報われぬ夏


4


 僕が起きていても答えを返す気力がないのは、もう男の目にも明らかだっただろう。
どの程度とはっきり言えないとしても、僕は体内からかなりの血液を失ってしまった。
今回、僕が怪我をしたことは、医学的な『症状』としては出血性貧血として定義付けられる。
外傷により、或いは内臓からの出血によって体外に多くの血液が流出した状態だ。
これは一定時間が経過すると、鉄欠乏性貧血、所謂普通の貧血に移行する。
と、確か授業で習った。僕は懸命に思考を巡らせた。
偽薬の効果で意識がある程度で、身体は緩慢に休息を要求し始める。
 貧血の一般症状は、全身を襲う倦怠感、注意力の拡散や無力感、眠気や眩暈―――
「大丈夫かね?もう着くぞ」
「だ……じょう……」
 ―――舌粘膜の萎縮、息切れ、そして耳元で煩いほど聞こえる心臓の音。
他には、……ああ、考えるのが少しずつ面倒になってきた。
「一応、CBCもやってもらうからな。回復は必ずしてもらわないと、話ができないのは困る」
 CBCって何の略だったろう。同じ授業で聞いた気がする。
揺すぶられて一瞬意識は浮上しかかるが、また薄い靄が視界にかかったようになって遠のく。
唾を飲みこもうとして喉が痛かった。典型的な症状の一つだ。
それでも一つの名前だけは、脳裏から響きも字画も意味も消えることはない。
西風。
瞬き一つする間にも、鼓動が一つ波打つ間にも、その名前は様々の意味をもって僕に語りかける。
西風。
 ふと、身体を細かく揺すぶっていたうねりが、がく、と大きなものになった。
瞼を何とかこじ開けて周囲を見ると、僕はもうストレッチャーに乗せられて、どこかの建物内部へと 運ばれ始めていた。
先ほどの男を目で追おうと努めたが、脇に何人かインターンめいた制服が見えたと思うともう、僕は エレベータ内に押し込められた。
すぐさま扉が閉まり、緩やかな上昇が始まる。
 ―――もしかして、僕はこれからとんでもない目に遭わされるのではないだろうか。
平時ならば絶対に浮かばない思考が、脳裏に広がった。
無力な僕なら、今は小学生でも簡単に捻り殺すことが出来る。いや、その前に傷口を覆う布を取りの け、もう一度そこを抉るだけで済む。呆気なく致死量、体内の三分の一の血液を搾り出すことが出来 るだろう。
顔からも心からも血の気が引いた。
エレベーターのドアが開き、ストレッチャーが廊下に滑り出る。
その時、僅か出入り口でストッパーが引っかかりでもしたのだろう。がく、と僕を乗せた台は揺れ、 呆気ないほどに僕は簡単にそこから落ちた。
落ちたといっても脚からだから、衝撃は貧血時にしろ少なかった。
これは天啓かもしれない。逃げなければ。
騒ぎ声と詫びとを突き退ける。
 伸びてくる無数の手―――と見えた―――を掻い潜るようにして、僕は走り出した。血液が少ない だけだ。どこかで態勢を整えれば、逃げられる。
普段なら全く考えることもない、愚かな思いつき。
貧血が判断力を鈍らせていたのだろう。僕はエレベーターではなく階段のあるほうを目指してひた走 り、突き当りで誰かにぶつかった。
「すみ……」
 済みません。退いてください。
相手を見もせず、そう、言おうとして、身体は呆気なく逆に引っ張られた。
「錯乱している。相当に酷い」
 聞いたことがあるような声が、鼓膜を揺すぶる。
バタバタと大きな足音がする。まるでインターン達は巨人になって追いかけてきたようだ。
「きちんと……が必要になってくるな。CBCはしたのか」
「今……したばかりで……。これか……、輸血部に」
 段々、世界が回り始める。実際数メートルだろうに、なんて様だろう。
腕が、痛くなった。僕は相当脱力して、誰か僕を捕まえている人間が、腕一本で引っ張っていた。
それを見たのに、どこか高い塔の上に、ロープ一本で吊り下げられているのではないかと思った。
