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朝の4時。 実に静かな、他の人間では決して起きないのではないかと思われるメロディーが鳴る。 ベッドサイドの目覚し時計のアラームは、まるで自鳴琴のようにゆっくりとした静かさで まずはパチリ、と起動し―――流れた瞬間に止まる。 ベッドサイドから伸びた一本の腕が、すぐさま時計の頭頂部にあるボタンを押さえてしま うからだ。 次いで、その手がくるり、と時計を裏返しに持ち替え、指が1、2秒画面を探ってから、 爪の先に捕らえた突起を押し下げる。 うつ伏せになったまま、そっとその時計を元に置きなおした人物は、ややあってから静か にその頭をもたげた。 バサリ、と癖の少ない前髪が額から目元近くまでなだれ落ちる。 切れ長の瞳は眠気から覚めやらず、まだ真っ白い世界から腕一本程度しか現実に踏み出し ていないようにも見える。 一度顔は、空気と羽の音だけをさせて枕にめり込んだが、およそ1秒経った後、同じく白 い上掛けの下をそっと平行移動して、伸ばしていた腕とは反対側の脚を、寝台から下ろそ うとした。 途端、その動きが止まる。 上掛けの下で、朝の時間に相応しい、静かな溜息の音がした。 「もう少し、寝ていらしてください」 「い」の音が低くて、「寝てらして」と聞こえる。どこか柔らかい物言いは、嗜める響き に苛立たしさより優しさを示しているようだった。 こちらは、八割方眠りの国の住人といった呟きが聞こえる。 誰かに意味が取れるほど大きなものでもなかったが、相手には十分に分かったらしい。 「今朝は支度にかかるんです」 後半には欠伸が混じって、説得力を欠いている。 尚もぶつぶつと呟く声に、 「お粥を食べたいって仰ったのはどなたです?間に合いませんよ?」 それでも少しずつ、答える青年―――加納寧は現実へとにじり寄ってゆく。 もう一度欠伸をして起きようとして、青年はまた枕にすっぽりと顔を埋めた。 いや、布団の下の人物が、腕を引いて彼のバランスを崩させたのだ。 暫く、枕の周囲の空気が震えた。 そこへ上掛けが持ち上がり、再び彼を覆い隠す。 「駄目です。……駄目ですったら」 前半は苛立ちを、後半は狼狽を含んだ声が、上掛けの擦れる音にやんわりと覆い隠されて 次第に勢いを減じてゆく。 「もう朝ですって……ば……」 再び、腕が上掛けから伸びる。 今度は目覚ましを探るのではなく、覆い被さるものから逃れるために。 その指先を追って、一回り太い腕が伸びる。大きな手が、しっかりと指を絡めて、徐々に 引きおろして寝具の海に戻そうとする。 彼を溺れさせようとするのは、眠りか、それとも苦痛とすれすれの快美の渦か。 何れにせよ、それは片方しか望むところではないらしく、抵抗の動きが暫く続く。 「……んだら、駄目っ……」 ある意味で嬉しくない方法で目覚めさせられた加納が、胴の上に乗りかかった相手に対し 虚しい抗議の声を上げる。 「だから、そういうことは、後で……」 頬から目元までを朱の色に染めて、左右に身を捩って逃れでようとするが、腰から下を しっかりと相手に押さえられているのか、身動きが取れない。 上掛けにも阻み切れないほどの盛大な溜息の後、少し遠慮がちな声がする。 「炊飯器、スイッチ入れたら戻ってきますから……だから、ね?」 二人分の動きでめくれかかった上掛けから、再び彼は首を突き出した。 上目遣いに相手の反応を見るその顔は、本人が気づきもしない艶を頬骨の辺りに掃いて いる。 濡れた口元が、数度吸われたのか薔薇色に染まっている。その上で、 「その程度なら、私がしてくる。ここで待っていなさい」 低く、激情などとは無縁そうな男の声がして、寝巻き姿がさっさと寝台を降りた。 僅か乱れた頭髪を撫で付け、すたすたと、寝室の出入り口へと向かう怜悧そうな、隙のな い顔の中年男性。 