっている。
僕は板倉から離れた場所を選んで、印をつけた。全て埋まるのを待って、西山先輩が途中を覆ってい た紙を退ける。
下には番号と部屋割りが書かれており、……僕は、西山先輩と同室になっていた。
ほっとした。板倉は別室で、栗橋と一緒になっている。
今回は運がよいかもしれない。板倉は、目立つ。
取り立ててどこが、と言われると皆首を傾げるだろうが、とにかく目立つことには同意する。
栗橋の近くに居るなら、何かと目印にはなるだろう。
「で、何すか、この番号」
 こうして何かと声を上げるからかもしれない。板倉は2番。僕は……4番だった。
「二日目に一人一人、教授と15分ディベートする。その順番だ。……ほら、持ってけ」
 これに答えたのは、栗橋だった。早くも荷物を板倉の上に押しつけるようにして、部屋へと向かう。
うげ、と情けない声を上げたのは板倉ばかりではなかった。
ディベートと言うが、大体の想像はついた。
最近提出した各自のレポートを元に、教授にみっちり15分間突っ込まれるということだ。
しかも二人きりで。
「どうしよう、泣き落としするか?」
「お前がやっても可愛くねーよ」
 嘆声が飛び交ってはいるが、皆真剣な眼差しになっている。
他にも共同でのレポート研究のまとめや、これからのグループ割など、実際ゼミでやっていることか ら実験を抜いたような時間がこの先は圧倒的に多い。
ゼミ合宿の第一義は、勉強にあるのだから。
 じゃあ何の為に態々避暑地くんだりまでやってきて勉強するのかって?
「……にしても、ここ雰囲気良いな」
 西山は荷物を誰かに触らせる性格ではないから、僕たちは連れ立って『茜の間』なる部屋に入った。
そんなに規模の大きな旅館ではないが、夏休みのこの時期、良く空いていたものだ。二人で八畳敷き の部屋に泊れるのは、贅沢通り越して無駄にさえ思えてくる。
無駄口を嫌う西山の性格を知っている僕は頷いて―――聞いていると言う反応がないのは嫌う――― 荷物から取りあえずノートと筆記用具だけを取り出した。
「お前と同室で助かったな。お前は板倉の方が気楽だろうけどな」
 実はそうでもない。問いかけでないから答えないが、僕は西山のような割りきったタイプは助かる。
言われたことをこなしていれば、少なくとも文句は来ない。ハードルがやや高いのは、院生だから仕 方ないとは言える。
一緒の研究グループでないのが残念だ。
荷物を取りあえず解くと、僕は一度顔を洗おうとタオルを取った。
「ああ、そうだ加納」
 言われて振り帰った僕は、一瞬ぎくりとした。
思ったよりすぐ後ろに西山が立っていたのだ。声が元々大きい男ではないが、それにしても殆ど動い た気配がなかったのに、この近さは驚きだ。
「はい」
「お前、教授の運転手勤めてきたんだってな」
 何度か瞬きして相手の顔を観察する。別段、批判や疑念があるようにも見えず安心した。
「あ、はい。免許取れたので、教授が一度運転させてくださったんです」
 心底緊張した。運転技術が並外れた男の脇で、僕は熱した鉄板の上の猫のような爪先立ちになりか かりながら運転したのだ。
嫌味を散々言ってきた教官より、碓氷教授の無言の眼差しは怖かった……。
「お前、最近頑張ってるらしいな、色々」
 ぽん、と肩に手が置かれるまで、僕は何が言われているのかさえ理解し損ねた。
「最初は栗橋のパシリ程度かと思ったが、休み前のレポート、良かったぞ」
 この男はそう言えば、余り栗橋と折り合いが良くないのだった。
同じ様に大病院の親戚を持っているが、あからさまに先輩風を吹かせる栗橋と違って、西山はあれこ れ言わず、結果を重視する。後輩として可愛がる対象も違うのだ。
とはいえ、院生と学部生とでは微妙に立場が違う。余り目立ちたくなかった僕は、院生連中には近寄 らないようにしていた。
「……有り難うございます」
「最近、奴と折り合いが悪いらしいな」
 次の言葉を発するには、少し空白が伴った。
「どこでそんな」
 これには答えず、西山は奇妙に同情めいた笑顔を見せて、僕から手を離した。
「何かあったら相談に来い。俺のほうから言ってやろう」
 頭だけ下げて、冗談だろう、と僕は内心呟いた。
 この男も院生の間ではある面で栗橋のようなものだ。自分以上と見ると、潰そうとしてくる。
目をつけられたと言えるのかもしれない。自重しよう。
洗面所に向かいながら、僕は西山にも要注意マークを記しておくことに決めた。


 それでも一日目は、簡単なスケジュール説明や旅館側の注意程度だった。晩に出てきた食事は豪勢 だったが、そうしたものに慣れきっている連中はあれこれ不平を零していた。
