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朝の光の中暫く、僕は言うべき言葉を見つけられずにいた。 白い病室、白いカーテン、白い寝台、着せられた服にも白く光が散っている。多分僕の身体も、まだ 残暑というには遠い夏の光の中白く光っていたのかもしれない。 上掛けの上に、血の気を失った指が、更に白々と、まるで他人のもののように投げ出されていた。 まだ何も生み出したことも、奪ったこともない指。 生きているという実感を持てる何かをしたことがない手。 妙に白茶けた気もするそれを見ながら、僕は言葉を発した。 「―――そうか、CBCって全血算のことだった」 「朝から言うことかよ、それが」 苦りきった声と共に、栗橋の拳固が脳天に振り下ろされた。何とか避ける。 「ちょっと、落ちついてよ。加納くんは貧血起こしてるんだから」 女性の声に顔を上げると樋口と大塚が栗橋の腕に縋っていた。 すぐ脇に誰かが立ったので見上げると、多少憔悴したような西山の顔があった。 「大丈夫か、加納」 教授の姿は見えない。ゼミのほかの連中も、流石に全員はやってこなかったようだ。 「おはようございます。先輩、お疲れですね」 僕は、浮かびかかった欠伸を噛み殺した。西山は驚きと呆れた様子が半々といった顔になって、 「幾らなんでも、行方不明はないだろう。まして病院から」 「さあ。僕は、運ばれていった先で人違いだと聞かされただけですから」 既にそういうことになっている筈だった。夜中近く辿りついた病院でそれだけを確認し、開は僕を 残して去っていった。 また会うことになるといっていたが、一体どう言う風に現れる積りだろうか。 「その前に普通言えるだろうが、口は怪我してねぇだろうが」 乱暴な中に、奇妙な安堵を含んだ栗橋のきつい一言も、僕の昨晩の体験に比べれば優しいほどだ。 この5年をひっくるめたような、8時間足らずの緊張の連続は、或いは僕の感覚を麻痺させているの かも知れなかった。 「最初の救急車の中で眠ってしまってましたから」 いっそ、永眠したほうが楽ではあったのかもしれない。 目覚めぬまま、何も知らぬまま、ただ不運だったというだけの人生。 そんな人生、楽だろうと誰も選択するはずがないか。 可笑しくなって僕は息にそれを乗せて静かに吐き出した。 と、西山ばかりでなく、もみ合っていた栗橋たちまでもがこちらを凝視していることに気づく。 「―――どうしたんです?」 何か、変なことになっていただろうか。いぶかしく思ってこちらも見返すと、大塚が数回瞬いた。 「加納君……」 「何か?」 答えたのは樋口だった。 「もうちょっと、そうやって笑えばいいのに」 今度は僕が瞬く番だった。 「成る程、『美人』に見えないこともないな、そうすると」 脇から西山の、漸く何時もの余裕を取り戻しつつある声がかかる。 「先輩っ?」 「表情にあんまり出ないよな、加納は。板倉もそう見たことないだろ、お前の笑顔って」 「何でそこに板倉が出てくるんですか」 栗橋が何も言わないので、西山からふと視線を移す。 珍しいほどに、この男にしては有り得ないほどに、静かに静かに栗橋は僕を見ていた。 「先輩?」 すぐに、普段とそう変わりない、傲慢そうな表情が戻って来る。 「女だったらこんなネクラ野郎、誰からも相手にされねぇよ」 言い捨てて、栗橋は背を向け、さっさと病室のドアを開けて出ていった。 大塚と樋口がきょとんとして顔を見合わせる。 「なあに、あれ」 「さあ。どうしちゃったのかしらね」 「加納に惚れたんじゃないか?」 僕の貧血を悪化させそうなことを平然と西山が言う。 「ちょ、っと……」 「あはは、それ良いわ」 「イケナイ感情に目覚めて、って?」 あっけらかんと笑う三人。騒々しさと悪趣味な話題に顔を顰めた途端、再びドアが開き。 「病室では静かにしたまえ」 鋭さを全く失っていない声がする。 教授。服装に一分の同様も隙もなく、僕に注ぐ視線も、ラボでの『教授』のものと異ならない。 学生の一時的な失踪状態も、教授には何の打撃も与えられなかったということだ。 僕程度では、この人のアキレス腱にすらならない。 僕は内心溜息をついた。安堵が大半だったが、正直、取り乱した教授を見る可能性もあるかと思って いたので、素直に喜べなかった。 所詮は、僕はその程度なのだ。 つかつかと、教授が僕のもとまでやって来る。真っ直ぐ見据えるべく、僕は目を伏せて深呼吸し、前 を向こうとした。 