アルバム


3


 このままではいけない。
傍目にどう見えたかは知らないが、僕は内心かなり焦っていた。
教授と祥代さんは、一時和やかに昔話をするべきであって、僕の居場所についてごたつく ような筋書きは、今日のシナリオになかったはずだ。
僕は退場すべき時を間違えただろうか。いや、大葉条があんなに妻に弱い男だと知ってい ればともかく、あの時より前に教授の脇から退散するのは無理と言うものだ。
結婚―――教授も、その思い出のためにだけここに来た。伴侶を持ち、相手を片腕とも心 臓とも思い、その死に一年以上の狂気を過ごしてきた男が、優しい思い出があったと確認 したいが為に、目の前の自分は見知らぬ女性の嘲弄に耐えている。
僕も何時か、誰かの一人の為だけで、他人に頭を下げることがあるのだろうか。
もし、西風が生きていて僕と共に吉良たちに捕らわれた場合、僕は、彼の弟のように立ち はだかってでも、相手を守ろうと出来ただろうか。
「……杏華さんが泣きましてよ、碓氷教授」
 春に、僕が押し倒されて口走った言葉を、違う形で女優は教授にぶつけてきた。
僕はその時、喉を押し潰されかかったが。今度は、どう答えるのだろう。
「寧は優しい子だから、あなたのお傍にいますけれどもね。亡くなった方を辱める真似は なさらないでほしいわ」
正論だ。どうしようもないほどに、正論だ。
教授にはこの春から、通用しない論理でしかないが。
すぐには答えない教授を見て自分が勝ったと思ったか、再び優美な手招きがなされる。
「さ、寧」
「―――杏華は私に、誰かを思うことを教えてくれた」
最初指先だけ掴んでいた手を教授は離し、すぐさま今度は手首を掴んで強く引いた。
バランスを崩して、僕は仕方なく教授の脇に座りなおす。針のような視線を浴びながら。
「あなたのお父上とも、彼について一度お話はしている」
 一度、と言われて僕は胸の奥に急にしこりが出来たような気がした。
所長の折檻で意識を失って後、二人はホテルの一室で何を話したのだろう。
聞きたい。でも、ここでは聞けない。
「……父と?何時……そう」
 驚いた表情になったが、すぐに彼女は自身を取り戻した。
「でも、あたくしは嫌。この子は、父以外の殿方の手に委ねたくないの」
 威圧と、奇妙な暖かさ。前者に限って、彼女は血の繋がらぬ父親に似ている。
とても良く似ている。
「あたくしの弟を、返していただくわ」
断定の物言いさえも、まるで父親を模倣しているように聞こえてくる。それは、年月が与 えた技かもしれない。
僕と所長がどういう関係であるかを知っていても、ひょっとすると知っているからこそ、 揺らがない信頼。
それだけ、愛されてきたのだろう。所長なりの愛情で。
「返すも何も。彼はあなたの所有物ではない」
「あなたのものでもないわ」
 投げ返すように感情的に言い返して見せるのは演技だ。僕はそう見て取った。
「私の学生だ。他を否定されても、これだけは変えようがない」
 教授は僕を見なかった。手も、もう離れなかった。
「残念だ。あなたとは、彼女の話だけをしたかった」
「お言葉はそのままお返しするわ」
 その言葉が、再び繋がれた手首に注がれる彼女の眼差しが刃物ならば、僕たちは切り離 されていたかもしれない。
「祥代さん……別に、僕は」
「寧。あなたを欺かないのはお父様だけよ。覚えておおきなさい」
 僕よりは教授を睨むようにして、彼女は言った。
「あたくしたちは、お父様がおられなければ今の位置にいないわ。努力して掴んだとして も、後押しした手を忘れてはお終いよ。いいこと?」
「分かっています。いますからどうか、どうか」
 僕は残っている手を、テーブルごしにとはいえ彼女に差し出した。
今更歯の浮くような世辞は言えない。ただ、思ったままを言葉にする。
「祥代さんらしくない顔は止めてください。お願いです」
数秒、不和の女神のように座していた顔が、希望の女神に変じた。
引き結ばれかかっていた教授の唇が、驚きで僅か緩む。
「―――ふふふ。想像していた程の方ではないのね」
 今までのやりとりは全く嘘、としか思えない輝かしい笑顔を均等に向けられて、僕は久 々に頬が赤く染まるのを感じた。
何てことだ。久々に嵌められた。
「祥代さん……」
「あたくしも捨てたものではなさそうね、寧」
 上機嫌も演技だろうか。まったく、彼女相手では訳がわからなくなる。
「これなら、フワナの役を受けられるかしら」
 優雅に組まれる指を見て、僕たちはほぼ同時に聞き返していた。
「フワナ?」
 元女優は、いや、結局死ぬまで女優だろう女は、頷く。
「えぇ。ポルトガルの狂女王。イザベラの娘。来年にかかる舞台に、主役でと話が来てい るの。あの人は余り賛成ではないけれどね」
世界史では余りやらない部分だな、と僕は乏しい知識を脳裏で追った。
教授はまだ呆気に取られているのか、微動だにしない。
「最初はイザベラかしら、と思ったのよね。あたくしももう薹が立っているでしょう?」
「そんなことはありませんよ」
 確か、ハプスブルグ=スペインになる前に、一人女王がいたんだったか……?
