|
|||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||
久々に、碓氷ゼミの飲み会には明るい声が響いている。 「……だから、俺はすっっかり誤解されていたんだよ、大家にさ」 どひゃあっっ、と笑い声が上がる。 打ち上げ花火の様に続けざまに上がるその声の中心にいるのは、小方拓馬助教授だ。 背はそんなに高くなく、僕より数cm低いかどうか。 お世辞にもいい男とはいえない。平凡で典型的な日本人中年、といった印象で、この男が 人を教える商売をしているとは言われなければ気づかなさそうだった。 しかし、見た目で中身が測りきれるものでもない。 飲み会の席、お定まりの挨拶の後、取りあえずのビールがふた巡りしてすぐ。 誰かが助教授に、留学先の生活で困ったことは、と質問したのが始まりだった。 助教授は、住居のコストを安くしたくて、向こうで出会った日本人と一緒にフラットを借 りていたんだそうだ。相手は男。商社勤めではあるがやっぱり金がない、知り合いも碌に いないから、と互いの仕事場からそれほど遠くない場所を選んだ。 最初の半年は、何とかうまくやっていたのだそうだ。 ところがある日、変な男が裸で庭に横たわっていたのを追い出してから、同居人がどうや らその種の男性に好かれていることが分かったらしい。 「俺は、同居人が迷惑だってはっきり言うから、相手の男を叩き出してやったんだ。なの に、男は俺が二人を嫉妬してるって大家に泣きつくし、大家もホモに貸した覚えはないっ ていきなり荷物を放り出すし……」 余計な世話をして行く先なくした助教授は、大使館に相談して暫く職員の知り合いの家に 身を寄せたらしいのだが、優柔不断な元同居人がまたやってくるし、それを当然の様に元 ストーカーが追いかけてきてまた大立ち回り。 留学先の大学で相談したヒスパニック系の男性が今度はバイで、一度経験してみれば、と 妙な店に連れて行かれかかり。 逃げ出して助けてもらったアングロサクソンは早口で喋り捲る大男で、呆気に取られるう ちに口説かれているのだと分かり、またしても逃げだし。 「や、君らくらいは可愛いってのなら分かるよ。こっちに土地勘がないのも確かだけど、 彼らのコミュニティに関わるのは正直ごめんだね。禿げでもデブでもってのは、何だか俺 には分からなかったなあ」 俺はどっちでもないけど、との言葉にまた爆笑が沸き起こる。 カウンセラーに相談に行ったら、その人が元は半陽性の人だったと言う落ちまでついた。 どこまでが本当なんだか嘘なんだか、と言った手合いの話だったが、緊急医療の話などを 質問した学生にも丁寧に答えてくる。 「そうだな、英語以外を母語にしていると留学しての資格を取るのは辛いよ。TOEFL で点数を取るのと、英会話以外に、緻密に思考を組み立てる必要が出てくる。講義も早足 だから、テープと併用で人の倍やってどうか、と言った所だろう」 君らは楽なんだよ、と言われて数名は苦笑した。国家試験に受かれば大概は実家を継いだ り、親戚の病院に行ける。不況だと言われていても、医者なら食べて行けなくなることだ けはない。無医村か、それに近い場所だってまだあると言うし。 「これからは留学だってそう簡単に受け入れられなくなるらしいけどなあ」 数ヶ月前の悲劇、それに関わっていた者の何人かは熱心な留学生だったと言うそれだけで か、それとも人種に対する闇の部分の現れか、留学生ビザのおりる確立はかなり低くなる だろう、というのが助教授の話でもあった。 「でも先端医療の分野でも、人を受け入れられなくするのってどうでしょうね」 樋口明日美と並んで飲んでいた大塚早苗の声は、たまたま静まった席に響いて、彼女の頬 を酔いだけでなく赤くさせた。 助教授は肩を竦める。 「結局、自分達の首が絞まることを考えていないのさ。技術的にどれほど進歩しようと、 自国内でだけ通用するものにしてしまっては、何れどこかで破綻する。その頃には何処か で今日の技術以上のものが生まれているかも知れない。俺がおれが、で囲いこんだものは 大して育たない。