Overture


3


 Pホテルは、雨模様とは無縁の明るさで満ちていた。
ロビーで誰も跡をつけて来ていないことを確認してから、僕はエレベーターに乗りこんだ。
行き先は、ひとまずラウンジである。
一杯嗜むだけの時間が、僕には許されていると言うわけだ。
妙な話だが、僕は所長相手に飲んだことは二度しかない。彼も僕も下戸ではないのだが、 好んで酒を酌み交わすようなことはしたことがなかった。
飲めても好きではないのかもしれないと思うが、尋ねたこともない。
 身体はあっという間にラウンジまで運ばれて、僕は何度か足を踏み入れたラウンジに、 何時もの様に入っていった。
カウンターには、瀬里が一人で座っていた。
二つ置いた席に腰をかけると、瀬里のほうで席を立って脇に座りなおしてきた。
「今日は、泊りか?」
「まさか。……ねぇ、何を飲むの?」
 僕がバーテンダーにマティーニを頼んだのを見て、瀬里は意外そうな顔になった。
「ヤスちゃん、結構イケる口なんだ。カルーアとか似合いそうなのにね〜」
瀬里は、ヴァイオレット・フィズを受け取った。
「甘いのは嫌いだ」
 一言答えて、僕はさり気なく入り口に目を配った。
栗橋がここいらで遊んでいるのなら、このラウンジで僕を見つけることもあり得る。
先ほどは思わぬ援軍で助けられたが、今度はこうもゆかないだろう。
今日はもう大丈夫だとしても、明日以降に大学で会った場合の奴の反応が気にかかる。
気に入らない奴としてリストインしただけなら何とでも繕いは出来るだろうが、その程度 が分からないことにはどうにもならない。
「酔いでもしないとやってられないの?」
 飲むと言うよりはグラスを弄びながら、瀬里が呟く。
「そんなことでもないさ」
「パパに会うのが楽しみ?それは絶対ないわよね。今は、教授って人もいるんでしょ?」
 大学で上げていたような甲高い声ではない。その気になれば、年齢を一回り上にしたよ うな声も、来島瀬里は出せるのだ。
この少女がどんな経緯で来島大悟の養女となったかなどは、僕は聞いていない。関心もな いが、相手は出くわすたびに僕を質問責めにしなくては気が済まないらしい。
何が楽しいのやら。
「泊りも怒らないような、そんな程度の人なの?」
 運ばれてきたマティーニを、僕は無言で啜った。
教授と僕には、何の約束もない。向こうが僕を脅しつけて、興味が去るまでは傍に置く気 でいることは確かだろうが。
ただ、最近は気紛れに、僕の身を案じるようなことを行ってみたりもする。珈琲を同じカ ップから寄越したり、今日も着替えのとき、まるで家族にする様に襟元を整えた。
喋るペットとでも思っているのだろうか。そんな程度だろう。
無言をどう取ったのか、瀬里は一口飲み物を啜ると言った。
「……嫌いじゃ、ないんだ」
「どういう意味だ」
「怖い目、しないで。ヤスちゃん、パパに口答えしようとしたじゃない。教授はヤスちゃ んには優しい人なんでしょ」
 本当に優しい男なら、学生を一時の捌け口になどするものか。
そう思ったが、それも答えてどうなることでもない。
少しピッチを上げて、僕はマティーニを干した。
これでは、後で一気に酔いが出るかもしれないとは思う。仕方ない。やはりこの女との話 は、無駄にしかならない。
「栗橋を見たら、気をつけろ。しつこくて、厄介な男だからな」
 それだけを忠告として残して、僕は席を立つ。
「頑張ってね、ヤスちゃんも」
 『も』に込められた意味に気がついて、僕は苦笑した。
しつこくて厄介な男の部屋に、これから僕は行くのだから。
エレベーターホールに戻り、一番端にあるエレベーターのボタンを押した。開いたと同時 に乗りこむ。ここが通じる階数は、一つしかない。
4302号室。僕はこれから、男に身を任せにそこに行く。


 ドアが開く。来島所長は、まだスーツ姿のままだった。これが、この男の怖い所だ。
僕以外の誰かがここに来ることはないはずでも、ローブ姿で人前に出てくるような悪趣味 と油断は遠ざけているらしい。
「入りなさい」
