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秋は、僕たちを奇妙に急がせる。 発表、学会、抜き打ちの試験、様々の催しに文化祭、親睦のためと称して行なわれる行事 は数知れない。 その全てに関わろうとする者、投げ出す者、うまく掻い潜ったつもりで捕まる者、様々の 姿は何かの形で留められ、大概は写真となってアルバムに貼られる事になる。 この秋から、僕の身に、或いは周囲に起きた様々のことも、その半分は、数葉の写真や、 覚え書きとなってスクラップブックの片隅を占めるだろう。 ―――ただ、記録には留められないものも、数多く起きる。 どうでも良い事でもあったり、語ってはいけない事情もあり、また、語るよりも胸の内で 風化するまで待ちつづけなければならない思い出もある。 そちらの方が、形ある思い出より大事だと言う人間も少なくはない。 僕たちは何故、自分のアルバムを持つのだろう。 途中で止めてしまったり、見るのも嫌で捨て去ってしまう人さえいるというのに、何故に その時まで、或いは死してからも記憶の一部を留めておこうとするのだろう。 過去が輝かしい、そう感じるのは大概、現実が楽観できないからでしかない。 今を生きることに、過去の素晴らしさがどう役に立つ? 頭脳や技量ではなく、感傷の賜物は足枷としか思えない。 それでも理由が分からぬまま、僕たちは思い出を切り刻みつづける。 儚くなる明日を恐れるかのように。 血を流せば、生きている証であると信じつづけているかのように。 徐々に深まる秋、まず一葉の写真が、事の始まりとなった。 それが貼られていたのに気づかなければ、良かったのだろうか。 未だに確信が持てない。悔いる心と、事実を知ればいずれは起きた事だという認識、その どちらもが正しいために、僕は割り切れないでいる。 何かを少しでも遅らせられれば、事態が好転する、そんなことは奇跡に近い。 知っていたとしてもその時点で対策を講じられたわけでもない。 僕は総じて冷たい人間だと思う。 ただ、誤解しないで欲しい。全く、哀れむ心まで捨て去ったわけではないのだ。 ちら、と見えた教授の手は、躊躇いがちに赤い表紙を捲っていた。 トランクルームに入れっぱなしになっていた亡妻の形見を片付けると言う彼に、僕は何の 言葉もかけられなかった。 配送のダンボールが届いて、数時間。 本当なら出てゆきたかった。 思い出を取捨選択するのは、孤独な作業だ。ましてそれが死者とのものなら、僕は手出し など考えたくもない。 それでも、何も手伝わないわけにはゆかない。せめてもと食事の支度をし、何時でも作業 を中断して休めるように、寝室だけ整えた。 死に別れる辛さは、その人間にしか分からない。誰かを喪う悲しみは、その都度別の痛み を伴って押し寄せてくる。 事実が重ければ重いほど、後からかける言葉は空しく、意味がない。 若く美しかった妻を数ヶ月で、生まれてくるはずの子供ごと奪われて、不惑を超えて漸く 幸せを描いた教授は、悲嘆の日々を過ごしていた。 今、手元に僕があることで、どの程度の慰めになっているかは分からない。 補いきれるわけがない事だけは、僕にも分かっていた。 だから、僕は廊下をそっと過ぎて、自室に入ろうとしたのだが。 「……寧」 小さい声だったが、教授は僕を呼びとめた。 聞き落とした振りをして自室に入る理由は取り立ててない。 「はい」 僕は同じくらいの声で返事し、そのままリビングに足を踏み入れた。 ダンボール箱の陰に座っている教授は、何時もの鋭さをやはり翳らせて、膝上に開いた赤 いアルバムを両手で押さえている。 「……済まないが。ここに来てくれないか」 求めに応じて、彼の足元に腰をおろす。見上げれば、歪みを伴った微笑。 「幾つかは、どうやら彼女個人のものだったらしくてな」 問い掛けたわけでもないのに言葉を向けられる。 いや、僕に話す形を取ることで、教授は思い出のもたらす痛みを分散させたいのだ。 黙って、僕は静かに教授に顔だけを向けた。視線は、少しぼやかし、伏せておく。 別段、聞き手は誰でも良いのだから。 「こうした場合、どうしたものだろうな。彼女の墓に収めるのか、実家に改めて引き取っ ていただくものなのか。私には分からなくてな」 捨て去るには、思い出の塊は教授にも重いのだろう。 手が動いて、肩を引き寄せられる。 僕は、大型犬がその主に寄り添うように、教授の膝に凭れ掛かった。 自然に、顔がアルバムに引き寄せられる。 分厚いシートは、夢の有る少女らしい写真で埋められていた。 どうやら女子校らしい綺麗なセーラー服。ふんわりとまとまった髪の毛。大きな瞳。 どこの少女漫画のモデルになってもおかしくない可憐さが、碓氷杏華と呼ばれた女性には あった。 