だから、君たちも心するんだね」 そんなことを言って、座がしらけたと思ったのか、どこか中華街のイベントで見る大きな 頭の人形に似た笑顔を見せる。 「さてっ、と。話しすぎて喉カラカラなんだ。君ら次は何を飲むの?」 次々声が上がり、板倉がこまめにメモを取っている。僕はそれならミネラルウォーター でも、と奴が通りかかるのを待った。 人が動く中で、誰かが僕の背後の椅子に陣取る。 「―――相変わらず、付き合い悪いな、加納」 「西山先輩」 僕の、温いビールが半分ほど残っているグラスに、西山和文は自分のシャルドネのグラ スをかちん、と当ててきた。 「こういう安酒、お前は嫌いか?」 「安酒だなんて」 ここは、一応は居酒屋だ。フランス料理など出す、こじゃれた店は誰かの行きつけなの か、普通の学生が来るにはギリギリ、といった感じでもある。 医学部ならではの高い飲み会は、僕みたいな学生には付いてゆけないこともある。 僕が横に首を振ると、アルコールが入った西山は多少間が抜けた顔をした。 「あれ?お前、バイトでうはうはじゃないのか?」 「冗談じゃないですよ」 本、時々買う服、月々の食費。バイト代は貯金するほどにも残らない。西山達の様に脛 を齧る親がいれば別だろうが。 僕や板倉は、だから割と飢えている。がっついた真似はごめんな僕と対照的に、板倉は飲 みまくり食いまくるのが常だ。 「じゃー、飲めよ。それとも食うか?何がいい?」 ご丁寧にメニューまで抱えてきた西山は、ぱらぱらとめくる。 「時期だからジビエとかもあるぜ。肉が嫌なら鱈とか、うまいぞ。グラタン取るか?」 正直どれをどう取れば良いのかわからずに困っていると、 「よし。これとって分けようぜ。リエットなら軽いし、食えるだろう」 西山は板倉を手招いて、ボルドーのハーフとウサギのリエットなるものをとる様に言いつ けた。グラスは2つ持って来い、と付け足す。 「ゆっくり話したくても、飲み会はお前来ないだろ。瀬里に聞いたら、『ヤスちゃんは、 お尻の軽いゴムアヒルとは付き合わないのよっ』なんて言うしな」 口を尖らせて言う様が、よく似ている。 「先輩、前からの知り合いなんですか?」 流石に気になって聞くと、含み笑いをした男は僕に寄りかかってきた。 「聞きたいか?あいつのこと」 「―――そう言うわけでも」 そっぽを向くと、笑いの振動が肩から伝わってくる。 「……っとに、お前はそう言う所そそるよな。ヤローの癖して、気を持たせるのが上手だ し、今時一重で切れ長なんて目、なかなかない」 酔っ払ってる連中に、女みたいだと言われたのは初めてではない。僕が飲み会に顔を出さ ない理由のリストには、絡まれるから、というのもある。 「お前は、顔より中身だって、分かってるよな」 「先輩、勘弁してくださいよ。重いです」 押しのけにかかった手が、掴まれた。西山の指は掌より長く見える。 「そう、邪険にするなって。寝ようって言ってるわけじゃないだろ。話したいんだよ」 言いつつ顔を寄せる男の息は、僅かにアルコールが混じっていた。 強かに酔っているようには見えない。声を潜めて耳近くまで寄せ、囁いてくる。 「教授に、何小言食ってるんだよ、栗橋の奴」 ははあ。気にしているが、下手に声を聞かれたくないってことか。 僕は多少安心して、身体から力が抜けるのを感じた。 「先輩、何か悩みがあるみたいですよ。だから教授が、話を聞こうって」 栗橋は先ほどから教授の脇で、席を動いていない。小さく何か言っているが、教授は頷い ているのが大半で、時々一言二言差し挟む様子だ。 離れて座っておいたので、会話まで聞こえてこない。 「お前はその悩み知ってるのか」 「知りませんよ。大体先輩の方が、事情詳しいんじゃないんですか?」 夏に病院がどうこうと言っていた相手に、僕も声を低めて顔を寄せる。 「ははあ、そっちの方か。つまらん」 「つまらんって……」 「俺はてっきり、お前のことだと思ってたのに」 「どうして、先輩の悩みが僕なんですよ」 睨んだ途端、顔がひょいと正面を向いてきた。それまで斜めだったので気がつかなかった が、鼻先がすれすれになり、この位置はヤバイと気がつく。 「ぅわっっ」 だが相手には計算済みだったらしい。