苦い蜜月


休日編


 悪い夢をずっと見ていた気がする。
間断なく自分を苛んでいたものの正体は分からず、ただそれらが周囲に今はないことだけ を確認して、漸く静かに眠りの世界を漂う。
無音、無臭、色彩も皆無の瞼の裏の世界。
縮こまっていた姿勢を直し、腕や脚を真っ直ぐに伸ばして……そしてふと異変に気づく。 何時もならば、狭い寝台にある自分の手足は伸びの途中で飛び出て、部屋の空気が突き出 た手足を弄るはずなのだ。
しかしまだ手足には、柔らかく重たい何かがかかっている。
拘束するでもなく、離れるでもなく、矛盾したことに重さもどこか軽みさえ帯びていて、 一体これはと眠りにぼやけた頭さえ彼を刺激する。
 感覚が、あっという間に現実に切り替わり。
目を開ける前に、加納寧は、うめいた。
「―――何も、運ばなくったって」
 羽毛布団の現実に、瞬く間に包まれる。
ここは、彼の現在の住まいではあるが、彼の部屋でも寝台でもない。
身動ぎをしたが、珍しく傍らに、本来ここで寝るべき碓氷博光の姿はなかった。
不自然な姿勢のまま考え込み、間違いなく昨晩は自室で眠ったことを思い出す。
帰宅がギリギリ真夜中になったので、シャワーだけをさっと浴びて、自室に素早く入ると そのまま眠ったのであったが……。
 傍らに置かなくても。どうせ今日は日曜だ。逃げやしないのに。
呟きを肺活量で押しこめて、まだ少し押し寄せてくる眠気と戦う。
もう明るい。目覚ましを視線だけで探すと、碓氷が眠っていただろう辺りの頭上に、鈍い 銀色の丸みがあった。
良く見えず、這いずるようにしてそちらに移動する。
鼻先を、ふと自分のものではない香りが掠めて、一瞬加納は動きを止めた。
身体を一瞬、別の空気が包む。自分を抱き上げて運んできた男の腕が、幻にしてはやけに 生々しさを伴って回されてくる。
慌てて首を横に振り、加納は目覚し時計を手に取った。
朝の9時半。
思ったより寝過ごしていることに気がついて、慌てて跳ね起きた後ろで更にドアが開き、 もう一度青年は寝台の上で大きく身を震わせた。
「おはよう。起きていたのかね」
「たった、今です……」
 ここにいて、何事もなく寝起きした記憶がない加納としては、碓氷をどんな形でも刺激 する真似は極力避けたい。
「今、起きます。朝の仕度、すぐやりますから……」
 少し弾みをつけて飛び出しかかって、その鼻が僅かに蠢く。
部屋のだるい空気を払拭するような、芳醇な香りがしている。
振り帰ってよくよく見れば、碓氷の手元にはカフェオレボウル並に大きなマグカップがあ った。
「淹れたばかりだが」
 少しずつマグから立ち上り、緩やかに部屋を覚醒に導こうとする香りを手に、彼は加 納のもとまで歩み寄ってきた。
「飲むかね」
 碓氷好みにその都度ローストされては挽かれた豆の味は、実は加納も嫌いではない。
両手を出してマグを受け取り、その後ゆっくりと頷いて、そっと唇を当てる。
当てた部分から伝わる熱。少し吸いこんだ空気の後に、口へひた寄せる黒い水。
三分の一ほどを時間をかけて飲む加納を、脇に静かに腰掛けた碓氷が見下ろしている。
小さく息をついて口元から離すと、手が伸びて受け取った。
「有難うござい……」
 最後まで続けることは出来ずに、加納は額を押さえた。
相手の手の中で、マグは緩やかに回転した。そしてそのまま、今しがた自分が口を
つけた場所に、相手のそれが重なる。
飲み下す、小さな音に、いや、それが意味するところに加納は朱の色に頬が染まるのをど う止めることも出来なかった。
また、黒い液体が三分の一ほどが残され。
「足りないか」
 再び手の中にそれがまた半回転して押しつけられ、加納は天を仰ぎたくなった。
つまり、もしかして、いや確かに、これを飲めと。
この位置で。
自分と同じ位置から飲んだ男の目の前で。
複雑な感情が胸に湧いてくる。
