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それから暫く、僕の周囲は小さなことが山積みで、取り立てて大きな波はなかった。 レポート、後期試験、実験の発表。アルバイト。 掃除に買出しに年賀状のプリント、洗車にビデオの予約。 やっていたことの大半は、碓氷博光教授のサポートだった。 そして気がつけば今年の日数は残り一桁になっていた。 珈琲の香気だけが、全く同じ朝の時間に漂っていた。教授は新聞を広げ、ほうれん草と卵 のバター炒めを乗せたトースト―――最近、これが好きらしい―――と珈琲が運ばれるの を待っている。 何だって、と思う時もある。僕は別に、家政婦の契約まで結んだわけじゃない。考えたら 教授の三食まで作る義務はない筈だ。 もう8ヶ月近く、世間には3ヶ月近くになる同居からこっち、自分以外の誰かの炊事洗濯 までやってる自分はやっぱり甘いのだろうかとも思う。 一応、自分の食べる分は自分で買っているし、教授の分は教授の財布から出すことになっ ているが……同じ屋根の下にいると、それなりにアバウトになるのは防げないもので。 「寧。今日はバター、控えめにしておいてくれ」 「……はい」 返事しながらこれがまずいんだろうな、と思う。 最初、僕が手っ取り早く食べるために卵とほうれん草を乗せたのを見ていた教授が、黙っ て自分のプレーントーストを差し出してきたのを見たとき、断るべきだった。 半分も持ってゆかれた上に、次の週に同じものを作ろうとしたとき、教授は自分のトース トを僕の皿の脇に並べたのだ。 前は、レタスと若布のサラダだったし、その前は、饂飩玉いれただけの卵豆腐……自分で 作れ!といえる程度のもので、レシピとも呼べない代物に『もう一皿』を要求される。 うまいともまずいとも言わないのだが、皿が出てくるのはどうしようもない。 この前食事に行った場所のような、豪勢なものを食べつけていても、僕がいい加減に作る ような一品がおいしいだなんてこと、あるんだろうか。 僕はバターをひと匙掬いとってフライパンに垂らし、そのまま火を止めて2枚のトースト に均等に卵とほうれん草を乗せた。 近所の有機食料品店で買ったトマトも小さく切り分けて、教授の皿に乗せる。一つで苺1 パックと張れる値段のそれは、僕は甘くて食べる気がしない。 淹れておいた珈琲と一緒に、先に教授の分をテーブルに運んでおく。自分の分を取りに台 所へ戻り、振り返ると、教授が切り分けられた赤いトマトを見、ついで僕の方に問い掛け るような視線を投げてきた。 「寧は」 「僕、冬のトマトは余り」 この前買い物メモをもらった時、トマトと書いたのは教授だ。僕じゃない。 教授がフォークを手に取ったので、僕はそれ以上気にせず脇に置かれた新聞を引き寄せ。 「……っ!むぐっ!!」 口の中に、野菜の匂いと奇妙な甘酸っぱさが押しこまれてきた。上顎に当たるステンレス のちぐはぐな感触。 「好き嫌いは良くないな」 急な呼吸困難と格闘している僕に、椅子から立った教授は口の端を上げて言ってくる。 フォークが引きぬかれて、どうしようもなく僕はトマトを噛んで飲み下した。 慌てて珈琲を啜る。 「嫌いって訳じゃ……このトマトは……」 「もう一つだ。お前はただでさえ鉄分が不足しているんだ。こうしたものを食べないと、 何時までも寝起きが悪いだけだぞ」 色々原因を作ってくれている男は、そう言って更にもう一つ、トマトを突き刺して僕の目 の前に差し出した。 「じゃあ、昼間食べます。今でなくても」 「何が嫌なんだ。変な食べ物を私に出すわけでもないだろう」 目の前で揺れる赤に、僕はなんとなく闘牛の苛立ちが理解できる気がした。 構わないでくれ。と言いたい。だが、実際ヒートしてしまったのは僕の方だ。 一昨日、駐車場にはとんでもない車が停まっていた。未遂か既遂か分からないが、僕と教 授が食事に行った所を写真に収めて、多分脅す材料にでも捏造するつもりだったろう。 