一度ドアは閉じかかり、チェーンを外して僕を迎え入れた。
足を取られかねない絨毯、音も徹底的に抑えられた空調、ほど良い照明と、ソファーには 豪奢なレースのカバー。
後にしたがって進み、ソファーに所長が腰をおろすまで待つ。
僕は彼から見える位置に立ったままだ。ポーズもつけず、恭順な表情も作らず、ただ視線 を向けられる。全て知っているぞとでも言いたげな無機質な目が、満足するまで。
「……脱ぎ給え」
 予測通りの言葉に、僕は躊躇うことなく上着に手をかけた。
焦らすことはない。殊更に羞恥心を見せるような真似もしない。淡々と着衣を取り去る。
分厚いとは言い難い胸を、何度となくこうして所長に見せてきた。
「下もだ」
 ベルトを緩める。片足ずつ落とすようにして、靴から踵を浮かして脱ぎ捨てた。
すぐに、所長の指は動く。僕に残された下着という1枚の砦すら、彼は自分で脱がせよう とはしない。
ビキニの白を、僕は靴を踏まない様に動きながら脱いだ。靴下も取り去る。
僕に触れる前に、こうしてこの男は全身を視線で弄りにかかる。
一応前に手をやるが、また指が動いて外さざるを得ない。
冷静の仮面を被った顔から、楽しんでいるような声が漏れ出てきた。
「……他の男を咥えこんで楽しんでいる身体にしては、綺麗なものだ」
 一瞬内心で沸き起こった悔しさを、表情には出さずに済んだ。しかし、身体の中を駆け 巡った熱さは誤魔化しようもない。
「私とだけにしておけないほど、身体が疼くか?答え給え」
「……いいえ」
 それだけは違う。僕は確かに、この男に身体を好きにさせる権利を与えている。
それでも契約以外で抱かれる気など、毛頭ない。
「シャワーを浴びるように」
「はい」
 この部屋を明日の朝出るまでは、僕は所長の奴僕のままだ。一糸たりとも身に纏うこと を許されない。シャワールームに入る時、唇が震えた。
それでも、心だけは。僕の心だけは、誰にも抱かせない。
洗面台の上を見る。ホテルならば備え付けてあるはずの安全剃刀すらなかった。
所長の肩には、傷がある。それは別の少年がつけたものだが、それ以来所長は、誰と寝る 時も、こうして武器になるような品は始末しておく。
 ノズルを捻って盛大に湯を出し、全身を隈なく濡らした。あちこちを丹念に洗い、普段 人目に晒されないような部分も指で探りながら清める。どうせ、すぐ汚されるのだが。
 屈伸を何度かして、シャワーを止めた。
満足させなくてはならない。でないと、大学の授業に間に合う時間に開放してもらえなく なるかもしれない。二日近くも組み敷かれるのは、願い下げだ。
 バスタオルで水気をしっかりと拭き取った。身体を冷やさない様にしないと、風邪を引 く。言い訳を、午前様に怒り心頭になるだろう教授にするわけにはゆかない。
二人の男が鉢合わせするようなことはないだろうが、何となし背中を悪寒が駆け上った。
酔いが回りつつあるらしい。世界が揺らいでいる。
早く抱かれて、眠ってしまおう。僕はタオルの温かさと別れて、シャワールームから出た。
 すぐに、Yシャツの腕に引き寄せられた。
「湯冷めするぞ、身体を見せびらかして」
 羞恥を煽ろうとする言葉。ローブを着ることなど許さない癖して、こうして肌を擦り、 胸をこね回し、膝で僕を押し上げることを楽しんでいる。
「そんなに男が欲しかったなら、私の傍にくれば幾らでも抱いてやるものを」
 唇が喉元に這う。僕は必死で身を捩る。ぴり、と痛みが走った。噛まれたかもしれない。
「試したくなったのか?私に抱かれてどれほどの身体になったのか、他の男の味が知りた くなったのか?」
「誰が、そんな……!!」
 反射的に睨むと、下腹に膝が入った。
「ぐ……!」
 身を二つに折る。晩に食べたものを吐き出すかと思うほどの痛さと気持ち悪さ。
咳き込む僕の象徴を、所長は握りこんだ。再びの痛みに、今度は声もなくしゃがむ。
「私を父親と呼んでおけば、こんな目には遭わさずにおいてやる。……明日、弁護士を呼 んでやる。それまでは大人しく抱かれることだな」
 それだけは、死んだってご免だ!
