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前期試験が終わろうと、夏休みだろうとも、医学部の学生が大学に来なくなることは少 ない。 研究室の実験、実験開けの飲み会、レポートの融通や問題詰め込みの連中を眺めては自分の将来に 頭の中で彼是とマーキングをする。 バイトにも行くがそれは実験合間の休憩時間の埋め合わせと、頭も身体もふわふわした、 『医学部』という言葉に弱い連中を物色するための暇つぶしの意味合いしか持たない。 教授陣も来る時間は曖昧なことも多く、集中講義でもない限りは熱心さが失せる。 もっとも、これは個体差が若干あるが。 クーラー完備の私大の医学部だって、学生は大概歩いてやってくる。 僕も例外ではないので、……結構めげる。 「よ〜。加納」 「板倉」 同学年の板倉隆介はどうやら、これからコンビニのバイトのようだ。 髪の毛だけおざなりにジェルで固めて、腹が減ったとしか書いていない顔で歩いてくる。 どうせ、期限切れスレスレのコンビニ弁当で腹を埋めるつもりなのだろう。過去に何度か持ち こんで、こいつだけピンピンしていたが食った連中はトイレから出られなくなった事件がある。 僕は一応、すじこお握りなんて止めておけと言ったのだが。 「ラボは誰がいるんだ、今?」 「樋口と小田と西山先輩。他のは夕方からみたいだぜ」 「サンキュ。あ、今度ウィダーイン持ってきてくれないか。ファイバー」 「何お前、便秘?あんなん効果ねぇじゃん」 朝っぱら……といっても10時だが……からする話題じゃないな。 「違うって。林檎味好きなんだよ」 甘いものは大概食べないのだが、喉ごしのよさで時々食べる。 研究室に詰めている間はあちこち汚したくはないから、あの手のものは便利だ。 「オッケー。……そう言えば、栗橋先輩、一昨日お前が来ないかって探してたぞ」 嫌な名前を聞いた。脇腹が、鈍く疼いたが、僕は平静な顔を作った。 栗橋賢也は、最近極力会うのを避けている。ゼミ以外での授業の重なりはそう多くはないので、 不自然なほどと言うことでもないが。 「あぁ?何だろうな、またレポートとかかな。サンキュ」 手を上げて板倉と別れる。西門へと歩きながら、僕は1週間前ほどの奴との遣り取りを何と なしに思い出していた。 体育館から学生棟本部に向かう通路で、僕は奴と擦れ違いかかった。 珍しく、取り巻き連中は連れていない。 人はまばらだったから、気づかなかったでは済まなさそうだ。僕は、会釈だけして通りすぎよ うとした。 「おぃ」 不機嫌を和音にしたような声がかかったかと思うと、ぐっ、と腕に力がかかった。 「はい」 短く答えて、僕は体から力を抜く。抵抗も、無視する気もないことを無言で伝え、歪んだ相 手の目を直視すらしてやる。 「この前の、……あの連中は何だ。説明しろ」 栗橋は抽象的な言い方で、先週末の夜を示した。 お前の知ったことかと言いたかったが、僕は肩を竦めるとこう答えてやった。 「バイト先の関係ですよ」 「バイトだ?」 「家庭教師を空いた時間にしてるんです。受け持ちの生徒の学力が思ったより伸びたって言うん で、ご褒美みたいに所長が僕を食事に呼んでくれただけですよ」 あながち、嘘ではない。現に、僕は数は減ったが2人を受け持っている。成績も良い方向に向 かっていると、親は喜んで所長に報告したらしい。 何でもないように言う僕に、まだ猜疑心は残しつつも、納得したような顔で栗橋は顎をしゃくる。 「で?何で大葉祥代がそこにいるんだよ」 「所長の娘だからですよ」 間の抜けた男の顔に、僕は僅かに問い詰められる不快感から開放された。 「他の二人も、所長の家族。僕は覚えてもらってますけど、その程度ですね」 それじゃ、と立ち去ろうとしたが、考えながら栗橋は腕を押し付けてきた。 ぐい、と通路の柱に押しつけられる。 「それにしちゃあ、お気に入りのようじゃないか?ああ?」 