同居してから、もとい同居を公表されてからこっち、大学でも嫌味から脅迫にも似たこと まで幅広く言われている。 考えたら、教授と食事したくらいであれこれ気にするものでもなかった。教授は平然とし た様子だったし、実際に日常家政婦をやっている僕を労ってくれてもって気が最近はして 来た。 教授に対して、卑怯な振舞いに出た誰かが許せないと、子供っぽい義憤で飛び出した僕が 馬鹿だった。 あれから、また間が狭まっている。離れるつもりでいても、何かが起きて僕たちはもつれ た糸のように瘤を作り、解くことも叶わず絡め取られて近づく。 いっそ切り捨てたい。だが、間違えば自分も相手も切り刻まれるような気がする。 「身震いするほど嫌いか?」 聞かれて慌てて僕は瞬いた。 「え?いいえっ」 と開いた口にすかさずトマトを押し込められる。 教授は、本来なら良い父親になったのかもしれない。取りあえず自分の皿をテーブルにお いて、座ってから口の中を片付けた。 教授も腰をおろして、別に味は気にならないのか、トマトとトーストを交互に口に運んで いる。 味を消すために、殊更に時間をかけて5枚切り一枚を片付けた。 「前から思っていたが、寧は余り食べないな」 「そうでもないですよ」 食べたくもないものを口に押し込まれたりしない限りはね。 「好き嫌いもあるようだしな、雲丹とか」 「あんなもの食べなくても生きてゆけます」 この前のレストランで、無理して食べようとしてみたがどうも気味が悪すぎた。 生ものだから苦手というわけでもないんだろうが、駄目なものは駄目だ。 別にロボットの振りしているわけでもないが、たまに教授に好みとかが知れると、後日覚 えていることをさり気なくアピールされてどうしたものかと思う。 最近は僕も教授も忙しいから、衝動的にどうこう、ということがなくなってきている。 その反動なんだろうか。 一学生など放っておいて論文書いたり教壇で真剣に講義していてくれる方が、碓氷教授の 本質に近い姿だと思う。ただ、以前の教授を知るメンバーからすると、学生であろうと、 誰かと一緒に暮らしていることでかなり明るくなった、とのことだ。 薄く笑っている教授は、たまたま残った1枚のパンを取り上げた。 「半分にしないか」 「もう卵はありませんよ」 「別にバターで良いだろう。蜂蜜でも塗るかね」 顔中に拒否と書かれているだろう僕の様子に、冗談だと言うと、それでも教授はオーブン トースターの蓋を開けてパンをセットした。 出てってやる。どうにかして出てってやる。 無理だろうとどこかで諦めにも似た声がするが、僕は教授の玩具じゃない。 写真部の小田正友に言わせると、僕の一人暮し再計画は 「そりゃ無理だろ」 となる。理由を尋ねれば、 「お前と教授ってある意味で類友っぽいもん」 「何が類友だよ。それよりネガはどうなったんだよ」 多少栗橋に似た横暴さを演出して、僕はテーブルの端を(控えめにはした)叩く。 「だからー、一応あの夜回った店には全部頼んであるって」 小田は写真狂いである。レントゲンだろうがCTスキャンだろうが普通のレンズつきフィ ルムだろうが、とにもかくにも被写体を撮影することが大事なのだそうだ。 撮影、が大事なのであって、それを切っ掛けに誰かに迫ったりとかは面倒らしい。 夏の合宿で数枚、僕を撮影したことは板倉の忠告から知った。肖像権侵害だ、ネガを返す なら教授には言わないでやるから寄越せと詰め寄ったのだが。 「だって。売っちまったものはなあ」 酔っ払った勢いだったので良く覚えていないが、ネガと手元にあった写真を数万で売り飛 ばしたと言う。それも知らない相手に。 「ひょっとすっとガイジンだしなあ。黄色い髪の毛してたから。メッシュかも……」 最近は染めてる人間も多いから、そこは確信が持てないのだろう。小田の口調は曖昧さを 増した。他人事だと思ってのんびりと言ってくる襟首を掴んでやった。 