「……何度、仰られても。お断……うっ!」
 横合いから蹴られた。無様に絨毯に転がった僕の腹に、まだ靴を履いたままの足が乗る。
「それを言える立場か?お前が。私が拾わなければ、単なる男娼で終わっていた、お前が」
 奥歯を、噛み締めた。踏まれて、内臓は無事で済むだろうか?
まだ僕は、そんなことを考えている。
「お前を引き上げて、ここにおいているのは私だ。賢そうな顔をして大学に行っていられ るのは、私の財だ。何故、私に従わない?」
 足は、すんでのところで沈まなかった。恫喝と独占欲だけを面に出して、何時でも踏み 潰せるのだと知らせてくる。
こうして威圧してくるのは、久しぶり……いや、最初の晩以来、なかったことだ。
「……どうして今日になって、そんなことを仰るんですか」
 僕は、退かなかった。
言うことを聞けば楽になるのだと、本能が囁く。頷け、そうすれば暴力はないと。
それでも、僕は頷くわけにはいかない。自分に許すわけにはいかない白線がある。
軽く、腹部に圧迫感が加わる。恐怖が、胃液と共にこみ上げてくる。
僕が大人しく抱かれるつもりで来たことは、所長も知っているはずだ。なのに何故?
教授とのことだって、引き裂こうと思えば何時でも出来たはずのこの男が、今更に怒りを 見せる理由が、僕には分からない。
たかが、僕如きに。
「僕が変わらないのは、あなたもご存知のはずだ。これまで通り、あなたとの『契約』は 守ってゆきますよ。育てたと自負がおありなら、そのく……っ!!」
 踵がめり込んだ。跡にはなるだろうが、もし死体になるなら、関係ないだろうな。
「黙れ。……明日まで、身動き一つできない様にしてやる。腕一本あれば、サインには事 足りる」
 二、三発蹴られたら、ひょっとするとそれでお終いかもしれない。そんな予測をしつつ も、身体はそれを避けようと、腹部の足を押しのけにかかった。
「まだ、抵抗するか!!」
 痛い、と言うよりも重い。大の男の体重の半ばが、一番もろい部分にかかってくる。
息が出来ないまま、それでも必死で、僕は逃れようとした。
抵抗すればするほど、相手の嗜虐を掻きたてるだけだ。大人しくすれば助かる。
鎖に繋がれれば、或いはこの男は安心するかもしれない。
……でも、それでも。
「嫌です……っっ!ぐ!」
今日で本当に最後なのだとしても、拒みつづけるほかはない。
 蹴り飛ばされて、壁にぶつかる。ガン、という鈍く大きな音の間に、コツコツと小さな 音が入った。
所長は反射的に動きを止めた。多分訝しげにドアを見たのだと思う。
僕は、えずくのを堪えるので精一杯だった。
また、コツコツコツ、と音がする。
「誰かに教えたのか?」
 まさか。これから身体を売りに行きます、とでも?
見かえした僕の目にそんな色はない事を確認したのか、所長は何事か口の中で呟きつつも ドアに向かっていった。
緊急の伝言だとすれば、瀬里がなにか?
 ドアで、ガン、という物音がした。
「どなただ?」
 横柄さを保った男の声に、聞き覚えがあるような返事が混じる。
「……が、……いるのだろう?」
 まさか。
痛みにつんのめりそうになりながらも、僕はソファーに縋って立ちあがった。シャツを手 に取ろうとするが、流石にふらつく。急がないと。
 また、大きな音がした。男二人が、言い争っている。そのすぐ近くで、僕は身を折り曲 げて吐き気を堪えているなんて。何てざまだろう。
「帰っていただこう」
 所長の声がする。きっと、僕が知らせたとでも誤解しているだろう。どうやって?
