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僕を見ていると、痛ましい気持ちになるといった奴がいた。 人としてあるべき何かが、決定的に僕には欠けているのだとそいつは言ってのけた。 別段、意識さえもしていない相手だったから、だから何だと問い返した。 構って欲しいとも思わなかったし、自分から一緒にいたいと思う人間でもなかったからそれ 以上の口論にすらならずに終わった。 多分、相手は呆れていたことだろうと思う。 僕らは男同士で、……ある意味ライバルだった。少なくとも相手はそう言っていたが、その 時以上の討論や喧嘩は僕らの間では何も起きなかった。 出くわした回数は、両手の指に僅か足らない程度。 交わした言葉は、その三倍あったかどうか。 だからそいつのことは、僕はどうなろうと知ったことではなかった。 相手は一方的に僕に突っかかり、一方的に僕の目の前からいなくなった。 この世に『加納寧』と呼ばれる男が存在してこの方、僕の中に欠けたものがあると言う連中 は、何故だか僕の前からは消えうせてしまう。 逃げ出したなら、機会があれば問い詰める気にもなったかもしれないとは思う。 しかし、その全てがあの世にいるのでは、僕も流石に彼岸へ踏み出して聞こうなんて馬鹿な 真似はできない。 花を提げて歩く間中、何となしそんなことを考えていた。 カレンダーに書かれた数字を、僕は穴の開くほど凝視した。 大きな、月齢つきのカレンダー――医学部には不似合いなものだ――には、マーカーで几帳 面に線が引かれ、『ゼミ合宿』と赤く文字が記されている。 そういえば、そんなものもあったのか。 クーラーが効いていてもどこか蒸し暑い研究室の中、僕はうんざりした様子を表に出さない 様に努力しながら室内を見渡した。 「この日程、決まったの何時なんだ?」 手近にいた樋口明日美が、昨日だと答えてくる。 「栗橋君、何だか張りきってたわよ。今回の幹事ですって」 少し離れた場所に、端末とそこでデータの集計に余念がない本人の姿が見える。 普段はお祭り騒ぎ好きよね、あの人、と半ば呆れた様子の樋口の言葉に、ふうん、と気のな い相槌を打ちながら、僕は内心嫌な予感がした。 合宿ともなれば、場所は学外だ。教授の目が行き届かない部分が多くなる。 しかも、僕に対して最近奇妙なまでの敵愾心を露にし始めた栗橋が幹事では、何をどう、調 整して因縁をつけてきたものか、分かったものではない。 行かない、という選択肢は存在しない。 余程の高熱でも発していれば別だろうが、少々の頭痛や眩暈で、ゼミと言う一種の『ムラ』 から外れるのはまずいのだ。 一部の連中が頻繁に行う飲み会には遠慮するものの、ゼミ全体のイベントや、まして合宿と なれば、僕だって参加しない訳にはゆかない。 まして、僕の場合。 一言では言えない様々な要因が、行かずに済むような状況を許さない。 「そういえば、電車参加組と車組と集合場所違うそうよ。加納君はどっちなの?」 メモを取りながら僕は、多分電車、と曖昧な答えを返した。 免許は、……多分この時期では間に合わないだろう。 今日も実験データの取得が終わったら、近くの教習所に通うことになっている。実験自体は 既に作ってある材質の強度を測っているだけだから、さほど難しいものでもない。 教習所に行くのは、半ばは僕の意思ではなかった。 「仮免、受かったんでしょ?」 背後のドアが開き、生ぬるい風と共にもう誰だか聞き間違えようのない足音がした。 樋口は立ちあがり、僕は振り返り、この実験室の主、碓氷博光教授に挨拶をする。 「決まったかね」 カレンダーを見上げる教授の邪魔にならないように、僕は脇へどく。 