思ったようには行かなかった。この数日、とことんついていないらしい。 「―――馬鹿者」 脳天、頭頂部に衝撃が来た。 反射的に頭を押さえて蹲る。息を呑む音すらしないほど、皆が呆気に取られていた。 「怪我の上に、要らぬ心配をかけさせて。寄りによって合宿中に」 真夏の日差しとは程遠い、冷厳な声が降ってくる。 「申しわけありません」 努めて殊勝に聞こえるよう、僕は声を絞った。 「教授、怪我人に……」 俯いてしまったので顔は見えないが、西山が教授の視線のひと撫でで硬直したのが分かった。 女性二人の気配は、そこに留まったまま小さくなる。 「ある程度の気分転換は私もとやかく言う気はなかった。だが、流石にああしたことは慎むべきでは なかったのかね?院生の君は、そうは思わなかったのか」 どうやら、『僕』が『事故』を起こした時の様子は、それなりに教授に伝わっているようだ。 二人とも、実際の事情については貝よりも口を閉ざしているだろうが。 こうなると、教授の話はそれなりに長くなる。僕は軽く頭を伏せた姿勢のままで、神妙に畏まった。 暫くは、柳に風と受け流すほかはない。 だけど、これで問題はなくなったわけだ。 自分でも驚くほど冷静に、どこか苦い思考を巡らせた。 教授は、結局それほど僕を必要としていない。するわけがなかったのだ。 戻ったら、だから荷物を纏めて出て行こう。幸い、それほどの物は持ちこんでいない。 残りの夏の熱気に満ちたアパートを思うとうんざりしたが、仕方なかった。 或いは、所長に部屋を一時借りるという手もある。マンションの一室、良からぬ機材も隠されたあ の場所で、僕が大人しく寝られる神経を持てればの話しだが。 小鹿のように呆気なく僕の、正しくは所長の犠牲にされた明良に触れたあの部屋。 以前は僕にくれると言っていたのだった。 蹴り飛ばした申し出だったが、傷の静養には他に場所がない。 それにしても、傷だけは目立たないようにしてゆかなくては。 所長も、教授も、これ以上深入りしたりさせたりする必要はない。 放り出された五年前、僕は一人で生きて行こうと決めたのだから。 誰かと過ごすことがあっても、いずれはまた離れる。離れられるようにしておく。 西風に係わった人間は、碌な目に遭わない。 生死の真偽はともかく、僕は何時かこうなる予感と不安を漠然と抱いて、生きてきた。 生き延びるために。何時か、僕を解放するためにも。 あの幻影から。灼熱の庭に倒れた西風から、僕は逃れられていない。 目を閉じた西風の顔が、三山を呼んだ唇が、今でも僕を苛む夜がある。 今の所、教授でも所長でも、僕がうなされる夜に傍にいたことはなかった。 痛手ではあったが、五年の年月の間、それなりに僕も自分を宥めてゆくことが出来たからだ。 過去をひとまずは脇において、ただ医者になろうとそれだけに邁進してきた。 そうすることで供養になる気もしたし、或いは『チーム』に再会した時に医者と言う肩書きは多少は 僕を守ってくれるのではと期待していた節もあったかもしれない。 これからは、分からない。知られてはならない。 西風は、僕の一番多感な時期に傍にいた。あの頃の僕は情動的で不安定で、気まぐれな普通の少年だ った。 笑いも泣きもした。西風に全てを預け、ただ毎日を甘く平穏に過ごしていた。 傷つきやすさから言えば、或いは明良以下だったと西風は言うかもしれない。 正直、僕の中で未だに西風は大きい。太陽にも月にも代わる存在として、彼は君臨していた。 だから、自由を勝ち取りたいのなら、僕は戦わなければならない。 西風の、幻影と。或いは、西風自身と。 前者にはともかく、後者には僕はほとんど自信がない。 三山だって、僕とそう変わりないかもしれない。何と言っても、彼はあの絶対者の弟なのだ。 血の繋がった、たった一人の肉親なのだから。 (『僕らを棄てて、先に進んで』) そう、『チーム』だって一人の男に捕らわれているのだ。 五年もの年月をかけなければ生死の判断もつかないほどの、狂気と恐怖とに。 僕は一人だ。『チーム』の連中とは違う。三山とも違う。 取り乱そうと、泣こうと、僕は一人きりだ。 誰かに弱みを見せることはない。見せてはならない。 本当に西風が生きていて、僕の前に現れようとするなら今の日常だって、まやかしになってしまう。 全てが瓦解する時、僕は柵を残してはいけない。誰かを哀切することがあってはならない。 僕以外の誰かを、西風の犠牲にすることがあってはならない。 