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「―――加納君?」 問われて振り返る間に、フルネームで確認された。 渋谷の駅から歩いて数分の駐車場。大声で名前を連呼されて嬉しいものでもないが、まあ 気にする人間はそうもいない。 一緒にいる教授達は少々その人物の大声に怯んだようだったが。 仕立ての良い服を着ている、とだけ言うと相手はきっと『それだけ?』と問い返す種類の 人間だった。 僕は正直、洒落っけといったものを殆ど理解しない。 「はい、菅原さんですか?」 昨日電話した時に祥代さんの代わりに出たのとは違う相手だとは思ったが、一応尋ねる。 「あ、いやいやいや。私、大山」 三十がらみの男は靴だのレザーのコートだの光らせるようにして歩いてきた。 「ふーん、それなりだね」 これは極力小声にしたらしい。 何だか張りきっている教授―――そんなに楽しみだったんだろうか―――に昨晩からあれ これと着せ替えられ、僕は余り着ない暗赤系統のチェックのシャツ、ベージュのパンツと にダークブラウンの上着いう、似合うとは自身では思えない服装にさせられた。 何時ものシャツとジーンズで行くのはまずかったから、言うなりになるほかもなく。 大学の同級生と旅行中らしい瀬里がいれば下手すると更に何か買わされることは予想がつ いたから、まだましだ。 「奥さまに言われてね、お迎えにあがったって訳。宜しく」 ひやりとした手は好かなかったが、形は良かった。多分、大葉条の抱えるスタッフの一 人なのだろう。 「他のお客様も、どうぞ」 どこか女性的な物言いだが、多分その手の趣味ではない。スタイルだけ中性に気取って いるだけと見える大山について、教授の車の斜め3台先にある立派なセダンに乗りこむ。 余計な装備品はないが、座りごこち良く設えられたシートにどう収まるかで多少の逡巡は あったものの、結局教授は後ろの奥、僕と板倉がその横で、栗橋が前になった。 車は冷える間もなく、駐車場を滑り出る。少々もたついたが、運転はまともなほうだ。 しかし、教授の運転振りを知る僕たちからすると余り乗っていないのはすぐに知れた。 平日なのがせめてもだ。休日の混雑で渋谷界隈を走れば、きっと渋滞でもたついたろう。 「―――確か医学部の学生さんだっけ?病院とか行ってるの、研修で?」 「それは、まだです」 ポリクリと呼ばれる病院での実地の研修は、栗橋もまだ始めたばかりだ。 「へー、白衣とか似合いそうなのにね」 「白衣は、実験中着てますよ」 車に乗る時は気後れしていたのに乗ってからは板倉と栗橋が適度に会話を繋ぐ。 教授は挨拶のみで後は無言だった。目的以外の人物と、そう長々会話を交わす必要を覚え ないだろうと思っていたので、僕も水を向けなかった。 「……で、大山さん」 板倉はきょときょとして運転席近くまで身を乗り出す。 「何?」 「何処行くんですか、結局?」 返事は助手席から指と共に板倉の額を弾いた。 「お前、聞いてなかったのかよ。松濤だよ」 板倉は咄嗟に額をおさえ、そして固まった。 その口が大きく開いて「しょうとぅ〜〜〜〜〜〜〜っ?!」などと叫ぶ前に、僕は片手で 口元を押さえて黙らせた。 もごもごと掌に羊の咀嚼のような感触が当たる。 白黒させた目は、何度か僕を見て瞬き、ギブアップの印に自分の手で膝を叩いた。 おかしそうに大山は笑う。 「でも、自慢の弟さんって言うから。もっと立派な体格の子だと思ってたんだけど。意外 に細いんだね」 三人までは視線が当たるのも分かるんだが。どうして、運転している大山がこっちを向 くんだろう……というより! 「大山さん、壁、壁、右にハンドル!」 「あ?あぁぁぁっ!」 