「ファンですか?だったら、サイン貰っておきます」 「ふざけんな」 言葉と動きが同時だった。 衝撃。呼吸を止めて堪える暇もあればこそ、また一発。 まずい、と思った。先週受けたダメージから回復しきれていない。 「何をこせこせやってる?お前の行った場所は貧乏学生じゃ入れないような店だぞ」 「です、から……呼ばれて」 要するに、気に入らないことでもあったのだろう。もう、一発。 喉もとまで胃液がこみ上げたが、堪えた。 柱をうまく影にして、時折過ぎる人間には見られないように工夫して殴りつけてくる。 「使ってやってりゃ、人の目の前ちょろつきやがって」 誰がいつ縄張りを荒らしたのかと聞いてやりたかった。意外にこの男も臆病者だったということ だろう。 普段なら、流石に腕を振り払って逃げていただろう。しかし、現在の僕は再び痛む身体をどう守る かで手一杯だった。 「いいか。二度とよい目を見ようなんて考えんな。でないと……」 でないと、その後を栗橋はどう言おうとしたのか。 「……何だお前……っ」 もう一発は、来なかった。 栗橋の腕は、黒く伸びたスーツの袖に抑えられていた。その先からのぞく手は酷く鍛え上げられて いるようで、形としては悪くないが、指が太かった。 その袖を辿って目を上げ、持ち主の顔を見る。 牛乳壜のような底の厚い眼鏡の下には、感情を覗かせない黒い眼差しがあった。 「学内での私闘行為は、学則で禁止されているのでは」 無機質な声。生きていること以外の要素を極力排除したような立ち姿。 僕は壁際で息をついたまま、一度見ただけのその男をまじまじと見た。 『五十嵐と、申します』 この機械のような男がいる、と言うことは。 慌てて僕は左右に目を配った。 炎天下にも全く変わらない、黒いスーツ姿が通路の奥にいた。 うっすらと笑んだ表情。しかし五十嵐よりも感情を覗かせない視線。影法師のような錯覚を打ち払 うのは、海草のように揺れている黒髪。 象牙のような肌は、男が持つものではない。朱色の唇は、同性の持ち物にしては鮮やか過ぎる。 僕の視線が固定された先に顔を向けた栗橋が、ぎょっとして下がった。 七瀬悠架。教授の形ばかりとは言え縁戚に当たる男。巨大な製薬会社の社長代理で、普段は専ら有 力者と自社の繋ぎのようなことをしているという噂も聞いた。 今の行為について、別段何の感慨も七瀬は見せなかった。 しかし、見られただけで十分だ。 「教授は、ラボにおいでかね?」 良しとも悪しともなく、ただ自分の質問を静かに突きつける。 「あ……は、はいっ」 頷き、返事をすると同時に、僕をいたぶりつづけていた男は下がった。五十嵐が道を開け、さっ さと立ち去るに任せる。 見送る二人の表情は変わらない。僕も、何とか姿勢を元に戻した。 「……ご案内を」 声も出る。脇腹も痛むが、まだ何とかなりそうだ。 「いや、構わんよ。それよりも、医務室に行き給え。悪い汗を掻いている」 喋るとき以外、同じ表情。怒りや悲しみに歪むことを許されない仮面のようだ。 首を横に振り、僕はシャツを引っ張って直した。 「いえ、大丈夫です」 五十嵐が、ちらり、と主を見た。こちらも表情に変化はない。 ただ、主に対する恭順さは見て取れた。 殆ど靴音さえさせず、七瀬は僕まで歩み寄ってきた。 脇腹に、手が伸びて触る。触っただけだ。なのに、僕はもう一度激痛を覚えた。 どうやって、探った?指は軽かった。ほんの一瞬だけだった。 「無理はいけない。医師を目指すのなら、自分の身体は厭うものだな」 今度は僕の腕が、五十嵐に捕まれた。 「先に行っている」 「は」 一礼する五十嵐につられて、僕も慌てて頭を下げた。ちらり、と横顔だけを向けて立ち去る姿を ぼんやりと見ていると、腕を再び引かれる。 「お送りします」 それは丁寧だが、一学生に拒絶を許さないと言うような命令にも聞こえた。 半ば支えられるようにして連れて行かれながら、僕は今度の件については、栗橋はどう考えること> になるのかと考え始めていた。 