僕は一人でいなければならない。 西風が死んだことを確かめる、その日までは。 結局、ゼミ合宿は僕を病院で一日静養させた翌日に、日数だけは予定通りに続けられた。 僕は検査と安静にする必要から、ひたすら睡眠を摂らされた。この間は実際、身体が静養を欲してい たから問題なく眠ることが出来た。 覚悟はまだどこか水草のように浮いていたが、それはいずれ太い根を下ろしてゆくだろう。 貧血気味の身体を鬱陶しく思いながらも、僕は持ってきてもらっておいた自分の荷物を抱え、地方の にしては大きな、しかし1時間に2本しかバスが来ない病院の停留所に立っていた。 駅に出て、鈍行で我慢すれば6時間ほどで帰りつける。 どのみち合宿の帰りは電車で一人の予定でいたから、病院での精算を済ませると、特急を鈍行に替え れば良いだけの金が手元に残っていた。 時刻は、朝の9時51分。 合宿は午前中までとなっているから、僕は駅まで出てしまってから、教授に電話を入れて戻る旨を告 げるつもりでいる。 西山と栗橋が、どちらも自分の車で送ると申し出てきたが、僕はこれを断った。 どちらも言い訳や懐柔、或いは恫喝をしてくるであろうことは見え見えだった。僕は体力を取り戻す まで、あいつらなど相手にしたくない。 只でさえ、教授の機嫌を損ねたままでいるのだ。さっさと戻って、荷物を整理して、教授が戻る前に 元のアパートに戻らなくてはならない。 それに明日は、夜からバイトが待っている。出発前に宿題をたっぷり出しておいたから、それの解 答と解説で終始するだろう。とっくに僕は準備が済んでいるから、貧血でもやれないことはない。 大丈夫だ。 どんな番狂わせがあったにせよ、僕を乱すことはない。倒れている余裕もない。 少し疲れを覚えて、僕はがたついている木製のベンチに腰を下ろした。僕の代わりに悲鳴を上げる 薄っぺらな板を無言で宥めつつ、バスが来ると思われる方向を眺める。 本当なら23分前に到着すべきバスはまだ来なかった。もう、30分も待ちどおしでいる。 それでも、運休と言うことはないだろう。僕は昼までにここを脱出できることを祈った。 タクシー料金さえ考えないで良いなら、いっそ呼んでもらっただろう。 バイト料が振りこまれるまでにはあと2日ある。それまでは何とかして、手持ちの金と、部屋に万一 を考えて残しておいた二千円ほどで凌ぐしかない。 僕のバイト料は、ひと月で優に十万を越える。それでもアパート代と光熱費、食費に本を買えば、 あっという間に底をつく。今月はゼミ合宿があるから既に2冊諦めた。おまけに、病院送りになった ものだから幾らも残っていない。 教授の所にいるときは賄いを任されていたので、この三ヶ月食事だけはかなり浮いた。それでも何か と出費が嵩み、暫くは質素倹約を心に誓った。 目を伏せていると、風がなまぬるく吹いてゆく。肌からどこか湿ったような感触が抜けない。 早く帰って眠りたい。本当に夏風邪をひいてしまう。 そう思ったとき、遠くにエンジン音が聞こえたような気がした。 バスのものではない。重々しくはなく、軽快と言えなくもない。タクシーだろうか?それなら病院で 客を下ろすのだろうか。予約が入っていなければ、いっそ乗せてもらってしまおうか。 駅までなら安く上がるかもしれない。後は、不本意だがカードのキャッシングに一時的に頼れば何と か出来る。 そこまで考えたとき、近づいてくる音に余りに聞き覚えがあることに気がついて、僕は座っている というのに眩暈を覚えた。 軽快な、こんな田舎道でも余り騒々しく聞こえにくいエンジン音。吹かす時に僅か音がくぐもり、そ れから一気に盛りあがる。 エンジンの爆発にしては、どこか硬質で滑らかな音だと思うようになった。教習車のそれとは、格段 に性能を違える、タクシーの安定とは違った、走ることそのものに意義を見出す車の音。 僕は慌てて腕時計を見なおした。間違いなく、秒針は動いている。 携帯電話も引っ張り出した。デジタルの画面は同じ時を知らせている。 合宿は正午まであったはずだ。近づいてくる音に僕はただ慌てて立ちあがった。 有り得ない。学生一人の為に、授業を放り出してくる相手では、絶対にない。 一旦音は途切れ、―――そして再び聞こえてきた。前よりも近づいている。間違いない。 眩暈よりも意識をぐらつかせる腹立ちと疑念を押さえきれず、僕は額に手を当てた。 隠れることも考えに掠めた。だが、どうして僕が逃げかくれをしなければならないのか。 