アルバム


1


 目を覚ましたのは、夜明けよりたっぷり2時間半は前のことだった。
ここの所、実験続きで昼夜の感覚は薄れている。ラボもブラインドを閉めきり、しっかり と鍵をかけて出入りが厳しい。
警備員の詰め所に予定表と出入りする人数、名前、ある程度通知してはあるが、忘れ物を 取りに行く場合などは、彼らが後ろからついてくる。
終わったら速やかに建物の入り口まで送り出されてしまうほど、余計なものの持ちこみや 持ち出しがないように、細心の注意が払われている。
まあ、医学部や薬学部は学生がひょいと持ち出すのは困るものばかりだ。不心得ものがい ないという保証もない。それで良いのだと僕は思う。
夜間の実験場は、それでも賑やかだ。普段はそう付き合いがない筈の各ゼミの参加者が、 半徹の疲れを除こうと飲みに繰り出すこともある。
 僕の場合、それが今夕からのラボだ。メンバーは丁度僕をいれて3人。
余計な連中がいないから、色々とスムーズに進んでくれるだろう。
やらなければならない諸々のことを思いながら、廊下に出て、喉の渇きを覚えたのでキッ チンまで向かう。
リビングとキッチンが続き間になっている入口まで来ると、世界は薄青く染まっていた。
雨が降っていたのか、ブラインドごしに水滴がついた窓が見える。
そこを照らす青白い街灯。
 それを見た瞬間、ある光景が浮かびかかって僕は目を閉じた。
だが、伏せた瞼の裏側でさえ、残像と言うには余りに鮮明な光がかき乱す。
 覚えている、最初の夜の窓。
忘れよう筈もない。僕が今に続く道を選んだ夜を。
痛みしか覚えられなかった身体を抱えて見た、雨上がりの安ホテルの窓辺。
泣きようもなく、ただ長い道のりを歩き出した僕の代わりに濡れていた硝子。
僕はしかし、後悔のしようがなかった。
生きて行くために、医者となるために、悪夢のような現実を少しでも整然としたものに戻 すために。
 目の奥の痛みが去ると、僕の暮らす世界はもう少し夜明けへと近寄っていた。
近寄って開けた冷蔵庫の冷たさが、改めて部屋の空気も冷えつつあると教える。
手足は温度と、青よりは白さを増した光に強張っていた。
静脈の青さが、夜の名残に寒々しく肌に絡みついている。
一口だけペットボトルから水を飲んで、僕は自室へと戻ると冷えた上掛けを引っ被った。


 くすんだ金の指輪が光る指が、デスクの上で組まれた。
「私は、回収できない債権に興味はない。お前がそこへ進めれば使うだろう莫大な費用を 貸すには、幾つか条件がある」
 場所は打って変わって、採光を気遣われたオフィスは色彩と温度に満ちていた。
僕は黙って、それでも聞いている意志を示して昨日の『客』を見た。
「先ずは、何としても合格してみせることだ。それも1年半で」
 ほんの1ヶ月前にされたなら、僕はNoと答えたことだろう。
いや、それ以前に医学部なんか目指そうとはしなかった。思っても見なかった。
「調べたが、数学のレベルは決して高くないな。理数クラスでもない、文系のTOPでも ない身で、どうするつもりか。やる気だけを口にすれば合格するものでもないぞ」
 デスクの上にある僕の成績データを、指が押さえる。
 それは誰より、僕が一番良く知っていることだった。
今まで、本気になどなったことはない。そんなことがなくても、世の中は気楽な面を高校 生だった僕に見せていた。
掌を返されたのは仕方がない。僕は他の面を知らなかった。それだけだ。
「―――無駄にはしません。今はそれしか……」
 冷酷な目は、支配者のものだった。自分の王国を持つ男、目の前の男性の財布の紐を緩 めさせるために、僕は何をしたら良いのだろう。
「それもそうだろうな。では、こうしよう」
 赤いボールペンが、僕の偏差値を記したグラフの上で踊り、たっぷり10は上のライン を描いた。
「半年で、まずはここまで辿りついてもらおう。ここへ行ければ、僅かにせよ可能性はあ ると言える。その日までは、お前を取りあえず預かってやるとしよう」