碓氷博光教授は、教え子の狼狽をちらりと一瞥した。 「あの……」 「そこで待っていなさい」 ドアが閉まる。 と言われても、とばかりに加納は跳ね起きた。近くに畳んであるシャツとジーンズを即座 に身に付け、超特急で廊下に出て、足早に廊下を玄関に向かおうとして。 何故か台所ではなくそこで待ち受けている男に足を止める。 口元に、うっすらと歪みのような微笑を浮かべ、碓氷は緩く腕を組んで立っていた。 「あの……」 「タイマーはきっちりセットされているようだが」 一度ぎゅっと瞑ってしまった青年の瞼に、相手は何かを見出したようだった。 「そうですか、忘れてたと思って……」 「今日は、確か午後からの1コマだけではなかったかね?」 口の中で絶望と救いを求める声を噛み殺し、伏せた瞼が上がって、奇妙に明るい笑顔を 作り上げる。 「でも、ラボの方もデータを……」 一歩、近寄った碓氷に対し、反射的に一歩下がってしまう。 「昨日、君は『たまにはゆっくり寛ぐ時間を持たないと』と言って、私を放り出したので はなかったかな」 「ほ、……放り出すなんて、そんな」 また一歩。二歩下がってしまったので更に一歩つめられる。 「それに、確か昨日はバイトで、疲れているのではないかね?休息を要するのは私よりも 君のほうだと思うのだが」 下がりようがなくなりつつあることを知っていて、更に二歩。 残り半歩の位置で、一度言葉を切って相手を見つめる。 「そんなに私の相手は嫌かね?」 横に振られた首に、縦にしようとする躊躇いは見られなかったことに、内心碓氷はほっ として、襟元に手を伸ばした。 「だったら。今日は私と居たまえ」 「ずっと、いるじゃありませんか……」 寛げられた襟元から覗く肌に、赤い花が零れるように散って見える。 恥じるような視線の揺れ。 ほんのひと時目を逸らしただけで、羽ばたいて行ってしまいそうな野鳥みた仕草だと言え ば、加納は怒るだろうか。 碓氷は、教え子であり、触れる、いや触れ合う相手でもある存在をそっと見つめる。 無闇に外を憧れる、籠の中が良く似合う鳥。 態度を変えれば籠はもっと大きくなり、広い場所で遊べることを知らない鳥。 言い聞かせても外を焦がれるであろう魂。 外に出て猛禽に引き裂かれる危険を知りながら、無意味なまでの自立を求める翼。 その色はすがしい白ではなく、どこか朱鷺のように艶やかで人目を引いてしまう。 今しばらくは飼われる為の、庇護を必要とする存在だと認めることは、加納にとって苦 痛以外の感情をもたらさない。 「住所も移したじゃないですか……」 それを免罪符に逃れようとする相手に、これまで使わないでおいた言葉を持ち出す。 「あれは保護者として当然のことではないかね」 平然と言い放つ心の奥底に、愉悦がある。 加納の顔が僅か怒りに、多分に困惑に満たされて、自分を向く。 普段、上級生に侮られるほどの低姿勢が虚像だと碓氷に教えてくる眼差し。 自分にだけ見せる、内側の柔らかい襞が愛しい。 唇の震えが言葉になるより前に、更に奥へと追い詰める。 「私の休みもなくなってしまったことだからな」 反射的に加納の手が上がり、左の二の腕に浮いているうっすらとした傷跡を押さえる。 表立っては、それは、彼がうっかりして自分で付けたものということになっている。 真相は違うし、簡単に予測もつくが、彼はこれだけは貝のように口を閉ざして、どれほ どすかしても脅しても、話そうとはしない。 事を荒立てることを、極端に恐れる性格。 それは彼の本来の性質と言うよりは、何かの事情で取らざるを得ない防御策と目に映る。 勤勉で、物静かで、理性的な言動を常に心がけ、一歩引いて華やかな場は他人に譲る。 自分がそんな殊勝な青年だった覚えも、また周囲に見た覚えもない碓氷としては、偽装 を取って楽にしたらどうかと言いたくなる。 もっと怒り、笑い、馬鹿騒ぎを楽しむことも出来るはずなのだ。 