死角


3


 ラボ側で何か騒ぎがあったことは、他の教室の学生にもある程度雰囲気が伝わっている ようだ。
僕はシャツだけでもまともなものに着替えていたから当事者とまでは気づかれず、板倉た ち三人も、何か知っているような素振りは、使い古された言いかただが髪の毛一筋ほども 見せなかった。
僕たちは急ぎもせず、さり気ない調子で警備員室の前を過ぎた。
もっとも、出て行くものに対しては入る時ほどの注意は払われない。
出入りはきちんと記録されているし、手荷物が不自然に増えているような怪しいことがあ れば、やはり彼らも呼びとめてチェックする。
「お疲れ様です」
 樋口はそれなりに愛想良く警備員に挨拶したが、彼らの態度は別段良くも悪くもならな かった。どうやら、栗橋はここの辺りからは大人しくなったのだろう。
番犬は外に向くだけで、中の騒動は気づかないものなのか。
 四人、学生棟本部へ向かう。つかず離れず、嫌な出来事のあった場所を逃れるように歩 を進める。
今更のように、珈琲が飲みたかった。
こんな状態ではきっと、味も香りも吹っ飛んでいるに違いないが、日常に復帰したいと願 う心がそう思わせる。
 教授にまで迷惑をかけて珈琲もないだろうが、と自分を罵りたくもなった。今、学長 にどのような説明を求められているのだろう。
助教授も、折角のテープと原稿が……いや、そんなことが問題なのではない。
学生同士の、取り押さえなければならないような喧嘩は、二人の監督責任になるかも知れ ないのだ。
 迷惑を、かけっぱなしだ。
必ずしも感謝だけを覚える相手ではない。
僕が人に言えないことをしている弱みをついて、今も拘束している教授に、それでも幾ば くかの済まなさを覚える。
期待に応えているとは言いきれない僕を、よく庇ってくれている。
必ずしも保身のためだけではない。それは、共に暮らした時間が教えてくれている。
教授は、僕を教授なりに大事にしてくれているのだ。
学内で騒ぎを起こした今もそうである、という保証はないに等しいが。
いやむしろ、散々庇いだてたのに全て無駄にしている学生を見きってもおかしくない。
優秀な学生なら、今年もゼミに入ってきている。
それでも、僕の何処かで小さく声がしていた。
博光さんは、そういう意味では非情な人ではない、と。
だから、厄介なことがこうして待ちうけているんだ。
せめて、大学内部に僕たちの関係が知れないことだけを、僕は祈った。
壊れるものだったら、歪な形になるより粉々に砕ければいい。
そうすれば、諦めもつくのだから。―――どちらが執着しているにせよ。


 医務室で手当てを受けると、幾分気持ちは落ち着いた。
擦過傷だから、消毒薬を吹きつけた程度だが、背中にパイプ椅子にぶつかった時のものら しい痕もついていて、うっすらと青ずんでいるらしく、板倉が『いたそー』と子供のよう に言って、小田に笑われた。
 痛いのか苦しいのか、余り僕には区別がつかなかった。
いざ事情聴取になった場合、栗橋は有利だ。立派な大病院の跡取、寄付金だって大金が投 じられているだろうし、成績も凄いものだと聞いている。
狡猾さも大胆さもあるから、こんな事態でも自分に都合の良い言葉を並べ立てて、僕を貶 めにかかることは十分に考えられる。
対外的には、完全無欠の優等生。
僕は、……身よりもなく、教授一人が頼りだ。
所長は、家庭教師センター内部での問題児に対しては、生徒・教師の別なく厳しい。
祥代さんの事件では僕を褒めちぎりもくさしもしなかったそうだが、もし彼が今回の件を 聞けば、相当の腹立ちを覚えることは間違いない。
学費を打ちきられれば、僕はおしまいになる。いや、その前に自主退学するように言われ たりすれば、それはそのまま僕の死刑執行書にサインされるに等しい。
僕一人では、浮かび上がれない。