元々再優先されるのは教授のスケジュールだから、この人が難色を示すことはない。 「教授はお車ですか?」 樋口の言葉に頷いて、夏場でもきちんと整った服装の教授はそちらに顔を向けた。 「君は、免許は持っていたのだったか」 「去年取ってます。ATですけど、あるとないとでは違いますよね」 碓氷ゼミの面々は、大概が四輪免許取得者かその途中である。持っていないのが僕と板倉くら いだったことを知った時は驚いたが、考えれば親が医者をしているような学生に金銭的余裕が ないわけがない。 また、碓氷ゼミの志望者は必ず『車は好きか』と聞かれる。 これ自体は合否判定にはなっていないそうだが、そのくらい当たり前のことなのだ。 教授は頷いて、今度はこちらを向いてくる。 「頑張り給え。合宿、運転手代わりに私の車を運転してみるか」 樋口が小さく口を窄めてOの字を形作り、僕にだけ見える様に右手の親指をこっそり立てる。 周囲の連中も、低くざわめいた。 何せ教授の運転技術とマナーは文句のつけようがない程で、おまけに持っている車は赤いBM Wときている。 何度か同乗したが、いっそスピードレーサーでも通用したのではないかと思えるほど、見事な 腕前だ。その快適さは、乗り合わせた人間全てが保証する。 「有り難うございます。でも、間に合わないと思うので」 正直、スケジュールは辛い。一杯一杯と言ったところだろう。 「そんなに日数が足りないのか」 僕の受けているのはかなり乱雑な短期間の詰めこみコースである。家庭教師のアルバイトも あり、大学の実験もあり、他にもあれこれと雑用をこなしていると、学科試験を受けられると しても合宿の前日だ。 それを知らない男ではないのに、教授は取れと言外に言ってくる。 語尾は疑問ではなく、感情を害したような鈍い響きを帯びていた。 「頑張りなさいよ、加納君。大丈夫よ、仮免終わったなら何とかなるでしょ」 どこか楽天家の樋口の声に重なる様に、 「……代わってやってもいいぜ、教習所の時だけ」 こちらも、どこか面白くない声がした。僕も正直面白くない。 栗橋賢也が、僕に協力を申し出ることがあるなどと。 画面を見たままなのは表情を隠すためだろうか。表計算のグラフに表示される数値を見たまま、 こちらを向こうとしないのは随分と失礼な態度だが、全身を耳にして部屋の遣り取りを聞き取っ ていたのはこの男らしい。 「どうせ、お前と同じBグループの実験だ。データ取得限定なら、問題ないだろ」 確かに、実験の前段階までは自身できちんと設定しておけば、やむを得ない事情がある場合測 定値だけを誰かに貰える。 同一グループ内でのデータの共有は、碓氷ゼミでは許可されている。 教授は、別段僕らの間のことには興味がないようにロッカールームに向かう。そこで白衣に着 替え、自身の実験に取り掛かるのだ。 僕は遠慮する様に言葉を止め、頭の中で危惧を含んだ計算を巡らせた。 この前、栗橋が僕を殴った件なら、教授は栗橋に何も言っていないはずだ。しかし、栗橋はそう は思っていないだろう。 いや、口に出していないとしても、教授の態度が僅かでも硬化すれば、敏感な奴は感じ取ったは ずだ。何らかの手を打とうとはするだろう。 懐柔策に出たのか、それとも代わってやったことを恩に着せて、新たにあれこれと僕に無理難題 を吹っかけようとしているのか。 申し出を受けても、断っても、デメリットは大きい。だとすれば、僕が負う傷が少なくて済むの はどちらだろう。 徹底的に対立すべきか、それともまだ従順な振りをしておくべきなのか。 「あ、良かったら私も手伝うわよ。前回代わってもらったし」 樋口の言葉に、後者のデメリットは減った。栗橋が何か改竄したり、台無しにする可能性が半 減したのだ。