「一体、どうしたのだ」 碓氷博光教授の第一声は、幸いなことに僕の予期したものだった。 「少し、暑かったようです」 栗橋のことを学内で言うわけにはゆかないだろう。僕は取りあえず、無難な答えを返した。幸い、 言いたくない場所であることには教授は気づいてくれたようだ。 医務室のベッドから起きあがると、僕は出来る限りの笑顔を向けた。 「今日は、学生課に寄ったら帰りますので、大丈夫です。ご心配をおかけしました」 「帰れるのか」 椅子を引き寄せて、教授は座ると僕の額に手をやった。 「だったら、今晩食事にでも行かないかね」 どきり、とした。昼間の栗橋を気にしたわけではないが、奴に勘ぐられるような真似を繰り返す のは得策ではないだろう。 「七瀬さんに御招待を受けてな。婚約者の女性と会食なのだそうだが、私は一人では行きたくない のだよ」 丁度その時、ドアが開いた。誰かを探すような顔は、栗橋だ。教授と僕を見つけて、さっきより も緊張した顔になった。 「あ、でしたら、先輩をお連れになられたら如何ですか。僕は、そういう場所には慣れておりませ んので」 先ほどの仕返しとまでは思わなかったが、教授の注意を逸らすべく僕は栗橋に過剰なまでの笑顔 を向けた。 「え?あ?あ?」 間抜けな声を発する男を見て、教授は僅かに手を握り締めた。 教授を探していたら、教授に真っ先に声をかけたはずの男が、珍しくうろたえた様子。 どうやら、話さなくても事情は伝わってしまったかもしれない。 半ば面白くなさそうに教授は今の話を繰り返した。途端、栗橋は蒼ざめた。 「いや、お……僕はその、今日は父と約束があるものですから失礼しますっ」 半ば慌てたように医務室を飛び出して行く。いずれ口止めに来たのだろうが、目的は果たせずに 退場する三枚目だ。殴られたこっちに比べたら、軽いものだろう。 背中を睨むようにして見送った教授は、表情だけならさも優しい教育者、といった顔に切り替えて こちらに向き直った。 「断られてしまったな。さて、君は私を見捨てはすまいね?」 他には誰もいないのを良いことに、教授は僕の頬を指で撫でた。 戒能茜(かいのう あかね)は、どう見ても整形で成り立った美貌の持ち主だった。 それを美貌と呼んで良いのかは不明だが。 不機嫌さを何とか礼儀で押しこめている彼女に、しかしそれなりに僕は同情した。 婚約者との二人きりの食事と思いきや、義理の親戚とは言え教授や果ては訳の分からない学生まで 一緒では面白くもあるまい。 この前僕が行ったのとは別の高級ホテルのレストラン。 人が多い中では婚約者にも当れないのか、嫉妬に時々頬を震わせつつ、魚料理をそれなりの育ちの 良さで口に運んでいた。 政略結婚なら、七瀬が二人きりを嫌がるのは当然かもしれないとも思い、僕はどちらの味方なのや らと内心自分でも呆れていた。 「最近は、なかなかお時間もいただけなくて」 声は鉄筆の鋭さを思わせた。ねめつける眼差しは、蛇のようにも見えた。 「ご結婚されれば、その後はずっとご一緒が多くなるでしょうとも」 辺り障りのない言葉を、教授は口にする。 「最近は、教授のご研究が捗っていらっしゃるのですってね。私の方には余りお見えになられませ んのよ」 毒が閃く。ミノカサゴのようだな、となんとなし想像した。住処の近くに生えていた海草を抜か れて、怒って飛び出してきた刺のある魚。 しかし、カサゴの身はおいしい。彼女の場合は今の皿と共食いになるだろう。 「いえ、まだまだですよ。お綺麗な方に恨まれることのないよう、留意して取り組まねばなりませ んな」 歯の浮くような席から、僕は立ち去りたかった。しかし、にこやかさを皆に等分に振り撒く七瀬 の機嫌を教授でさえも損ねたくないのだ。ここは耐えるしかなかった。 「お願い致しますわ。……そちらの方もね」 これはこれは、気性の荒さもカサゴ顔負けだ。僕は困った笑顔を作って頭を下げた。 