何故、僕がこのことにおいてこんなに悩まなければならないのか。 やがて、病院の敷地内に滑りこんできた一台の車は、一応ロータリーになっている道路を殆ど騒音 らしきものも起こさず半周した。バス停の5M前で停車する。 下唇が痛い。噛み締めているのだと気がつくまで少し間が開いた。噛み切らぬようにずらすには、ほ んの少しの努力と、多量の自制心が必要だった。 冷静にその二つを僕は脳内で混ぜ合わせた。調合量を誤れば暴発する劇薬のように、慎重に。 荷物をたった一つの武器のように握り締め、一歩ずつ真紅のボディに近づいてゆく。 辿りつく一歩前にドアが開いた。Yシャツの腕がちらりと視界を泳ぎ、戻る。 「どういう、ことですか」 声を震わせないために最大限に声を絞った。 全部、叫ばずに、怒鳴らずに、相手を圧倒する積りだった。なのに。 黙ってBMWの車内からこちらを見上げる教授の眼差し一つで、僕は続けようとした不審と疑念の言 葉を飲みこんでしまったのだ。 「―――迎えに来た」 授業を放り出してまで? そう聞かなかったことは、僕にとっては運がよかった。 「ゼミ合宿は、参加者全てで終わらせるものだ。先ほど、富田たちが発表を終えてこちらに到着する との連絡があった。準備が出来ていて何よりだ」 教授の口から出てきたのは、また至極真っ当な言葉だった。 僕は口篭もり、赤くなるほど血液が取り戻せていないことを何かに感謝した。 確かに解散するまで、合宿は合宿だ。 僕が動けるなら、皆で挨拶をしてから帰るのが当たり前ではあるだろう。 「乗りなさい。……ゆっくりで構わない」 促す声に慌てて乗りこもうとすると、半ば呆れたような声がかけられた。 「有難うございます」 車内は冷えていて、僕はぞくりとして腕を抑えた。そしてまた腕から伝わる冷たさにたじろぐ。 教授は運転しながらこちらをちらりと見たが、また正面を向いて問いかけてきた。 「CBCはどう出たね」 CBC(全血算)とは採取した血液から各種成分とその量を調べ上げる検査法である。平たく言え ば『血液検査』だ。 教授が成分表を要求したので、僕はコピーを貰っていることを告げ、具体的な値を要求してくる教授 に仕方なく報告せざるを得なかった。 「赤血球数375、ヘモグロビン10、血沈その他には異常が見られません。生化学検査の方も、γ −GTP値は低いようです」 樋口は酒のみだから、きっとこの値が高いことだろう。高めだと酒を控えなければならない。 「WBC(白血球数)は」 「……8799です」 一拍空いた。 「貧血は分かるが、少し具合が悪いようだな」 素っ気無い言い方に、僅か熱が感じられた。 「戻って休みますので、問題はありません」 また、こちらを見る眼差し。 引け目を感じることはないのだと、僕は必死に自分に言い聞かせた。 毅然としていろ。これからは教授の元を出て、また一人でやってゆくんだろう? 教授はそんな僕を黙ってみていたが、ふと手を伸ばして冷房を切った。 正面を向きなおし、 「お前はまだ医者ではない。それに、お前の主治医は私だ」 当然のことのように言いきる。 「問題があるかどうかは私が診る」 「一学生には過ぎた名医ですね」 教授はギアを切り替え、BMWは減速した。 「どのみち、大学にも報告しなければならない。解散したら、家に帰るぞ」 僕の家ではない、と、言い返すことが出来なかった。 オーバーアクションで板倉が手を振っているのがもうすぐ近くに見えたからだ。 せめて合宿の間だけは、僕は教授を教授として仰いでいたかった。 どんな勝手で振りまわされても、この男が僕の師であることだけは変えようがない。 今更、他の誰かに師事することは出来ない。医者になるまでは、試験を受けられるようになる二年後 までは。 五年、耐えてきたんだ。あと二年くらいなんだ。 言い聞かせている間に車が止まり、ロックが外される。 揺らぐ膝を固定しつつ僕は、車外へ一歩を踏み出した。 駅近くの駐車場で解散の挨拶を終えて、結局僕は教授の車に乗せられた。 駅はそこなのだから電車で帰ると言ったが、バッグの外ポケットに入れていた血算値のコピーを板倉 がまたもや目ざとく見つけて素早く皆に回覧し、取り返そうとして僕は無様に転んでしまった。 『貧血の女性並』と異口同音に言われ、しかも教授自身に腕を引っ張られて立ちあがるのがやっとで は、悔しいことこの上ないが僕に逆らえよう筈もなく。 