まして、あれこれと恩に着せようとすれば樋口もいたのにと言える。 「……それじゃ、お願いしても良いですか、先輩、樋口さん」 丁寧に頭を下げた僕の眼の端に、ちらり、と栗橋の横顔が映った。そこに浮かぶ表情を読み取 ろうとしたが、特にしてやったりというようなほくそえみや、安堵の溜息も存在しなかった。 「何時だかメモしておけ。後は俺と樋口で相談して決める、いいな?」 栗橋とは、水面下だが今やお互いに油断のならない相手だと言えるだろう。 とはいえ、だ。僕らはここに学習と研究のためにだけ来ている。 まだ『ごっこ遊び』の領域を抜けただけのものだろうが、それでも実験を続ける時、僕たちは普 段の軽口やちゃらちゃらした形を捨てて、内面は髪を振り乱しかねない勢いで猛進するのだ。 実験の期間はは樋口でさえ、化粧をしていない。ここにいる全員が、真剣勝負だ。 協力し合うにせよ、足を引っ張るにせよ、失敗したものだけが転落する。 それに敗れるなら、僕はこのゼミにいる資格などないのだろう。 いや、医者となる資格すらないのかもしれない。だから。 「有り難うございます」 二人に頭を下げ、僕は教授の出てくるのを待って、ロッカールームに足を踏み入れた。 だから、僕は負けるわけにだけは行かないのだ。 数時間後、汚れた白衣を脱いだ僕は、それを丸める様にして持ち、大学を出た。教習所はやは り大学の割合近くだ。 頭上から殴りつけてくるような日差しを半眼で睨み、出来るだけ汗を掻かないように足早に急ぐ。 気温は35℃。屋外での活動は正直望ましくない環境だ。 それでも、車の中には一応クーラーがある。路上にしても、木陰を選んで駐車できる様に努力し てみよう。 歩いていた僕は、注意がやはりどこか散漫になっていたらしい。 横断歩道の信号待ちの途中、急に背中を誰かがどやしつけた。思ってもなかった衝撃に咳き込 む。 その瞬間青になったのは分かったが、僕は半ば睨む様に背後を見た。 「……ぁっ、ご、御免なさい」 竦んで、それでも小さく謝ってきたのは予想外の相手と言えないこともなかった。 佐野明良。僕が、この春まで『家庭教師』として面倒を見てきた少年だ。 今は、大学の後輩となり、その意味での関係はなくなった。尤も……。 咳払いが、苦い澱のようになって喉元までこみ上げてくる。 「君か」 信号が点滅する前にと、僕はそれだけ言って歩き出した。一瞬明良は呆気に取られて立ち尽く し、すぐに慌てて追ってきた。 「ご、ごめんなさい」 どうやら、背中を叩いたから怒られたと思ったらしい。 この春、手痛い思いをしたことはこの少年の甘い性格の矯正にはならなかったようだ。 僕が望んで負わせた傷ではないが、傷つけることに僅かでも意趣返しのようなものを覚えなかっ たと言えば嘘になる。 あれだけ泣き喚き、恥知らずな目に遭って尚もその相手にすがりつくのはどういう精神構造をし ているのだろう。 「別に」 今日の分は1時間予約済みで、1時間キャンセル待ちだ。残りの時間がうまく取れれば良いの だが。 「……どこに行くの、加納先生……」 「もう先生じゃないだろう」 次の信号前は木陰が出来ている。少しその下で日差しの暴力をやり過ごす。 それでも、この暑さに縋りついてくる少年まではどうともならない。 「ゼミ忙しいの?こっち、バイト先?」 すぐに信号は変わり、僕はまた歩き出す。明良が前に回ることだけはないように、歩調は一定 以上に保つ。 「違うよ、教習所だ」 振り払う目的で短くそう告げた。 「車?免許、先……輩?」 「そうだよ」 どうして、ついてくるのを止めないのだろう。僕に良いように玩具にされたという恥や怒りは、 明良の内側には生まれないのだろうか。 