 ロープは今にも切れそうで、それなのに誰かの手がはさみを握って断とうとしている。
僕の生命を。
せめて顔を見ようと頭をもたげるのにも、僕は失敗した。
意識が落ちる瞬間、見えた気がするのは。
 僕を見下ろして笑っている、西風一海の残像。
―――ああ、それなら、迎えに来てくれたんだ。
まだそんなことを考えている僕を、西風の顔は嘲っているようにも見えた。


 眠りは突如として打ち破られ、僕は数時間のブランクがあったことを理解した。
 白い景色。奇妙な明るさ、身体は重く、何だか自分が影のように暗くて薄っぺらい存在になった気 がする。
耳鳴りのように聞こえていた心臓の音はもう引いていた。
左右に柔らかい枕。身体はシーツに覆われている。服は良く見ていないが、どこかの病院のものとは 思われる。
僕は取りあえず一命を取りとめたらしい。安堵がじわじわと、眠気と共に広がってくる。
そのままもう一度沈みこもうとする意識を、僕は必死で維持しようと努めた。
喉がからからだが、何とか声を絞り出す。
「死者の名、を出して……まで」
 鈍い痛覚が左腕にある。天井の形がはっきりするまで僕は痛みに縋っていた。
「僕、を呼ぶの、は?」
 相手の名前、思い出せ。仮の名前か本名かも知りはしないが。
今や豆腐のようになったのではないかと思われる脳から、僕は爪の先に引っ掛けるような曖昧さで一 つの苗字を拾い上げた。
「……吉良」
確かそういう苗字だ。名前は知らない。
僕の僅かに乱れた呼吸が束の間、恐らくは横たわるベッド以外何もない部屋に広がる。
 ほどなくして、頭上の空気に揺らぎがあった。
唐突に出現したかのように思えたが、これはきっと貧血で判断が鈍っているからだ。
大きくて奇妙に白い手が僕の顔のすぐ上に出現する。
顔を起こそうとしたが、長い指先が顎を捉え、仰角を固定した。
無理に動かず、しかし力も抜かずにいると、そのまま頭上から声が降ってきた。
「良く、生かされてきたものだ」
僕の腕を掴まえた男。
 この声は、年齢を測りにくい。若いようで年を経たようで、どこか明後日の天気でも尋ねるように 聞こえたり、眼前に迫る刃のような唸りを上げたりする。
最後に会った姿で、若くても二十代前半だったから、きっともう三十代になっているはずだ。
「お前は脆弱な存在だ。誰かの庇護なしには生きられない寄生植物のようなものだ」
 吉良は淡々と、僕にとっては意味をなさない言葉を口にした。
「正直、放り出せば埋没するか、死ぬまでと決まっていた。お前はその予定だった」
 左の親指が下顎の関節近くを押さえている。僕には喋るなということか。
「だのに、番狂わせが起きた。お前はこうして生きている。いや、他者に巧く寄生し、暴風に遭えば 別の場所でまた細い根をおろして汁を吸う」
 暫く、間が開いた。僕は怒る気もなく、横になったままでいた。
「何より、お前は悪運が強い。七年前もそうだった」
 思わずこれには返事をしかかった。
「五年前の、間違い……」
「七年前からだった。お前の場合は」
 すぐに顎を押さえなおして声は、僕たちが初めて出会ったときより更に前の時制を選んだ。
「様々の人間が、お前には係わった。今も拘泥しつづけるものも一人や二人ではない。お前は単なる 寄生者でしかないのに、宿主は忘れられないらしい。哀れなほどに、犠牲は増えつづけている」
「何の用、吉良?」
 内心の怒りを露にすることより、僕は静かに問うことを選んだ。きついほどの圧迫ではないから、 何とか言葉に聞こえる範囲の音には出せる。
「奪い損ねた命を今頃手に入れに来た?」
 指先からは、腹立たしいほどに感情は伝わってこなかった。
「であれば、癒したりなどするものだろうか」
 問いかけの形をとって否定が伝えられた。