五年前にまだ少年だった彼を拾い上げた男の話では、その頃から笑みも激怒もない、ただ 自分の目標だけを求めることに熱心だったと言うが。 最も多感な年頃に、全てを殺してしまったような出来事が、彼にあったのだろうか。 経歴は簡単に調べがついた。中学までに両親に死別し、親戚の男性と暮らすも、五年前に 相手が焼死。 確かに身内の情愛には縁遠いであろう経歴だが、それにしても不審な点は幾つも幾つも、 『加納寧』の上に見受けられる。 高校では最初、文系志望だったこと。 親戚の男性の死亡後、3週間行方不明になっていた事。 戻ってから、何かを取り返すように勉学に励み、やっとのこととは言え、私大の医学部に 入ったこと。 サークルには入らず、ゼミの集まりにも必須と言われたときくらいしか参加しようとしな いこと。運動はそこそこ出来るようだ。筋肉の付き方で分かるし、誰かから譲られたらし いラケット等、一通りの道具は持っている。 生活費を出来うる限り医学書につぎ込んでしまうのは強迫観念に近い。 季節の変わり目に、渋々と言った体でまともな衣服を買うには買うが、大概はシャツとジ ーンズである。 自分が飾れば見栄えの良い青年なのだと、五年ほどを『世話になった』男に教わってはい ないのだろうか。 いや、どうでも良いのだ、加納にとっては。 『医者になること』に、これほど固執するのは何故かと聞いたことがある。 世話になった親戚がどこかの医局の事務員をしていて、話を聞くうちに医者になりたいと 思ったのだと彼は碓氷に答えた。 どれほどうまく取り繕っても、加納の嘘は明らかだった。 しかし、『そうか』とだけ答えて騙された振りの碓氷に、見せたどこか弱さを隠す笑みは 追求しないでくれと告げているようだった。 どれほどのことかは知らないが、加納は何か一言では言い表せないものを抱えている。 それを知りたさに、ある男は彼を責めたてて死なせてしまいそうになった。 自分がその場面に飛びこまなければ、内臓を傷めつけられてそのまま二度と目を覚まさず に……。 碓氷は無意識に身を震わせ、思わず加納を腕の中に抱き取った。 かき抱くと加納が不思議そうに彼を見上げてくる。 少し小首を傾げた様子も、どこか鳥めいて、無言の警戒を害のなさそうな表情に紛れさせ ている。 「そんな顔を他所ではしないようにな」 有り得ないと分かっていても。念を押さずにはいられない。 暴力を振うものの興味を引きつける脆い部分と、そうしたものを向けられて初めて見せる 果敢な態度とを持ち合わせた青年。 碓氷が妻を失って後、初めて世界に見出した色彩のある人間。 激しさを内に押しこめ、己の中の生命の迸りが相手を傷つけることを畏れるように、そ れでいて一歩も引こうとせず、よろめきつつ進む魂。 唇を指で辿る。 男のものだ。若いとはいえ、それなりに線が太く、構成されている骨格も標準よりやや細 めであるだけでしっかりとしている。 立ち居振舞いも、きびきびして若者らしい。 それがどうして、こうして抱き取っただけで、同性の目を引きつけるほどの輝きを放って 自分を幻惑するのかと碓氷は度々不思議に思う。 始めは、やはりその道で百戦錬磨―――とまで行かないにしても慣れている―――から なのかと思っていた。 共に暮らすように強制して、まだ公に出来ない間、傍において見た。観察する限り、加納 はきちんとした青年であり、家事もそれなりにこなし、勉強やアルバイトの家庭教師に打 ちこむ真面目さが目だった。 だが数少ない共通項で、或いは深夜に手繰り寄せて、深く触れ合うときの加納は違う。 些細なことを知る度に、青年は変わる。 鳥の羽が外と内側とでは色合いも手触りも変えるように、繊細さと頑丈さを織り交ぜ、翼 を休める時と飛ぶ時は違うのだと言わんばかりに、急に自分から離れたりもする。 だから、こうして引き寄せる。 