それとも、これは僕に対する消極的な嫌がらせか? 「免許とって、誰かと遊びに行くんですか?」 誰に言わせても、僕の免許取得はそういう方向にしか進まないらしい。 「別に。持っていたほうが便利からだよ」 実際は、僕以外の半ば気紛れで始まった教習所通いなのだが。他人に説明するには余りにも馬 鹿げた話だし、説明の必要もない。 「僕も、……それなら乗せてもらえますか?」 流石に呆れ果てて、僕はすぐ後ろにいる明良にぶつからない様に足を止めた。 「自分で取ったらどうだい?」 一体幾つだ、と言いたいのを堪える。本当に僕より数年年下なだけだろうか。 「取るけど、……先輩のに乗ってみたいよ」 見上げてくる小鹿のような目は、僕には鬱陶しいの一言に尽きる。 本来ならきっぱり跳ねつけてやるべきだ。 だが、僕がどう望んでも、この少年にある種の価値があることは確かだ。 そしてそれを出来る限り手元に留めておきたい男がいて、僕がその男の手中から逃れられない以 上は、明良を拒絶するという選択肢は消える。 「そのうちに」 この状況はあの男には嬉しい限りだろうな、僕はあと百M程に迫った自動車学校の看板に目を 当てつつ思った。 明良の顔が、喜色に輝く。 「じゃ、また会ってくれるよね?ゼミで忙しいの聞いてるけど、夏休み終わる前に」 「……空くように努力はするよ」 これで、嘘はつかなかったことになる。 「うん、それでいいんだ。じゃあ、今度絶対スケジュール教えてね!」 片手だけを挙げて、僕はさっさと自動車学校の入り口をくぐった。実際、乗車手続きが迫って いたのだ。 嘘は言っていない。だが、何かがまつわりつくようで、吐き気がした。 教習所での時間は瞬く間に過ぎ、キャンセル待ちも運が良く滑りこめた。出来るだけ教授の運 転に似せようと努めたが、何度かブレーキを踏むときに振動が来た。 それでも、教官は格段に進歩していると誉めてさえくれた。 交通法規や、応急処置などの講座は全て受けたから、残りは運転技術に神経を注ぐしかない。実 技さえ受かれば、次の日にでも試験場に行って学科を受けて、合格ならその日に免許証が発行さ れる。 実技試験まであと5時間。短期コースとはいえ、取りきれるだろうか。 予約が取れたのはそのうち2時間。 あと3回を、大学の合間を縫って何とか取らない限り合宿には間に合うまい。 午後の日差しは、アスファルトを焼くのを諦めたように熱気を放ちつつ西に傾き、道路はぶつ けられた熱を叩き返そうとするように発散していた。 汗がシャツに染み渡る。すぐに熱気で乾き、白く塩の跡を薄いブルーの布地に残す。 クーラー故障のため窓を空けていたのだが、僕も教官も酷い目にあった。 こと、教官はしっかりとYシャツから着ていたから、殆どよろけるようにしてスタッフルームに 入っていった。救急車でも呼ばれなければ良いが。 眩暈がしてくる。早めに何か飲もうと、僕は手近の自動販売機を目指した。真っ当そうな飲み 物は根こそぎ売り切れているがコインを入れ、何も口にしないよりましだと左手に一番近かった 炭酸飲料のボタンを押す。 ガコン、と音を立てて缶が出口に落ちた。身を屈めて拾おうとして、くらり、ときた。 熱中症まではなっていないと思ったが。 何とか缶を引きずり出す。冷たさに意識が少し戻ったが、目の前が暗い。 腕から、その缶がすっぽ抜けた。いや、誰かの手が僕から缶を奪い去り……。 「こんなものを飲んでどうするんだね」 数時間前に聞いていた声が、頭上から聞こえた。額に、冷たい感触。 力を抜いて見上げれば、逆行で少し暗く映るも腹立たしいほど冷静な眼差しが、僕を見下ろして いた。 「教授。……どうして……」 分かったのか、と聞くには理由は明白過ぎた。 