ここのルームナンバーは、ついさっき言われたばかりだ。
携帯さえ、スイッチを切っておいたのに。
シャツを手に取ったとき、その下に置いておいた上着のポケットから、何かが転がり出た。
見なれないそれを、指先で掬い上げる。
大きめのボタン並の大きさの、機械。
ふと、昼間の光景が蘇った。


『こうしなさい。この方が、お前に良く似合う』
 そう言って、僕の襟元を直した男は、その前に上着を着せかけてくれていた。
今まで、そんな真似をしたことはなかったと言うのに。
その不自然さに、どうしてたった今まで気がつかなかったのだろう。
何食わぬ顔をして、僕を引っ掛けていたんじゃないか、碓氷教授。
どこまでかはともかく、僕の周辺の音は、みんなあなたに筒抜けになってたってわけだ。
 痛みが、小刻みに身体を震わせた。シャツを着ながら、僕は笑った。
何てことだ。何も信じていない僕が、信じないまま騙されかかった。
所長が警戒したのも、無理はない。
教授は、盗聴機を僕のポケットに滑りこませていたのだから。


 背後から、再び衝撃が来た。
「お前は、よくも、よくも……」
結局、所長は教授を締め出して、僕を責めたてる方を選んだらしい。
シャツを引っ掛けたまま、僕は再び絨毯に沈んだ。
指先から零れた盗聴機に所長は動きを止め、そこへ足を下ろすと踏みにじった。線が切れ、 プラスチックが割れるぱりぱりとした音がする。
 起きあがろうとする前に、戻る足が僕の脇を蹴った。
「……なるほど。やはり七瀬に見こまれた男、か」
 油断がならん。そう呟く所長の向こうで、ドアを勢い良く叩く教授の声がする。
「ここにいるのは、もう分かっているんだ……」
 先程よりはっきり聞こえる所からすると、チェーンに阻まれて中には入れないものの、 ドアは開きかかっているらしい。
「入れないなら、私にも覚悟があるぞ、『所長』とやら!」
 冷笑したと思しい所長。激痛で身体を抑えるしかない僕。
その双方を、教授の声は凍らせた。
「私がどうなろうとも、お前をそこから引きずり出してやるからな!」
 そして、教授は狂った様にドアを乱打し始めたのだ。
ここの階は、まずい。スイートやセミスイートが並んでいるここで、大きな騒ぎが起きれ ば、警備員が飛んでくる。警察も呼ばれてしまう。
もし、教授が掴まれば。そして、所長が僕に対して暴行を加えた旨を誰かに知られたら。
教授だってただでは済まない。
しかし確かに、噂だけで所長は破滅だ。家庭教師センターとしての実績と信頼が、同性愛 というだけで容易く潰れる。こうしたことは、どこからか漏れる。
そして、所長の経済に頼る僕も破滅する。どうしても医者になりたいがためとはいえ、男 に尻を振っていたとんでもない青年と烙印を押されて。
 疾風の様に、所長は再びドアに向かった。一旦ドアを押し戻す音と、チェーンが開けら れたドアがスイングした音が聞こえる中、僕はビキニをはきなおした。
「寧!」
 駆けこんできた教授の足が止まる。愕然と、僕のあられもない姿を見ている。
どこかがまた痛んだ。気にするな。教授を、巻きこむな。
僕にはまだ、医者となるための聖域が必要なのだから。
「……どうして、いらしたんですか、教授?」
 教授は、口を開きかかり、また、閉じた。
口の端が痺れている。指で触ると、赤く濡れていた。どうやら突き飛ばされた拍子に、唇 を切ってしまったらしい。
「寧、……寧っ」
 そんな目を向けたって、教授。僕を盗聴しておいて、自分が被害者面ですか。
後ろに立つ所長は、僕の態度を測りかねて黙ってみている。しかし、教授に向けられた視 線には、複雑な色があった。
やれやれ。一時の慰み者に対して、男二人が飼い主としてのご対面、といったことになる のだろうか?