 一年表示のカレンダー、6ヶ月先にきっちりと赤い丸が記された。
「到達しなければ、どうなるかはお前が一番分かっているはずだ」
 手が動いて、ドアを示した。
「別に、私としてはこのままお前が出て行くのでも構わん。ただし、一度始めたら後には 引かん。お前が仮に半年後に勝とうが、賭けは持ち越される」
 その更に一年後、僕が困難な状況を乗り越えて医学部受験に合格するまで。
 僕はその場に立っていた。怖かった。逃げ出したかった。
二度と僕を誰かの良いようにされたくはなかった。
しかし、目的を叶える間の契約なら、少なくとも僕が選んだ道といえる。
言えるんだ、僕は辛うじて震えを堪え、拳を握って感情の暴発を防いだ。
 手は、僕の反応を分かっていたかのようにデスクまで戻り、数枚の書類を引き出した。
「当面の勝負に入る前に、幾つかやってもらうことがある」
 手招かれた時、ドアが開いて。
「―――お父様」
 潤いのある声と、背の高さだけでなく印象的な若い女性が入ってきた。


 板倉隆介は、大学に入ってから、ずっと同じコンビニでアルバイトを続けている。
普通、コンビニは短期アルバイトが多いのでは、と僕は思っていた。
最初は板倉も、こんなに長く続くとは思っていなかったのだそうだ。
ただ、大学に近く、学生仲間とも顔を合わせやすい。数時間のアルバイトの間に、万引き 防止から自分の宿題まで、めまぐるしく過ぎる時間は楽しいのだと言っていた。
彼女もコンビニでゲットした、と言うのがゼミの内部での冗談になっている。
 学生番号が近かったこともあって、僕と板倉は授業で最初に隣り合わせに座ったことか ら自然と一般選択では同じ授業を選んだりしてカバーしあうことが増えていった。
医学部の授業は大概必修だ。例外は、医療技術だけの頭でっかちでは、と大学が定めた幾 つかの一般教養だけである。
正直、ゼミまで一緒になるとは思っていなかったが。
騒々しいが余計な事は何もない、お調子者で気が良い板倉は割合誰からも好かれている。
今回の件に巻き込むには打ってつけの相手だった。
実験に出かける15分前にコンビニにたどり着くように、僕は気をつけて歩いた。
そろそろコンビニの制服を脱いだ板倉が、裏口から出てくるはずだ。
さり気なく声をかけ、一緒に歩けばその道すがら話も出来るだろう。
と、角を曲がったところで。
「加納」
 背後から伸びてきた手が、僕の肩を掴んだ。
強張りを隠し切れないままに背後に顔を向ける。
「栗橋先輩」
 僕より2年上、5年の栗橋賢也。
彼が将来親戚から受け継ぐのではないか、と言われている地位からすれば、整形外科では なく外科を学ぶべきだ。しかし栗橋は碓氷ゼミにいる。
まあ、教授の専門が何であれ、この男ならさ来年の国家試験に合格すれば居場所は確率さ れるわけだが。
医学部のカリキュラムはまちまちで、公立と私立でも勿論、公立、私立同士でもその要求 するところは千差万別である。
1、2年次に実習は組み込まれているものの、それは僅かであり、僕や板倉のような3年 次に入ってからが、実習の本番となってくる。いわゆる解剖だの、病理学だの、一般人が 思い描く『医学生』の姿になってゆくわけだ。
この辺りで、脱落者や精神的に大きなダメージを受ける学生が増えはじめる。
人が物体としてしか見られなくなったり、逆に刃物を持つことに恐怖を抱いたりしてしま うのは、それまで『死体』と向きあわずに来た学生としては当然の反応だろう。
だから、他大学は僕も良くは知らないのだが、ゼミへの所属は3年次からとなっている。
同じ道を通ったばかりの先輩連中が、積極的にアドバイスやケアをすることが求められて いるわけだ。
 ゼミに入ってきた僕と板倉を、引きずりまわすような形でだが『面倒を見て』いるのが 栗橋だ。ゼミの半数ほどはこの男と『仲が良い』ことになっている。
「板倉待ちか?」
 と聞いてきたところからすると。
「はい、先輩も」
 今日のラボでのデータ収集は、僕たち3人だ。どうやら、一人で行く気は栗橋にもなか ったらしい。