「彼はね、将来の有望株らしいですよ。茜嬢」 七瀬の言葉に、僕はギョッとした。 教授はそ知らぬ顔で、トマトのソースを絡めた料理を口に運んでいる。 「僕は……」 「お手元に置かれるというのは、後継者とお考えと見なして宜しいのだろう?」 にこやかさで僕の言葉を立ちきり、七瀬は教授が返事をするのを待っている。 その一口を咀嚼しおえると、教授は丁寧にナプキンで口元を拭った。 「ひとかどの者になるかも知れないとは思っておりますよ」 その言葉に含まれる意味に気づいて、僕はグラスの中のワインのように気持ちの水面が揺れるの を覚えた。 七光りではなく、僕が名を挙げる機会があることを教授は示唆している。 学問には一切妥協も容赦もない男が、公式の席ではないとはいえ、初めて僕を評価してくれたのだ。 一瞬だけ、胸が高鳴った。 僕がそこへ行くまでは、まだ時間がかかる。努力が必要でもある。 その道程は今まで暗かった。自分で暗闇を突き崩して、日の昇る方角を目指さねばならない僕に、 教授は初めて明かりを灯してくれたのだ。 「おや。それなら、しっかり教授に掴まえていただかねばならないな」 瞬時に冷たい湖面へと僕は引きずり落とされた。 「教授のお手元からこちらへ戴いてしまっても宜しいが。優秀な人材は不足しがちだ。ましてあな たが可愛がっておいでだ。興味が湧きますね」 そして、同じ様に突き刺してくる女の視線。宥めるように眼差しを向けて、七瀬はその鋭さを幾 分削いだ。 「私達に女の子でも授かれば、彼に貰っていただこうかね。教授が御養子になさるなら、研究でお 忙しいだろうから、暫く待って戴いて」 悪趣味この上ない冗談だったが、皆が笑った。追従と冷笑と恐怖を忍ばせて。 見せかけの歓談はそれでもそれなりに続き、終わったのは夜の10時を過ぎていた。最後に振舞わ れたシャルトリューズという酒は飲みやすかったが、度数を聞かされた僕は内心慌ててグラスを置 いた。72度は今の身体にはきつすぎる。 酔いをロビーで冷ましていると、教授が戻ってきた。 「行こうか」 まだ幾分ふらつきを隠せないまま立ちあがる。その時、教授の手にあるのが車のキーではないこ とに気がついた。 「……そう怒るな。ツインだから、ゆっくり休めるぞ」 ルームキーのナンバーは、『4302』となっていた。 わざとだろうか?先週の、別とは言え、やはりホテルのルームナンバーと同じとは。 教授も気づいたのか、珍しく渋面と呼べるような顔になった。 「私ではない。七瀬氏だよ。君の気分が優れぬようだとご心配戴いた」 それなら、違うだろう。とは思ったが、あの涼しそうでいて粘液質な視線の主の提供と聞くと、何 となしあのトラブルを知られていたようで気分が悪い。 一応周囲にそれとなく気を配りながら、教授に続いてエレベーターホールに向かう。 乗りこんでドアが閉まると、ほっと息をついた。 考えたら教授も飲んでいた。学生連れての飲酒運転はまずいどころの騒ぎでは済まないだろう。 足元はまだ大分しっかりしていたが、教授に連れられて部屋へ向かううち、暑さと疲れと酔いとが 混じって視界が少しずつぐらつき始めた。 促されて先に部屋に入る。 普通のホテルであることにほっとして、教授には構わず真っ先に目に入ったソファーに座った。 耳元でとくとくと鼓動の音がする。酔いは多分顔にも出ているだろう。 暫しぼうっとしていると、額に冷たいものがあてがわれた。仰向けば、ミネラルウォーターのグラ スを手にした教授が僕を見て笑っている。 すっと、背後から腕を回されて、唇にグラスがあてがわれた。麻痺した感覚のまま、されるままに 冷たい水を飲む。 少しして息をつくと、教授が動いてグラスはテーブルに置かれた。 そのまま背後から腕を回される。 「……教授……」 答えがない。そう言えば、二人きりのときは何故か名前で呼ばないと答えない。 子供地味た部分もあるのだと思うと可笑しくなった。 