無事、辿りつくまでに4人が不安を覚えたことは言うまでもない。 それでも取りあえず怪我はしないで、僕たちを乗せた車は静かで豪奢な佇まいの邸宅が 多い一角にやってくることができた。 坂の途中辺り、白々と壁を光らせ、広い敷地に地味さや派手さを織り交ぜつつ豪壮な住ま いが立ち並ぶ。その内の一つ、多少地味な側と言える一角で、大山はオートロックのゲー トにリモコンのスイッチを向けた。板倉の声が門の軋む音に重なる。 「すげー」 そんなものを見慣れている栗橋は苦笑いし、教授は相変わらずの無表情。大山は、『楽 っちゃ楽よね』と肩を竦め、車を駐車場まで乗り入れた。 降り立つと、大山は右手を指差し、「あっちが居住スペースだから」と言う。 「私はこれから」 と逆を指差し、仕事なのだと言う。 入り口二つで出口は一つ、と板倉が妙なことを言っていたが、全員無視した。 僕はちらりと教授を見た。アルバムから抜いた写真を入れてある鞄を、長い指が握り締め ている。緊張の強さが分かる程度に、白く強張っている。 まるでそれが僕にも移ったように、何も言えなかった。 思い出の一つに、決着をつけようとする教授。 少なくとも、向き合えるだけの勇気を持てる彼が、多少羨ましかった。 僕はまだ、西風の生存さえ信じられずにいる。 その時ふと、教授が大山の方を向いた。 「菅原という人は、いつもあんな機械的な声を?」 奇妙な質問だったが、教授は自身の緊張を和らげたかったのだろう。 「機械的……ねぇ?」 確かに、ざらついた音で喋っていたな、と思い返した。 妙に印象が深くて、大葉祥代に直通のはずの電話に男が出たことに、酷く驚きを覚えた。 明日渋谷に着く時間を言っただけなのだが、その声質の割に何となし気になる話し相手だ とは思っていた。教授も同じだったらしい。 大山は相当の違和感を覚えたらしく、きついしかめっ面だった。 「私はあんまり話さないんだけど、奥さまが急な休みだって怒ってらしたから、風邪でも 引いたんじゃないの?それじゃ、ごゆっくり」 もうそれ以上僕たちに興味はないのか、大山は自分の方角へ歩いて行く。 見送っていると、 「おい、加納。案内しろよ、ともかく」 栗橋の乱暴な声に、僕は浮かびかかった何かを消し去られた。 「僕も初めてなんですよ、先輩」 門前払いを食う心配はなかったから、僕たちは反対側へと歩いていった。 広い正面玄関でインターフォンを鳴らし、出てきた、お手伝いと言うには若い女性に名乗 ると、客用と思しい居間に案内された。 暖かそうな淡いオレンジとクリームの色合いで構成されたそこで腰掛けて相手を待つ。 ここまでやってきて、また違う人物と先に出くわすとは思わなかった。 「―――祥代に客だと?」 所長以外に彼女を呼び捨てにするからには、扉を開けて入って来た男こそが大葉条なの だろう。 豊かに蓄えられた口もとの髭、癇症とさえ見える眉の蠢き、顔立ちもまあまあで、年齢は 教授とほぼ同じ年頃。 これで、人より背が低くなければ、それなりに見られただろう。 蚤の夫婦、と笑われるのが、業界屈指のデザイナーと元屈指の舞台女優の唯一の欠点だと 言われている。 僕たちは立ちあがり、如才ない挨拶など苦手だが僕は挨拶をしようとした。 「初めまして、僕は―――」 小男は、つかつかと僕に近寄ってくると言った。 「モデルなら先日決まったよ。他所を当たるんだね」 「……は?」 何のことだ、モデルって。きょときょとしているうちに、軽やかな笑い声が聞こえた。 「あなた、あなたったら。本当にせっかちな方ね」 優雅な足取り。ロングのタイトスカートで隠すようにして際立たせる脚線の美しさ。 細めに開いた戸口からするりと入って来た身のこなしはウエストの細さを際立たせ、伸ば された腕には細い金のブレスレット。 