食事をしながら、僕は何となし周囲を観察していた。
 板倉は何にでも「うまいっ」を連発してはかきこむように食べている。樋口は、大塚と一緒に他愛 のない会話をしながら楽しんでいるようだ。
教授は別段うまいともまずいとも仰らない。皆と同じ品で、きちんと一膳半食べる様子だ。多くもな し少なくもなしの量は、普段見ているのと変わりない。
席の遠さに何となし違和感を感じ、僕は苦笑いした。妙なものだ。何時もは、日に一度程度にしても 差し向かいで食べているからだろうか。
 気がつくと一膳食べてしまっていた。
あと一口欲しいと思い、僕は脇に座っていた小田と一緒に席を立ち、お櫃のほうに向かった。
その時、ちらり、と視線を感じた。
院生達の席と、上の学年の連中との席は殆ど一緒になっている。
並んで座った西山と栗橋は今はこちらを向いてはいないように見えた。
栗橋であろうことは、すぐに知れた。飯が減っていない。
膳の上のものは二割程度手をつけた程度で、川魚の焼き物も、山菜の天麩羅も、時間をかけて用意さ れた料理は綺麗なままになっていた。
「あれっ、どーしたんすか先輩」
 板垣が栗橋の前に座った。手を目の前でひらひら振られて漸く気がついた栗橋は、怪訝そうな顔で 後輩を見る。
「食べないんすか?俺、貰っちまいますよー」
 と伸ばした手を、鈍い音を立てて叩く。
「猫舌なんだよ。ほっとけ」
「え。でも、先輩って激辛好きじゃないですか」
「それとこれとは別だろうが」
 追っ払っている栗橋は、その後それなりに膳を形のつく程度には平らげた。
何を考えているのかは読めなかったが、食事も滞るほどの事を考えていたことは確かだ。
 ほどなくして席が片付き、それから多少だが酒が出た。
教授は一度先に風呂に入られるとのことで、形ばかり口をつけて退室された。
僕の受難は、それから始まった。


 酒は飲んでも飲まれるな。古臭い言葉だが、本当に酒癖の悪い人間は困り者だ。
僕も酔うには酔うが、それにしても正体を失ったり、人格が変わるほど飲んだことはない。
だから。
「か〜〜の〜〜〜う!」
 胸倉を掴まれて、まだ素面の僕は少々どころでなくひるんだ。
樋口。お前ビール何杯飲んだんだ?
見れば、大塚はすっかり座布団に突っ伏すようにして寝てしまっている。
板倉が、ほぼその近くではしゃいでいるから、元凶は奴だろう。女性陣を酔い潰して……楽しいか?
楽しいんだろうな。
「ちょっと、聞いてる?」
 ぐい、と引き寄せられた。熟柿臭い息から、僕は出来る限り顔をそむけようとした。
「き、聞いてます」
「そう。聞いてないのね。で、瀬里とはどこまで行ってる?ねぇ」
 壁に退避している連中―――そう、僕は置き去りだ―――は、面白そうに僕らを見ている。
「何でここでそんな話が出てくる……」
「こう、何だかなまじの女より美人してるくせに、ちゃんと彼女いるんじゃない」
「何だよそれは」
 思わず聞き返してしまい、更にぐいっと引き寄せられた。やばいんだぞ、こら。樋口。
お前、大塚と風呂に入ったから浴衣になったろう。下着着てないだろうが!
「ああー?あたし口答えなんて百年早い!」
 はいはいはい。そうですか。別に揉む気もないが今のあんたの胸はまずいぞ。
僕も板倉と雑用に追われ、汗でべたついたから一風呂浴びてはいる。一部ドライブに向かった連中を 除いては、皆が備え付けの浴衣に着替えてのんびり寛いでいた。
しかし。栗橋ならともかく、女に胸倉を掴まれるとは思っても見なかった。
「で?してるの?ちゃんとデートとかキスとか貢物とか」
「するかっ」
 あ、まずい。力いっぱい否定してしまった。樋口の眉が釣りあがる。時刻は10:10だ。
「何よ、あたしの友達が不服だってーの?え?そもあんた飲んでる?ねぇ、飲んで……」
 と、僕のコップを取り上げて飲み干し、
「……ちょっと。何ふざけて烏龍茶なんか飲んでるのよ!!」
 そのまま吹きだしかねない勢いで食って掛かって来た。
「ふ、ふざけてじゃなくて、きゅ、休肝日……」
「駄目!教授が許してもあたしが許さない!!」
 樋口は、小さいとはいえ宴会場の真ん中まで僕を引きずっていった。痛いって。
「飲みなさい!」
 乱立するビールの壜はというと、幸い空になっている。
「えぇ、樋口ちゃん、元気っすね〜」
 脳みそまでアルコール漬けになった板倉が、陽気に声をかける。
「ちょっとあんた!何を人の倍以上飲んでんの?早く次の持ってきて、加納に全部飲ませてっ!」
 ここは……な、樋口。お前の所属してるテニスサークルじゃないんだ。一応勉強しに来たんだ。
箍が緩むどころか外れきっていないか?