好みかどうかはともかく、この女性を妻として失った男は辛かっただろう。 着物姿の写真も若干ある。良くは分からないが地味な色合いのものは悪くなかった。 劇場らしい場所で友達数名と映っている立ち姿も有る。 ぱたり、と厚紙が一枚捲られた。視線が自然と次の写真に移動する。 そこで、 「あれっ」 僕は思わず小さく声をこぼしてしまった。 「どうしたね」 僕は一度唇を閉じてから、横に首を振った。 「いえ、何でも……」 だが顎の下に指が差し入れられ、救い上げるようにして教授に至近距離で覗きこまれる。 このまま、黙っていれば何としても問いただされそうな緊張感。 不本意な結果さえ招きそうな圧迫感に、僕は首を逸らそうとしたが許されなかった。 「どの写真だ」 関心を示すわけがない僕が、思いがけない反応を示したことに教授はかなり強い好奇心 を持ってしまったようだ。 仕方なしに、僕はその写真を指差す。 楽屋裏なのか、背景は殺風景だ。 数名の少女たち。可愛らしく装ったそれをカスミソウに例えれば、彼女は真紅の薔薇。 嫣然と笑って、少女の一人の肩に手を置いて笑っている女性は、僕の知己だった。 大葉祥代。 舞台女優として名を馳せながら、僅か3作を代表作として電撃の引退をした女性。 素晴らしいスタイルをくっきりと浮かばせつつ、彼女は思いがけない場所で、あの驕慢な までの微笑を僕たちに向けていた。 説明さえ終えれば、それだけで終わるはずの事だった。 教授が、この1枚の記憶に拘らなければ。 「―――いらして頂戴」 電話の向こうの声は、姿に違わぬ艶と魅力と反発とを放っていた。 それだけで溜息をつく男もいるだろうが、僕は別の意味で嘆息混じりになった。 「ですから、祥代さん」 「確かにあたくしの女優生命は短かったけれど」 不機嫌さを100%演出した声で、大葉祥代は僕を遮ってくる。 「だからと言ってファンの方全てを覚えているわけではなくてよ。台本ならば、一字一句 違わずに思い出せるけれど」 この言葉に嘘はない。 一度、ある席で父親である来島所長に試された義理の娘は、たった三作とは言え、台本の 何ページの何行目が誰の台詞であるかまで、悉く暗誦してのけたのだ。 自分の出てこない場面の、細かい服装や仕草まで付け足して。 「ですから、出来たら思い出していただきたくて」 「楽屋でお会いした人も、大勢いらしてよ。あたくし、殊更に気取ったことはなかったの ですからね」 今度は嘘でないとは思えなかった。一瞬の沈黙を気取られたのか、 「そう言うわけで。いらっしゃいな。その教授とご一緒に、写真を持って」 電話の向こうの笑みの角度まで思い浮かびそうな声が畳みかけてくる。 「あなた一度も、あたくしの家に来てくれないじゃないの、寧?」 何処の誰が、ひょいひょいお邪魔するような仲だと言うのだろう。 「披露宴の時は席は要らないと言い張るし、旅行だって付いてきてくれなかったわ」 身内ではないと何度言おうと、無駄な努力になってしまう。 「ですが僕は別に……」 嗚呼、と。ああでもアアでもなく嗚呼、と。 元女優は声を発した。 「弟にこんなに冷たくされるなんて。あなたをお父様が連れていらした時、あたくしが全 部、そう全部用意したのに。着るものから、部屋だって……」 未だに。未だにこの人は女優なのだ。 僕は胸の中で呪いたい気持ち混じりに、感嘆した。 舞台の台詞など、字面を見れば大袈裟なものだ。それで人に罵られれば大根、感涙を絞り 或いは笑わせれば名優、演じるものの全てが声、仕草にかかってくる。 声だけでも、彼女は立派に女優であることを証明できる。 「―――祥代さん」 降参の意志を、僕は彼女の名前に乗せて送り出した。 「写真はお持ちします。ですけど、流石に教授は―――」 「嫌よ。その方の旦那様なのでしょう?直接にお話したいわ」 それに、と声は言い差して黙る。 「……それに?」 暫く、くぐもった会話らしき音が聞こえたような、聞こえないような。 誰か傍にいるのだろうか。首を傾げるまでもなく受話器を覆っていた手が外された気配が して、 「あなたが一緒に暮らしている方なのでしょう?お礼を申し上げなくてはね」 これが舞台なら、見せ所。そう思うような決め台詞だった。 「勿論、姉として」 アドリブを付け加えることも忘れない。 「そうね、ちょうど来週の水曜日なら空いていてよ」 「あ、駄目です。その日は、教授はお身体が空かない」 ソファーに腰をおろしていた教授が何事かと言う顔をしてカレンダーを見、すぐに意味 に気づいたのか拍子抜けした様子だった。 「小方助教授が帰国するので、皆で迎えに行くことに……」 「助教授なんか知らないわ。あたくしがお会いするのは教授とあなたでしょう?