襞を描いた丸い襟はしかし胸元近くまで開いていて、僅かなはしたなさを見せる。 白鳥のような長い首の上に、楕円系の顔。大きさは割と普通だ。 舞台女優としてはぎりぎりの小ささ、なのかも知れない。 今日は小豆色だが、何色が塗られていようと綺麗な唇、細く高い鼻梁、そして大きさだけ でも人を惹きつける、黒い目。 長い髪は今日は緩く一つに編んである。唇と同じ色の革のバンドで留めてあった。 全員が見とれるまに彼女はまず夫に近づき、頬の上に形の良い手を置いた。 そっと指先で撫でるだけで、得がたい優しさを得たように大葉条は目を細める。 「どうせ紹介するつもりで今日は居ていただいたのに。菅原に聞いていないのね?。折角 あたくしが願っていたことが叶ったのに」 拗ねたような唇が次の瞬間、太陽に咲くときを迎えた蕾のようにほころび、 「ね、寧?やっと来てくれたのね」 そこから垂れる一滴の朝露のようにしっとりとした言葉を発した。 薔薇の花の呪縛にかかったような彼女の夫が、ふらふらとこちらを向く。 「じゃあ、彼が?」 「ええ。あたくしの自慢の『弟』よ」 冷笑を浮かべないように努力するのが手一杯だった。話には入っていないのに栗橋も板 倉も、教授でさえこの女主人に見蕩れているのが分かる。 今否定などしたら、嫉妬を起こされて袋叩きにあいそうだ。 「やあ、これは失礼したね」 忽ち大葉は、僕に対する警戒心をゼロにした。少なくともそう装った。 「余りに様子が良いものだから、てっきり売りこみにきたのかと思ってしまったよ」 僕は、その言葉を聞き流す。 まあ、実際。 栗橋はそれなりに洒落っけを出して、上から下まで、僕なら買いたくもない値段のものを 身につけている。何時もならストリート系が好きな板倉も、着せられている感じが抜けな いとは言え、ほぼ一張羅らしいPOLOなど引っ張り出してきたらしい。 馬子にも衣装、とはこのことだ。 しかし若者3人が妻を尋ねてきたと聞けば、心中穏やかでなかったのだろう。 教授は、オーダーメイドだ。あからさまに彼だけ『モデル』にはそぐわないが、始めから 僕だけに近視眼を向けていた大葉は気づかなかったらしく、今頃になってぎこちない会釈 がされた。 教授は実は女子学生にもそれなりに人気が高い。服装も、僕のに口を出す余裕があるほど だ。今日は見た覚えのないダークグリーンを基調とした上下。いつ買ったんだろう。 教授に向けられた男の視線にも、それなりに含む色があった。 その傍で、計算され尽くした一礼。 大葉条を笑えまい。大概の男は、女優の妻など持ったら霞む。 「飲み物はすぐに来るわ。ごめんなさいね、今日に限って此方側の人間が休むから」 「……菅原さん、でしたっけ?」 「そうよ。会ってみたいと言っていたのに。残念だわ」 座るように促されて、僕たちは再びソファーに腰をおろす。 飲み物は、気を利かせてか珈琲と紅茶がポットで運ばれてきて、僕からすれば胸が悪くな るような果物のコンポートを使ったケーキが取り分けられ、皿に乗せられた。 「―――相変わらず、あなたは駄目ね」 皿を手で制した僕に、女主人の声は窘めるように響く。 「カットフルーツなら、多少は食べたわね。用意させましょうか」 「お気遣いなく。僕はこれで」 カップの珈琲は僕にはケーキより魅惑的なものだった。余りローストは強くない。しか し酸味は程々に抑えた味は、甘いものなど食べていたらただの泥水としか思えまい。 栗橋や板倉はしっかり大きい一切れを平らげ、教授と大葉氏は礼儀程度に手をつけ、後は 自分の職業についての当たり障りのない紹介で数分を濁した。 やがて、女優は大学教授に向き直る。 「―――伺っていた写真、拝見出来まして?」 彼女は、プライベートにおいては割と直接的にことを運ぶ。