インターチェンジで起こされる時以外は、僕はずっと狭いリアシートに丸まって眠っていた。 教授も、途中で錠剤を飲ませるために僕に饂飩を食べさせた以外は、言葉少なで運転に集中した。 車はスムーズに、渋滞などに巻き込まれることもなく高速をひた走り、結局電車の半分の3時間程度 で、大学最寄の出口を滑り降りた。 流石にその時には僕も起きることが出来て、奇妙に跳ねた髪の毛を何とか撫で付けようと無駄な努力 をしながら、次の信号で下ろしてもらおうと口を開いた。 「教授、あの―――」 「もう少しで家だ。寝るのはなしだが、楽にしていなさい」 驚くほど声は優しかった。 「疲れたろう。電車よりは揺れは少なかったと思うが、揺られたのだからね。それで?」 遮ってしまったことに気がついて、問い掛けてくるウィンドウの中の視線も柔らかい。 僕は口を開いたが、結局こんなことしか言えなかった。 「申しわけありません。教授ご自身の休暇を台無しにしてしまいました」 教授は今頃、常宿に入って一風呂浴びていたことだろう。 僕だって、一人で帰って、……何をしていただろう。 吉良たちの接触がなければ、僕はまだ何も知らぬまま、部屋を片付けて寝ていた程度か。 余力があればレポートを書いたりも出来ただろう。 無意味な考えに捕らわれていた僕を、教授の言葉が引き戻した。 「次の角まで来ている」 いつの間にか、見慣れた風景の中に戻ってきていた。マンションの近くの高級食料品店、たまにだが 行くレンタルショップ。小さな公園。 つる草で覆い隠された廃屋の横を通り、角を曲がる。三月を過ごしたマンションの駐車場に滑りこむ 車は、安堵の溜息のような音を立ててエンジンを止めた。 シートベルトを緩め、僕はロックを外した。 一足早く車外に滑りでた教授が、さっさとドアを開けて僕の腕に手をかける。 「もう、大丈夫です」 「それを決めるのは私だ。何度も言わせるな」 硬い声で叱られて、僕は項垂れるようにして教授についてエスカレーターに乗った。 やはり、気分を相当に害しているらしい。折角の休みを台無しにされたのだから。 ドアが開く。 ここで出ていくと持ち出しても、真っ当に相手にはしてもらえないだろう。 ドアを押さえて待ってくれている教授に軽く頭を下げて、僕は玄関に大した物も入っていないバッグ を置いた。息をつく音を断ちきるように、ドアが閉まる。 思ってもみないことが、その音を境に起きた。 首筋に、一瞬空気のそよぎを感じた。ついで、軽く摘まれたような痛み。 別の圧迫がそこに加わり、自分の体温とは異なる熱と、自然では与えられない滑りが交互に僕の肌を 撫でてゆく。 薄く感じていた悪寒とは別のざわめきが、そこから後頭部を走りぬける。 「教、授……っ?」 今度はもう少し硬い痛み。次いで、また滑りと熱。 振り帰ろうとして、自分が拘束されていることに気がつく。 教授の両腕が、僕を封じるように回されていた。 後ろから僕を抱きしめたまま、濡れた音を立てて教授が僕の首筋に吸い付いている。 「何していらっしゃ……」 「漸く」 先ほどまでは微塵も感じさせなかった名状し難い響きが、耳元でした。 「二人きりに、なれた」 耳朶に歯が当たる。痛みに顔を顰める前に、ざらつく撫でまわしが起きて僕は震えた。 腕がきつくきつく、窒息死させかねない強さで僕を締め上げる。 あ、と声が出た。痕跡が残るほどに吸われたのだ。 「すまなかった、寧。私がついていながら、お前に怪我をさせるなど……」 すまなかった、と何度も繰り返し、教授は僕の肩口に顔を埋めて口付けを繰り返す。 「教授、の、所為では……ぁっ」 バランスを崩しかかった僕を、抱きとめたまま教授が顔を上げる。 くるりと半回転させて、顔が近づく。 間近で目を覗きこまれて、今度は逸らすことさえ叶わなかった。 「栗橋も、西山も。今すぐ放ゼミにしてやりたい……お前に傷を負わせるなど」 目を閉じる暇なく、唇を吸われる。すぐに舌が入ってきた。絡めとられ、熱さに脳が痺れる。 頭の中で渦巻いていた様々のことを、ほんの数秒で奪われた。 温かで逞しい腕の中に抱き取られ、何度も唇を重ねる。 背中に手を回して縋りつきながら、僕は漸く教授が見た目ほど冷静ではいなかったと気がついた。 髭のあたり具合にむらがある。白目の部分に、疲れたときにだけ出る赤い筋がある。 袖口にもカフスがない。 何時もの教授なら、こんな僅かの歪みは他人には見せない。少なくとも共に暮らし出した期間、そん な姿でどこかへゆく教授を見たことがない。 