「そんな奴に売って、万一脅されたらとか考えなかったのか」 「んー、酒がね、ほどよーく入って気持ちよかったんだって」 医者の資格ないと思うのは多分僕一人じゃない。 「ま、判り次第どーにかして取り返すから、勘弁してくれよ、なあ」 分からなかったらどうしてくれる、もう年が変わるんだぞ! と言おうとした僕に、 「大体、お前が売ったわけじゃないって。俺その位は教授にも証言するから」 「お前がおんなじ目に遭ったらどうなんだよ」 「ああ、俺?少なくとも売れるほどのガタイしてねーもん」 あっけらかんと言ってのける。 「お前見栄えいいから、写真欲しがるやついんのよ。風呂のはご愛嬌だけどな、普通のな ら俺でなくても写して売ってるのがいるぜ」 絶句していると、小田はにやりと笑ってもう一言言ってのけた。 「写真くらい、養子に行く前のやっかみだとでも思えよ」 「……養子?」 「惚けやがって。いつだよ、来年か?それとも院生になってからか?」 お前もやるよな、と言われてぽっかり口を開けた僕に、小田は逆に驚いたらしい。 「まさかお前、……や、知らん振りしてたって教授はそのつもりだろ」 小田を抑えていた腕が緩む。 冬を迎えて人気は少ない学食、僕は思わず立ちあがってしまった。 小田は普段、それほど僕とは口を利いていない。その小田が当然の様に言うからには、僕 と教授のことを小田のように見ている連中は少なくない。 多少の噂は考えもしなかった、となると嘘になる。でも、ゼミの空気は険悪ではなかった し、西山が平然としているから安心していられると思っていた。 栗橋だって、板倉だって、特にその話に触れたことはない。 「座れよ、加納。や、苗字変わるんなら寧って呼んだ方がいいか?」 何度も、視界がシャッターを切ったようにぶれる。瞬きの間に、混乱から驚愕に、驚愕か ら恐れに、恐れから狂笑に、感情がめまぐるしく変わる。 「そん……な……」 「まあ、正直うまくやりやがってと思ってるけど、俺も。だからってお前を困らせるつも りとかはなかったんだからな」 肘をついて、カシミアのセーターなんか着ている男が座れと手真似する。 「合宿前からお前が教授のお気に入りだったことは何となし皆分かってた。免許だって、 教授のリクエストだろ、おい」 自分のコントロールをしきれないまま、僕は再び多少がたつく椅子に座った。 「栗橋先輩は取り入ったとでも思ったんだろ。お前イジメてんのも分かってたし、潰れて くれりゃラッキーだって、最初は皆して放っておいた。そうしたら、全然平気な顔で授業 出てくるんだもんな。合宿では教授が拉致るし、秋からこっち雑用はお前一人」 ゼミの連中が、そんな視線でいたなんて気づかなかった。 雑用も、板倉が手伝ってくれていたこともあるから、余り気にしてなかった……。 「これで何にもないって言うのはなしだぜ、寧。どの程度かは知らないけど、ただの教授 と学生です、じゃ済まねぇよなあ?なあ?」 ただ、小田の表情を見るに、余り不潔な想像はしていないようだった。 「ネガは流石にまずいから俺は本腰入れて探してる。けど写真はよー、今までの分くらい はねちねち言わずに、おかずにさせとけ。板倉なんか、真っ赤にして2枚とも見てたぜ。 あいつ意外にその気が……」 「2枚、だって」 僕は鋭く、小田を遮った。 「あれ?なんだよ片っぽしか見てないのか?板倉にちゃんと2枚、正規価格で売っ」 睨まれて小田は引きつった声を上げた。 「ゃ、今はほんと、売ってませーん。お前にこの前言われてからはもう全然……」 「もう1枚ってお前の手元にもあるのか」 一瞬首を横に振ろうとして、もう一度僕の視線を伺い、小田は屈服した。 拝む様に両手を上げておいて、 「ここにゃあないけど、家に……1枚ずつだけな。試し焼きしたのが」 「何がだけ、だ」 「ああ、止めて止めて、そんな言いかた未来のパパに似てきちゃ嫌っ」 頭を抱えたいのは僕の方だった。 写真は2枚?