「……博光さん」 観念して、二人きりの時には呼ぶようになった自分の名前を、碓氷は珍かな鳴き声のよ うに思う。 先に根負けした振りをする加納は、それで騙せたと本当に思っているだろうか? 男性に服従することを教えこんだ男のように、平伏して通りすぎるまで待てば良いと高を 括っているのか? 「どうした。何であれ話がしたいのなら、戻りなさい」 そう言って巻きつけた腕を一旦解き、肩に回す。 ドアをくぐる時にだけ凭れかかる頭が可愛らしささえ見せてそそる。 態々見せている媚態ではない。瞬間で醸し出される柔らかさ。 その一瞬一瞬を、後で思い起こしては碓氷はまた、加納への思索を強めるのだ。 自分の元に舞い降りてきた、理由があるはずだと。 結局、着替えを無意味に繰り返すことになったと、加納は内心は長々と溜息をつきつつ シャツを片袖脱いだ。 碓氷はもう一方が抜けるや否や、彼から取り上げるようにしてシャツをきちんと畳む。 一つだけ有難いことに、碓氷『教授』は『所長』と違って、『こんな安物』とかあからさ まなことを言ってこない。 ジーンズに手をかけるのには躊躇いがあった。『所長』はともかく『教授』に見せるよ うに脱いだことなどないし、後ろに立っていられたのでは気詰まりだ。 ぐずぐずしていると、シャツを低い棚に載せた手が伸びてきた。 「手伝おうか」 「け、結構ですっ」 何を今更、と笑って潜りこんでくる手は下着をまさぐり、布地ごしに自身の形をなぞる ようにして楽しみ始める。 自分は何をしたのだろうと、加納は時折考え込んでしまう。 出来るだけ地味に、目立たないようにしてきたのだ。ゼミに入るときは努力したし、それ なりに有名だったから、周囲の注目も浴びた。 教授の弟子であると言うだけで、有利であることは確かだったが、突出した才能を持って いない自分は、平凡な一学生で終わることと予測していたのだ。 だが、相手はいつの間にか、自分を視界の中央に据えて見ていた。 見るだけではなく、この夏の終わりから少しずつ距離を狭め始めた。 最初には強引に引き寄せ、殴りつけさえした腕。暴戻を強いた腕が、何時の間にか自分を 柔らかく抱え、あちこちを気遣うように触れてくる。 「……まだ、立ち眩みがするか」 少しずつ撫でまわしていた手が、分厚い布地を、その下の下着を含めて一気にずり落と す。膝の辺りに蟠ったそれを、相手に促されるまま、片足ずつ脱ぎ捨てる。 「いいえ」 脚の付け根をゆったりと撫でている手に、貧血よりも酷い眩暈を覚えた。 現実に意識を繋ぎとめるためにだけ考えを続ける。 同性に触れる禁忌も嫌悪感も、どうして『教授』は捨ててしまえるのだろう。 頻繁な接触ではない。研究に没頭している時は二人して、共に起居しながら話題にするの は互いの実験スケジュールだけだ。 それがどうして、朝のこの一時だけでこんなにも…… 震えが走った身体を、碓氷がそっと寝台へ誘う。 横たわるのにすら手を貸し、ところどころに鬱血の痕跡を残す肌に見入りながら、自分も 脇に身を横たえ、上掛けをそっとかける。 その下でも身体は動き、ぴったりと肌を触れ合わせて、尚も指が幾度か緩い刺激を送りこ む。羞恥に頬を染めながら、しかしもう逃れでてどうにもなるものでもない。 腕を伸ばして、加納は碓氷を自分からも引き寄せる。首の後ろで組んだ手で、近寄りすぎ るべきではない相手の顔を近づける。 その手が、目が、間違いなく自分にだけ向けられていることを感じるたび、離れなくては いけないという声も、内側で大きくなる。 いつかは、放り出される。だからその前に離れて、身奇麗にしておかなければ、と。 自分の置かれた状況に、仮にも師である男を巻き込むことは避けたい。 やはり、出て行こう。うまく折を見つけて。 出て行かねばならない時になってから足掻くのは嫌だ。 だのに。 「もう暫くは、朝は簡単で構わない」 一旦全ての愛撫を止めて、碓氷が耳横で囁くと済まなさと安堵が胸に湧いてくる。 