心配、していてくれた―――? 「もう、失うものか。私の目の届かぬ所に、置くものか」 頬を撫でる手が、紛れもない優しさを伝えてきて、僕は呆然とした。 「明日、大学に報告を出す。それから、お前の住所をここへ移す」 身体だけではない眩暈を気力を振り絞って支えた。抗議が伝わるかどうか。 「幾らなんでも、教授!」 「具合を悪くした、身寄りのない学生を養生させることは、別段誰も何も言うまい。一時もすれば、 皆、慣れてしまうだろう」 これまで、僕たちの関係はひた隠しにされてきた。それを崩そうと言うのか? 屁理屈だと言おうとした僕は、それでも変わらない教授の眼差しに言葉を封じられた。 「西山まで声をかけてきた意味が分かるか、寧?お前がそれだけ、無視しがたい存在になったという ことだ」 反論は許さぬと言った体で、それでも柔らかく教授は僕に触れながら続ける。 何度も何度も、僕の顔を撫でている。 「栗橋と二人がかりで潰そうとしてくるかも知れないのだぞ。いっそ、お前が完全に私の気に入りと いうことになれば、話は多少変わってくる」 視線で、わかるか、と尋ねてくる。首を横に振ると苦笑された。 「お前は嫌だろう。虎の威を借りるような真似を嫌う潔さが、お前にはあるからな」 一度腕を離して、抱きなおされた。労るように。守るように。 「だが、この方法ならうまくゆく。お前は身を守れる。私は、お前と暮らせる」 語尾に僅かな震えがある。 「これまで、お前が怪我をしても、私は表立ってはどうともしてやれなかった。あの男にも、栗橋に も、お前の代わりに殴り返すことすら許されなかった」 あの男、とは所長のことだろうか。 「共に暮らせば、逐次見ていてやれる。お前の失敗や痛みを減らしてやれる」 僕は教授の胸に顔を伏せ、この優しい言葉を受け入れてはいけないと必死で自分に言い聞かせた。 西風のことがある。今までとは違う。 それをまるで見透かしたかのように、教授は僕の顔を上げさせた。 「お前は、いない間どこで何をしていたか。聞いても答えないだろうな」 身体の震えが教授に伝わってしまったが、それでも彼は平気で続けた。 「ただ、私にも判ることがある。お前は、痛みを覚えてもそれを人に伝えまいとする。腹いせに誰か に当るような真似はしない。お前一人で何としても留めようとする」 額に軽い口付け。 「一人で居続けようとするな。寧。私が少なくとも、お前の防波堤になってやれるのだから」 耳を覆いたいのに、その力すら、僕の身体から血液と共に流れてしまったようだった。 「お前には、想っては貰えないのだろうな。無理やり力でねじ伏せた相手には、お前は決して靡かな い。私も、同じ真似をしたのだから」 あの、春の一日。教授に組み敷かれ、屈辱と痛みを耐えた時間を思い出す。ただ、教授の声に滲む 紛れもない悔恨は分かった。 僅かな目の潤みが、あの時の憤りをくすぶる残り火にかけられた水のように冷やしにかかる。 逆に、冷気に晒されることに慣れていた僕の体に、教授の熱が、ゆっくりと染みてゆく。 「ただ、信じてくれ。私はお前の願いを叶える手助けをしてやれる。お前が、押し潰されることがな いように、壁となってやれる」 支えていてくれるとしても、無理だ、教授。 あなたに幾ら強力な後ろ盾があろうと、それが守るのはあなたであって、僕ではない。 僕は、そう言うべきだった。 教授が次の一言を言うまでに。 「せめて、私にお前を愛させてくれ、寧」 時間が止まった。少なくとも僕の精神では。 『せめて好きでいさせてくれよ、寧』 馴れ馴れしい声を思い出した。 ああ、会いに行っていなかった。 ずるずると、力が抜けて完全にへたり込んだ僕の脇に屈み、教授が靴を脱がせにかかる。 玄関のキーを改めて、チェーンをしっかりかける。バッグは玄関に残したまま教授自身も靴を脱ぎ、 僕を抱えるようにして、真っ直ぐ寝室へと向かう。 カーテンのかかったその部屋で、出かける前にシーツを替えておいたベッドに僕を横たえると教授は 素早く僕の襟を緩めた。 実際は、ここまで数分かかったに違いない。ただ、僕はその様子をどこか他人事のように眺めただけ で、我に返ったのは、教授が洗った手に救急箱を提げて戻ってきてからだった。 「ともあれ、傷を見よう」 「……もう、消毒も済んでますよ」 のろのろと、どこか泣き笑いのような声で僕は答えた。 「僕である必要はない。あなたにとって、僕はたまたま自由に出来る学生に……」 「言うな」 こちらも、何かを堪えた声がした。 