「……大丈夫、加納君?」
 額に冷たい感触があって、視線だけを上げれば、樋口が僕の額に濡れたタオルを押し当 てていた。
「ひょっとして頭痛とか、してる?頭ぶつけたでしょ」
「大丈夫だよ。有難う」
 一応笑ったつもりだったが、樋口は顔を顰めただけだった。
板倉が、態々しゃがみこんで僕と視線を合わせる。
「何か飲むか。お茶とか」
「ここ、飲食禁止だろう」
「あ、そうだった」
 とはいったものの、板倉は分かっていて問いを発したな、と僕は思った。
小田と板倉は、僕に見えてないと思ったのかそっと目配せをしたのだ。
タオルが額に当たっている分、逆に僕の視線は隠される。僕は自分の手でタオルを押さえ て、樋口の指の感触が離れるのを待った。二人の目配せには気づかなかったものの、樋口 も思わしげな表情は変わらない。
 即断はいけないことだが、悪い印象はなかった。
彼らだって、僕が被害者である事は判っている。ただ、大学側の判断がどうなるか次第で 掌を返してくるのはどうしようもない。
暴力を一方的に振るわれた、それだけを盾にすることは危険過ぎる。
ペナルティを軽くしてもらうために、どう戦うべきか。
完全に、僕たちは対立した。
だったら、勝たなくてはならない。二度とこちらに手が出せないように。
でも、……どうやって?
 暫く黙って考えていると、額の冷たさは生ぬるい物へと変わっていた。
息をついてタオルを外す。
「冷やす?」
「有難う、もう、いいよ」
今更、諦めることも、何処かに入りなおすことも出来ない。
見苦しい真似は、しない。逃げるものか。
ゆっくりと立ちあがった時、ドアが開いて現れた顔に僕は再び罪悪感を刺激される。
 小方助教授は、やはり苦い顔をしていた。
「手当ては済んだか」
 機嫌を損ねたなんてものではない声だ。
助教授がこの様子では、教授ばかりか学長も駄目かもしれない、それでも僕はどうにか 自分を奮い立たせる。
「はい」
 思ったよりは、堂々とした声が出た。
ふてぶてしい、と思ったのだろう。助教授は渋い顔のままこう言った。
「加納寧君、学長がお呼びだ。話しが出来るなら来るように」
 何故か僕よりも、板倉達の方に目に見えた緊張が走ったのはおかしかった。
別に、三人に誰かが害を及ぼすわけでもないのに。
医務室に一緒にいたからと言って、栗橋が後で嫌がらせをするとも思えないが。
頷いて、廊下に出る。樋口は慌てて、板倉は息を詰めたまま、小田はどこかかったるそう に出てきた。
助教授は、彼らをまるで僕と共犯であるように睨む。
「君たちは、自分の勉強に戻るように。この件については後で教授から纏めて皆にお話し がされるだろう」
三人は不承不承、『はい』と口を揃えた。
まだゼミ全体にあれこれ言われるわけではない。ほっとして、助教授の後を僕は黙ってつ いていった。
板倉が何か言いたそうにしているのが背中だけで分かったが、僕は振り向くのを止めてお いた。
僕と係わらなければ、もう少し落ちついて過ごせるんだろうな、あいつも。
「……反省はしてるのか」
 前を歩く男にいきなりそう言われて、僕は何を反省することがあったろうと内心首を傾 げた。
「少しは、対人関係に気を配っているのかと思えば」
 こちらを振り向かずにすたすたと歩きながら、助教授はこちらにだけ聞こえるように言 って来る。
「あんなにされるほど恨みを買って、それで平然としてられるのか」
 どうしろと。万人に好かれる性格でもないし、そんな人間はいない。
ここでこの男とまで拗れたくないから、僕は何も答えず黙ってついていった。
「返事は」
 教授の冷静な追求とは違う、粘液質な問いかけが疎ましい。
僕はこれから、学長の前に立たされると言うのに、その前に気力を削いでおこうとでも言 うのだろうか。
「何も感じないということか?」
「怖くて仕方がありません」