僕が教習所に行くように仕向けたのは、この男だったのだから。 ここにいる理由は、すぐに教授自身が教えてくれた。 「食事に行くのでな。ついでにとこちらに車を向けてみたらお前がふらふらしていた」 時間帯のせいか、周囲に人はいない。当然の如く教授は僕の腕を取って立たせ、何とか僕は感 覚を取り戻してその後についてBMWの助手席に乗りこんだ。 程よく保たれたエアコンの冷気が、弛緩した身体に心地よく当たる。 「何が食べたい?……と言っても、その様子では何だろうと構わなかろうな」 イグニッションを捻る。ウィンカーを出して発進し、すぐさまギアを切り替えてターン、大きな 通りへと続く道にスムーズに進む。理不尽なほどのその手際の良さ。 炭酸飲料の缶を握りながら、僕は呆けたようにその姿に見入っていた。 女子学生なら、この姿を見られただけで、心ときめかせたりするのかもしれない。しかし教授は 樋口のようなゼミの学生にさえ、えこ贔屓めいた真似はしない。 逆に男子学生は割と教授の助手席に乗せてもらったり出来る。ただし、一部の実験器具や機械や 荷物を運ばされる時が殆どであり、……僕のような乗せられ方はしない。 「それと、少し食事の後に寄る場所がある。送っては行くが、大丈夫か?」 少し、考えた。今日のバイトは夜の8時から1時間だ。問題はないだろう。 「はい」 僕のバイトに良い顔はしないものの、教授は決して辞めろとまでは言わない。遅れないように と気遣ってくれさえする。 礼を言うべきなのか、それ以前にこうして僕を庇護の名の元に拘束することを止めさせるべきな のか。 熱気にやられていた頭が正常に戻る頃には、車は既に街道沿いのレストランの駐車場に滑りこん でいた。 車から出て、教授と共にレストランの入り口をくぐりながら僕は尋ねてみた。 「それで、どこに行かれるのです?」 程なく窓際近い席に二人腰をおろし、メニューと水が運ばれる。僕は先にアイスコーヒーを頼 み、他の物は教授のペースに合わせることにした。 「何、大したことではない。小一時間ほどで終わる」 素っ気無く言って、メニューをめくる教授。嫌な予感がしないでもなかったが、何も食べずに それだけに食い下がっても腹の足しにはならないだろう。 バイト先の家で腹が鳴らない程度に食べようと、僕もメニューからそれなりに目を引きそうなも のを物色し始めた。 と、程なくポケットに入れっぱなしだった携帯が、鈍い唸りを発し始める。教習所で切ってお いたはずだが、何時の間にかスイッチを入れてしまったらしい。 画面を見ると、この晩に行く家庭教師先のようだ。 「ちょっと、失礼します」 教授に断って僕は入り口まで足早に急ぎ、途中でボタンを押して耳に当てた。 「はい、加納です」 『あぁ良かったわ。高柳です』 まだ若さを十分に残した、末っ子に甘い母親の声がした。 「こんにちは。どうか、されましたか」 『……えぇ。御免なさい、うちの……というか高柳の母が倒れてしまって。危篤だと言うから、 流石に皆で行かなければならないの』 と、いうことは。 「では、今日は雄太君は……」 『お休みと言うことで。えぇ、ご免なさいね。急なことだから。センターには、こちらから連絡 したほうが良いのかしら?』 少し考えて、僕はこちらから連絡します、と答えた。 『有り難う。本当に、せっかく夏休みだって言うのにね、この猛暑だから。来週は間違いなく来 ていただくと思うから』 背後で本当に慌ただしく立ち働く音がして、電話が切れた。 僕は、電源を切ったその指でセンターを呼び出し、受付へと繋ぐ。 この時間なら所長もいるのだろうが、出来れば会話も避けておきたい。 高柳家の不幸を伝え、今日は休みになったのでカウントしないようにと伝える。 