「……或いは。彼奴ならばそうできるだろう。それが快と感じるのならば」
 吟詠でもするようにどこか不可思議な口調。口元が見えるような気がする。顔を向けることは相変 わらず阻まれていると言うのに。
彼奴と言う間だけ、指先は震えたような気がした。
「でも、もう無意味だ……」
 吉良の言う男は、もうこの世には存在しないのだから。
「僕に話せることは、全て話した。今のほうがどうしたって記憶は衰えている。何か役に立つことが あったとしても、もう、思い出せないよ」
 死者の思い出は、僕と吉良の間ではまったく異なる意味を持っている。
「それに、もう西風は死んだ……」
「結論から言おう」
 声に漂っていた茫漠としたものが掻き消えた。
「西風一海が死んだと言う物証を、何一つ我が『チーム』は発見できなかった」


 眼前に広がる紅蓮。
梅雨の間、花を咲かせていた紫陽花も、青紫の大きな朝顔も、真夏を誇り、黄金の花弁を天空に突き 立てていた向日葵も、全てが燃えていた。
小さな庭だった。それでも置かれていた水盤に、そこに凭れるようにしてその人は倒れていた。
ところどころ薬品で麦わらの色に変色した髪。大量の血と、泥とにまみれた身体。
脇腹に赤黒い染み。彼の回りの地面もうっすらと色を変えている。
 僕は、何度この光景を茫然と見ていたのだろう。
現実でも幾夜続いた夢でも、僕は身動き一つ出来なかった。
 何か薬品に引火したのか、一角から青白い炎が突き上げ、それでもすぐに周囲の赤い炎に飲みこま れてしまう。
生きたまま、植物が、庭が、このささやかな地所の主が燃やされる。
この犠牲を欲しがる神が、一体どこにいると言うのだろう。
これほどの才能を失わせたいと願うのは、どんな魔物なのだろう。
 少なくとも、人ではない。
『行きなさい、もう、ここは君の家ではないんだ』
 彼のその言葉が、僕を辛うじて焚滅の壇上から遠ざけた。
だがそれは同時に、その犠牲にも僕が値しないことを意味していた。
肌を焦がしたはずの熱気は、結局僕を殆ど傷つけずに終わっていたのだから。


「嘘だ」
 何故こうもこの名前は、僕を突き動かせるのか。
西風。
「僕は見ていた、殆ど最後まで見ていたんだ」
 自分の家であった場所が焼け落ちる所を。身寄りをなくした僕を引き取って育てた男の死を。
「死体になってから確認したものはいない」
 急に動こうとした僕をしっかりと押さえながら、吉良は尚も自分を見させようとはしなかった。
「そちらのいう『チーム』が殺したんじゃないか」
「あの焼け跡を、隅々まで調べた。何度も方法を変えて調べ、人一人燃えた跡がない」
 良く燃えたのかもしれない。薬品類も若干あったのだから。
誤魔化しと分かっていても、そう思わずにはいられなかった。
「死体の欠片一つ残さず滅ぼすには、火では足りないのだ」
 骨すら、残らない可能性は……薄い。
それは分かっている。だけど、だけど。
「あんな中から逃れられるわけがないじゃないか!」
 眩暈を越える憤りに身体を震わせながら、僕は叫ぶほかはなかった。
十六歳の僕に戻って。
「そう、思う。例えばお前ならば。だが、彼奴は違う」
 再び呪わしげな詠唱が始まった。
「天性のトリックスター。五年もかけて、我らは彼奴の生死を考え尽くさねばならなかった。それが どれほどに異常な事態であるかは我らが知っている。だから、直接にこうしてお前のもとに赴いた」  生存の痕跡を求めるために?
「お前にも、味方となりうるお前にも生存を告げていない。故に、西風の生存が信じられる」
 そもこの世にいないならば、生存する証など見せられやしないじゃないか。
「あの矛盾だらけの男が、まだ世に残るチャンスと未練を有しているなら、いずれ必ず、お前に接触 を計る。お前が取るに足らぬ、共に謀を巡らす相手でなければ、それだけに」
 再び僕が西風の手を取ると?