僕の手を握るのと反対の手で肩を押さえて、 「どうしたよ加納。まだ話したりないな、俺は」 「別に、この位置でなくても」 すぐに自分を取り戻して冷たく言いきったが、西山は諦めない。背ければ背けた方に顔を 寄せてくる。しかもより体温を感じる方向で。ああ、ぞっとする。 「冷たくしないでくれよ。嫌われたくないんだよ。お前には」 席から立とうにも、この態勢では難しい。しかも端っこの柱の陰などに座ってしまったか ら、僕の窮状に誰も気づかない。 一歩間違えばチークダンスでも踊ってしまいそうな捕まえられ方で、僕は動きを封じられ ていた。 「なあ、加納。瀬里と、付き合ってるのか」 返答に窮した。瀬里には、頷けと言われている。そうすれば厄介ごとはなくなると。 ただし、それが噂として広まった挙句、所長の耳に入らなければ、の話だ。 下手すると、夏の養子の話が再浮上してくる。あの時はともかく、僕の立場が大学以外で も微妙なものになりつつあるこの頃、教授と所長の対面を見たくもない。 教授がその辺をどうお考えなのか、僕は聞きたくもなかった。 あの晩のことを、僕の気絶している間に二人が何か話し合った事実が頭から拭い去れない としても、問わずに済ませることはまだ出来る。 「別に、先輩が付き合いあるんなら、僕は気にしませんよ」 正直あの女が誰とどうしようと僕の将来には問題はない。僕さえ巻き添えにしないでいて くれれば。 「俺は、気にするんだよ」 首筋の毛が逆立つ。耳すれすれで唇が動く。 「……っ」 「加納、感じやすいんだな。……なあ」 ふざけるな。 今度こそ振り払って立とうとした時、滑る感触と共に声が右耳にだけ滑りこんできた。 「付き合おうぜ、俺と」 冷水を浴びせられた心地がした。 叫びたい、突き放したい、蹴飛ばして今すぐここから出て行きたい。 舌はすぐに出ていって、僕の肩からは手が外れた。 だが、まだ左手を封じられている。 「自覚あるのかどうかだけどな、お前、そそるんだよ」 西山が呟く。 「見てると、滅茶苦茶にしてしまいたいって感じでさ。並の女よりすげー、欲しくなる。 言われたこと、ない?」 「ありません」 強張りきった僕の返事に、苦い笑いが西山のグラスを揺らす。 「そうつんけんしないでくれよ。何もここでどうこうする気はない」 人の耳なんか舐めておきながら、よくも言えたものだ。睨み据えても西山は全く気にせず 続けてきた。 「教授がお前を引き取ったのは、分かる気がする。お前は何でもはいはい言って、適当に 流せばいいと思ってるだろうけどな、栗橋みたいなのは駄目なんだよ。暴君気取るなら、 暴君を通して馬鹿やってりゃ幸せなのに、なまじ妙なところはしっこいから、猜疑心で雁 字搦め。お前みたいに、信じちゃいないが裏切らないタイプを理解できない」 何でまた急に栗橋の話になったのかと思っていると、西山は鼻先で笑った。 「気になるからつっかかって、言われたことはこなされるからつけあがる。なのに本当に は相手にされないから腹が立つ。それでお前にぶつかるんだよ、馬鹿は」 くいっと、手にした中身を反対の手で乾して、もう一度顔を寄せてくる。 「夏の話じゃないがな。俺の方につけ、加納。俺は馬鹿は嫌いだ。馬鹿の下にいる小利口 はもっと嫌いだ。だから、お前をそうしたくないんだよ」 「―――先輩の下につけば利口になるとでも?」 どっちも似たようなものだと、僕は内心の嘲笑の10分の1くらいを顔に乗せた。 「俺の方が、度量はあるつもりだ。正直、今のゼミはつまらないんだよ。俺か栗橋程度で 周囲が期待するって辺りがもう小さい。他が育たないってのは異常だと思わないか?」 問い掛けられても、二人の頭脳が大学でもかなりの高水準である、ということしか僕には 分からない。 正直、どうでもよい。僕に必要なのは僕の成果だ。 「お前や板倉を教授が入れるって聞いたとき、俺は正直喜んだよ。スノッブな連中が順繰 りに上がってる気がしたラボに、普通のが入って引っ掻き回してくれるって。そうしたら 誰かさんが子分扱いして台無しにしてくれた」 暗に栗橋を指しながら、西山はちっともそちらを見ない。 