 恐怖心は、素直に認めてしまうに限る。
「……怖い?」
 僕は地べたに叩きつけられかねない状況なのに、怖くないなんてことはない。
失ったら。今までの全て、無駄にしてしまったら、あの手が遠のいてしまう。
それが何より怖い。
「さっきは堂々としている風に見えたがなあ」
嫌味には、それ以上は答えずに僕は前に進む。
結構早足の助教授について行くにはあちこちが痛む。
でも、ここでそんな姿で哀れを誘おうとするほど、僕は愚かでも卑屈でもない。
「それで、こちらには一言もないのかな。優等生は」
 晴れがましい舞台の記憶を破壊されたことが、余程悔しかったらしい。
「……些細なことで、助教授にもご迷惑を」
「些細かどうかは問題じゃない」
 こんな嫌な奴だったのか、こいつは。
「君が悪かったから、こうした事態が……」
「僕が一方的に悪いと、助教授は仰るんですか」
 言ってしまってからしまった、と思わなくもなかったが、もう遅い。
助教授はくるりと振り向いて、数歩僕の所まで戻って来た。
「予断はしたくないが、そうした挑発的な態度は『誤解』のもとだな」
 軋むような嫌な声で言って、それからまた背を向ける。
「遅れるぞ。急ぎなさい」
 今までに倍する早さで歩き出した男の背中に、自然奥歯に力がかかる。
痛みが続いていても、それほど気にはならなくなっていた。
確かに僕は、嫌な奴かもしれない。落ち度がなかったとは言えない。
でも、自分の喧嘩に暴力や姑息な手段だけは、使うものか。
前を歩く男の背に刺さりそうになった視線を、どうにか伏せる。
弱い相手をねちねちといびるような真似も、金輪際するものか。
そうするうちに、終点が見えてくる。
 学長室の前には、教授と栗橋がいた。
栗橋は、不貞腐れたような印象が残っているものの、既にある程度憤懣を吐き出してしま ったのだろう。僕を見る目には苛立ちが残っていたが、迫力はなかった。
着ていたシャツにも、幾分皺が寄っている。僕から引き剥がされた瞬間には抗ったのだろ う。
「連れてきました」
 素っ気無い助教授の声より、教授の表情の方が余程感情が伺えなかった。
本心を表面に出すことを、学内での教授は滅多にしない。
口元が僅かに綻ぶこともあるが、それにも大概の学生は、厳しさを感じ取るようだ。
教授は慕われる、というより畏れられている。それでも教授の地位につけただけ、人間関 係は円満なものを築いてきたのだろう。
「入りなさい」
 促した声にも、教壇にいる時との差は感じられなかった。
「学長が、お待ちだ」
 古いが、木目を美しく見せたドアの前に立つ。建物に微妙にそぐわない所を見ると、僕 が入学する頃には取り壊された旧館から運ばせたものかも知れない。
ノックする拳に僅か振動。跳ね返ってきたのは痛みのはずなのに、むず痒さのような曖昧 な感触しか与えられなかった。
「失礼、します」
 声まで裏返りそうな気がした。栗橋の視線は、面白がっている。僕の緊張を見過ごすは ずはない。
負けるものか。
気概だけはあるけれど、僕に何が出来るのだろう。
交互に浮かび上がる考えを揺れ動く秤に載せたまま、僕はドアを開いた。


入って、静かに閉めようとしたが少しキイッ……と音がして、背が竦みあがる。
嫌な音だ。
 すぐに見えた秘書が使うらしい机には、人影はなく。
少し奥のドアが開いていて、僕はそちらに進んだものかどうか迷った。
「すぐに行く、待っていなさい」
 奥から届いた声に、僕は学長の使う方だと分かる重厚な机の前に立つ。
こうした場所に立つのは、実はそんなにはプレッシャーではない。
家庭教師のバイトで、何度も何度も所長の机の前に立っている。
そう、あそこの机も丁度こんな色合いで、材質もほぼ同じなのか、逆に見慣れた印象を持 てることに僕はほっとしていた。
拳になりそうな手をどうにか、自然に両脇に垂らす。