前もって性格や好む態度を 話しておいたから、教授はすぐさま鞄から紙製の小さなアルバムに移した写真を取り出し 彼女に差し出した。 軽く事情を言い、黙っているようにとだけはきつく釘をさしておいた二人は、一応礼儀正 しい無視をしている。板倉も、見たい気はするようだが椅子に尻をつけている。 僕はカップを傾けながら、無関心を装った眼差しで、カップの縁ごしに彼女を見た。 まず、白い手首が一旦固定された。柔らかに半眼になった目が、仔細に写真に見入る。 脚はきちんと膝を揃えていて、無教養に組んだりなどしない。口元は引き結ばれて、傾げ た首からさえ、品格が漂う。 一旦止まった姿勢から、彼女の舞台が始まるんだ。 動きは、指先から始まった。 僅かな、震え。写真に圧力をかけない程度に、写真を挟んだ指が赤く染まる。 ついで瞬き。一度大きく見開かれた目は、再度ゆったりと、憂いを示して伏せられる。 唇は笑みに、悲しみに、困惑に、そのいずれもに見える動き方をして、誰もが生涯に何度 か言う言葉ながら、滅多にない響きの音を発した。 「嗚呼」 しつこいようだが、あーでもなくアーでもAhでもなく、嗚呼、だ。 電話で先日聞いていた僕でも、胸の奥で何かたゆたうのを感じたほどだ。栗橋と板倉は、 バーナーで熱されたように真っ赤になって、大葉氏は妻ではなく女神を仰ぎ見るような 陶然とした眼差しで彼女に見入った。 そして、舞台の端に立たされた教授は、自分の台詞の順が回ってくるまで、背中を押され る瞬間までを固唾を飲んで待っていた。 ごめんなさい、知らないわ、か。 それとも、この方なら覚えているわ、か。 彼女の口調なら、そんなところだろう。 「ごめんなさい―――」 流石に、覚えがない、か。 「―――この方だと、お電話で分からなくて」 周囲が、無言のざわめきに包まれた。 僕も、困惑した。あれは、演技なのだろうか、それとも感情の真の発露なのだろうか。 大葉祥代の頬に流れた、一滴の涙は。 「祥代、覚えているお嬢さんなのか」 亡くなった人妻をお嬢さんと呼ぶあたり、大葉条は余り神経が行き届いた男ではないのだ ろうか。しかしうっすらと虹のように湿りを帯びた彼の妻の目は、夫ではなく教授に向け られた。 「この方を忘れたら、あたくしは女優ではなかったことになるわ。可愛らしくて、強い方 ですものね。杏華さんは。何度かお会いしているのよ」 もう涙こそ溢れないが、彼女は現在形を過去の人物に使うことで、より一層自分の内側に 覚えた印象が強いことを相手に伝えた。 「ごめんなさい、寧からの電話では分からなくて、ご足労までおかけして」 嗚呼、と声を漏らすのは今度は教授の番だった。 「いや、私が……私が無理に頼んだのです。あなたが覚えていてくれた、と一言下さるだ けで、どれほど今ほっとしたことか」 件の写真が手の中でくるり、と僕たちにも見えるように回り、過去の輝かしさを示すよう に照明を反射して輝いた。 「杏華も、覚えていて頂けたと聞いたら、どれほど喜んだことか……」 「忘れようがありませんわ。でも、まさか……、本当に素敵な方なのに」 追憶と微笑と喪失感が、二人の間で漂う。 幾つかの言葉が優しく交わされる。その時間はどうやら思ったより長引きそうだ。 僕は、流石に蚊帳の外にいるしかない大葉条にそっと声をかけた。 「宜しかったら、厚かましいお願いですが、お仕事の様子を拝見出来ませんか。余りそう した機会などないから、一度だけでも」 美男美女の一場面に見入っていた栗橋が、はっと我に返る。 そう、実は用事があるのは僕ではなく、栗橋なのだ。 大葉も、今は邪魔をすべき時ではない事を知っていた。 「構わないよ。ここではさほど数を作ってはいないからね、物足りないかもしれないが」 答える間に栗橋は板倉を引っ張って立たせている。 