それに、学内でそんな噂がもう事実として罷り通っている? 「……一体、もう1枚って何なんだよ……」 呟いた後、再びがっと立ちあがった僕に、 「まっ、待てってや……っ!ふぁっ!!」 慌てて退こうとして小田が椅子ごとひっくり返る。 ガラガラと錆びたパイプの音を聞き流し、まず僕は板倉を探して問い詰めることにした。 僕はまじまじと、何の変哲もない写真を見た。 最初の1枚が風呂場だったから、覚えがないにしても凄まじい写真だったらと内心焦りま くっていた。 が、夏の合宿で考えれば風呂場以外で肌を晒した覚えはない。 教授の部屋でならともかくだが、締めきっていたし……論外だ。 それはさておいて。 「何だって、こんな写真持ったままにしてたんだよ、お前」 板倉隆介が渋々ケースから出したのは、合宿初日にアイスを買ったときのものだった。 宿についてからはのんびり過ごしていたし、近くまで歩く連中に加わった。板倉もいて、 ぶらぶらと歩きながら途中で一昔前の味だと言う小豆と練乳のアイスを食べた。 「オレも……写ってたから……」 ぼそぼそと言われれば、ああ、隣にいる。なんだ。 小田は大袈裟にものを言っただけか。ほっとした。 よっぽど僕は過敏になっていたのだろう、と片付けかかり、それでもやっぱり引っかかり はしたので僕はそれを吹っ切るために板倉の肩を叩いた。 「ま、あんな写真とワンセットにされりゃ、迷惑だよな」 3限は前回と今回、2回に分けての小テストだ。1回で点数取った人間は今日は暇で、取 れなかったメンバーは今日も参加だ。 板倉はケアレスミスで2回目も、となったと聞いていたから、二重の落ち込みだろう。 「オレこそ悪ぃ……言わなくって」 歯切れは悪いが向こうから謝ってきて、僕は多少気がとがめた。 「普通の写真なのに、何でこんなもの……」 ところで。何で板倉くん、顔が赤いんでしょうか。声も相変わらずぼそぼそと。 「お前、風邪?」 距離は別に縮まってない。なのに、板倉は僕から飛び退るように離れた。 「板倉……?」 「何でもないっ、風邪もないっっ」 手だけが伸びて、僕から再び写真を引ったくる。 「何か、悪いことしたか?」 栗橋はもう修復不可能だろけど、板倉は割と長い付き合いだ。 喧嘩は避けたいので取りあえず聞いてみると。 「……なあ、加納。お前、色々苦労したんだろうけどさ」 そこで不自然に息を吸った後、板倉はきっぱりと言った。 「鈍すぎ」 すたすたと僕から数メートル離れて、一度振り向き。 「彼女作れよ、お前も」 言ってから何故だか戻ってくる。 「ん、板倉の久美ちゃんみたいに、ブランドとかでなくって中身で勝負!の子を見つけた ら考える」 板倉は、どう答えてよいか分からなくなったようだ。たんたんっ、と右足で床を叩いて、 「……馬鹿」 手の甲で胸を小突いてくる。 「会ってねーのにんな世辞を言うなよ」 「一回見てるよ、コンビニんとこで」 具体的にどうだったかは遠目でだから不明だけど。雰囲気から多分当たりだろう。 「えーっ」 また真っ赤になってしまった後、再び数回床を鳴らした板倉は、小さい声で言った。 「サンキュ」 頷いて、僕は自分から立ち去る事にした。 「じゃな、板倉。頑張れよ」 板倉が、言えなかったことは分からないわけじゃない。 要するに、『咥えてる』ってだけのことだ。 ついでに思い出したが、一口くれと言われて、分けてやったんだった。 覚えていたら、きっと恥ずかしかったんだろう。 だけど、僕がまっさらで、時々鈍いだけだと信じている思い込みは嬉しい。 大学入って以来、僕は妙な奴だと周囲に思われているのはある程度慣れっこだった。 でも、この男は気にせず接してくれる。 多分お人よしの板倉くんは一生、僕が実際はどうなのか、なんて知らないまま楽しく人生 送るだろう。 教授とのことだって、最大限好意的に受け取ってくれてるんだろう。だから、小田みたい なことを言わず、馬鹿正直に心配したりする。 「……加納。また来年なーっ!」 