所長なら、びくびくした態度は平手ものだ。
厳しさの点では所長以上の男を僕は知らない。
短気なのではない。一挙手一投足、片言隻句にも意味がある。
所長が今回のトラブルを聞いたら、何と言うだろう。
もし彼に弁解することになるとしたら、僕はどう納得してもらおうとするだろうか。
奥から出てきた銀髪混じりの初老の男に対して、その想像は殆ど役には立たないように思 われたが、一つだけ良いこともあった。
落ちつけたのだ。
怖くても、知っている事柄に結びつけることが出来れば、少しは増しになる。
メタルフレームにポイントだけ金色の、余り趣味が宜しくない眼鏡をかけた学長は、何を 考えているのだか予想もつかない無表情な眼差しで僕を上から下まで眺め下ろした。
そうした眼差しも、出会ったことがないわけではない。気味悪くは思うものの、苛立つほ どでも竦むほどでもなかった。
「加納……だったか」
今日日、学生を呼び捨てにするのは凄いものだ、という気はしたが、僕は僅か頷くと同時 に小さく『はい』と返事した。
「困ったものだ、今日の騒ぎは」
 そう言いながら、学長は自分の座りごこちの良い椅子に腰をおろす。
僕は当然と言うか、立ったままの状態だ。
「実に困った。まあ、私も困ったが君も困ったのだろう、加納」
一人合点しているように見せているが、その実眼鏡拭きを取り出して拭っている男の視線 は、僕を伺い見ている。厄介な相手だ。
「何故、ということには正直、興味はない」
ひた、と硝子を通さない眼光がこちらに据えられる。
焦点が合わないはずの目が、僕を射抜くようだ。
「結果だ。結果として、学生どうしがいざこざを起こし、器物損壊が若干。軽症が一人。 加害者は、被害者に挑発されたと言っているが、ものは壊してないと言い張る」
 ここで間が空いて、
「今のことに、反論はあるかね?」
「挑発をした覚えはありません。むしろ、向こうの挑発に僕が乗りました」
僕の答えに、光を絞り込むように目が細まった。
「それはそれで困ったことだ」
学長は眼鏡拭きをきちんと畳んで、デスクの抽斗にしまいこみ、それから一度深く椅子に 座りなおして、言った。
「これはあくまで、とある一個人からの提案だが。結果として何もなかった、で済ませる 気はあるか」
 冗談じゃない、と答えようとした瞬間に、栗橋の視線を思い出した。
嫌な、どこか優越感を取り戻したような印象が、なかったか。
何もなかったことにしろ、と言われて浮かぶような表情か、あれが?
 犯人なら、何もなかった、で済ませられれば少なくとも証拠が隠滅出来る。
逆に犯人でないなら、濡れ衣が晴らしきれずに腹を立てていても、僕を殴った事実も連動 して消えて、処罰を受けずに済む。
どちらでもおかしくないような気がしたが、何かが引っかかる。
いずれにせよ、僕がマシンを壊され、殴られた事実がなしになって一方的な損だ。
瞬時に考えなおして、口を開こうとしたその時。
「少なくとも、現時点で何かが起きていない方が、望ましい」
噛んで含めるような言葉に、暫く俯いて考えた。
「騒ぎになったことは、薄々皆感じてますよ」
「すぐに、消えるだろう」
なるほど、僕が黙っていれば、の話か。
「もう一方は、その条件を飲んだわけですか」
「犯罪は、訴える側がいて初めて成立するものだ」
 声の調子は全く変わらず、それが余計に、学長が今回の事件を表沙汰にしたくないこと を強調している。
また、僕は暫し黙った。
そう言えば、大葉条にデザインの注文をしようとした栗橋の実家の連中は、『幾ら出す』 としか言わなかったと大葉が嘆いていた。
跡取のためにも、巨額の寄付金を投じているのだろう。
トラブルの類は学長レベルででもねじ伏せてもらえるような。
 諾の一言は感情が許したくなくても言うのは簡単だが、それでは廊下にいる男に負ける ことになる。