生理的な嫌悪を多分に含んだ抵抗感。しかし、それを言うなら自分は既に何度も、碓氷と 唇を重ね、舌を絡めてしまっている。
それどころではない。全身、見られてない場所がない程に……。
思い出すだけでも、身体が強張ってしまう。
せめて飲み口はひっくり返したい。これもしかし前例がないわけでない。
二人とも実験に集中して珈琲が切れたとき、一杯分を分けて飲んだことがある。その時は 気づかないで、碓氷の飲んだ位置に口をつけてしまい、間接よりはとしっかりキスをされ た挙句、アルバイトに遅刻しそうな目に遭わされた。
理不尽なほどに疼きを思い出させようとする記憶。
 今更、何だ。
これは、珈琲だ。飲んでしまうなら熱いうちが良い。
そう言い聞かせながらも、かなり悲愴な決意を加納が固めている、と知ってか知らずか、 碓氷はただ待っている。当然のように。
至極自然に、加納と触れ合うことは今やもう何の抵抗もない様子で。
内心は盛大な溜息をつきつつ、割りきってカフェインを体内に補給しようとした時、それ を取りあえず押し留める軽やかな機械音が、部屋に響いた。
「ん?」
 二人は、はて、といった表情で顔を見合わせた。
互いに―――とても寂しいことだが―――休日押しかけるような知り合いはいない、と目 が言っている。
この場合問題は、当人たちがそれを問題に思っていないことであるがそれはさておき。
もう一度、軽やかにチャイムは鳴り響く。
マグを持ったままの加納が立ちあがるより早く、碓氷が動いた。部屋の隅にある端末へと 歩み寄ると、受話器を持ち上げる。
「どなたです」
 日曜日の静謐さに相応しい短い問いかけに答えたのは。
「あ。ヤスちゃんいますか?」
 年中休日のリゾート地にでもいるような甲高い声。
しかしそれは加納にしてみれば、地の底からの呼び声に等しかった。
「……どなただね」
 碓氷の声が、僅かに温度を下げる。
一つの声が受話器の向こうと自分とに等分に向けられているのを聞きながら、この瞬間、 平穏無事な日曜日が自分の手から消え去ったことを加納は理解した。
こみ上げてくる何かに、奥歯を無意識に噛み締め。
マグカップをぐいっと勢い良く干し。
立ちあがるとそれを取りあえずベッドサイドの棚において碓氷まで歩み寄る。
ついで受話器を自分の師から奪い取ると。
「帰れっ」
 受話器の向こうに向かって単純明快な言葉でまともに応対する意思すらないと示す。
「あ。おはよーヤスちゃん。朝ご飯食べてる?今日ね、買い物―――」
「帰れ。何だろうと付き合う気はない」
 むー、という声を聞きつつ受話器を下ろす。
何だって寄りによって朝っぱらから来襲してくるのだろう来島瀬里が。
所長の嫌がらせか?と思いつつ、しかしそれは余りに相手らしくない。
考え込むまもなくまたチャイムが鳴る。
軽い音だろうと、何度も鳴らされれば迷惑この上ない。
瀬里が諦めて帰るような甘い性格でないのは知っている。
そも諦める前に真っ当な精神の持ち主なら日曜に押しかけなどしないだろう。
胃が引き攣れそうな気がするが、ともあれ撃退しないことには一日中鳴らされそうだ。
もう一度だけ受話器を取り上げ、
「いい加減にしないか。ここは教授の家だぞ」
碓氷の手が項にかかり、首を竦める。
今邪魔をされると、まずいのだと目で合図したが、耳元に一言小声で。
「お前の家でもあるのだぞ」
 機嫌を損ねた様子だと焦っている場合ではない。今は取りあえず外の子悪魔だ。
「……しん」
 急に小さな声だったので、思わず聞き返してしまった。
「え?」
「写真についてお話しようと思ったのに、ヤスちゃん冷たいのね」
 今度こそ。胃が縮まる。
 『写真』。
「じゃ、あたしこれで行くね……」
 まさか、あの、とんでもない『写真』のことだったら?
友人に見せられた風呂場の隠し撮りが喉を詰まらせる。
あれを瀬里に、そして所長に見られていたら?