「何かご心配をおかけしましたか?僕は……大丈夫です」
 微笑すら、出てくる。僕に出来ることは、騒ぎなどないように振舞うことだけだ。
依存したとしても奴隷ではないと自分に言い聞かせるためにしっかりと立ちあがった。
本当はソファーに横になりたいが、この二人の前に弱々しい姿を晒してたまるものか。
「だ、そうだ。お引取り願おうか。碓氷教授。私と彼とのことに嘴を挟むのは止めていた だこう」
 教授は、所長が一瞬たじろぎそうになるほどの眼差しで、振り返った。
「今彼は、私と暮らしている。私が家族のようなものだ。……暴力を振うような男などに、 寧は渡しはしない」
 家族に盗聴機をしかける親が、どこにいるのだろう。
いや、……最近は判らないか。どうも僕はしらける一方だった。
「生意気だった彼を、ここまで育て上げたのは私も同然なのだよ教授。……わからないか ね?昔の彼を知らないあなたが、何も言うことはない」
 昔、という言葉に教授は一瞬拳を握り締めた。
「これが、一体何をしてきたか、ご存知ない方はお帰りになれば良い」
 既に、所有物扱いか。優位性を信じている所長は思わせぶりに言ってのけた。
痛みが身体に走る。……どうせ、してきたことは綺麗じゃないだろうに。
今更傷つくほどの事はないと、僕は自分に内心言って聞かせた。
「もっとも、あなたご自身はその身体で味わわれたのかもしれないが。……明日になれば、 また貸して差上げよう」
 冷たい汗が、頬を滑り落ちる。所長の声が、ぼやけて聞こえる。
痛みは鈍くなってはいたが、まだ収まろうとはしなかった。
「一つだけ、解せないことがあるな、所長」
 手の甲で額を拭った。吐き気は何とか収まっている……ようで、揺り戻しが来る。
「『育てた』と言いながら、彼を従わせるために暴力を振うしかないあなたの単純さだ。 それ以外に、寧を引きとめておく手段などもてないのなら……」
 スラックスも履いてしまおう。そう思って、手を伸ばした途端に膝が崩れた。
ふらついた身体が、ソファーにぶち当たる。今度は肩だ。
構わない、立ちあがって帰ろう。修羅場なんて、僕の望んだことではない。この二人が、 僕に関心など抱かなければ……
「……寧?」
「寧っ!」
……それでも、僕は恨みきれはしない。所長も、教授も。
僕一人ではどうにもならなかった。願うだけで叶う夢ではなかったのだから。


 懐かしい声がする。
『君には、多分、無理だ』
 梅雨の合間の蒸し暑い午後だった。紫陽花が青々と咲いている。
『だけど、言わずにはおけなかった。僕が終わりになる前に、せめて誰かに言ってしまい たかったんだよ』
 微笑む顔は、歪みを隠すためのものだったのかもしれない。
『だから、ここを出たら……聞いたことは全て忘れてくれ』
 だったら、何故僕に残したの。
『不思議なものだね。墓場まで、持って行くつもりが……どうしたわけか、床屋の気持ち が今は分かるよ。『王様の耳はロバの耳』って、あれだね』
 僕には、葦を生やして囁くだけの力もないと、思ったの?
『済まない。寧。……』
 祈る様に口の中で呟いた名前は、最期にあなたが会いたかったのは。
本当に愛していたのは、僕ではなかった。


 瞼を開くと、場所は一変していた。
ふた月前後を過ごして、漸く見なれた天井。
教授のマンションだ。
悪い夢……でなかったことは、僅かの身動ぎで痛みが走ったことからも知れた。
それと、しっかり身体を包むタオルケットからも。
 すぐに、額に濡れた感触が広がった。指が、視界に入る。見下ろしてくる顔は、動く手 に隠されてチラチラと視界に踊った。
「きょ……」
 教授、と呼ぼうとしたが、完全な形にはならなかった。
「骨は折れていない。内臓は多少痛めつけられたかも知れんが、まだ大丈夫だろう。数日、 安静にしていることだな」
 冷静な声が、僕を落ちつかせた。あぁそうか、この人も医者だった。
「病院は、止めておいたほうが良いのだろう?」
「有難う、ございます……」
 声を絞り出した。喋るなと、教授は人差し指を僕の唇に当てた。
その感触は、むず痒くなるような何かを伴っていた。
眼差しに、何故か険がないように思える。それはそうか。僕は無様に気絶して、彼にここ まで運ばれてきたんだろうから。
所長はどうしたのだろう。流石に死人になりそうならまずいと、教授に押しつけでもした のだろうか?だとすれば、あの男らしい。
 教授はYシャツとスラックスをきちんと身に着けていた。
「……今、何時……」
 もう一度、唇に指が当たる。
「2限の授業に行ってくる。昼は何か買うから、心配は要らない」
 今日は、そうすると金曜日だ。僕はほんの数時間、うとうとしただけらしい。
必修がない日だったのは、不幸中の幸いだ。栗橋は……こんな姿で会う相手ではない。
今日は大学関係のことは全て諦めるしかなかった。
「いってらっしゃい……」
 挨拶までは怒られなかった。その代わり、視界一杯に教授の顔が広がる。
目を閉じると、今度は指でなく唇が、今までとは全く違って、柔らかく静かに包んできた。
僕が半ば茫然として、教授が離れるまで身動きも出来ないほどの圧迫感だった。
一体。何があったと言うのだろう。
僕の気絶している間に、あの二人は何を遣り取りしたのだろう?