「最初がどうであれ、もう、私にはお前を離す積りがない。お前まで失ったら、私は本当に生ける屍 になってしまう」 教授の腕を抑えた手を、教授は優しく剥がしてシャツを脱がせにかかった。 「見せてくれ、寧。お前を抱けない夜が、あんなに辛いものだとは思わなかった」 気力は玄関で奪われつくされていて。もう一度払いのけようとすら出来なかった。 露になった僕の肌に、教授の眼差しが熱を帯びて向けられる。 うっすらと散る、自分のつけた痕跡を、指先で辿られて僕はうめいた。 「博光さん、もう、今日は……」 自分から名前を呼んでしまったことに気がついて、ない筈の血の気が頬に昇ってくる。 それを見て、心底嬉しそうに教授が僕に微笑みかける。 「もう、私を肩書き以外で呼ぶ者は、お前しか残っていない……」 左腕の包帯が解かれる。Vの字形についた刃物の傷痕を、ガーゼで拭われる間、僕は痛みを堪えき れなくて、教授にしがみついた。 傷の痛み。それにも勝る、教授の喪失の痛み。 それは、五年前放り出された痛みと重なり、増幅しあって僕を苛む。 「二度と、こんな傷は負わせるものか」 そっと、そこを吸われる。身を捩ったが、結局は教授の腕の中に収まるだけだった。 手早く消毒され、包帯を巻かれる。 僕を構いつける教授は、これまでになく親しげだった。 「これで、良い」 満足げに救急箱を片付けた教授が、改めて自分も衣服を緩め、僕の右脇に滑りこんでくる。 消毒薬の匂いに混じる、嗅ぎ慣れてしまった僅かな体臭に包まれる。 「明日、一緒に大学に行くか」 胸を辿った指先が、腰まで辿りつく。ジーンズのボタンを緩め、素早くジッパーを下げて前から入 りこみ、僕をやんわりと揉みし抱く。 「あ……駄目ですったら」 すぐに下着の中に指が入ってきた。疲れた身体では周囲を刺激しても反応しないと思ったのか、先 端を摘んで、それから指の腹で擦るようにしてくる。 「駄目、です……」 「嫌では、ないんだな」 嫌だと言ってやろうと思ったら、また唇を塞がれた。濡れた音がまずあわせた唇から、やや間をお いて、教授の手の蠢く辺りからもし始める。 熱い……。 「博光さん、僕は明日―――」 「休み給え。主治医としてバイトは禁止する」 「そん、な……ぁぁっ!」 奥を握りこまれて、仰け反った。痛みの奥に、それでもそれを最小限にして身体からより強い快楽 を引き出そうとする相手の意図が見える。 「報告は、致し方なくしなければならない。だが、万全の体調でなくてのアルバイトは、相手にも失 礼と言うものだろう?」 もう一方の手で僕の手を取り、教授が自分の前に誘導する。やんわりと扱われているが、抵抗する 意志を奪う容赦のなさ。 ジッパーを、僕に下げさせることで、更に言い訳さえも出来なくさせる。 男どうしで触れ合うことを、どうして教授はこんなにも躊躇わないのだろう。 下が脱がされると、もうはしたないほどに僕自身が硬直していた。 奥へ、更に奥へと指が辿る。少し内側に窄まった部分を指で確かめられ、僕はお返しとばかりに教授 自身を擦る。満足のうめき。 「私から、悪いものは受け取ることはない。安心してくれ。せめて、こうしている時は」 上に乗りかかられた。こうなって、重なり合ってしまったら次の日は、僕は風邪で寝こむだろう。 だるさはますます酷くなり、エアコンをセットしていないのに、部屋の空気が冷たく感じられる。 教授だって分かっているだろうに。 僕の脚を持ち上げ、内腿から臀部へと撫で、身を竦める僕を抱きしめて、左胸に顔を寄せた。 暫く、そのまま動かなくなる。 「お前を初めて抱いた晩、私は世に棄てられたくないと思っていた」 鼓動を聞くように横顔を当てている教授の頭を、僕はそっと撫でてみた。 昔、一度だけ、ある男の頭をこうして抱えていたことがある。 僕を見ていると、痛ましい気持ちになるといった男。僕が可哀相だと言いながら、僕よりも哀れに、 死んでいった男。 僕は、あの時何もしてやれなかった。撫でることさえしなかった。 自分の痛みを堪えるのに必死で、相手の気持ちを和らげてやることさえ出来なかった。 「今は、お前に棄てられたくない」 この言葉に万分の一でも嘘がないと言うのなら、せめてあの時よりはましなことをしてやりたい。 「……僕こそ、あなたに棄てられたらお終いなのに」 信じきることは、できない。せめて僕の立場がもう少し自由なものだったら、或いは教授の願いに 応えることも……いや、無意味な仮定は止めよう。 