「ちょ、ちょっと待て!」
 瀬里の声が聞こえたのか固まった教授を突き放すようにして、加納は玄関に走った。
ともかく確かめなくてはならない。
玄関のロックを解除するのももどかしく、ドアを開けてすぐ。
言葉通り帰る積りだったとは到底思えない、ワンピース姿の瀬里が立っていた。
半ば騙された気分にはなったが、ともあれ話をしてみるしかない。
「写真って、瀬里」
それでも声を荒らげない様に加納は最大限の努力をした。
彼の望んでいた形ではない、返事が得られた。
「ヤスちゃんっっ」
 細腕が、見た目からは予想もつかない力で絡んでくる。
「会いたかったわっっ」
引き剥がそうとした途端、胸に顔をこすり付けられた。
「離れろ、こらっ」
「いやっっ」
 ぐいぐいと押せば押すほど、食いこむほど締め付けてくる腕。
漸く引き剥がして荒い息をついたとき。
「……玄関先ではお静かに願いたいが、二人とも」
 冷たい声が背を這う様に聞こえて、加納は心の底から溜息をついた。
ひょこ、と瀬里の頭が上がり、加納の肩に引っ付く様にして、まじまじと碓氷を見る。
黒めがちの瞳が、まじまじと相手を見て。
「初めまして、碓氷のおじさま」
 するり、と腕が解けた。
7cmサンダルの割には優雅な身のこなしで降り立った瀬里は、きちんと姿勢を正すと、 碓氷に涼しい顔をして会釈した。
改めてその姿を見て、加納はおやっ、と思った。
今日の服装は、いつものスリップドレスとは違ってかなり瀬里にしては清楚だ。
髪を纏めた造花のコスモスはなんだか幼い程だが、ノースリーブのワンピースの丈は比較 的大人しいし、派手なほどの化粧もしていない。
誰なのだと視線で問いかける碓氷。困惑気味に加納は口を開き、
「所長のお嬢さんです」
最悪の出くわさせかただとは思いつつも、一応瀬里を相手に紹介した。
僅かに互いの眉が顰められるのを見、しかしその程度なら問題は少ないかと思いきや。
「ふーん、おじさまなのね、あたしのライバル」
 意味不明の言葉に、加納は何度も瞬きし、教授は穴があくのではないかと思うほど、瀬 里を凝視した。
加納の口が開いたのが先だったが、声は碓氷の方が早かった。
「―――どうやら、上がっていただいたほうが良さそうだな」
「え」
「そうさせて頂けると、嬉しいんですけれど」
「え?」
 冷たい微笑が、男女二人の口元に浮いている。
自分だけ理解し損ねたまま、加納は二人の視線に押されるようにリビングに向かった。


 カフェオレのノンシュガーを瀬里に用意してやってから、加納は教授の向かいに腰を下 ろした。
珈琲だとこれ一辺倒だと知っているので、あえて何が良いかと問う必要がない。
教授がちらり、と向けた視線は何となし痛かったのだが、取りあえず自分たちにはブラッ クでデミタスに一杯ずつ用意する。
「それで、……何の用なんだ、瀬里」
 優雅にカップが持ち上がり、静かに一口カフェオレを啜って、瀬里は笑みを見せた。
「ヤスちゃんのカフェオレって久しぶり〜」
「久しぶりじゃなくって、だから休日に何をしに来たんだよ」
 もう一口飲んだ後、カップを保持したまま少女は涼しい顔で答えた。
「女の子が休日にわざわざ尋ねてくる理由なんて、一つしかないじゃなぁい?」
 こめかみの筋肉が引きつるのを何とか宥め、加納は膝の上で両手を組んだ。
「荷物持ちなら、声かければ幾らでもいるだろう。それより―――」
「それよりヤスちゃん、今日はここで碓氷のおじさまとどう過ごすつもりだったの?」
 逆に問い返されて、加納は言葉を失う。
どう過ごす、と言われても。ブランチを作って、簡単な掃除をして勉強して、静かに一日 終える事になるのだが。
押し黙った加納を、『ほら、ご覧なさい』とでも言いたげに見てから、瀬里は碓氷に視線 を転じた。
鋼のような硬質な眼差しに怯みもせず、再びとんでもない事を言い放つ。
「ですからあたし、おじさまとヤスちゃんの間を邪魔しに来たんです」
「……成る程」
「ちょ、ちょっと待て瀬里、間ってどういう……」
 再び二人の、『何を今更』という視線に射すくめられ、加納はまた黙らせられる。