「お前に接触することが難しいほど、お前に彼奴は執着する。そして、まだ我らはあの男相手に切れ る手札を有している。お前と、もう一枚」
 両腕に、取り分け左腕に痛みが走った。
起きあがろうとして、固定されていた左腕が果たせず、右は素早く吉良の腕に押さえられたのだ。
「連れ出したのか?!あそこから!」
 僕の表情は、鏡に映せるようなものではなかっただろう。
「無茶だ、あの子にまで罪はないんだぞ!」
 右腕の手を振り払い、左のチューブを引き千切る。いや、無理だ。左手だけで顎を押さえつづける 力の持ち主が、吉良なのだから。
「西風の生存を話した時、あれは自分から、会いたいと言ったのだ」
「死んでいる!仮に生きていたって何処にいるかもわからないものを?!」
 普段の体力がないまま抗うのは危険だ。どこかで斜めに見ているもう一人の自分が、警告を発した が、僕は無視した。
「そうまでして死人を生かしたいなら、僕だけを使え!」
 大の男が、手一つ退けられずに?余りに協力的でないなら、また痛い目を見るだけだぞ。
分かっている。そんなことくらい、分かっているんだ。
僕の中に、抜け殻の様に残されていたあの日までの僕が、返事をした。
でも、僕は止められない。僕の始まりを作った男に係わることなら。現在の僕に繋がる道を僕が見つ ける前に、僕を荒野に放り出した西風の名を聞く限り。
「寄生虫だか植物だか知らないが、僕は少なくとも生き残ってきた。そういうことだろう?」
 相手の目を見ようとして、今度は瞼を押さえられた。外れた右手を動かして、その手を掴むと、今 度こそ僕は手を引き剥がそうとした。
「僕のほうが役に立つはずだ。もう一方は……」
 胸が痛い。喋るのにもエネルギーが要る。
現在の血液では、そろそろ限界だと身体が訴えているのだ。
「―――同じ事を言うのだな、お前たちは」
 感心したような響きが宿る声。
「寄生する生き物だからか、どちらも」
 瞼を覆った手は、一瞬冷たく、やがて粘つくような体温を伝えてきた。
この体温はしかし、人間のものと呼べるのだろうか。低い。多分三五℃あれば良いほうではないか。
僅かな汗めいた匂いが、辛うじて吉良が生き物であることを教える。
色素の欠けたような白い手。どこか不完全な、それでいて僕を押さえる強さを有した男。
「西風もお前たちを求めるだろう。五年というのは、人間にとって一区切りだ。そして、待つ限度で もある。これからだ。此方のカードに、彼奴が手を伸ばすのは」
 それに抗い続ける僕は、健全な身体を持っていても、抗しきることが出来ない。
出血性の貧血は暫くすると鉄欠乏症の貧血に変わる。僕の身体はどのくらい弱ったのだろう。
「使わせてもらうとしよう、有効に」
 もう一人、いや、二人。誰かがこの部屋に入ってきたようだった。
「ボス。準備が出来ました」
 頷く気配。手が退いたと思ったら、すぐさまゴムめいた何かが当てられた。目隠しらしい。
吉良の声がする。
「五年ぶりか。我らも早々会わせてはやれぬ。5分だけ許そう」
 左腕から針が抜かれた。
「大人しくしていたまえ。すぐに終わる」
 僕は視界を遮られ、ベッドから再びストレッチャーに移された。
「吉良!」
 呼んでみたが、すぐに男は立ち去ってしまったようだ。
「ボスはお忙しい。―――それに、お守つきの学生をそう行方不明にもしておけないからな」
 顔の見えない相手は、そう言って、ストレッチャーを押し始めた。
ああ、そうだ。僕はゼミ合宿の最中だった。
それでも、僕はとことん集団生活に向いていないらしい。
運ばれながら考えたのは、これから赴く先、そしてそこに待つ相手のことだった。
エレベーターで昇り、どこと知れない廊下を押され、鼻腔には清浄に保たれた空気と僅かな消毒薬の 匂いだけが、外界が間違いなく病院だと知らせてくる。