「まあ、上手になって」
 お止しなさい、と手を振る女性は、先ほどの針など感じさせない。
これが、代表作3本ともをロングラン公演に持ちこませた女優の実力だ。
「"Solo yo!"と仰りたくて、私たちを練習に?」
 漸く、少々の自失から回復したらしい教授が、彼女に何か僕の知らない言葉で聞いた。 「流石は教鞭を執られる方ね。フワナの言葉をご存知?」
やっぱり良くわからない僕を今度こそ正面から見て、教授は説明をはじめた。
「スペインの覇権は、実質夫のハプスブルグに握られていた。ただ、王位の正当性は女王 であるフワナにしかなかった。それを夫と子供に蔑ろにされた時に、"Solo yo!"、つまり
『我のみ』と女王は叫んだと伝えられている」
狂った女王の矜持か。僕はそう言われてもピンとは来なかった。
「余り、あなたには似合わない役柄かもしれないな」
 蔑ろにされることを、そも許しはしないだろう。教授の視線はそう言っているようだっ た。
「有難う。でも、レジーナ(女王)をやれる機会は逃したくないわ」
ここで既に女王然としていても、舞台への憧れは捨てかねるものらしい。
演技力が今だもって衰えず、久々に来た知り合いを良いように扱うほどだ。いや、生まれ ながらの女優が、降ってきたチャンスを逃すはずはない。
「所長は、何と?」
横に小さく首が振られ、まだ彼女が父親に話していないのだと僕は知った。
「まだ、脚本も見せて頂いてないの。年内には、との話だから、その時はまた来てくれる わね、寧?」
脇からの視線が痛い。何でまた来いと言われているのか説明しろと無言の圧力。
それに答えたのは僕ではなかった。
「この子はね、ずっとあたくしの脚本読みの相手をしてくれていたの。余りに上手なもの だから、父はあたくしが大根と言われないで済んだのは寧と練習していたからだ、などと 言っているわ」
板倉たちがいなくて良かった。帰ったらまたあれこれと追求されそうな嫌な予感を覚えな がら、僕は教授の視線を出来るだけ視界の外に追いやった。
「医者を目指しているのでなければ、様子も良いし、幾らでも道はあるのに。この子はそ うした軽佻浮薄な世界は嫌いだと言うの」
「そんなこと言いましたっけ」
「言いましたとも」
 だから今日は。僕の話ではなくて二人の共通の思い出について語り合うのではなかった のだろうか?
更に身体を捻って二人から顔を背けたとき、ばたばたと騒がしい足音がした。
「加納っ!!」
 ばたむ、とドアを押し開けて入ってきたのは板倉だった。
「どうしたんだ、先輩は?」
 板倉は暫し無意味に腕を降りまわし、叫ぶのだけは何とか思いとどまって、言った。
「けっ、喧嘩に……先輩と、大葉さんっつーか、大山さんと二人……」
 困惑と驚きを無言に押しこめつつ、僕たちは立ちあがった。


 長い廊下を走り、プライベートスペースとは明らかに天井や壁の色が変えられている区 画に入る。
ほどなくして、どた、どたっ、どすん、と鈍い音が僕たちの足音に混ざり始めた。
「先輩っ?!」
「あなたっ?」
飛びこむと、大葉条は壁にへたるようにしている。
その前で、ごろごろともつれ合っているのは栗橋と大山だった。
「止めてください先輩、一体どうしたんですか!」
叫んでもお互いヒートしてしまっているらしく、こちらを向かない。
転がりあっている二人を止めたのは、やはり教授だった。
「栗橋!何をしているんだ、他所様の家で」
こう言う時、教壇に立つ人間の声は違う。
一瞬呆気に取られた二人に、僕と板倉はほぼ同時に組みついて引き剥がした。
「先輩っ、落ちついてってば!」
「大山さん、大丈夫ですか」
 大山はすぐ動きを止めたので僕はするり、と腕を離し、先に立ちあがると手を貸した。
握られた手は、ものを作る人間にしては華奢だ。しかしそれなりに喧嘩の心得があるの か、栗橋の左頬に蚯蚓腫れが出来ていた。
布類や、それを包んでいると思しい包装紙が棚に積んであり、広々としたテーブルがある ところから、ここは裁断室のようだ。鋏を栗橋が手に取っていたら、と考えかかり、夏の まだ鮮明な思い出まで記憶が溯って僕はぞくり、とした。
教授は、取りあえず栗橋が板倉に押さえられたことを確認して、つかつかと近寄る。