多少、軌道修正が必要だな、と僕は割合冷静に考えた。
押し出しもそんなに悪くない栗橋とコンビニの裏手近くに立って待つのは非常に間抜けだ とは思ったが、今更先に行きますとはいえない。
「……飯は。食ったのか」
「いえ。まだです」
 教授には用意してある。近県であった他大学主催の学会が終わって戻って来る頃だ。
「だったら、後で話がある。奢るから付き合え」
「え」
 この男から、そんな言葉を聞くとは思わなかった僕は、多分口を半開きにしたまま固ま った。一体どういう魂胆だろう。
しかし問いただしたり、断りを口にする前に別の反応があった。
「えーっ!奢ってくれるんすかぁ、先輩!」
歓喜の声と共に栗橋に飛びついたのは、板倉だった。
渋い顔で栗橋がその頭を押さえにかかる。
「お前は期限切れ弁当があるんだろうが」
「うっうっうっ、今日なかったっす」
 頭の悪い大型犬、といった体で板倉は取りあえず栗橋から離れた。しかし僕は知ってい る。板倉が奢ってもらえる約束を忘れた事はない。
時間が後回しになる分には問題ないが、決して忘れない。
厄介な事に。
「何だその『うっうっうっ』てのは」
「泣いてみました」
 こういう場合、僕に出来ることは何もない。
「誰がお前に奢ると言ったんだ」
「でも俺、実験終わる頃には飢えてます」
 こと飯の事で纏わりつく板倉に、勝てる人間はまずいないだろう。
遠慮したのは教授の前でくらいだ。それだっていざ食い出したら凄いものだったが。
僕は逆に教授に小食ではと心配されてしまった。
閑話休題。
 歩き出しつつも、板倉と栗橋の攻防は続いた。
「俺は加納に話があるんだ、お前じゃない」
「今更水臭いっすよ、先輩」
「どこをどうしたらそういう言葉になるんだ、あぁ?とうとう脳も腐りだしたか?」
 色々と違う。何が一番違うかって、僕は何時あの話を持ち出すべきなのだろう。
まあ、栗橋の話とやらを聞かないと始まらない。
ふと、あの女優ならどう芝居の流れを自分に向かせるのだろうと思った。
「俺と加納は、明日小児科の共同レポートの相談で、一緒に食う約束してたんで」
 ……あ。忘れていた。
「加納。本当か」
 僕は頷いた。奢るとは言ってないが、忘れていたら板倉の腕はこっちに絡む。
引っ付くと、時折タコのように絡まれて悪目立ち請け合いだ。
暫く険悪な顔つきだった栗橋は、不承不承頷いた。
「分かった。ただし、お前は1皿だけな」
 板倉の底なしの食欲を知っていればそうも言いたくなる。
 ぃゃっふぅぅ、と、奇声を上げて再び板倉は栗橋に飛びついた。
「っそさんでーす!」
 食べる前から言っていれば、世話はない。
「重いしアブラ臭い!離れろ!あ、こら加納待て、待てったら!」
「二人とも、遅刻しますよ」
 警備員が顔見知りなら良いが、知らないと小言が煩い。
僕は顔だけを捻じ曲げて二人に一言だけ言った。
「おぃ、待てったら薄情者!」
「そうだよ、先輩に奢ってもらえなくなるぞ!」
足早に歩く僕に、慌てて二人は、まだどこか絡まった印象のまま追いかけてきた。
全く、出来の悪いコントだ。


 ラボでの時間は、集中すれば瞬く間に過ぎる。
連れだって再び西校門を潜ったのは夜の9時過ぎだった。
「で、何処っすか」
 店の場所を尋ねた板倉に、栗橋は、一度瀬里が連れて行けと騒いでいた店の名前を挙げ た。大学からはそう遠くない。
財布の中身も、まだ余裕がある。辛うじて、といったところではあるが、奢りなどと言わ れて板倉のようにはしゃげるほど、僕は能天気ではない。
明日の授業予定や、これからのレポートについての話を交わしつつ20分ほど歩けば、如何 にも女性が好みそうな雰囲気の良い店の佇まいが見えてきた。
栗橋は、既に何度か引っ掛けた相手を連れこんででもいるのだろう。勝手を知った様子で 店に入って行く。
板倉が戸惑ったのを、僕はそ知らぬ顔で背を押して進ませた。
服装で断られるような格式ではなかったから、僕たちは窓辺に近いテーブルに腰をおろし て、栗橋はハーフで一本ロゼを取った。