グラスに熱を奪われた教授の手が、頬に心地よい。 ぼうっとしていると、耳元で教授が何か言っていた。 途切れがちな意識を集中して、耳を澄ます。 「……楽しいのか?寧」 酔っているだけ、ですよ。僕はそう言おうと思った。 全く別の言葉が唇から落ちた。 「教授は、……僕といて、楽……しいんですか?」 妙な事を言ったものだ。また可笑しくて、無性に可笑しくて僕は笑っていた。 聞いたところで、僕は所詮、この男の慰み者でしかないのに。 あぁ、まずいな。かなり酔っ払ってる。 「……御免なさい。さっきの酒……」 まだ冷えている指が、口元を被った。 怒って、いるのだろう。明日酔いが覚めたら、謝っておかないとな。 でもあの酒がなければここまで崩れやしなかったから、言い訳になるだろう。 考えに引きずられて、教授の声がまた途切れがちになった。駄目だ、これは。 今日は使い物にならないみたいだ……。 「お前が……から、まだ……でいら……気がするよ」 え? 聞こえない。意識も聞いたそばから言葉を手放してゆく。 モニターの画面がぶれるように視界が揺らぎ、教授の手が離れて更に虚ろになる。 ブラックアウトしそうな意識が蘇ったのは数秒後だった。 柔らかい吸引力。喉を下る、冷たい滴り。 うっすらと、教授の顔が見えた。何時の間にか脇に座っている。 いや、鈍い感触が腰の辺りにあるから抱き寄せられているのだろう。 自力で水も飲めないほど、僕は脱力していたようだ。 耳元にかかる吐息は、水で冷やされてくすぐったかった。 「今日はもう、休みなさい。疲れたろう」 教授、何を言われていたんです? 唇だけでも動かそうとした。ちゃんと聞いておかないと。僕に向けられた言葉は、例え誰のもので あろうとも覚えておかないと。 残った気力だけで袖に縋る。聞き逃して後でご機嫌を損じていたらまずい。 折角、今日は誉めてもらったのだから。 首を緩く振った。もう一度吐息がかかる。少しだけ熱が戻っている。 「聞か……せて……」 駄目だ。最後に張った意識の糸も、呆気なく途切れた。 夢の中で、僕は誰かがこう言うのを聞いた。 『お前が男だから、まだ正気でいられる気がするよ』 ――――何故? 『一人きりでいるお前を、どれほど守ってやりたくなるか』 ――――どうして? 目を覚ます。ツインだと言ったのに、傍らで教授が眠っていた。 酔いが冷めれば、身体は急速に冷える。その為か、しっかり脇にいてくれたらしい。 眠りやすいようにと配慮してくれていたのか、僕の周囲には丸めたタオルがあてがわれていて、暗 い部屋の奥にはきちんと畳まれた衣服があった。 下着だけしか身に着けていない脇腹には、薄く殴られた跡がついていた。 どうやら、酔いに任せたまま眠っていたらしい。身を捩って見れば、時計は午前4時を指していた。 眠る教授の一部分だけが、起きあがっている。ここの所僕には触れていないから、身体もそれなり に欲求不満だろう。 熟睡している相手を起こさないように、そっとホテルに備え付けの浴衣をはぐった。 シャワーを浴びたのか、下着は穿いていない。 少しもたげられた部分に、そっと指先で触れてみる。まだ眠ったままだ。 介抱してくれていたお礼ぐらい、しておくとしようか。 口中に意識を集中して、唾を湧かせる。十分に行き渡った所で僕はそっと身を屈めた。 自分から、強制されることなく誰かに触れるのは初めてだ。 先端に、先ずはキスするように触れる。僅かな身動ぎがあったが、教授も寝不足だったのかまだ 目覚めない。 そっと擦り、舌を出して唇を湿してからもう一度触れる。 深い眠りに落ちている精神を裏切るように、教授の身体は反応を始めた。 感じやすい部位を狙って濡らし、突つくうち、目の前で熱帯の花でも咲くように、奇妙な匂いをさ せつつ、教授の雄蘂が立ちあがってくる。かすかなうめき。 蜜など出さなくても、蜂を匂いだけで寄せて花粉を擦り付ける花もあると聞いたことがある。 