ちゃんと振り向いて見ると、屈託のない笑顔はどこか胸に痛かった。 「加納」 「先輩、良い年を」 とだけ挨拶して通りすぎようとすると、腕が伸びてきた。予想はついていたので足を速 めてやり過ごす。 年の瀬にまで栗橋賢也に殴られるほど暇じゃない。 「待てよ、もう授業はないだろうが」 「教授の買い物があるんで、これで」 僕は、帰りがけに教職員の休憩室に寄って、教授から渡されたメモを栗橋に示した。 ローションなどの銘柄、食料品と、僕が思い出して数点の日用雑貨を追記している。 けっ、と吐き捨てる男は、それでも僕の後を歩くのを止めようとはしなかった。 ぐいぐいと人波をかきわけ駅に進むうち、後ろで声がする。 「―――この前は、悪かった」 一ヶ月近くもかけて、謝罪の言葉を捻りだしたわけか。しかも、こんな往来で。 正直呆れる。だがまあ、相手が下手に出ているのなら良い兆候かも知れない。 「気にしてませんよ」 「あれから、お前、またあそこに行ったのか」 「全然。暇ないですよ」 電話は何度かしている。一度はこっちから改めて詫びの電話。それからは相手が、こちら がいそうな時間を見計らってかけてくる。 最後の話題は、正月に所長に挨拶に行くのを忘れないように、というお達しだった。 「教授、この前のことでお前に何か言ったか」 むっとして僕は振り返り、思わず栗橋を睨みつけた。 「そんな方ですか、教授は」 横断歩道を渡り終える手前、青信号が激しく明滅している。 電子音のとおりゃんせが不吉な警告音に変わった時、向こうから駆けてきた人物が、栗橋 と僕とに気づいてやってきた。 「やあ、碓氷教授のところの学生さん」 堅苦しい灰色のスーツを着て、きっちり七三分け。今時見ないような堅い印象にそぐわな い気さくな挨拶。 「L―――社の人だったか」 栗橋が呟いたが、僕は黙っていた。 「今日、教授か小方助教授はいらっしゃるかな。一応アポイント申し込んでおいたんだけ ど、年末はお二人ともお忙しいご様子だからね」 製薬会社の営業には、色々な人間がいる。やたらマニアックなレベルで説明できるタイプ から、幅広く勧めてくるだけの人間まで実に様々だ。 「助教授は、まだラボにいると思うけど」 栗橋は小方助教授とさほど仲が良いわけでもないので返事が。多少ぞんざいになる。 「加納。教授は」 そのままの口調で聞かれて腹が立たないわけはないが、非常に今、誰とも関わりたくない 気分に急になった。何故かって? 「多分、追再試の関係で、2棟だと思います」 医学部は3棟大きな建物がある。ラボと呼ばれる研究施設関連も含めると建物は合計7つ だ。大きい順に1〜3棟の仮称で呼ばれていて、製薬会社の営業が許可証のみで入れるの は3棟だけと決まっている。他は事前連絡が必要だ。 看護学科も含めた医学部と薬学部の人間がひしめいているのだから、薬を持ってこようと 外部は外部として排斥するんだろうけれど。 逆に大学病院側は、それほどきつくない。接待の話なんかも良く聞くらしい。 「それは参ったね……そろそろお話を一つ纏めて頂かないとならないんだが」 急に男はがしっと栗橋の腕を捕まえた。 「君の方が先輩なんだっけ。ちょっとその辺りで話を聞かせて欲しいんだけどな」 その間に、僕はさっさと歩き出す。 「おい、加納?」 「失礼します先輩、また来年」 僕は半ば走るようにして、駅に飛び込んだ。 ホームで待つうちに電車がやってくる。何時もなら歩きだが、教授の買い物の一つは隣駅 にあるショッピングセンターで買ったほうが安い。 栗橋たちと分かれて、乗り込むまで1分かからなかったと思う。 だけど車両に揺られるうちに、そいつは背後からやってきた。 「―――学生さんは大変だな」 先ほどと同じかっちりした服装だが、迫ってくる気配は格段に違う。 多分この男から逃げ出した栗橋が見ていたら目を剥くだろう。 声一つとっても、馴れ馴れしさからしても別人だ。 