小さな水盤が、時間を迎えて静かに動き始めるように。 昔暮らしていた家に、朝の光を受けて輝いていたそれを思い出した時、ふと視界が揺らい だ。目の前の男の顔が一瞬歪み、すぐに伸びてきた指が目許を探る。 「どうした、寧」 「―――何でもありませんよ」 口元を引き締め、欠伸を堪えた振りをした。声も柔らかく、ぼやけたものに変える。 碓氷は上で暫く、静かにこちらを見つめていたが、ややあって腕をそっと外した。 元通り離れて横になるかと思いきや、すぐ脇に身体を寄せて、乱れた頭髪を手櫛で梳き上 げた。 鼓動の音が、聞こえる。穏やかな、自分以外の生命の律動は、少し加納の眠気を誘う。 「御免なさい」 「どうしたね?」 問いかけの後、碓氷は何を言いたいか察したようだ。 「眠いのなら、ゆっくり休みなさい。朝食は、後で一緒に作ろう」 甘やかすような溜息混じりの言葉が、耳元でモルフェウスの囁きとなる。 次に起きた時には腕の中にしっかり収まっているだろう。 悲しさが目許から零れ出ても、それを碓氷に吸い取られるだろうと思っても、身体は眠り をより求める。 自分の中に嘘でも『絶対』がないことをひととき忘れるべく、自分の倍を生きている男の 胸板に生命を預ける。 いっそ眠る間に殺していてくれたほうがましだ、と脳裏で聞こえる叫びすら眠らせて。 ドアを開いた加納の顔が拍子抜けしているのを、板倉隆介は乏しい予測を使い果たさず とも知っていた。 「板倉。どうしたんだよ」 「おっはー」 声だけは慎吾ママに似ているって言われたんだよな、なんでママがつくんだろうな付き 合っている久美ちゃんは。 などと余計なことを考えつつも、同級生に取りあえず挨拶する。 「おっはーじゃなくって、どうしたんだ?今日は質問日だっけ?」 容姿端麗(と言うと怒る)、品行方正、成績は上の中、の加納は、すっかり教授のお気 に入りになって内弟子状態(これも何故か怒る)だ。 「や。俺、今日バイト早朝だったからさ。お前に差し入れ」 じゃじゃーん!、などと効果音付きで、加納の目の前に後ろ手に持っていたものを差し 出す。受け取った紙袋からオレンジ色の壜を摘み上げて、小首を傾げてラベルを読む加納 は、すっと視線を平行移動させて板倉を見た。 「ピュアインのオレンジ味?おいしいのか?」 「味よか成分。鉄だってさ、鉄。貧血ふらふらの友人を思って持ってきたんだぜー?」 それも6本も。 「俺って友達思いだよな〜、な?」 「自分で言うなよ」 半眼になって言い返してくる加納だが、板倉は気に留めない。 元々、何となし今年はついているのだ。 それも、ゼミを受けるのに加納と一緒に受けてみてから。 見栄えも頭も良いが付き合いが悪いこの男を板倉は何となし気にしてしまう。 「ま、飲んでくれって」 紙袋を押しつけると、ちょっとだけ照れたような笑みが顔に浮かんだ。 これがまた良い表情で、そこら辺の女だったらふらふら付いて行きそうだ。 「サンキュ、な」 何となし胸の奥がくすぐったい。 「や。気にしろよって」 冗談混じりの板倉の言葉が可笑しかったのか、思わず小さく吹きだす加納、その表情が また可愛い。 『可愛い』などと思ってしまった自分に、板倉は思わず呟いてしまった。 「やっぱさあ、お前……」 「ん」 問い返そうとして加納は後ろを振り向いた。碓氷教授が出てきたのだ。 「おはよう、板倉君。今朝は、どうしたね」 加納は途端に涼しげな顔に戻って、板倉の差入れについて報告する。 優等生な顔だと思いつつ辞去しようとして、教授の表情を見た板倉は仰天した。 「ほう。こんな早くから、またアルバイトかね」 教授、何で笑ってんだろう? 「は、はい、あの、いえ」 「今日はもう終わりらしいですよ」 ふむ、と教授は頷いて、妙ににこやかな顔を保ったまま言ってきた。 「朝食が未だなら、ここで摂ってゆくかね?