その蜂になったような気分で、僕はゆっくりと碓氷教授のそこを、自分の口中に納めていった。 さっきよりは身体が揺れる。まだ眉根は寄らない。意識は眠りに捕らえられている。 僕には、都合がよい。 音を極力立てないように、しかし十分に唾が行き渡るように注意しながら、僕はゆっくりと口の中 のものを吸い上げた。普段のような努力は要らない。 感じる部分を吸ってやれば、理性などない身体は昇り詰めるだけだから。 何時もより呆気なくそれは張り詰め、甘さなど微塵も感じられない苦い露を流し始める。僅か、眉 間に皺が寄せられた。指が震えて空を掻く。 軽く、本当に軽く歯を立てた。つう、とそのまま上に引く。 教授が、弾けた。 「――――!!」 濁流のように押し寄せたものを、吐き出すわけにも行かず僕は飲み干した。 驚愕に跳ね起きた男が、僕の顔を掴んで脚の間から引き剥がす。 噎せかかって、何とか我慢したが、少しだけ口の端に垂れたのを感じた。 引き歪み、憤りに近い感情を見せた男。 やはり慰み者に弄ばれたのは立腹の対象だろうか。 こうして、また僕はどこか欠ける。男でありながら、夢を持ちながら、評価に値するとは思えな い行為で堕落し、……結局何も残らない。 何も……。 「お前はっ!」 僕はこんな程度の人間なのだろう。それでも、夢さえ叶うのなら。訳も分からずに求めた結果さ え得られるのなら、誰に何を言われようと構わない。 「おはようございます。爽やかなお目覚めでないなら申し訳ありません」 帰るとしよう。僕はベッドから片足を下ろした。 とはいえ、僕だけの場所など、今はどこにもありはしないのだが。 無言で教授は僕を引き戻した。両肩を抑えつけられる。 張り裂けんばかりの眼差しが僕を睨み据え、……不意に曇った。 「馬鹿者が……」 今度の歪みは、僕は咄嗟には理解できなかった。 曇る目が、歪んだ僕を映し出している。 「教授?」 「……そんな風に、する必要はない……」 僕に上体を押しつけ、教授は枕に顔を埋めるように伏せた。 「言っただろう?ひとかどのものになれると」 震えている。声がくぐもり、揺れている。こんな声、聞いたことがない。 肩を掴んだ手が、僕をも揺すぶるように動いた。 「お前を娼婦と思っているのではない。だから……だから……」 だったら、何故今まで僕を抱いてきたと言うのだろう? 「……愛してくれとは言わない。せめて、信じてくれ」 肩の近くの布が、温かくまつわりついた。 泣いている?教授が?どうして? 困惑に満たされたまま、僕はそっと教授の肩を抱いた。 「私を信じてくれ。寧……」 教授が僕の顔を覗きこむ。まだ自分の残滓をこびりつかせた口元に、自分の唇を寄せてくる。本 当に、どうしてこの人は僕のことで悲しむのだろう? 口付けながら、僕は教授が何を僕に求めているのか、さっぱり分からなくなっていた。 身体でないのなら、努力や才能でないのなら、一体僕がこの人に与えられるものは何だと言うのだ ろう? その日、僕達がその部屋を出ることはなかった。 理由は見つけられないまま、僕は初めて自分から男と身体を重ねた。 日差しの暑さに、僕はふと研究室の窓を見上げる。 ちらりと動いた影は、栗橋か他の誰かか。 どう、対抗したものか。教授には暫く様子を見てもらえるように頼んだ。 放ゼミにまでなる証拠は、まだどこにもないからと。 それまでネチネチといびられる可能性はなきにしもあらず。だが、教授の目の届く研究室の中で まで手を出してくるようだと、あの男の墓穴掘りになるだけだろう。 学外で出会わぬように、極力努力をすればよい。それだけのことだ。 この認識は、後で考えると我ながら甘かった。しかし、僕が逃げ出さずに立ち向かえたのは、そ の楽観があったからかも知れないと、今は思う。 深呼吸一つ、研究室のあるに直接通じる階段を、僕は駆けあがった。 |
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