「お付き合いする『エージェント』も大変だね」 小方助教授の帰国後直ぐに、L―――社の営業が代わった。助教授の仕入れた知識に見合 う人材を充てた、と言うのが思いっきり建前だ。 やってきた人物はラボにいた全員に愛想を振り撒き、名刺も撒いて寄越した。 根岸開。なるほど、今度は苗字つきでやってきた。3棟なら何時いようと怪しまれないし 学生と駄弁っていても睨まれるほどの事はない。 男は、夏に出会った『チーム』のエージェント『開』だった。 しかし、今更本当に西風が生きているんだろうか。 ショッピングセンターについてからも、僕は内心同じ問いを繰り返す。 「特に怪しい人物とかはなし」 棚の間を回っている僕の後ろで、適当に開も商品を見ている振りをする。 「ここ暫く、お前さん結構派手に出かけたりしたじゃないか。教授同伴で」 「ああ。学会のお迎えと先月末の松涛なら、変な人は見てないよ」 他大学の教授に相槌を打ったり、女優のご機嫌を図ったりしただけ。 「大体、後の方は知り合いすぎだ。そんなところに顔を出されたら、僕は絶対見つけてる よ。顔を変えていたとしたって、体つきでも近い人はいなかった」 5年前のデータと写真、そして現在予想される顔つきなどは、メールで指示されたサイト で覚えている。現在そのアドレスは使えなくなっている所に吉良の用心深さが窺えた。 『チーム』が何をしているにせよ、医学関係と親しいのは分かっていた。夏の病院以来、 日常に食い込まれることはある程度覚悟していたからそこらも諦めがついていた。 「整形した顔は分かるってか?」 「分かるよ」 よっぽど腕の良い形成にでもかかれば別だろうが、腹立たしいほど詳細に特徴や癖だった 行動を教え込まれては、西風かそうでないか程度は判別もつく。 「ま、とんがるなよ。長い付き合いだろうしな」 開は買う気になったのか歯ブラシを一本手に取った。 「で、教授とは相変わらずラブラブで?」 「……あんた本当に、僕と協力する気があるのか」 僕は棚の高い位置から、わざと開の頭を狙ってトイレットペーパーを引き落としたが、言 うことは腐ってても運動神経はまともなのか、するりと横によけられた。 「少しは格闘技とか習ったらどうだ?教えてやろうか」 「製薬会社の人間が?」 カートを押して進んでゆくと、鮮魚のコーナーにぶち当たった。端っこに置いてあるス モークサーモンが安い。 たまにはこういう品もあったら教授は―――っとと。今朝出てゆこうとさえ思った相手に 何で必要以上のものを買わなきゃならないんだ。 メモにあるものだけを手に取ることを僕は念じて買い物を進めていった。 ふと気がつくと、開の姿がない。 現金レジにでも行ったんだろうか。ここの支払はカードだから、僕は迷わずそちらに進ん で支払を終えた。 荷物を詰めていると、再び開がやってくる。 「新年の予定は、メール入れておけ。熱心な営業なんで、初詣とかにもご同行してやる」 来るな、と言いたいが相手はそれが仕事なんだろうな。 僕は不明瞭な返事をしてやって荷物を詰め込んだ。 片手にセンターの紙袋、もう片手にペーパーを持って外に出ようとしたら携帯が鳴った。 僕が頼みもしないうちに、開が腰から携帯を抜き取る。画面を見て呆れたようだ。 「愛されてるなあ、おぼっちゃん」 くるり、と向けられた画面には『教授』と出ている。入り口近くのベンチに荷物を下ろし て携帯を受け取った。 「……加納です」 にやにやしている開をどうにか撃退する方法はないだろうか。 「今、どこだね」 「買い物中です。何だかご親切なことに根岸さんが手伝ってくれて」 僕の声音に含まれたものに、まだ開は気づいてない。 「根岸……一体誰だったね」 「ほら、L―――社の営業の人ですよ」 教授の声は厳しくなった。 「何だって、君の買い物にまでくっついてくる」 「さあ。ただ、僕はひ弱だそうだから護身術でも教えてくれるとか」 ここで一呼吸おいて、言ってない事を付け足してやる。 