「あー、それ今回の全部」
「えぇ?!何で2ケースしかないの?」
 普通はそれでも適量ではないんだろうか。あとは焼酎も冷酒もあるわけだし。
「ちょっと!ふざけてるわよ!加納!聞いてる?」
 聞いてない聞いてない。僕はかくかく頷いてやりながら、脱出口を視線で探した。
胸元がはだけてきたので、腕で押さえる。と、
「あーーーーーっ!」
 首が閉まらんほどぎゅうぎゅうに締め上げられた。苦しい……。
「ちょっと何色っぽい仕草してるの?」
 顔を寄せるな!酔っ払い!!
「えぇ?うわー、ほんとだほんとだ、美人になってる加納ちゃん」
「板倉!煽るな!!」
 拳を振り上げても酔っ払い二匹に通用するはずもなく。
「ね?そそるよね、浴衣!食べたいよね?」
 何時からお前ら食肉の習慣を持った、……じゃなくて。
「何する……っ!」
「はーい、先輩がたっ、こっこで、加納がっ……脱ぎま〜す!!」
 勝手に手を上げて叫ぶな板倉っ!!
「そうよ、綺麗な肌は晒さなきゃ♪さあ、踊子さんは脱ぎなさい」
 こいつ、こんなに下品な女だったのか。呆れる間に襟元を今度は緩められかかって慌てた。
「いいぞ〜」
「酔っ払いダンサーズ頑張れー」
 外野に僕まで同類扱いされてしまった。逃げようとすると、板倉が足を抑えにかかる。
「こら!板倉、昼間氷持ってやったの誰だ!」
「忘れたー」
 どっと笑い声。不快だ。こうした馬鹿騒ぎは僕は好きでない。逃げに逃げたが、
「……ねぇ、瀬里にキスマークつけられたことは?」
 とうとう背後から僕の浴衣を引っ張って、樋口がまたとんでもない質問をしてきた。
「ないっ!」
 あっても、お前になど答えてやるもんか。そこへまた、
「じゃ、今からあたしがつけてあげる。板倉は?」
「あ、俺も俺も俺も」
 おぉぉ〜!と、叫び声が上がる。冗談じゃない、こいつら初日からどういう壊れようだ。
「西山先輩!」
 叫んだが、
「あ、風呂だぞ、西山も、栗橋も」
「絶体絶命か?」
 院生の連中から声が飛ぶ。何てことだ。役立たず!
逃れる間に、僕の浴衣は正直、帯で辛うじて前に引っかかっているだけになっていた。
「さ、いらっしゃい。お姉さん達が可愛がってあ・げ・る」
襖を開けて、廊下に出て右。2階まで逃げれば自室になる。そう、考えた瞬間。
 凭れていたその襖がなくなった。
次いで、ふんわりと、しかしそれなりの体格に受けとめられる感覚。
前を見ると、樋口と板倉がぼうっと突っ立っている。
湯上りの良い匂い。僕は凍りつき、それから恐る恐る上を見上げた。
教授……。
無表情に僕を見ていた教授は、ややあって冷たい声でこういった。
「何をしているのだね、君たちは」
 水を打ったように席は静まり帰った。
教授はまず酔っ払い二人に視線を当て、それから半眼になって僕を見下ろした。
「説明は、君から聞くとしようか」
 ぐい、と引かれる。僕は声も出ないまま、乱れた浴衣の前を合わせるのがやっとで、教授にそのま ま襟首ごと引きずられるようにして1階の奥、教授の部屋まで連れて行かれた。
教授はドアを開け、少し考えてから何故だかストッパーを出してドアを開いたままに固定した。
 僕はその間に急いで浴衣を治そうとして、またぐい、と引き寄せられた。
「教授っ」
今度は、正面から彼の腕の中に。
「ちょっ……」
「この方が」
 囁く声は、僕を抱えたまま襖を開け、部屋へとそのまま入った。ここでも開けたままだ。
「却って立ち聞きなどされないで済む」
 首筋を撫でる声。何とか体裁を整えた浴衣を割って手が入ってくる。
「駄目です、教授……」
 反射的に逃れようとしたが、教授はそのまま肩口に顔を埋め、腰に腕を巻きつけて僕を封印した。
鎖骨に、濡れた感触。
「あられもない姿を皆に晒して。許さんぞ」
「望んだことじゃ……っ!教授、やめて下さい!」
 声を抑えるのに精一杯だ。叱りつけても、教授の手は何故か止まらない。酔うほど飲んでいない筈 の教授が、どうしたと言うのだろう。
「大体、他のものと一緒の部屋と言うだけで許しがたいのに」