柔らかいオペレーターの声の後、急に間が開いた。 『……加納君か』 短い切り替え音の時に、僕は咄嗟に電源オフにしてしまいたくなり、何とか意志を捻じ曲げて それを押し留めた。 「所長。急な電話で……」 『それは、良い。……今は、大学か』 はい、という言葉は自然に口から出てきた。 『良ければ、最近の報告を兼ねて、食事でもどうだね?』 声には感情はなかった。だが、所長の意味する所は分かっていた。この前の会食後のトラブル の、埋め合わせだ。 少し、僕は迷った。その迷いが所長に不快な刺激になることは分かっていたが、それでもこの後 それを教授にどう告げるべきだろうか。 『……あの男か』 言ってしまってから少し狼狽したように黙り、 『ともあれ、近日中に連絡をくれたまえ。高柳さんへのこちらからの挨拶も、考えておいたほう が良いだろうからな』 「はい」 いつも、僕が教授と所長に問いたくて問えないことがある。 僕が気を失っていた間、貴方がたの間に何があったのか。 とても知りたい。それが例え、玩具の壊れ具合を巡る遣り取りであったとしても。 僕が廃棄寸前の積み木か何かのように教授に譲られたのだとしても、それはそれで仕方がないこ となのかもしれない。 すきっ腹のせいか胃にちくりと痛みが走った。 目も疲れているようで、少しだけ視界がぼやけた。 「今日は、これで」 『分かった』 短い挨拶を交わして、今度こそ僕は電話を切り、全てオフにして手に持つと、テーブル席に戻 った。アイスコーヒーは運ばれていて、教授はメニューを広げたまま待っていてくれていた。 「……お待たせしました」 「所長かね?」 「いいえ、バイト先です」 ストローの袋を破くとき、しまった、と思った。冴え冴えとした視線が僕に向いて、そのくせ どこか口元には柔らかい線が生まれる。 自然に浮かぶこのどこか怖い表情は、微笑んでいるらしい。最初に見たときは、嘲笑かと思った ほどだったが。 「今日は、私に時間をもらえそうかな?」 一口吸いこんで、僕は噎せた。 「あ、あの……」 ハンカチを取り出して口元を押えたとき、向かい側から腕が伸びて、僕のその手を捕らえた。 「――寧」 あ、と声を出しかかり、僕は必死でそれを喉元に押しこんだ。 教授が表で、僕を苗字以外で呼んだことはなかったからだ。それは何だか、不文律のようにこの 三ヶ月僕たちの間に存在していたのに。 僕は教授を睨んだつもりだった。なのに、気がつくと視線は少しばかり窓のほうに逸れていた。 何も、僕はこの男に疚しいことなどないというのに、僅か鼓動が上がる。 「この3ヶ月ほどで、お前を手放す気は失せた」 低い声が、僕を取り巻き、締め上げる蛇のように絡みつく。 「お前が何処までその姿勢を保って行けるかは分からないが、……私の元にいれば、医者になる 夢が叶うだろうことはわかっているだろう?」 声には出さず、僕は同意の代わりに身体から力を抜いた。 だのに眼差しの中の鋭さは消えない。 早く終わりにしてしまいたいと思うのは、疲れているからだ。 顔を戻すには、何故か、自分にそう強く言い聞かせる必要があった。 「私の申し出は、お前に決してマイナスになることはない。信じてみたらどうだ」 頷くまで間が開いたことに、教授は苦笑したがそれ以上重ねて問うことも強いることもしなか った。 「さて、頼んでしまおうか。もう、連絡は済んでいるのだろう?」 視線だけでウェイターを呼びながら、教授は僕からゆっくりと手を離した。 それでも、僕の手から彼の感触が消えるには大分時間がかかった。 |
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