元々、彼は所長と教授の板ばさみになっていたのだし、それを知らない瀬里ではない。
だがそれを、堂々と相手に言ってのけるとは。
こちらもカップを持ち上げて、啜る前に碓氷は言葉を返した。
「だがお嬢さん、私は君のお父上の元に彼を置くのは反対だ」
綺麗な彩色が施されたカップを受け皿に戻し、自分の娘とも言えそうな年齢の少女にきつ い視線を向ける。
「寧は私の元で医者になるのだし、君のお父上には立派な跡取もいると伺っている」
「この際、パパは関係がないの」
 加納を前にしながら、加納本人の理解の外の会話が続く。
「あたしが決めてきているの。ずっとヤスちゃん一筋で来たんですもの」
 誰が一筋だ、誰が。
付き合ってでもいるように言われて、加納は今度こそ真っ当に反論しようとした。
「この春から、寧の口から君の名前など伺った事がないがね」
 今頃になって碓氷が、自分を『加納君』ではなく『寧』と呼んでいることに気づいて、 口元を抑える。
どうであれ、他人の前では建前だけでも教授と学生の間柄を通してきた碓氷が、この所、 自分に対する垣根がないような態度を取ることがある。
同居したことを明らかにして以来、当然のように加納の雑務は増えた。別段、それだけで 不平を鳴らしたりはしない。
双方とも破滅すれすれにいるのだと碓氷だって知っている筈なのに、地位や名声を一瞬で 失えるだけのスキャンダルだと理解している男がわざとバランスを崩す。
 自分は……従うしかない。
今出てしまえば、手元に置いてまで心配してくれた恩師を裏切った、と言われるのは自分 だからだ。
また、乗り換えに首肯するような教授はいない。
敵愾心から引き取ったとしても、すぐに捨て置かれてしまうことは目に見えている。
所詮碓氷の掌の上なのだと分かっているから、抵抗はしない。
それでも膝の上に下りた手が、緩く握りこぶしを作る。
 どうしたって、分からない。
誰にしたって、自分に執着を示す理由が、見えてこない。
「ヤスちゃんは奥ゆかしいもの」
ふむ、と納得したような声を漏らす碓氷は、またもちらりと加納に視線を投げる。
すぐさま顔を瀬里に振り向けて、
「遠慮が過ぎることはあると思うがな。ところでお嬢さん、『写真』とは?」
 少女は加納なら持ち歩かないような小さなバッグからハンカチを出して優雅に口元を拭 い、ついでそのまま数葉の写真を差し出してきた。
加納はすかさずその手からそれらを取り上げようとしたが手の甲を引っぱたかれ、その間 に伸びた碓氷の指が、再度伸びた加納を掠めるようにしてそれらを攫う。
「―――ふむ」
 そんな呟き一つで、加納の全身が強張り。
「良く撮れているが、こんなものをどうするのだね?」
 ぱらり、とテーブルに散ったのは、幸運なことにバストショットや全身のものばかりだ った。
それにしても数は多かったが。
授業を終えてか、教室らしき背景の写真。
別のには、フレッシュネスバーガーで板倉と食べている様子。
大学の掲示板を見上げていると思しき所。
ラボの建物の外で一休みする白衣姿。
何時撮られたのだろう。それに、何故こんなものを?と、首を傾げたくなる。
「大学で、ヤスちゃん人気だって知ってる?」
 無意識に手の甲を擦る加納に向けて、瀬里は答えを発した。
「うちの短大でも、『カレシ候補』の12位に入ったし」
「馬鹿らしい」
 即座に切り捨てた加納とは対照的に、
「高いのか低いのか良く分からないレベルだが」
 碓氷は冷静な指摘を向ける。
「名前が挙がっただけで十分ですー。それだけ注目されてるの。分かる、ヤスちゃん?」
 瀬里はさっさと写真を手元に戻そうとしたが、再び碓氷がさっさと掻き集めた。
黙って手を突き出したものの、碓氷は意に介さず。
「続けたまえ、お嬢さん。話したくて来たのだろう?」
 もう一度カフェオレで喉を湿して、瀬里は続けた。
「このままだと、ヤスちゃんは結構注目されちゃうわけ」
 不本意でしょ?と聞かれて頷くほかはない。
「だから、あたしとしてはヤスちゃんのためを思ってきたわけ」