日々がどこに流れようと、僕は目標を定めたのだから。 笑顔を、僕は無理に作った。 震えていても、構わない。今はどんな虚妄でも、教授を一時安心させられるならそれで良い。 巻き込まぬようにと願っても、どこまで僕に出来るかどうか分からない。 それでも、僕を思う言葉を口にしてくれたこの人に、僕なりのことで返したい。 覚悟を決めて、僕は自分から教授に口付けた。 軽く見開いた男の部分を握り、自分から腰を寄せる。 脚を絡め、相手の耳元に顔を寄せて僕は囁いた。 「来て、博光さん」 驚きと興奮とをない混ぜにしながら、熱を持った教授が体内に分け入って来る。 息をできるだけ緩やかにして受け入れ、相手の動きに合わせて全てを収めるように前後に揺らす。 熱は、何時もより心地よく身体に染みてきた。 声が、自然に漏れる。 「あっ……ぁぁ……」 「溶けそう、だ、寧……」 僕の上で、教授が溜息まじりに漏らす。 情けないほどに、気持ち良い。 たった三ヶ月で、僕の身体は教授に慣らされてしまっている。 相手の癖を覚え、まるで長年連れ添った夫婦であるかのように感度の良い場所を指先で探りあう。 「望んで、くれるのか?寧……私を」 力を失いそうな僕を支えるように、火柱が体内で動く。 「ぁ、ひろ、博光、さ……いいっ……」 あちこちに口付けの火の粉が降る。視界が揺らぐのは、熱気のせいだろうか。 僕を燃やすのは、五年前の炎なのだろうか。 それとも、今この一時だけ、熱が体内で燠火のように燻るだけ? 燃やすことも燃やされることも叶わず、いつか燃えさしのように黒く凝り固まって、僕という残骸が 人知れぬ場所に転がって終わる可能性のほうが高い気もする。 奥の一点に、教授が抉るような動きを送りこんできた。 視界に赤い色が被さる。嬌声を上げながら、教授を揺すぶり、締め上げる。 「寧、……寧」 どこか心配そうな教授の理性を奪うべく、僕は全身で絡みついて、自分から激しく腰を使った。 「もっと、……壊れてもいい、もっとっ」 呼吸が詰まる。そう言えば、火事では先に窒息死するのだった。 僕が燃え尽きるには、まだ時間がかかるのだろう。 だったら、僕はまたあの庭から逃れでなければならない。 また一人になるとしても、本当の解放を得るまで。 一際激しく突き上げられて、全身を火が駆け上る。僕を逃すまいと、焼き尽くそうとする。 自身と教授との下腹部の熱が弾けるのを感じながら、意味のない叫びを僕は上げていた。 竜胆と菊の混じった桶を提げ、僕は墓石の前に立つ。 「ごめん、盆にも命日にも間に合わなくて」 暦は長月。優れぬ空模様が、既に季節は変わったのだと告げている。 僕は墓石に水をかけて磨き、新しい花を供えた。 こんなことを相手は微塵も望んでいなかったろうけれど。 あの時せめて心を開いていれば、ライバルではなく友人になれたのだろうか。 「君と同じことを言ってくれた人がいたよ。一緒に暮らしてる。何時まで持つやら……」 まだ、『チーム』からの接触はない。 明日にも崩壊するかもしれない仮初の生活を、せめて今は大事にしていようと思う。 教授は出来る限りの時間を、言った通り僕といてくれる。 養子にでもするつもりかと周囲が言い出すほど、実験時以外での視線も口調も柔らかみを増した。 触れ合いの時間も長くなり、とうとう所長と完全に逆転した。 それでも、先の契約がある以上、バイトは止めるわけにも行かないが。 「所長に切りかかるほどの強さがあれば、僕ももう少し自信が持てたんだけどね」 自分を狙った男の死に、墓を立ててやったあの男の気持ちは、僕には分からない。 ただ、僕が置かれている状況よりは、所長も普通の人間に近い生活ではないだろうか。 全て取り片付けて、最後にマルボロとライターを供える。 「また、持ってくるから。ちょっと一服しててくれよ」 後片付けを終えると、僕は墓にそう語りかけて石段を降りた。 寺の敷地内から踏み出した途端、別れを惜しむように涙めいた雨が降ってきた。 駐車場まで走る僕に気がついた教授が、BMWのドアを開けて待っていてくれる。 何時までも、僕に向けて開くドアではないと知りつつも、まだ何か残されているようで嬉しく、僕は 小さく声を上げて笑った。 遠くで稲光が起こるのが見える。飛びこんだ車のエンジンと和するように、静かに音は轟いた。 |
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