手が伸びて、頬を撫でる。消毒薬の匂いが僅かに残った指先。
この男は、何を僕にするつもりなのだろう?
薄く苦い笑みが、珈琲に落ちるクリームの様に静かに教授の顔に広がった。
「そんな顔をするな。傍にいてやりたくなってしまう」
 背筋を駆け上ったのは、悪寒と、不思議な牽引力。
「寝て、体力を回復するように。話はそれからだ」
 声も最早出す気力はなく、僕はただ頷いた。再び頬をなぞる手。
教授は、一体どうして僕にこんな柔らかさで触れるようになった?
あの強引な手の動きが、引き寄せることはしても自分から歩み寄ることはない性格が、い つ変わったのか、僕は数日の記憶を辿ったが思い出せなかった。
「きちんと寝ていなかったら、明日以降脇に休むからな。それが嫌なら……」
 命令が、どうして何時ものような冷たさを帯びていない?
再び、顔が近づく。僕は抵抗できなかった。何時もの様に意志を押しこめているのではな く、ただ触れ合わせるその行為を、静かに身体が受け入れていた。
耳元で、小さな呟きが聞こえる。
 やがて、教授が玄関から出て行き、鍵がドアにかかる音がするまで、僕は目を閉じたま
ま小さく震えていた。
この馴れ馴れしい感触には、覚えがある。
いや、嘘だ。僕に与えられていたあの時間は、虚妄で塗り固められていたのだから。
そんな筈がない。
僕が再び、誰かと暮らしているとしても、あの日々のような輝かしさはない。
イミテーションの幸せだったのに、それが再び巡ってくるものか。
そんなものを欲しいと、二度と思わない。思っても見ない。
だのに、何故、僕の目から涙が零れようとしているのだろう。
「うそ、だ……嘘だ」
 またこの部屋は盗聴の対象になっているのかもしれないが、もうどうでも良かった。
 僕はその言葉だけを、祈りの様に繰り返した。
「嘘だ……」
 僕を抱く腕があるはずがない。
偽りでも愛を囁く声が聞こえるはずはない。
労りで触れる指や、与えてくる唇など存在しない。
後戻りだけは出来ないことを、一番知っているのは僕だ。なのに。


『お帰り、寧』


 5年間乾いていた僕の涙腺を緩ませたのは、教授のそんな一言だった。
たった一人が言うだけで、この上なく僕の胸を暖めてくれた言霊。
もう、その人はいない。その人のために泣くことも、もうしなくなった。
「う……そだ、……」
あの柔らかさは、僕を騙しているのだと信じたい。
二度と向けられない思いが、僕に向いたのだとは認めるわけにはいかないのだから。
もし、認めたら?
偽りなら縋るものではない。それでも、もし一片でも思いがあれば?
「嘘……だ」
僕は絶対に応えてはならない。騒ぎを覚悟で来てくれた教授に、僕が返せるものはない。
愛情らしき感情など、誰かに向けてはいけない。もう終わった時間なのだから。
僕はただ、目指す道だけを見て歩いて行かねばならないのに。
もう一度、あの言葉を聞けたことが僕には嬉しかった。
一時の嘘でも良い、と思う自分の幼さを叱咤する気力もない。
情けなさに、涙を止めることは出来なかった。出て行った水分を補おうとでも言うように、 疲れが波となって押し寄せてくる。
意識が遠のいたとき、一度も願わなかった死を、手繰り寄せたい誘惑が沸き起こった。



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