ここまであからさまにならないとしても、また同じことの繰り返しだ。
僕は顔を上げた。
「先輩は何時頃からか僕がお気に召さない様で、色々と誤解されそうなことを仰います。 今回何もなかったとしても、また何かが起きない保証にはならないでしょう」
「来年は彼も受験だ。そう後輩を構ってもいられないだろうな」
その通り、僕なら気に食わなかろうと構いつけずに自分の足元を固めた。
でも現にあの男は、こちらに対して……
僕の気持ちを見抜いたように、学長は刺すような視線を向けた。
「それとも、それほど先輩に構いつけてもらえるほどの人物だと、自惚れる理由があるの か、加納」
返答に困る言い換えだった。
「彼が君の持ち物を壊したかどうかが、本当に知りたいか」
「いいえ」
 これには即答できた。僕があの時腹を立てたのは、壊した誰かに対してじゃない。
それを良いことに脅しにかかってきた栗橋に対してだ。
いざとなればこうして守ってもらえるくせに、姑息な真似をしたあの男に。
「では、なかったことに出来るか」
この男は、所長より権力があるとしても、器は小さいな、と思った。
所長ならば、「出来る」とは言わない。「する」と言うのだ。
他人の意志がどうあれ、自分の望むままの結果に導く男。
彼は、今のこの状態を見たら何と言うのだろう。
「今後、似た様なことが起きない保証は何処にもありませんが」
「それは、大学側が直接関与することではない」
 学長がどうにかしてくれるなど、微塵も思ってなかったが、言いたい気持ちを押さえ なかった。
始めてしまった以上、対立は続けるほかがない。
ただ助けてくれと喚くのでは、僕の負けだ。ここでは譲歩するのだとしても、愚かしい抗 いだとしても、何ができるわけでなくても、負けたくはない。
 一つ息を吸うと、言葉の調子を落とした。
「学内で先輩と争うようなことは、僕もしたくはありません」
滑らかに、『学内』の部分を少しだけ強めて、後は囁きとまではゆかないが低く小さな響 きに変える。
一度敵対した以上は、もうあちらも容赦することはないだろう。自衛をしなくては。
暴力は大嫌いだが、向こうが使ってくればどうにか方法を考えて対抗してゆかないと今回 の様に殴られ損になる。
 僕の意味した所は、正しく学長に伝わった様だった。
「一度拗れた関係は、なかなか元に戻らないようだな」
 椅子に座ったままの男が、残念そうに溜息をつく。
「僕個人のことでしたら、不幸な事故と思っています」
 学長が知っているとは思えなかったので、僕は交流会のテープと原稿も一緒に損傷を受 けたことを伝えた。
「オリジナルのテープは、残っていないのか。それは小方の問題だよ。頼まれた君が悪い のではない」
この件では僕は個人的な問題以上の責められ方はしないようだ。むしろ学長は、形ばかり とは言え同情している様子を見せる。
 栗橋との遣り取りも念の為話したが、これは意外にも食い違いが殆どなかった。僕が相 手を犯人と思いこんでのことだと、向こうが主張しているのが唯一大きな相違点となって いるが、それ以上の脚色をしなかったわけだ。
 やがてこの問題について知りたいことを僕から引き出し終えた学長は、暫く熟考するよ うに動きを止めた。
どうせ、答えは最初から出ているのだ。お咎めなし、僕には文句がつくものの、被害者で はあるから処罰は双方になし。そんなところだろう。
顔から表情を消した男は呟く様に静かな調子でこう言った。
「当事者と教授達に入っていただきなさい」
 秘書はいないから、それは僕への命令だった。
ドアを開き、招じ入れる教授は無表情、助教授は多少苛立ちを消せず、栗橋は当面の勝利 を疑っていないことが目元にだけ現れていた。
僕を見て僅かに小鼻はひくついたから、僕自身は蒼ざめていたのかもしれない。