「でも、お前は出てきた。レポート読んでて、勉強しまくってるな、と思った」 「だから教授が、夏合宿からお前を無理やり引っ張って帰ったとき。密告は怖かったが、 お前ならそうなると思った」 「そう……って」 どうも言いたいことの輪郭程度で、細部が見えてこない。 「俺はそろそろな。本当のライバルが欲しいんだよ」 その時、リエットの皿とワインが運ばれてきた。 西山が手を離してくれて、ほっとする。 リエットと言うのはレバーペーストかムースみたいで、初めて食べる。西山は後輩を使い 走りするたちではないのか、添えられていた薄いフランスパンにたっぷりとそれをぬりつ けると僕に寄越した。 「有難うございます……」 「いいって。これ食って飲んだら、次頼もう。野菜のほうがいいか?」 目線で促されて口に運ぶと、余り肉らしからぬ味がした。 「どうだ?嫌いか?」 「いえ。……おいしいです」 飲み下してワインを口にすると、軽かったはずの口の中が、以外にリエットの脂でしっと りとしていたことに気づく。 西山は自分でも食べ、もう一切れ取ると丹念にまたリエットを盛りつけた。 「俺は、お前に期待してるんだよ。いい加減、栗橋の噛みつきは飽きてるんだ」 そのまま、僕の口元にそれを差し出す。 「どうせなら、お前に噛まれたい。お前なら、一緒に寝たとしてもベッドを出れば議論で きるような相手になると思ってる」 妙なことを言われて、僕はまたどう答えて良いのか分からなくなった。 「瀬里も、見ててギリギリのラインで生きてる女だ。アプローチかけてみたら、お前の名 前を出して断ってきた。だから余計に、気になった」 唇の先に、乾いて暖かい感触がつきつけられる。 「食えよ。いっそ、俺に噛みついて見せろ。お前を抑えちまってるのが何だか知らないが 俺は結構、お前は熱いもの隠してると思ってる。気に入ってるんだよ、加納」 一応。これは、口説いてるうちに入るんだろうか。 西山はハンサムと言うよりは知性が先に立つ顔だ。悪くはないが、まさかバイだとは思わ なかった。 それとも、僕はからかわれているだけだろうか? ライバルと、西山は言った。僕に挑む様に。 教授の手元に置かれるのは当然だと言うのは、冗談では片付かない。 「俺と競おうぜ、加納。そうしたら、いつか……」 「美味そうなものを食べているな」 ひょい、と僕の目の前からリエットが消えた。 「小方助教授(せんせい)〜。それは俺が加納にハートをこめて塗った……」 おいっ。と突っ込みたくなるようなことを言いながら西山は小方助教授を見上げる。 「二人で内緒話か、西山?あっちの連中は、もっと情熱的に口説いてたぞ」 突っ込むだけでなく殴りたくなるようなことを言いながら、小方助教授はぱりぱりもごご とリエットを立ったまま味わった。 「ここ、いいかな」 と、僕を挟んで西山と向き合う様に座る。 「加納君、というのは君か」 ちり、と嫌な感触がした。だが、目の前にあるのは冬空よりあっけらかんとした笑顔だ。 酒など飲んでいるからか僕は余り小方助教授と喋りたくなかった。 「和文や教授から名前は聞いていたよ。教授のお世話をしているんだって?」 「いえ、僕が厄介をおかけしているだけです」 碓氷教授の周囲には何人か集まっている。栗橋の相談は済んだのだろうか。 「ふーん。本当に、話通り大人しいね、和文」 ボルドーを口にして気がついた。西山を、小方助教授は名前で呼んでいる。 「でしょう?なかなか心を開いてくれなくて、もうこうなったら餌付けするしかないのか な、なんて思ってたんですよ」 いけしゃあしゃあととんでもないことを、と僕は西山を睨もうとした。だがくるっと、小 方助教授に椅子ごと半回転するような形で向き直らせられる。 「おいおい。それじゃ失礼だろう、仮にも後輩に」 「いいんですよ、加納は俺を先輩とは思ってないから」 後ろからしなだれかかる腕。また立てないじゃないか。 「気弱なことだな、和文にしては」 「あの。お二人の、関係は……」 解放してもらおうと、僕は前後に目を配りながら問いかけた。 「聞きたいのか?」 背後から含み笑いが耳元に再び忍び寄る。 