態々来てくれたことだし」 その言葉に首を振ろうとした瞬間、若い身体は盛大に胃の鳴る音を二人に聞かせてしま った。 「や、あのっ。そのっ……お邪魔でしょうし」 何が邪魔なんだか分からないまま逃げようとして。 やはりこちらもまた笑みを浮かべた加納に腕を掴まれる。 「教授が仰ってるんだから、遠慮するなよ、板倉」 朗らかな声の奥に、『逃がさないぞ』という本心が見える。 「粥にしたから大したもんじゃないけど、授業までの腹持ちにはなるだろ」 脅迫を交えた笑顔も、板倉の逃げ足を封じる何かがあって。 「お前、そんなもんも作るのか」 「我流だけどさ。付き合えって」 二人の会話を背後に、すたすたと奥に戻る教授。 威圧感は半減したのに、俺って何で加納のこととなると断れないんだろう? ノート借りてるせいかそれともこの前フレッシュネスで奢ってもらった弱みか。 給料日前で時間切れ弁当もあの日はなくて、頼み込んでもらったバーガーは死ぬほどうま かった……。 ああ、また腹が鳴る。 「じゃ、一杯だけな……」 スニーカーを脱ぎながら、加納って凄いよな、と思う。 教授が合鍵渡しちまったくらい、信用されてるし。 それでも先輩連中とは一線引いて、今までと変わりねぇし。 女だったら取り合い起きてるのは、まだ加納に言ってないあの件からも分かる。 また借りになったような気がしたので、後で言おうと板倉は決めた。 午後の1コマが終わって、加納は何故か板倉が来てくれる様にと頼んだスターバックスの 出来るだけ奥の席で相手を待っていた。 珈琲の香りに寛いでいると、何時聞いても騒がしい足音が階段を上ってきて、きょろきょろ とめまぐるしく首を回した板倉が、こちらを見つけて走ってくる。 「お疲れ」 尚もきょろきょろとしながら、板倉は向かい側の席に座ってきた。 その余りにわざとらしい様子に加納は眉を顰めた。 それを見た板倉が大袈裟に溜息をつく。 「はーーーっ。それだもンなあ」 何がだと問う前に、板倉は一葉の写真を取り出し、伏せて加納のほうに滑らせた。 「そっと見ろよ。何も言うなよ。コーヒー飲むのはやめとけ」 神妙な顔つきになった板倉にどう答えたものか悩んだが、言われた通りに黙って写真を 裏返し、そこに映っているものを見て。 加納の感情は、くしゃり、と写真を持った左手の親指が、写真を捻じ曲げにかかったこ とで十分に板倉に伝わった様だ。 「お、俺じゃねぇからな」 加納は暫く、血の気の引いたことを意識しながらふるふると震えていた。 映っていたのは、湯煙。 場所は明らかにどこかの旅館の風呂と分かる。 時刻は夕暮れも終わりに近づいた頃。 洗い場へと上がる途中、手拭いを落として身をかがめる姿が映っている。 腰に巻いたタオルがめくれて、腿の一部が湯気の立つ中でも白々と浮いている。 濡れた髪、上気した肌、ぎりぎり見えそうで見えない危うさ。 「……何で」 声は珈琲の香りを帯びて苦かった。 「男湯なんか撮るんだよ」 「言われたって俺も知らねぇよ」 「写真部誰だ。小田か?」 「多分、な」 ひそひそと会話は続く。加納は取りあえず落ちつくために、勢い良くコップの中身を飲 み干した。 くしゃり、とカップを握りつぶす。 「多分ってお前……」 「多分は多分だよ。これ、『裏』で流れてるんだ」 板倉は祈るように手を組んだ。 「『裏』って何だよ、『裏』って!」 「まあ、その……な。名物学生って多かれ少なかれ写真撮られるもんなんだよ」 「名物って何だ、食い物じゃないぞ!」 まー似た様な……と呟く板倉に当っても仕方がない。 「ともかく、知らせてくれたのは感謝する」 今後、こんなことはないだろうし、自分も隙がない様にすれば問題ない。 板倉は親切から教えてくれたんだ。怒るな。 ポケットに写真を突っ込んで、加納は立ちあがった。 「あ、おい、どうすんだよ」 「それは後で考える。ともかく、これ1枚かどうか確かめておいてくれ。出費あったら後 で払うから。