一度、ストレッチャーは止められた。何か時間をかけている様子、その後ややあって、
「降りてもらう必要がある」
 目隠しをしたまま、相手に支えられてストレッチャーから降りる。
「手を出して」
 素直に差し出した手に何か液体のようなものが吹きかけられた。
「消毒薬だ」
 手を清めると僕は入り口で男達と数秒佇み、ドアの開く音が聞こえてから共に一歩を踏み出した。
「突き当たりの部屋で着替える。分かるな?」
 僕は頷き、男に導かれるままどこかの部屋に入り、着替えさせられた。
服を脱がされることに慣れている自分の異常さにも気づけぬほど、緊張していた。
全身を覆われ、まだ目隠しははずされぬまま、滅菌に滅菌を施した手袋ごしに手を取られ進む。
ある場所で、肩を押さえて立ち止まらされた。


「今から、5分だ」
 目隠しが取り去られると、予測したものが僕の目の前にあった。
硝子の壁。腰の辺りで壁に変わり、壁には一つだけ、ビニールめいた素材が当てられた穴がある。
その奥に、彼はいた。
『……寧』
 薄い色の頭髪。赤茶けた虹彩。頭部に不釣合いにひょろ長い腕。
思春期を迎えたばかりの少年のような彼が、しかし僕より一つ年下なだけなのだと誰が思うだろう。
頤も尖り、淡い色の唇に、僅か噛み締めた痕がある。
拡声器ごしに、微妙に機械に汚染された高い声がした。
「ミタカ」
 謂れのある名前らしい。西風三山(みたか)は無菌室の中でしか生きられないのだ。
『怪我をしたの?吉良が言っていた』
 気遣わしげな声が鼓膜を極めて遠慮がちに叩いた。硝子ごしの邂逅。
最初で最後になるはずだった。初めて会った五年前が。
「大したことはないよ。ちょっと転んだだけさ」
 首を振った僕は、後ろの男達の気配を煩わしく思う暇さえない。
薄い眉が顰められた。
『気をつけて、寧。何もしてあげられないけれど、せめて元気で』
 吉良が悪魔の弟と呼ぶ三山。
 儚げで、それでいて強い眼差し。羽さえつければ天使とさえ呼べそうだ。
「僕こそ君に……何も出来ない。君の兄さんが生きているらしいと聞いても、心当たりさえない」
『当然だと思うよ。あの人は、身内さえ裏切る人だと君も知っているだろ?』
 溜息と必死な呼吸の音と、どちらなのだろう。三山も具合が良くないみたいだ。
元々は、『チーム』とだけ呼ばれる組織の施設で過ごしている筈だ。今回何があったにせよ、他県ま で出てくるからには余程体力を消耗しただろう。
『僕たちさえ放り出して、好き勝手なことをしていても不思議じゃないよ』
 一歩一歩こちらにやってくる。その足取りは慎重で、それでいて体が左右に傾ぐ。
『だから、言ってやるんだ。もう、放っておけって。もう、一海の必要な弟たちではないって』
「ミタカ、無理はしないで」
暇つぶしか弟の代わりだったのかは分からない。身寄りをなくしたばかりの僕は、親戚だという西風 の元、二年を過ごし、ある日突然放り出されたからだ。
轟音を立てて、僕の住んでいた家は焼け落ちた。
僕さえも利用されていたと知ったのは、更にその後だった。
何も知らない僕は、何を失ったのかさえも知らず、『チーム』から逃げまわった。
 西風に弟がいることは、僕が吉良に一度捕らえられてから知った。西風が吉良の言う『チーム』か ら何かを盗んで逃げたことも、その『弟』の為に、大金が必要であることも聞いた。
それまで、僕はあの男にそれと知らず飼われていたのだ。
『寧には係わって欲しくない。無事な場所にいて欲しい。医者になれるんだろう?大学に合格して、 頑張ってるらしいって聞いたとき、嬉しかった』
 裏切られたのはしかし、西風が『死んだ』ことで『チーム』の下に置き去りにされた三山も同じこ とだった。隔絶された世界でしか生きて行けない、か弱い身体。
掴みどころのない男、西風一海。それが、生きている。