寧」 電話の向こうはつけつけと言ってくる。 「来てくれなかったら、知らなくてよ。二度と、お写真の話など聞きませんからね。良く って?」 「あ、祥代さん……」 「待っていてよ、寧」 まるで生き別れが再会できるとでも言うような切なげな声を残して、電話は切れた。 困った……。 深い溜息をつきつつ、受話器を下ろすと。 「別に、迎えは総出でなくても構わないと思うがね」 何と、教授ご自身が、来週の予定を破棄しそうなことを言い出した。 「駄目ですよ、僕たちはまだ小方助教授にはお会いしてないんですから」 小方拓馬助教授。アメリカに留学していたため、帰国が遅れたが、どうにか月末に戻って ビザの手続きなどで1ヶ月滞在すると言う。 あと1年の留学を終えれば帰国する予定だったが、様々の事情から、半年もすれば大学に 呼び戻されるのではないかと噂も流れている。 教授は、確かに彼からすれば目上だ。迎えになど行く必要はないだろう。 しかし、僕はそう言うわけにもゆかない。 ゼミの人間が総出で―――ある意味実験の息抜きも兼ねて―――行くのに、僕が一人で、 またしても一人で群れを離れれば、一体なんと言われることだろうか。 「もう、悪目立ちは嫌ですよ」 ゼミ合宿以来、どうやら僕はちょっとした有名人になってしまった。 教授と同居していることも周囲に知れ、気を付けないと、足を引っ張られる可能性も出て きたと現在は用心している。 頭の痛い問題も出てきてはいて……ああ、本当にあの写真はどうしよう。 「ふむ」 と教授は考え込んで、程なく膝を打った。 「一人でならば確かに目立つだろうな」 さり気ない一言に、暫く僕も黙りこくって考えた。 「つまり、うまく巻きこめと?」 面白がっている様子で、教授は僕を手招きし、電話の置いてある場所から離れて、僕は 彼の隣に腰を下ろした。 「小方とは、元々西山の方が懇意にしている。面白くない人間は一人ではないが、この場 合、うまく隠蓑になってもらうことも出来なくはないだろうな」 手に、引き寄せられる。最近、こうして家ではくっつくように座ることも増えてきた。 自分以外の人間がこの場にいることを感じながら、紡ぐ思考は割合冷静で。 「……あと一人、カモフラージュでいれるのはどうでしょうか。騒々しくなりますが」 ちらり、と見上げると指先が頬骨の辺りを撫でて降りてゆく。一瞬の身震いを笑われ、 眉を顰めると宥めるように更に引き寄せられる。 「増えたことでとやかく言われても知らないぞ」 後少し傾けば、僕はバランスを崩しきって教授の腕の中。 そんな危うさで、この日々は続いている。 教授が思うのとは別の危険も含んだままに。 助教授が戻って来る辺りで、接触してくると言っていた男の声を思い出す。 一体、どういう形を選ぶのか。 僕はどこまで白を切れば良いのか。 心構えはしているつもりだが、どう接するべきかなど、相手の出方を知らなければ難しい ことこの上ない。 いっそ、見習うべきかもしれない。あの女優を。 彼女なら、どんな即興の相手だろうと渡り合えるだろう。 「そこは、平謝りしておきますよ、その時に」 観客が一人や二人増えた所で、彼女はそう不快には思わない。脚光を浴び、憧憬の対象 に未だなれる自分に快さを覚えこそすれ。 説明しなくても、教授は何となし僕の雰囲気から感じ取ったようだった。 「さて、女優に会うわけか。台本から考えておいた方が良いかね?」 僕は頷きをそのまま傾斜に変えて、教授の手に頭を預けた。 ゆっくりと、頭骨の形をなぞるような指の動きに目を伏せる。 以前は、こんな真似を誰かにする気は、全く起きなかった。 所長の元で受験に勤しんだ2年間でさえ、僕は誰かと馴れ合ったり、触れ合ったりするこ とと無縁に過ごしてきたのだ。 それが嫌だったわけではない。ただ、こうして過ごすのは決して悪くはないのだと、誰も 殊更に僕に教えようとはしなかった。 僕を兄弟だとうわべは言った、彼らにしてから。 過ぎてきた日々に、だから僕は期待しないのだ。 今は引き寄せてくれているこの手も、何時か僕を突き放すかもしれないのだから。 取りすがり、また無様な昔を繰り返す気は、それだけは僕にはなかった。 この時、既に僕たちの知らない場所で舞台は始まっていた。 一幕の小喜劇だと思っていたそのシナリオを書いたのは誰の手だったのか。 複数の手になる筈のそれは、知っていればいっそバッサリと捨てて、新しく書きなおした いような長い、陰惨さだけはたっぷりの代物だった。 どんな名優でさえ、全てを覚えることは叶わないようなステージの、幕が上がる。 You ain't seen nothing yet. |
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