死角


5


 すっ、とミニテストをやっていた生徒の手が上がったのを見て、僕は座っていた椅子か ら立ちあがって傍に寄っていった。
「……どうしたんだ」
「'dead men's shoes'って、解説にもないんだけど」
中学生でも分かる範囲の英単語で構成された言葉に、余程深い謂れでもない限り、解説な んてつくことはない。
「それぞれの単語の意味、分かるか?」
「死んでる人の靴を貰ったって、きしょいじゃないかよ」
 英語が昔から駄目だというこの生徒は、一事が万事この調子だ。
「文脈で読むんだよ。そこ、問題には引っかかってくると思わないなら飛ばしてもいいわ けだろう?」
「うーん……」
 割りきりも遅い。関係ないと言ってやってさえ、妙な部分で横道に逸れる。
試験会場で手を上げたって、誰も教えてやれないとさっさと分かってくれ。
そこまできつくは言えないのと、シャープペンシルが手の中でぐるぐると意味のない動き を始めたので、僕は今回は教えることにした。
「それは、『仕事を引き継ぐ』ってことだよ。解雇されたり、亡くなった人のやってたこ とを、ベンジャミンが担当することになった、そう言ってるんだ」
「ふぅん……」
「ついでで教えとくと、'put oneself in one's shoes'って言葉もある。『誰かの立場に
立つ』って意味があるから、二つ覚えておくといいかも知れないな」
真面目にノートに書きこんでいるので、続けるように言って椅子に座ると、もう一度手が 上がった。
「先生、でも、靴が動かないで人だけ変わる気がするよ。変だ」
「……そうだな」
 日本と違って、昔の西洋では革靴は高価だったから、主人の靴を貰って履くようなこと もあったらしい。と言ってしまえば雑談になってテストにはならない。
「靴だけ残ってるのも、寂しいよな」
 強情な教え子のそんな言葉が、何故か忘れ難く耳に残った。