僕たちを放り出したまま、五年ものうのうと暮らしているのなら、本当に悪魔も同然だ。
吉良や『チーム』が何をしているにせよ非合法な連中であることは確かなのだから。
「でも、生きているとしたらあの人は。君を探しに……」
『要らないよ』
 天使は悪魔に対し、切り捨てる言葉を発した。
『この身体は治らない。この前折れた骨は繋がるのに半年かかったよ。その間、ウィルスも入りこん で大変だったんだ。それでも、僕にもまだ価値があるからね』
 捨てられないんだ、と笑う。立っているだけで苦しそうなのに、笑って見せる。
『僕はだから、このまま『チーム』にいようと思う。動けないなりに、出来ることがあるから』
前に倒れかかり、硝子に両手をついて堪える三山。
もう背後を気にしていられず、僕も硝子に貼りつくようにして三山に声をかけた。
「止めてくれ、僕が出来るだけの事をするから、無理はもうしないで」
 見知らぬ大人に囲まれ、必死で生き延びてきた。
自分一人では生きられないが、それでもその中で出来るだけ手足を動かして抗ってきた。
僕は西風にとって三山の影法師に過ぎなかった。悔しくなかったわけじゃない。
だが、現実に見たその実体の生きる姿は、ふやけた生活をしていた僕を打ちのめした。
僕は実際、彼の影になる資格すらないと、捕らわれた間に僕は思い知らされた。
「あの人が生きているなら、僕が見つける」
『寧こそ、無理しないで』
ずるずるとか細い身体がずり落ちる。
『生きていても、出来れば避けて。一海は手を出すと決めたら、とことん邪魔してくるね、きっと。
でも、もう寧は自由でいて欲しい』
「……5分だぞ」
 非常な声がかかる。向こうの異変にも平然とした様子だ。
 穴の向こうから、細い腕が突き出てきた。顔は伏せられて隠れてしまう。
僕は肩を掴まれる前に手を伸ばし、しっかりと三山を掴んだ。
『絶対に、……信じたら駄目だ、寧。一海も、吉良も』
 幾重にも隔てた遠くから、相手は爪さえ立ててこようとした。
『信じないで。君は、僕らを棄てて自分で進んで』
「ミタカ。僕は、僕が医者になりたいのは―――」
 男達が再び、僕を押さえつけて目隠しを被せた。腕が容赦なく剥がされるのに抗おうとして、首筋 に衝撃を感じた。
目の前で火花。
はっと顔を上げた三山の口元が、硝子ごしに無音で僕の名を呼ぶのが見える気がした。
必死で立ちあがろうとして、また力なく崩れるその身体。
視界が塞がれていたって、指先の名残で分かる。
「僕、は……」
 もう一度衝撃。スタンガンのようなものを当てなくても、僕は弱りきっているのに。
暗くなる中、僕はこの声が三山にだけ届けば良いのにと思った。


 医者になりたいと願ったのは、君を見てからだ。
 吉良の前に立ちはだかって、自分より遥かに丈夫な僕の身体を守ろうとした君が、いたからだ。
 もし、この先叶うなら―――


 『あの子に丈夫な身体を与えてやりたかった。魂に見合う器を』


 あれだけは嘘も欺瞞も矛盾もない。西風の本心からの願いだったと思う。
 ―――僕もそう願ったんだ。心の底からそう願ったんだ。
 だから、僕は何もかも、もう棄てているんだよ。


 気がつくと、また救急車の中だった。
目隠しは取り除けられ、僕を病院に運んだ男が、また脇に座っていた。
「また、笑っていたな。何が可笑しいんだ?」
 問いには答える必要を感じなかった。だが、試しに僕は言葉を紡いだ。
「さあ。夢でも見ていたかな」
 自分の声が力を取り戻しつつあることが、そして項に残っているであろう僅かな跡が、白昼夢では ないことの証だろう。
思考はもう、薄雲のような頼りなさではなく、切れつつあるらしい痛み止めは、僕が傷を負いつつも 生きていこうとしている証だった。
もう一人は、大丈夫だろうか。言いようのない不安がこみ上げてくる。