「それと買い物とどういう関係が」
 問いなおそうとして、まさか、と呟く。
目の前にいるのは、どこをどう間違ってか名門短大のミスコン優勝者で。
勝ち誇ったような笑みが、加納に向けられる。
「そう。あたしと付き合っているなら、余計な虫はつかないわよねぇ?」
 ついで花は毒を含んだままもう一人の男に向けられ。
「悪いお話ではないと思いますけど、おじさま」
甘いと錯覚させるような蜜を織り交ぜて、相手を引き寄せにかかる。
「ヤスちゃんは、どうせまだ暫く、『お医者さん』を盾にして誰にも靡かないし」
 カッとなって立ちあがる加納に向けられる二人の興味深い眼差し。
「あたしも、今煩い人がいるから、出来たらヤスちゃんに盾になってほしいんです」
 瀬里の言葉に、院生の西山の、少し笑っているような顔が思い浮かぶ。
「ヤスちゃん、凄く堅いから。パパが、どれだけ今……」
「止めないか」
 手を、振り上げる。見つめ返してくる眼差しは、真っ当な男なら震い付きたくなるほど 真っ直ぐで。
「そう。あたしに意見できるのは、ヤスちゃんだけ」
 聞かないけど、と笑う。
小さな手が、伸びて自分が抓った手を撫でて、下ろさせる。
「ヤスちゃんはあたしのこと何とも思ってないけど。あたしは違うから」
 嘘つけ、と唇だけで呟き、加納はまたソファーに腰をおろす。
どうせ、誰に触れようと関係ない。触れた所で一時的なものでしかないのだ。
それ以上にはなれない。なっては、いけない。
繰り返し言い聞かせる。


  携帯の留守電に入っていた、男の声。
  『お前のところの助教授、来月帰ってくるってな』
  聞きたくなかった、粗野で強かな声。機械ごしだろうと忘れやしない。
  『その辺りで一度会おうや。怪しまれない用意もしてある』
  こみ上げてくる何かを外に出すまいと、唇を噛む。
  『これから宜しくな、坊や』
  薄くなった血が、ゆっくりと唇に鉄分を行き渡らせる。
  すぐさま消した音声は、しかし加納の胸に消せない残響を残した。


 夕刻。
くたくたに疲れた身体を、仮初の自宅へと運ぶ。
帰宅時間は殊更に告げなかったのに、ドアは辿りつくと同時に開いた。
「お帰り」
 涼しげに答える男を、睨みつける。
あれやこれやと要求する少女に引きまわされ、それでもこの『家』にと買って帰ってきた 食料品の袋は、押しつける前に相手の腕に取り上げられてしまった。
僅かな腹立ちの解消もできぬまま、洗面台に向かう。
 電気をつけぬまま盛大に湯水を出し、たっぷりと石鹸を泡立てながらぼやく。
「どうしてあんな、売り渡すような―――」
その言葉を感知したように明かりが灯り、一瞬目を閉じた時に再び背後に男が立って。
「―――お前は誰にだろうと買われはしないだろう?」
 手を洗う邪魔にならないようにか、首筋に手が這わされる。
「考えれば」
 ゆっくりと撫で上げ、撫で下ろす手に、喉からどれほど疲れていても隠せないうめきが 漏れた。
鏡の向こうで、碓氷が笑みを浮かべる。
自分が睨みつけるそれは、虚像に過ぎない。
「お前はもう少し、同年代の友人と遊んでいてもおかしくはない。余り私にこき使われて も、嬉しくはなかろう」
 今更何を、と言う前に手の触れる面積は更に増して。
どこか思わしげな顔が、青年の肩口に凭せ掛けられ、ゆっくりと埋まった。
喉もとを撫でた手は胸の前に回り、柔らかく包むように、彼を縛る。
布ごしに吐息が当てられ、温もりを与えた後、初秋の大気と汗と喧騒に彩りをつけられた 若い身体の匂いをそっと吸いこむ。
 水道の流れる音に伸ばした手が、途中で止まる。
鎖骨に当たる、固い感触。
布ごしに痛みが起き、すぐに濡らされて、軽く摘まれる。直に触れているわけではないの に、唇のまさぐる様子がありありと分かった。
足の裏から背筋に向けて駆けあがる、痺れ。
水音に意識を集中して動こうと試みる瞬間、そこに男の吐息が混じっているのを聞き分け た耳が、桜貝のように赤く染まる。
「……水……」
 そう漏らすと、自分のではない腕が伸びて、蛇口を閉めなおした。