ふた切れ目を口に押し込んでいた板倉は、シマリスのように頬を膨らませていた。 僕も、立ちあがり彼らに続こうとしたが。 「あら、駄目よ寧。今日はあたくしと教授の為に来てくれたんでしょう」 さり気ないが、鋭い制止だった。 「ここにいらっしゃい」 僕は殊更に未練気がありそうな顔を作って大葉氏を見た。僕にしては精一杯の演技だっ たが、今度も大葉氏が伺ったのは妻の顔色だった。 「まあ寧君、祥代は常々君のことばかり話していたんだ。折角だし、いてやってくれない かな。お友達は喜んで案内させてもらうよ」 『弟』とは言え、血の繋がりは百年前だろうとないことを知っているだろうに。 尻に敷かれていることはこの一言で知れた。 「暫くしたら戻るからね。ゆっくりお話していなさい」 命令に繕うのも難しい妻への一言を残して、小柄な身体は、自分より頭一つ以上も高い 青年たちを連れて出て行く。 だが、モデルほどに威圧されることもないだろう。所詮はまだ学生の坊や達だ。 僕も含めて。 苦笑して見送っていると、再度柔らかく名前を呼ばれた。 「こちらにいらっしゃいな、久しぶりに顔を良く見せてちょうだい」 まるで、姉と言うよりは良い母親といった様子で彼女は手招きしてきた。 まあ。『弟』なら、付き合って従っておくのも仕方のないことか。 どうせ夕方までだ。 内心溜息をついて向かおうとした僕の手を、正しくは指先を、何かが掴んだ。 ぎこちなく、そちらに振り向く。 教授の顔は、まだどこかにこやかに祥代さんの方を向いていたが、僕が彼を見たことを確 認したからか、ぐい、と手が引かれた。 それを見た彼女の目も、最初に写真を見たときのように半眼まで細められる。 ただし、先程より幾分か硬質に。 「今日ぐらい、宜しいのではなくて、碓氷教授?」 教授の横顔も冷えて行くのを見て、僕は、こうなると知っていたら興味のない裁断室やデ ザインを見に行くのだった、と思い、内心大葉条の気弱さを罵った。 「父からもあたくしからもこの子を取り上げるおつもりかしら?」 後半にやや力を込めた台詞は、前々から用意していたのだろうか。 「あなた方に対して、寧が恩義を感じていることは確かだ。ただ、もう二十歳を過ぎた青 年を子供のように扱われるのは、聡明なあなたらしくない。そう思われないか?」 「思われないわ」 雪の女王でもやれそうな声が部屋に残されていた3人分の熱を奪い取りそうだった。 手にした写真を、それでも宝物のようにそっとテーブルの上に置き、女優は続ける。 「あたくしは、この子が父につれられて来たときから、かなりの長い間面倒を見てきたの ですもの。母親を除けば、唯一の女性と言えるでしょうね」 確かに、世間での『姉』以上に専横な面さえ見せる彼女は、時として母親と言うか、卵を 抱えためんどり以上の獰猛さを見せた。 しかし何も、教授に対して卵泥棒のように当たらずとも良いだろうに。 「父は、文字通り実の父同様に、いえ、実の父以上に寧を大事にしてきたわ。今更、この 子に新しい父親は要らなくてよ」 ふっと教授の唇が笑みを作った。微妙な歪みが伴うそれは、喉もとに刃を突きつけたよ うに、相手をたじろがせる。 「私には息子も伴侶もない。『家族』が必要なだけだ。あなたの父親には既にそれがある のに、どうして屋上に屋を架すような真似をされることがある?」 何とも、何とも情けないことに。僕は手を握られ、しかし教授の隣に座ることもままな らないで、そこに居るしかなかった。 そして、その間に僕のあずかり知らぬ場所で、もう一つの諍いが起きていたのだった。 |
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