吉良が死なせるはずはないだろう、そう言い聞かせるしかなかった。
「夢?随分と図太いな」
 この男だって随分と太い肝をしている。『チーム』とやらの一員なのだろうか。
それを問い返そうかとも思ったが、その必要はなかった。
「まあ、それならこれからの付き合いは楽だろうな。開くと書いて、『カイ』だ」
 男は自分を指差し、挨拶代わりにだろう、腕を伸ばしてまた僕の枕元を叩いた。
「お目付け役?」
「ずばりと言うんだな。まあ、そんな所だ」
吉良は既に決定済みのことを僕に告げるためだけに現れたと言うことか。
僕が倒れたのでなければ、別の方法で僕との接触を図ったに違いなかった。
「お前を本来行くはずだった病院に送ってから、俺は消える」
「次に会うのは?」
 間髪いれぬ問いに、男―――開の顔に苦笑が広がった。
「正直、ボス次第だ。まあ、失血ふらふらが止んでからだろう。数ヶ月かかるだろう、回復にゃ」
 吉良は、僕を手放す気がないようだった。
だから、どれほど三山が願おうと、僕は奴のゲームに組みこまれる。
一体僕がどんな手なら有効なカードなのやら、検討もつかないが。
「教授とやらばかりしゃぶってないで、しっかり鉄分補給しておけよ」
 軽口を叩いた開は、僕の表情を見て失敗したと思ったらしい。
「ああ、冗談だって。どうも、その趣味の連中はお前さんに弱いらしいな。調べてて俺は嫌になった よ。ホモってのは分からんな」
「僕は別に、ホモではないけどな」
 奇妙に寒い表情で、開は首を押さえた。
「分かった。この話題は止しにしよう。ともかく、これからのことだ」
 そう言って開は、この後教授達にする作り話を始めた。僕は、到着先で重病人と間違われて、更に 搬送されてしまい、気絶していたため確認が遅れて運ばれた先に足止めになっていたのだ、そうだ。
「余り細かくあれこれ決めると厄介だからな。詳しい追求はお前よりスタッフだろうから後は知らぬ が仏で過ごしてればいいさ」
「それをいうなら、知らぬ存ぜぬ」
 開は黙りこくった。間抜けそうだが、こいつも吉良の部下だ。
三山の言葉ではないが、信頼しないほうが良い。
尤も……僕は誰も信頼していない。ずっと。
金銭面において、或いは技術面において、突出したものを持つ男たちを知ってはいるが、それさえも 全幅の信頼からは程遠い。
遠すぎて、近寄る気にもなれない。
 とはいえ、片方に心配されているだろうことは予想がついて、僕は仕方なしに開に問い掛けた。
「それで、実際どのくらい時間が?」
「お前が行方不明になっていたのは、約8時間ということになる。もうすぐ夜中だ。教授との涙の再 会は明日の朝だろう」
 それでは、この暗い車内はまだ日付が変わる前なのだ。
ゼミの連中はどの程度僕を気にかけているだろう。他の事はともかく、怪我して行方不明だと教授や 栗橋達は眠れないでいるかも知れない。
何度も意識を失った身体は、すっかり時間感覚もなくしていたので、この情報は有難かった。
「病院は個室だ。贅沢だろう。ゆっくり休めよ、お姫さま」
 妙な呼びかけに僕が顔を僅かに背けると、また開は手を動かして僕の頭の周りの空気を騒々しく動 かした。
「そう怒るな。これからボスさえ誑かした悪魔を追い詰めるんだ。協力し合わんとな」
 微塵もそうは思っていないだろう開は、名前とは反対に僕の心を閉じさせるような言葉しか言わな い。この男から見たら僕は、薄汚い若造にしか見えないのだろう。
僕は、早く病院に着くことを願った。
吉良からも、西風からも逃れられないのなら、せめて静かに眠っておきたい。
後は貧血の薬として与えられる鉄の錠剤だろうか。
あの金気臭い味と暫く付き合わなければならないと思うと、うんざりした。


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