「手取り足取り、だそうです」 「おぃっ、ちょっと」 押さえた声で言ってきても、気にしない。 「何をくだらないことを……今日はもう私も帰るから、駅で待っていなさい」 返事を待たずに電話は切れた。 目線はそんなには変わらない開を見ると、虫酸が走ると言わんばかりの顔だ。 「お前っ」 「覚えてもらうには、好意より敵意の方が印象強いこともあるんじゃない?僕にちょっか いかけている、と思われれば何時話していてもおかしくないし」 一瞬男の身体に震えが走ったが、そこは年齢か訓練の賜物か、次の瞬間には男は平静に戻 っていた。 体術より、感情を抑える方法を僕は羨ましく思う。 「ま、ものは言いようだな」 ぽん、と手にした袋を僕に放ってきた。 「え?これ……」 「やるから食っておけ。メール忘れるなよ」 中を覗くと、歯ブラシと、さっきのスモークサーモンが入っている。 顔を上げたときには、映画のお約束みたいに男は人込みに紛れていた。 妙な奴だ。多分、お互いにそう思っているに違いない。 袋を壊さないように膨れていた荷物に突っ込んで、僕は得したのか損したのか分からない 妙な気分を抱えたまま、再び駅に向かった。 頼んでないものを取り出した教授は、当然の様に問いかけてきた。 「これは何だね」 駅で合流してから、家に帰るまで。 今までで多分最悪に近い機嫌の悪さを見てしまって後悔した。 僕に対して中年以上の男性が声をかけることを余り教授が好かないのは分かってて、だか ら今回あんなことを言ったんだが。 まさか、所長並に険悪な空気になりはしないだろうな。 多少はフォローを考えないと、後に開が痛烈なしっぺ返しでも考えてきそうだ。 「あ、おいしそうだったので自分で買いました」 「歯ブラシを」 「スモークサーモンの方です。歯ブラシは、試してみようかと」 幸いそろそろ交換する頃だ。苦しい言い訳ってほどでもないだろう。 教授は、苦い顔のままそれも買い物袋から引っ張り出した。レシート入ってたから大丈夫 だったような気もする。 それでも、買ってもらったとバレたらとなんとなし腰が引けていると。 「……別に」 「はい?」 何度見られても、教授の眼差しは何となし怖い時がある。 疚しいと言えば疚しいので仕方ないんだが。 「欲しかったらカードで構わない」 「……へっ」 しまった、丸っきり気のきかない問い返しをしてしまった。 「だから。食べたいものがあるなら今度からはカードで構わないと言っている」 硬直してしまった僕の傍に、教授は寄ってきた。 「お前は普段から小食に過ぎるからな。別にもう、構わないから好きなものを買って食べ なさい。一々分けるのは止そう」 その言葉は子供を甘やかす父親の様で、否応無しに小田の言葉を思い出させる。 養子なんて、僕は望んでいない。 なし崩しにここにいる生活は止めにするべきだ、……お互いの為に。 息を吸い、言葉を準備する。 言えばいい、『来年の春までに出て行きます』とでも。 顔を上げたが、準備は無駄になった。 当然の様に唇が塞がれる。反射的に退く手を掴まれ、引きぬいた瞬間に指を絡められた。 最近大胆さを増した舌が、歯列をなぞる。 拒否しなきゃ駄目だ。そうしなきゃ、僕は……。 生暖かさが口腔を満たしてくる。目を閉じると、顎にかかっていた手が外れて、肩を回っ て抱きしめてきた。 一昨日じゃ、物足りなかったろうか。そんなことをちらっと思っただけでも沸き起こる嫌 悪感すら吸い取る様に、舌が絡まってきた。 僕は誰彼構わず罵りたい気分半分でそれをかわそうと試みる。。 養子にする相手に、こんなキスなんか、するものか。 「……っ、ぅ……」 離そうとしても角度を変えられただけだった。咳き込みそうになりながら、長々と口付け を続ける僕たち。 例えば小田は、こんなみっともない姿を被写体として望むだろうか。 僕のヌードなんか見て興奮する連中は、男同士のキスというのをどう思っているんだ。 何考えてるにしても、現実は綺麗なものじゃない。 