飢えているはずが気後れしたのか板倉はあれこれと騒がず、栗橋が適当に見繕うままに任 せて静かに座っていた。
僕は軽めのものをと思ったので、サラダ仕立ての魚料理を頼むことにした。
「―――遠慮するなよ」
 3人だけに戻ると、今更、といった体で栗橋は僕たちを交互に見た。
僕は首を横に振り、
「でも、こんな店だと俺、彼女にだって奮発できないっすよ」
 流石に小声で板倉が答える。
「加納は、慣れてんのかも知れないけど」
「そんなわけないだろ」
 招待を受けでもしない限り来られないし、来たくもない。
「……で、先輩の話って何です」
 料理が来るまでまだ間があるだろう、と思った僕は単刀直入に聞いた。
板倉まで混ぜて、こんな場所に来るなら下手に勘ぐらないのが一番だ。
栗橋の顔から、多少余裕らしきものが抜けて、下唇が横に引き結ばれる。
一体なんだろう。
「加納。お前、大葉祥代と知りあいだったな」
 低めに低めた声で、栗橋が言った名前を、板倉は知らなかったようだ。
「へ?誰っすか。誰?」
 ちら、とそちらに鋭い視線をくれて黙らせ、栗橋は再び僕に顔を戻した。
「とにかく、知り合いだな」
「はい」
 一緒にいて、名前を呼ばれる所を見られている。しかも、後日栗橋は問い詰めてきた。
僕は、冷静に関係だけを告げている。今更問いただして何の意味があるのだろう?
「―――ダンナの方はどうだ?」
「大葉条氏とは、まだ面識は」
 この名前には流石に、板倉も反応した。
「えっ、えっ。Jo・Ooba?」
 超高級ブランド、とまではゆかない。ただ、近年徐々にではあるが知られつつあるデザ イナーは割と若年齢層に人気がある。
ははあ。と思わなくもなかったが予断はいけない。
「何で加納がそんな人と知り合いなんだ?」
「正しくは、知り合いの旦那さん」
 ワインが運ばれて注がれる間だけ、僕たちの会話は途切れた。
少し甘かったが、不快になるほどでもない。銘柄とかは語るほど飲んでいないので、僕は 出されていたパンと共に、それを楽しんだ。
「会うチャンスは……あるか?」
 駄目だろうな、という予測を含んだ言葉を、裏切るのは楽しかった。
「ありますよ」
 至極あっさりと答えた僕に、栗橋は腰さえ浮かせかかり、板倉は口を半開きにした。
目なんか皿の代わりに出来そうなほど見開いている。
「ただし、すぐ会うには問題がありますが」
 二人が座りなおすまで、僕はゆったりと待ち構えた。
「―――どういうことだ?」
 漸く、僕のペースに持って行ける。
本当は板倉に話をしておいて、騒ぎ立てさせ、栗橋の興味をそそろうと思っていたが、こ うも簡単に向こうから気にしてくるとは思っても見なかった。
「招待されてるんですが、日にちがまずいんですよ」
 別に、彼女は他に誰も連れて来るなとは言わなかった。
だから一人二人なら増えた所で構うまい。
僕がゼミの関係者から選んだのは、実はまず、大葉祥代の名前を知っている栗橋だった。 ついで、カモフラージュの意味合いも入れて板倉。
騒ぎ立てはするが、その分皆は板倉に視線を送る。
僕らの背後に栗橋がいれば、この男のごり押しだと思うだけだ。
「小方助教授の帰国日と、重なっているんです」
 こう言えば、後は楽だった。
「じゃあ、駄目じゃん」
 と言う板倉と、ふと視線をテーブルに落とした栗橋の反応は違った。
「その日なら、会えるんだな?確実に」
 僕は頷いてやった。多分、夫婦で家にいることだろう。
どの程度の仲なのかはさっぱり分からないが、それも見れば片方は分かるかもしれない。
曖昧な話だが、何せ相手は女優とその夫なのだ。
「……何とか、行けるか?」
呟いた栗橋は、何事かを真剣なまなざしで考え始める。
乗ってきた。僕の掌で動くものなど殆どないが、ともあれ、この男が手駒になりそうだ。
まだ見ぬ助教授に内心詫びながら、僕はその先の週に待つ計画を思った。


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