「ああ、さっきの話があれだからって、私は和文と寝てるわけじゃないぞ」 あんまり教授と違って長時間見ていたくはない顔が近寄ってくる。 「単に和文のは……」 「言ったら駄目ですってば、小方助教授」 僕の肩ごしに西山の手が伸びて、助教授の口元を抑える。 「まだ内緒にしといてくださいよ。加納には俺のこと気にしてほしいんだ」 身体中そそけだちそうな声を、どちらかと言えば僕の耳元に吹きこむ様に―――ええい、 気色悪いっ。 「加納、考えておいてくれよな。俺は、お前ならと思ってるから」 もう一度、べろりと舌で舐め上げられて、僕は叫びたいのだけは堪えて背を震わせた。 西山の悪ふざけを見ても、助教授は平然としたものだ。 「和文。嫌われるぞ」 「くくっ。俺は寝ると決めた相手に嫌われたことはありませんよ」 隠す気もないのか、西山は言い放ってから席を立ち、外に出て行った。 僕はハンカチを取り出し、後で捨てようと思いながら耳を拭う。 「……一生言ってろ、と顔に出てるな」 名前で呼ぶほどだから本当に良く知っているらしく、小方助教授は平然としている。 「あいつはともかく、教授に見こまれた学生がいると聞いて気になっていたんだよ。教授 はえこ贔屓をなさる方ではないからな。どんなだ、と和文に聞いても埒があかない」 西山のグラスとボトルを取り上げて、助教授は自分に注いだ。 くいっと一息に仰いだところからすると、悪趣味だが酒は強いらしい。 「立ち直られるとは思っていた。だが正直、ここまで早いとは俺も思わなかったし、誰も 思ってなかっただろう。礼を言わせてもらうよ」 「いえ……教授は、ご自身で立ち直られたんです」 僕は今まで何度、この言葉を口にしただろう。大学で数名の教授に。瀬里に。ゼミの連中 に。そして、教授自身に。 僕のお蔭などではない。絶対にない。 哀しいことにだけ浸ることは人間していられないのだから。情愛が深かろうと、いつか薄 れて消える。 大概の人間は、薄情だ。一幕の劇に涙しても、劇場を出る頃には明日の朝ご飯でも考えて 日常に戻る。 「謙虚だな。本当に、今時いないよ、君みたいな学生は」 そうでもないだろう。僕のは演技も多分に入っている。大人しく振舞うことは大事だと、 女優に教わっているのだから。 「でも、安心した。これから、よろしく頼むよ。加納君」 助教授の手は、西山と違って握っても嫌ではなかった。 「これから……って、もうアメリカには戻られないんですか?」 「どうするかは、正直迷っててね。ごたつきもうんざりだったけど、あちらで出来る限り 知識も文献も漁ってきた。実践はまだ日本では難しいが、君たちにそれを伝えるのは悪く ないし。暫く、教授のお手伝いもしたいからな。そろそろ、論文の仕上げだろう?」 その通りだ。教授は、学生の話を聞くより本当は書き上げて送りたい論文がある。締めき りは来月だが、航空便の問題を考えると、早く出したいはずだ。 正直、僕たちにかまけている場合ではない。 「でも助教授、よくご存知ですね」 「そりゃ、伊達にあの人の下で長年やってないからね」 手を離して大袈裟な身振りをされ、僕の中でまた刺が立つ。 この男の、僕は何を気にかけているのだろう? 「あ、残りのそれ、もらって良いかな加納君」 言われて、僕はリエットの皿を回す。 「有難う。本当は真っ当な日本食が食べたかったんだけどな。米の飯は日本に限るよ」 そう言いつつリエットをぱくつく男はしかし楽しげで、店の雰囲気に良く合った。 「まあ、何かあったら相談してくれ。和文が悪戯が過ぎるなら、叱りもするから」 パン屑を払った指で、器用に僕の肩を叩いて寄越す。 あけっぴろげな態度はどう対応して良いか分からなかったが、僕は大人しいが愛想はそう 悪くない学生を演じることにして、ワインを助教授のグラスになみなみと注いだ。 「お、有難う。君もどうぞ」 注ぎ返されて飲んだワインで、僕はようやっと人心地つく。 深い紅に店内の柔らかい照明が落ちて、血の雫の様に光っていた。 |
| Back Next |
Copyright 2001-2004 PleasurePrinciple Web master:ai-shiba@mbi.nifty.com