教授たちは学長のデスクの傍らに、僕たちは並んでデスクの前に立った。
「学長としては、君たちの軽挙に対して厳しく当たろうかとも思った」
 声の調子が、厳しいものになって僕たちは自然と背筋を伸ばした。
「だが、君たちの不仲は昨日今日のものではないらしいし、教授達からもそのことについ ては心を痛めておられる旨、先ほど聞いたところだ」
 少なくとももうゼミの連中は知っている。その中の誰も話していない保証はない。
お喋りなのは余計な尾鰭をつけて、友人に話したりしているかも知れない。
そうすると、僕への嫌味とばかりは限らない。元から優等生の栗橋に対してけちがつくよ うなことをしてやれと、誰かが仕組んだものではないと言いきれもしない。
嫌な奴と見たら、容赦なく叩き落しにかかる男なのだから。
やられたからといって噛みつき返すのはその誰かを喜ばせかねない。
この事態は気に入らなかったが、辛抱が必要だと自分に言い聞かせた。
 誰かを殴ったり蹴ったりするのに躊躇しない男が、物を壊さない保証はないが、僕を待 ち伏せして殴ったほうが手っ取り早かっただろう。
「自主的に、十日ほど自宅で頭を冷やす気はあるか。勉強で忙しいとはいえ、ゆっくりと 自分のことを振り返る時間も必要だろう」
「ちょ……」
これは意外だったのか栗橋は声を荒らげかかったが、学長は眉一筋動かさなかった。
「君たちを大学に、医者になるべく送り出した人が、こんなことを聞けばさぞがっかりさ れることだろう。詰まらぬ足の引っ張り合いはやめて、学生の本分を考えなおす時間を持 ちなさい」
 確かに、詰まらない問題だ。
学長を煩わせた罰、というのは可笑しいが、反省しろと言われるだけの騒ぎではあったの だから、大人しく俯いておいた方が良い。
視線からすると僕の態度は栗橋と助教授には面白いものではなさそうだったが、教授は僅 かにほっとした様子を見せた。
「それでは、この件は……」
「注意を聞くだけの冷静さがどちらにもあるならば、私がこれ以上言う必要もないと思う が、碓氷教授。……君たちは行きなさい」
 鷹揚で容赦のない命令に従うのは慣れている。
ドアをぐいっと押し開けて出ていった栗橋に続いて廊下に出ようとしたとき。
「ああ、加納」
戻って来たドアを片手で押さえて僕は振り返った。
「来島氏に、先日はご厚志を感謝しているとお伝えしてくれ」
 手を叩くような重さが、その瞬間気にならなかった。
「……はい」
「宜しい」
 僕は黙ったまま、廊下に出てドアを後ろ手に閉めた。
 所長は、随分と大学の事情に詳しいと思ったことがある。
ゼミを選ぶ時に、口出しをされておやっと思ったことがあったが。
ニュースソースが誰だか、漸く分かった。
そして、何故、栗橋と僕との争いで学長が荒立てる真似を嫌ったのかも。
(『先日は、ご厚志を』)
 手抜かりを、所長がするわけはない。
僕の所にくるのは、学費の納入報告だけだ。寄付金は、最低二桁の額が、振りこまれてい るだろうとは思っていた。
寄付金の多寡については、所長は言及もしたことはなかったし、契約のうちには含まれて いない。
だけど、学長が『ご厚志』というだけの額を、所長は支払っている。
それが何より今回、僕を守ってくれたと言外に言われたのだ。
「……どうした、加納」
 扉を閉める寸前に、見た教授の横顔。
驚愕はなかったけれど、下唇の目立たない皺が、くっきりと歪みを見せていた。
内心の揺れが、この先僕にどう向くのか。
対立が続いているのは、栗橋と僕だけではないのだ。
教授に不利になるような言動は避けなければならない。
迷惑をかけてはいけないのだと、僕は再び自分に強く言い聞かせた。
 所長は、僕を何時だって足下に踏み敷いていられるのだから。

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