「どういうことだね、これは。君らしくもない」
本当に、栗橋らしくなかった。ゼミ内では傍若無人でも、他所で愚かしい態度を見せる男 ではない。まして、教授がいる前で。
栗橋は身体を強張らせたが、板倉の腕を振り切るような真似はしなかった。ついと横を向 いて、口元はきついまま横を向く。
直ぐには相手が答えないと見て取ると、教授は壁際からもたついて立ち上がろうとする大 葉条まで歩みより、相手が身づくろいを整えるのを待って重々しく口を開いた。
「学生が、迷惑をおかけしまして。お詫び申し上げます」
「……いや」
 大葉はどうやら、相当に萎縮していたらしい。栗橋と大山に交互に向ける視線は恐怖を 多量に含んでいたが、妻が寄り添い、腕を柔らかく握るに及んで幾分か回復した。
暴力を極端に嫌う人種だと、知るには暫く時間がかかった。
「何か失礼を申し上げたかしら、この人が?」
 冷静に状況を把握しようとする祥代さんに、また僕は所長の影を見た。失礼があったと しても、彼女なら引かないだろう。夫のために。或いは自分のために。
「私は、ただ彼の頼みは受けられないと言っただけなんだ……」
蚊の鳴くような声で、大葉はスタッフを見る。
「先生がノーと仰ったのに、彼がしつこくってね。だから見かねて言ってやっただけなん だけど。こっちに非があるなら、先生ではないよ」
しかしそう答えた大山にも、謝る気はないらしい。
むっとして何か言い返そうとした栗橋を、教授はひと睨みで黙らせた。
黙るほどの冷静さを取り戻した栗橋の後ろで、板倉が気遣うような視線を向けている。
実際、僕も相当不思議だった。
栗橋の余裕を、大山のどんな言葉が剥ぎ取ったというのか。
気まずい雰囲気だが、陽射しの傾きからも修復している余裕はなさそうだった。
教授は、改めて大葉条に手を伸ばす。
「お邪魔した挙句に、大変失礼をしました。これ以上の失礼がないうちに、引き取らせて 頂きます。お腹立ちでしょうが、どうかお許しください」
淀みない言葉で言い、のろのろと伸ばされた相手の手をさっと握って振り、離すと祥代さ んにそのまま差し出す。
「―――来て頂いたのはあたくしからお願いしてのことですから。またお時間がおありな ら、いらして下さいな」
これは教授だけに向けた言葉だったが、夫も目くじらを立てなかった。
こちらにいた3人―――大山も含めれば4人は、僕たちが昔話の最中だったと思っている からだ。
確かに昔話だが、途中から……まあ仕方ない。
「祥代さん、大葉さん……ごめんなさい」
僕も、ついでつられるように板倉も頭を下げる。
栗橋は、尚も不貞腐れていたが、やがておざなりに頭を下げて、ものも言わずに裁断室を 出て行った。
「先輩!」
 追おうとした僕と板倉の肩を、教授が押さえた。
「今日はどうせ、集合場所で捕まえられる。私から話してみよう」
板倉は尚も何か言おうとした。が、
「わかりました」
「加納っ?!」
僕が素直に頷いたことで、驚きながらも、それ以上言い募ることができなかった様だ。
もう一度その肩を叩いて、教授は教育者らしい笑顔を向けた。
そのまま大場を向き、にこやかに尋ねる。
「で、彼は何をあなたに頼もうと」
 この期に及んでも、答えたのはデザイナー本人ではなくスタッフだった。
「ナースの制服ですって」
「ナース?」
心底煙たそうに、大山は続けた。
「自分の親戚の病院の制服をデザインしないかって言ってきたの。知名度アップに役立つ だろうって。前にもそこの病院から打診はあったけど、先生は断ったのにね」
「あれは、閉口した」
おや。漸く言葉が出てきた。
「何を言っても、『幾ら詰めば良い』の一点張りだった。ああ、今の彼ではない。病院の 経営陣の言葉だったし、彼は流石に丁重ではあったよ」
成る程。僕はやはり、夏の嫌な思い出に思考が至るのを感じた。
西山が、病院に不祥事があったように言っていた。だからきっと、それを少しでも改善し ようと栗橋は懸命なのかもしれない。
親戚はどうなのかは知らないが、正直頭の良さは並ではない。遊びに行っていても、同学 年のトップの成績を保っているという。ポリクリなど、これからの実地は分からないが、 間違いなく碓氷ゼミの白眉だろう。