戻ってこない日々の代わりに、教授がかき抱くものは、虚しい。 決して僕は、教授を満たしてやれない。弟子としても。家族代わりとしては、もっと。 教授が一番良く知っているはずだ。だから、離れられる。 せめて、僕が心の底から誰かを好きになれる立場だったら、この虚しさももう少し暖かく してやれただろうに。 打ち明けることが出来たなら、という仮定は、してはいけない気がした。 不肖でも、弟子は弟子だ。毅然としていたい。 こんな真似をしてても。毅然、か。苦さが胃にこみ上げたとき、身体が離れた。 「寧……」 「はい?」 口付けはもうなかったが、改めて抱きしめられる。 「もう駄目だ、などと思うな」 唐突に言われて瞬きをする。今度は困惑のまま、次の囁きを待つ。 「お前は私より若いんだ。何だろうと、諦めるのは早過ぎるぞ」 それだけ言うと、教授はまた僕を離して、途中で放り出されていた買い物の選り分けに戻 ってしまった。 「……博光さん?」 多分、教授は。 「それでこれは今日食べるのかね、それとも正月に?」 「今晩にでもサラダにしますけど……お嫌い、ですか」 何か感じてはいるのだろう。僕と暮らすなんていうのは、やっぱり正気の沙汰じゃない。 所長だって、僕が大学に入って自活すると告げた時はホッとしていた。 教え子の一人を引き取るほどの年齢でもない。僕を抱くより、再婚相手を探す方が普通の 神経だ。 教授も、まともではない。 優秀な学生ではない僕を敢えて手元で育てるメリットはない。 成績は意地でキープしたし、一つくらいは出来が良かったはずだ。自分では結構頑張った つもりだが、世間はそう見ない。 より高みを、と求められても、何時かは僕のほうに限界が来る。 案外、出て行くより追い出される方が早いのかもしれないな。 「……お前から聞いてくれるのは嬉しいものだな」 「お伺い立てるほど、作ってませんからね、料理」 今朝と完全に違う答えを、僕は返していた。また明日は、食事のことで腹を立てるかも知 れないけれど、今は本当にそう思う。 嬉しそうな教授の声は、余り聞いたことがなかった。 その声に見合うほどの料理なんか、作ったことがないし作れる腕前でもない。 「過大な期待はしてないからな。寧では」 同じ声で随分な言い方だったが、何となく、それでは多少は期待しているのか、と良い方 に取ってしまいそうな自分の思考に気がついた。 待てまて。スモークサーモン貰った程度で螺子が緩んだか、僕。 強張ってしまった僕に対して、教授の表情は逆に和らいでいる。 「砂糖と塩を間違えでもしなければ、別に気にしないぞ。緊張するな」 からかってるのか本気かさっぱり分からないが、馬鹿にしているわけではないと思う。 こう言う時、どんな反応をしたら良いのだろう……。 誰とも、こんな会話をしたことがなかった。幼い頃なら膨れて見せたろうが、二十歳過ぎ 「ご心配でしたら、どうか胃腸薬でも処方してください」 結局、僕はこんな言葉しか思いつけなかった。 「お前になら、もっと別のものを処方したいな」 「……僕、にですか?」 教授にってつもりだったんだけど、まあ良いか。僕は教授の次の言葉を待った。 けれど教授は、それが何なのかを説明する気は最初からなかったようだ。 「さあ、こうしている間手が疎かだ。済ませてしまおう」 「教授?」 「夕飯も、仕度を始めないと後で腹が空ききってまた食べないのじゃないか」 「……博光さん」 呼び間違ったのかと言い直してみても、教授は答えてくれなかった。 こうなると梃子でも教えてくれないだろう。 別に病人でもないのに、教授は僕に何を処方しようと言うんだろう。 この答えを、僕が得るのはまだ日数としては大分後のことだった。 来年どころか、僕は明日も思えなかったのだから。 平穏な時間は、こんな何となし曖昧な空気を残して僕たち全員から流れ去っていった。 |
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