 最近、僕は教授の目をまともに見られない時がある。僕は悪いことをしているわけでもないのだか らと言い聞かせても、見返すのに気力が要る。
「だからって……」
 今更何故僕が赤くなる必要があるんだ。
というのか、学生はともかく他の客が来たらこの光景はまずい。そんなことぐらい教授も分かってい る筈なのに、一体どうしたのだろう。
躊躇った末、僕は余り良いとは自分でも思わぬまま、教授の手を止めさせようと言葉を紡いだ。
「博光さん、こんなことは戻っても出来るから……」
表どころか普段の会話だって、大概は『教授』にして呼ばなかったと言うのに。だが、これでかなり のリップサービスにはなっただろう。
果たして、手は止まった。
目を合わせ続けるのに苦労したが、今回は何とか堪えた。
手が緩み、離れるかと思ったら僕の浴衣を整えなおし始めた。
「あんな姿は、私にだけ見せれば良いのだ」
 責めるような言葉にこもる何かが聞きたくなくて、僕は思考からその言葉を締め出した。
廊下には、現在誰の気配もないようだ。
ふと気づくと、教授も黙って耳を澄ましている。まるで人目を忍ぶ恋人であるかのように、僕たちは 身を寄せたまま硬くなっていた。
馬鹿らしい。そう片付けて離れようとして、それは叶わなかった。
間近に迫る、顔。求めていることが分かって、押しのけようかとも思ったが目を閉じた。
これ一回で、済むのなら……。
抱きしめてくる体の一部が熱い。僅かな変化が起きていることにうろたえた僕は、却って教授を刺激 しただけのようだった。
何時もよりも時間をかけて唇をむさぼられる。
背後に手が廻り、腰の辺りからゆっくりと揉みしだいてくる。これ以上は、まずい。
「……『教授』……ぅ」
もう一度、気道を塞がれる。相手の体液が、舌を伝って下ってくる。
喉元を撫でられて、飲み下すしかなかった。
動きを確認したようにもう一度撫でて、手が離れ、次いで教授自身が離れる。
音らしい音は、外には聞こえていないだろう。多分。
と、廊下を複数の足音が歩いてくるのが聞こえた。
「教授、失礼します」
 声をかけて入ってきたのは西山と、栗原だ。二人とも僕を見てはっとし、教授に向きなおる。
「加納が何かしましたか」
「教授にお邪魔だろ、出て行け」
 宴会場の騒ぎはまだこの二人には知れていないと言うことか。
邪魔とは何だ、と言いたかったが僕は教授に一礼して出ようとし、上がった手に止められた。
「宴会場で二人ほどへべれけのはずだ。誰も面倒を見ていないことはないと思うが、どちらか行って 酔いを冷ましてやりなさい」
 西山と栗橋は顔を見合わせ、後ろにいた西山がスリッパをつっかけて宴会場に向かう。
「で、明日のスケジュールかね?」
「はい、教授。これがタイムテーブルです」
二人は部屋へ戻って最後の詰めをしていたらしい。一読の後、教授は頷いた。
「これで宜しい」
 その間に、不審げな視線は何度も僕に向けられた。
「それで、教授。これは……」
「後輩とは言え、もの扱いは止めたまえ」
 おかしな質問をした学生には、この鋭い声が降ってくる。ゼミ生だろうと関係ない。
僕をこれ呼ばわりしたかったわけではないだろうが、最近の栗橋は教授の覚えはめでたくない。
散々陰湿に僕に当り散らしていたのが、教授に知れたからだ。
栗橋は青ざめ、申し訳ありませんと教授に頭を下げた。
「取りあえず騒ぎの中にいたようなのでな。これから暫く事情を聞くところだ」
 少し間が開いて、
「今日はもう部屋に戻って休ませるとするか。私も一応加納君から話を聞いて消灯する。皆と一緒に 休んでくれたまえ。質問時間は今日は設けない」
「……はい」
栗橋は僕には何も言わず、もうこちらを見ようともせずに部屋から出て行った。
ドアがばたり、と閉まる音が聞こえる。
「話と言っても、あの二人が酔って暴走しただけですよ」
 短く答えた僕は、やっぱり、と内心溜息をついた。
教授は僕の言葉など無視して、さっさとドアに向かい施錠したのだ。
「窓を閉めて……ああ、やはり私がやろう」
 あんまりだ。ゼミ合宿だろうに。どうしてここでまで、あなた個人の相手をしなければならない?