「あの、まだ嗽してませんし……っ」
 止めた手が、前に回ると加納のジーンズを押さえて、ゆっくりと揉みあげる。
「先に、風呂に入ろうか」
 喉もとに唇と共に絡みつく言葉。
横に振って逃れようとしても、何回か吸われただけで慣れた身体が反応してしまう。
ほんの少しの力が加わっただけで、凭れかかるのは相手ではなく自分へと変わる。
支える腕の力が強まり、前に動こうとすると、今度は別の音が加納を硬直させた。
ジーンズのジッパーの下げられる音。
「や、後で入りますっ」
 虚像の目に、射すくめられる。実体は手の動きを止めず、すかさず中に入りこんで、直 に指を絡めてきた。
「どうせ、汗を掻くのだし」
 そのまま、一気に引きずり出す。
「あ!……ぁぁっ!」
 洗面台の冷たさが、一番敏感な部分に触れ、すぐにそれを引き離した指が揉みしだくの が鏡にはっきりと映った。
目を逸らそうとしても、もう一方の手が顎に伸びて、まだ首筋を弄る碓氷の頭と挟むよう にして視線を固定する。
間断なく押し寄せる、痺れは下半身を周り、ゆったりと螺旋を描くような動きが加わって 脳髄に何度も大波を打つように快感を与えつづける。
まだ前しか探られていないのに、腰が砕けそうになる。
洗面台に指を食い込ませるようにして、加納は耐えた。
虚像が、少し下を見遣ってそれに気づく。
「こんな真似をせずとも」
 ぎゅ、と抓まれ、喉の奥から隠しようのない声が、露にされた己からは蜜が溢れる。
「ぁぁ……ぅっん」
 そこから離れた手に呼吸を整えるまもなく、濡れた指先が強張った加納の手に触れた。
一つずつ、滑った感触のまま指を外しにかかる。
「止め、やめ……て……」
 逃げようと腰を引くと、紛れもない相手の欲望がジーンズ越しに自分の双丘に当たる。
息を呑む間に、小指が、薬指が冷たい現実から外された。
今度は親指が。
残る二本は爪まで立てて堪える。
外された指先の湿りが、留めようのない欲望を教える。
身を捩った際に先端が再びオフホワイトの冷たさに当たった。
跳ねあがった際に、糸を引く。
鈍い灯りにさえはっきりと分かる証に、一際大きいうねりが加納を襲う。
「ひ……」
限界寸前まで押し上げられ、悲鳴を放ちきる前に喉奥まで押し戻すのと、残った二本の指 に、碓氷が指を絡めて引くのとが一緒だった。
 僅かな、落下。
それがそのまま、理性の崩落を招く。
「ひぃぁぁぁっっっ……」
 どれが良かったのだろう。
洗面台の冷たさか、ジッパーの金具の痛さか、握られた手か、それとも。
完全に叫びきる前に声を飲みこんでくれた、碓氷の唇か。
滑る舌が、絡みついてくる。
 洗面台に、まるで歯磨き粉を零したような痕跡が散っている。
呼吸困難寸前まで陥りながら、加納は虚像から身を反転させて、碓氷本人に向き直った。
左腕は相手の頭を抱え、右手は蛇のように相手の胴を滑り落ちて、ベルトに辿りつくと金 具を外しにかかった。
「……んんっ……」
 鼻にかかった声を殺しながら、布地を押し上げている碓氷を何度も揉む。
ジッパーを下ろし、一度手を離してずり下げるようにしながら差し入れた。腰を撫でつつ 尚も口付けを繰り返す。
「やす……し、寧っ……」
 相手の前が開放された所で自分に手を戻し、一度中にしまいなおしてからゆっくりとジ ーンズを脱いだ。
汗で濡れた下着は、少し時間がかかり、それに気づいた碓氷の手が手伝おうとする。
「……まだ、でしょ……」
瞳の潤みも、身体の疼きも、もう隠しようがない。
自分をこんな風にしてしまう男に、せめて焦らすことで仕返しを図る。
熱い相手に指を絡めて締めあげ、上下に揺すぶるうち、再び前が震えながら勢いを取り戻 そうとしているのを感じた。
いや、最早前だけでなく、双丘の奥さえも。
ひくついている―――。
うっすらと目を開けると、数メートル先に浴室のドアがある。
まだ、あそこではしていない。
「一緒に、シャワー浴びないと……」
 掠れかかった声で囁くと、与えられた刺激に揺らぐ碓氷の腕に、力強さが戻った。
互いに上下を脱ぎ、脱衣籠に押しこめるのももどかしく、浴室にもつれ合うように入る。