頼んだ」 ゆっくり、冷静になって考えよう。 女子大生などで混み出した店から、足早に外に出て加納はもっと静かな場所を探すことに した。 言えない。やっぱり言えない。 これが、西山先輩の手帳に挟まってるって噂だけは。 あの人バイだって話で、だから加納狙われてるって話も。 その趣味の連中に回って、しっかりおかずに使用されてるってことも。 背後狙われてるなんて、あいつ微塵も思ってないよな。 やっぱり、ある程度俺がカバーしないと駄目だよな。 でも、どうしようか。ほんと、これ、ヌけそうだもんな。 下手すると加納ネガごと欲しがるだろうから、小田に聞いてみるかな。 手元にもう1枚あるって知ったら、加納怒るよな。でも……。 1枚2000円。請求しときゃよかった。 結局表で写真を始末するのに気が引け、煙草を吸わないのでライターで燃すこともなら ず、加納は後ろポケットにそれをくしゃくしゃにして入れたまま、仕方なくマンションに 戻ってきた。 今日は教授と、食事に行こうという約束になっている。 鍵を開けて入り、戻っていた教授と短く言葉を交わして部屋に入った加納は、まずジーン ズを脱ぎ、それを手にとってから写真を引きぬいた。 ぐしゃぐしゃに握り締めたとき、 「寧。そう言えば後期の……」 何気なくドアを開けた碓氷にびくりとして、加納は強張った顔のままそこに立ち尽くし た。下は下着一枚で。 目ざとい相手が歩み寄ってくる。 「どうしたのかね」 「いいえ」 後ずさる。 「顔が青いが」 「大丈夫です」 繰り返される光景は、しかし廊下ではなく部屋で。 「見せ給え」 「これは見るようなものじゃ……っ!」 抗った手から写真を取り上げた男が、自分より無表情になるのをどうしようもない。 せめて逃げ出そうとして、 「その恰好で何処へ行く気だ」 しっかりと手首を捕らえられ、移動を封じられる。 「説明もなしで」 床を擦る様に、自室となっている空間の、まだ余り使用されていない寝台へと引っ張ら れる。 「こんなの僕だって聞いてませんよ!」 抗弁は、シーツの剥がれる音に勢いを減じる。 「そうだろうとも。お前が知っていて、こんな姿を晒すとは私も信じ難い」 それでも、碓氷は容赦なく加納を寝台に引きずり挙げた。 「だがやはり、隙はあったということになるな」 下着一枚を脱がせるまで、加納は膝を絡めて抵抗した。 しかし、碓氷の手が絡むと、今朝も中途半端な状態でいたためか、身体は鋭敏な反応を見 せ、あっという間に加納は碓氷の前で高められた。 「……あ……ひろ、みつ。さん……」 露の滲む部分を、親指の腹でぐいっと擦り立てられると、加納は苦痛に混じる紛れもな い快楽に静かにすすり泣いた。 「や、こんな、ここでなん、て……」 「ああ。そう言えばこちらでは初めてだな」 涼しく答えつつ、碓氷は手を動かしつづける。脚を抱え上げ、前から後ろのほうへと指 を移動させ、窄まった部分にたっぷりと蜜をなすりつけて解す。 「ぁ、は……ぁ、ぁ、……ぁ、ゃっ……」 極力声を殺し、加納は首を横に振る。それが却って碓氷を刺激することに彼自身は気づ いていない。 濡れた音が、夕暮れを迎えたマンションの一室を密やかに満たし始める。 「説明は、後で良い。今朝の続きをお前も望んでくれるなら、な」 自分の奥に、間違いなく火が灯ってしまったのを加納は感じた。 今も抜き差しされる指では物足りないと、体内の触れられていない部分が震えている。 一時の熱に溺れる身体を叱咤しても、高めつづけられる以上止めようがない。 ゆっくりと、膝が開いてゆく。 満足げに笑みを浮かべてジッパーを下ろす碓氷を見まいと、加納は腕を目に当てた。 それでも、音だけで自分が更に蜜を吹き零れさせるのに、彼の喉は低く甘くうめいた。 |
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