夜風を入れていた窓を閉め、カーテンもしっかり引いて、教授は僕を見て笑った。
腹立たしいほど嬉しそうに。
「私が納得行かない返事を嫌うことは知っているな?」
「納得も何も、今以上のどういう答えを聞きたいと仰るんです」
「違う。合宿後、どうして私と来ない?休めたはずだぞ」
 合宿後、教授は少し車を飛ばして、毎夏を過ごす宿に泊まられるという。
僕は、家庭教師のバイトがあるために断った。
「この前一度、休んでいますから」
「あれはお前のせいではない。そんなに、私から離れていたいのか、寧」
「そんなこと言っていないでしょう!」
 反射的に大きな声が出て、僕は慌てて口元を押さえた。
かすかな記憶が、脳裏をひと撫でした。それだけのことで僕はどうして……。


  行くんだね。と相手は言った。
  仕方ないよ、修学旅行なんだから、と僕は答えた。
  責める言葉を言われたほうが、ずっと楽だっただろう。
  離れられてほっとするかと聞いたのは別の奴だった。
  あの時のような相手の目を、僕はもう見たくはない。


「責任感が強いのは良いことだが、お前はもう少し寛ぐ時間を持つべきだ」
 また僕は、教授に引き寄せられていた。
「若いうちの邁進は良いことだが、気を張ったままで走っていたのでは後で倒れたときの反動が大き い。これは年長者としての助言だ。きちんと聞きなさい」
先ほどよりもやんわりと、腕が包み込んでくる。
頬を指が擽り、唇が耳元を掠め、ぴったりと寄せた身体は先ほどよりは落ち着いた鼓動を聞かせる。
そして、不本意ながら慣れてしまった、纏いつく教授の匂い。
僕は少しだけ体の力を抜いて、教授に凭れ掛かった。
正直、免許取得の次の日が初ドライブというのは疲れた。しかも酔っ払いの相手をしていたのだ。
流石に眠気がしてくる。
「ここで休むか?西山には後で言っておいてやろう」
 顔を上げると、栗橋が見たら仰天しそうなほどの笑顔が待っていた。
「そう、警戒するな。破滅するような真似はしない。分かっているだろう?」
 僕たちの関係は、不自然極まりないものだ。
知られればそれだけで、教授は社会的な名声を、僕は医者となる道を絶たれる可能性すらある。
それを隠したまま、僕たちは教授の要求で同居さえしている。
愛情ではないこの繋がりを定義する言葉を、僕は知らない。
「そうでしたね……」
答えながらもだから僕は首を横に振ってしまう。それでも教授は離さない。
「お前は、説明後疲れて眠ってしまった。だから寝かせておいて私も休んだ。それで良い」
相手の立場を本当に思いやっていれば、屁理屈まで捏ねて僕を手元に置く真似はしないだろうに。
僕はそう思いながら、それでも安心させるように教授の背に腕を回した。
「今日は無理は言わない、だから……」
言ったことにおいては、公私共に教授は裏切らない。
だから、安心して良いような気がした。今晩くらいは、せめてそうしたかった。
「きっと、樋口さんや板倉、焦ってますよ……どうなさるんです?」
ここが本当に憩える場所だったら良かったのに。
小さく囁いた声を、僕は無視した。
それは僕の声でもあり、かつて同じことを言ったある人のそれでもあった。
「私に叱られるという緊張だけで、十分今回は罰になるだろう。それに、明日からは厳しく行くから 安眠していられないぞ。誰でもな」
 互いの帯に、手がかかる。
見詰め合う目は、恋人にしては乾きすぎている。一時の慰みにしては、触れ合う手に気遣いがある。
ただ、熱が起きたなら鎮めるだけ。
これが病なのなら、根本的に何処を治療すれば良いのだろう。
そんなことを考えた時、鎖骨の辺りを強く吸われた。
顔が離れた時浮き出ただろう赤い痕跡は、治療に繋がるのか病状が酷くなった証なのか。
 はっきり分からぬまま、甘い声を口元で僕は押し潰した。


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