それが、度を失い、申し出を断られたくらいで逆上しているなど、信じられない。
板倉と顔を見合わせると、向こうも同じことを考えている様だった。
 僕たちは、まだまだ足りなかった。
経験も、人の立場を思いやる心も。薄情だ、ということではない。
将来を約束されていながら、それがふとしたことで危うくなってゆき、それに対する危機 感が周囲に薄いと知ったとき、持つものを失いたくないと足掻く人の心を。
僕や板倉は、まだ何も得ていなかった。これから築くものしかない僕たちには、富と繁栄 を約束するものに亀裂が入ったとき、権利者がどれほど焦るものなのかを考えることも叶 わなかったのだ。
教授は、それを主観的にではなくても、客観的に見るだけのものを持っていた。それは年 月ばかりでなく、彼が人を教え導く立場に立たしめた素質と言える。
僕に即答させたのは、『教授』への信頼感だった。
プライベートで僕をどうしようとも、教壇に立った瞬間、僕と碓氷教授は切り離される。
いや、正しくはマンションのドアを一歩出た瞬間、と言うべきだろうか。
それで良い。僕は、教授とは師弟関係以外、望んでいないのだから。今だって。
今だって、きっと……
「寧」
 優しい声で呼ばれて、顔を上げると額に感触があった。
「また、来てちょうだいね。あたくしが寂しくなる前に」
最後まで演技だろうと思ったが、僕は素直に頷いた。
「今度は、楽しい話題でも持ってゆきますよ」
「それより、練習を手伝ってもらうかも知れなくてよ。きっと、ね」
 プライベート側に戻り、駅まで歩くと時間がかかるのでタクシーを呼んでもらうことに した。取っ組み合いをした大山には、流石に頼めなかったのだ。
外に出て、次の角で待つ。栗橋は周囲には見当たらなかった。直接、小方教授と皆の待ち 合わせる場所へ向かったのだろうか。
「で、彼らの会話はどうだったのだね、板倉君」
教授に問われて、板倉は多少緊張しながら答えた。
「俺、正直大して聞いてないんすよ。庭に変な彫刻あって、そっち見てたんです。そした らなんだか騒がしくて、戻ったらあの大山って人が『どうせ脛齧りが、他人の金を使って 人を顎で動かそうとするな』みたいなこと言ったんですよ。そうしたら先輩飛びかかって いってて……俺、そのまま知らせに走ったから、そっから先は」
栗橋が偉ぶったかどうかはともかくだが、相手も相当余計なこと言う人種の様だ。
揃ってついた溜息が消える頃、それを補う様に向こうからタクシーの音が近づいてきた。


一旦駅まで戻り、駐車場で教授の車に乗って、目的地に直接向かう。
大学からは二駅の、待ち合わせ場所近くの百円パーキング。
そこで降りて歩くうち、栗橋が後ろから追いついて来た。
彼は、教授にだけ頭を下げ、板倉は『心配したんすよ』とだけ言ったのに頷いた。
僕のほうは見ようともしなかった。
4人で前後して歩くうち、彼はぽつりと漏らした。
「お前になんか頼むんじゃなかった」
 それが誰に向けられていたかはすぐに分かったが、僕は黙っていた。
会わせるには、会わせてやれたのだ。教授のついでにせよ。
十分に離れていたはずだったが、耳に届いていたらしい。前を歩いていた板倉と教授が、 少し歩調を遅らせてこちらに合わせた。
「―――頼みごとの成就を約束してもらったわけではないだろう?」
教授は、冷静に指摘した。
板倉は、ちらちらと僕たちを見比べている。
「話はあちら側のしか伺わなかった。君には君の言い分があるだろう。いい加減に、後輩 より考えを逸らして、事情を話してくれる気はないかね?」
僕に対しての今までの栗橋の仕打ちを知る教授としては、これは最大限の忍耐だった。
それでも即答できない彼に対し、一言決定を伝える。
「まあ、今夜1次会が終わった後にでも話そう。最近は質問日にも来てくれていないこと だ。君の話も聞きたい」
栗橋が渋々頷いた時、遠くで碓氷教授の名前を呼ぶ、聞きなれぬ声がした。
薄手のロングコートの三枚目半。
僕と板倉は、その時始めて小方拓馬助教授を見たのだった。


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