盛大にノズルを捻った。
湯と水とを丁度良く織り交ぜた滝が、容赦なく二人に打ちつける。
濛々と立ちこめる湯気に、互いの姿がぼやけ、ただ触感だけが確かなものへと変わってゆ く。握り合う手、抱き合う裸の胸だけが、曖昧な熱を確かない気負いまで押し上げる。
淡い色合いの胸に、噛みつく。
「……っ」
何度かそうされたことがあるように舐めると、男の指が双丘に食いこんだ。
首をもたげて、良くは見えない相手の顎に口を寄せる。
「夕飯、用意できなくなりますよ」
 ここで受け入れたら、二人とも理性なんか飛ぶ。熱を冷まして元に戻るまでに、疲れ果 てて動けなくなるまでに重なり合ってしまう。
洗面台に最後まで残そうとした指先のように、残った常識で囁く。
「この飢えさえ満たせれば、構わん……」
 低く、シャワーの湯より滾った声が、最後の足掻きを押し流した。
加納はするりと碓氷から離れ、
「寧―――?」
両腕を浴室のタイルに突いた。そのまま上体を屈め、腰をせり上げるようにしてから、ち らり、と背後に眼をやる。
出まわっているだろうどんな写真よりも、それは扇情的な眺めであった。
「博光さん、……して」
 一瞬、洗面台の時よりは大きな水の音だけが浴室内に響いていた。
拍子抜けする瞬間に、背後から、火柱が突きかかって来る。
「あぁっ!ぁぁあっぁっ!!」
 入り口をこじ開け、何度かぐりぐりと回して広げ、後は知っている柔らかさに碓氷が入 って来た。
「はぁぁ……んっ、くっ、……」
 相手が相当に濡れていたようだ。指を使っていないのに、それほど痛まない。
自分も蕩けていたことは確かだが、これほどに熱かったろうかと加納は思った。
何時もより倍の性急さで、何度も突き上げられる。奥の一点に当たるたび、喉から嬌声を 零し、自分からも腰を動かして碓氷を包み、揺すって愛撫を続ける。
「ぁふっ、ぁ、つぁっぁっぁっ……」
前からは水の流れよりゆったりした液体を流し、後ろは同様の滑りに解されて青年はこの 時だけ、脅威も使命感も、痛みも何もかも手放して解放される。
「もっと……もっと!」
 このまま、死んでしまえたらそれは幸福なのだろうか、不幸なのだろうか。
不意にそんな考えが浮かんだのもほんの束の間、意識は目を閉じても焼き尽くされそうな 光の只中に置かれている。
碓氷が自分の中で反り帰る。
タイルからも、もう冷たさを受け取ることさえ出来ない。
「寧、私、は……」
 切羽詰った男の声に、息を吸うと、下腹に力をこめた。
中の形を感じ取れるほど、きつくきつく締め上げる。
 男の手が、ぎゅっと自分の胴を握り締めたのが最後の刺激になって。
「ぁ、ぁ、ぁぁあああああっ―――!」
「くっ……!!!」
 二人分の熱が、虚しく水流に流される。
幾分かは自分の中にあるそれも、やがては洗い流すしかない事を知りながら、背にぴった りと寄りそう男の胸板さえ今は逃したくなくて、首を捻って口付ける。
 不思議と、びちゃびちゃと濁った音は、シャワーよりも大きく聞こえた。


 何時間か、狂おしいほどの触れ合いを終えて。
 気がつくと、また碓氷の寝台に寝かされていた。
身じまいも全て碓氷の手でなされたのか、下ろしたパジャマに温かく包まれて、脇に眠る 男は、先ほどの熱が嘘のような、静かな寝息を立てている。
自室に戻って休もうかと思ったが、規則正しい音を聞いているうちに、再び眠気が押し寄 せて来た。
 離れるべきだ。本当は今すぐ離れるべきだ。
そう囁く声が、自分のものではないように耳を塞ぐ。
穏やかな横顔が見える。自分に触れる事で、ひとときは満足を得られたのだろうか。
それならせめて今は、甘えた振りをして休んでいよう。相手の機嫌を直すために。
詭弁だ、と意識の隅で声が沸き起こったが、そのまま身を丸めるようにして、加納は眠り に身を委ねた。
程なく目を覚ました男に目覚ましを止められて、慌てる翌朝が待っているとも知らずに。


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