 ラボに戻って来るのは、ここの所日が暮れてからになる。
野菜サンドとラテを入れた紙袋をデスクに置いて、トレーナーに着替えようとロッカール ームを開けると、
「先輩、また野菜」
 非難とも呆れたとも諦めともつかない声が背後からした。
「新木。開けるなよ、こっちの分だけだぞ」
「ちぇー……」
 何が、ちぇー、だ。そう思いながらもドアを閉めた。
ここ半年ほど過ごすうちに、それなりに打ち解けてくれたのはいいんだが、人の食事をあ れこれ言うのはどんなものか。
心配してくれてるのではない。卵やツナサンドがあると、半分なくなるから止めただけの ことだ。
食事のことなら人に食いつきかねない板倉も、新木の被害にあっている。
着替えを終えて出てくると、新木は恨みがましげに紙袋をにらんでいた。何か目ぼしいも のがあったら貰うつもりでいたらしい。
「奢ってもらうのはサークル程度にしておけよ」
別に問題があると思わないから、手をきちんと洗ってから、紙袋から野菜サンドを取り出 した。
「バッタみたいだ」
 新木は椅子を引いてきて、僕の近くに座る。
言葉のぶつ切り傾向は少しだけ取れてきた。それでもまだ周囲から見れば愛想が悪い内に 入るが、単に暗いだけだろう。
「……別に、好き嫌いってほどのものはないぞ」
野菜サンドを口にした時、しかし新木は知ってるとは思えないことを言ってきた。
「雲丹が嫌いって聞いた」
 ニュースソースは分かっているが、無視する。
教授は何処まで喋くれば気が済むんだろう。そう考えた僕は結果間違っていたことを後で 知ることになる。
胡瓜がぱりぱりしていて食べやすい。これだったら、胡桃入りのブレッドとやらでもおい しかったかもしれない。
「珈琲ばっかり飲んでて、甘いもの食べなくて、少食で」
「……るさいなあ」
野菜サンドでも欲しいのかと差し出してみたが椅子を軋ませて退かれた。
「誰も寄せないくせに、優しいのな」
 新木は、何が言いたいんだろう。
「何だよ、それ」
要らないなら食べてしまうが、元々は僕が買ったものだし。
「だから、変なメルが来るんだろう?」
 口の中が、石を食んだ様にじゃりっと音を立てた。
「それは、関係ない」
 嫌がらせと思われるメールが、栗橋との決定的な対立を呼んだ喧嘩以来、頻々と大学の メールアドレスに来ていた。
調べてみても、様々なフリーメールやアドレスから発信されている様で、送信者は複数の 人間で、大学の中にもいるだろう、と分かったのはついこの間だった。
 一度賦与された大学のアドレスは、滅多な事では変えてもらえない。ログを印刷し、溜 め、ヘッダーを調べて学内の悪戯もあるとわかった途端、一日十通近く来てはウィルスだ の爆弾だのを抱え込んでいた不特定のメールは引っ込んだ。
 ゼミとの連絡の退避用で限られた数名に教えていたアドレスには来なかった所を見ると 学内でも僕が覚えてないか知らない連中の可能性が高い。
もっとも、今や同席しても無視する間柄には、教えてないから百パーセントの保証はでき ないが。
 出すのを忘れていたラテを取り出して、煽る。
勢いをつけていたからか、口の端に温くなった液体が垂れるのを感じた。
新木が喉をごくり、と鳴らすが、珈琲くらい自分で買うものだ。
「ほんっとに珈琲好きな顔して飲むんだなあ」
 珈琲好きの顔ってどんな顔なんだろうか。
好きなことは確かだが、と思いながらも口を拭って紙コップを脇におく。
「それ貰う」
新木の手が伸びてきて仰天したが、紙コップは渡さなかった。
「……残しただろ」
「残してない、一気に飲めるかっっ」
「俺は飲む」
 やっぱり、腹が減ってる板倉とこいつからは逃げるに限る。
「買って来いよ、学食で」
「けちっ」
 再び紙コップを手にしたまま今度は僕が後退した。
ポケットで軽い振動が起きる。
「先輩、電話」
 言われなくても分かってる。
「手、塞がってると取れない」
 そうした原因は誰だ。
正面を睨んだままコップを脇に挟み、携帯を取る。
視線を逸らすと飛びかかってくる気がするのは何故だろう。
別に暴力を振るわれたことはないが、野獣相手でもいる気分だ。
顔を合わせたまま、液晶を見やすい位置へと調節する。
表示されている名前は溜息をつくのも飽きるほどで。
通話スイッチを入れて耳に当てる。
「……はい、加納です」
『今、ラボか。他には』
 教授は、珈琲でも飲まない限り、無駄口は叩かない。
「はい。……新木と、僕だけです」
 手伝いというか、荷物運びかな、と思ったが教授の口調は常と違った。
『そうか、なら15分ほどしたら駐車場に来たまえ。多分二人ともで構わないと……』
少々、誰かに確認するように間が開いて、『良いそうだ』と声が付け加わる。
『授業があるなら、別に新木君は構わないぞ。君は確か、休講だったな』」
 確認を装う命令。僕の脇で聞き耳を立てていた新木もそれを聞きつけたのか、ぎゅっ、 と口元が歪んだ。
「大丈夫……って」
 僕の白衣の袖を、おいて行かれまいとする小さな子が掴む様にして言って来る。
「すぐに参ります」
 僕は気に留めずさっさと言って、一秒開けてから通話を切った。
「新木、着替えは?」
 頷いた後輩と共にロッカールームに入り、着替える。
何時もと同じ様に物言いたげな視線が横から浴びせられていたが、気にしない。
大体、この後輩の言いたい事は同じなのだ。
「……先輩、絶対にノーって言わない」
 この、牛並に頑固な後輩は、万年反抗期だろうかと思う。
家庭教師先の生徒のほうが、年下である分素直だ。
「……教授には」
「行きたくないなら、別に断っていいぞ、新木」
 大した服装はしてないが、家庭教師先に行っていたこともあるので、小奇麗な様子にう つらないこともないだろう。
ほつれなどもないだろうかと一応点検はして―――これを怠ると教授に何か買われかねな い―――ロッカーを閉め、鍵をかける。
盗難や破壊騒ぎは別に僕に限ったことでもないそうで、年に一度か二度はあるのだと聞け ば、溜息が出るばかりである。
休講さえなければ断る以前に呼ばれない。
 最近、教授の態度がかなり変わりつつある。自分のお気に入りであることを、仲の良い 教授の前でほのめかすどころか、一度など医局にいる時に教室から態々、板倉と僕を呼び 出してくれた。
 西山が、栗橋と対決する形になった僕たちをからかい半分もあって連れまわし、看護士 たちに怒られたこともある。
誰かの目が、必ず僕に注がれている。
いいことじゃないか、と言う人間は多い。おかしなことにはなりにくいし、僕に何かをし でかしてバレたら教授の縦横関係が黙ってはいないだろうから、と。
学外の、バイトのシフトも漏らさないようにしているし、外にばれる可能性は低い。
 しかし、目が増えることは、それだけ怖いことだと僕は思う。
所長、教授、栗橋、開を通じた吉良、……板倉、新木、西山、小方助教授。
 知っている者の眼差しに紛れて、あの騒ぎの本当の主は僕を見ているかもしれない。
気にする相手が、多ければ多いほど、僕の意識はそこから反れる。
誰かに背中を見てもらっているとしても、それは僕の目ではない。
必ず、死角は存在するはずなのだ。
僕やその周囲に卑怯な一撃を加えるために。
どうか、その一撃が避けられますように。
そう願っていた僕は、愚かだった。


 駐車場について、思わずUターンしたくなった。
教授の後ろにいるのは、MRと思しき男達が数名。
その中の一人は、教授の所に来る誰よりも知っていて、知らない奴である。
根岸開。通称だか本名だか混ぜてるんだか、ともあれ油断ならない相手だ。
と、知るのは僕ばかりであって……自分の学生たちが来たことで機嫌のよろしい教授に食 って掛かるわけにもゆかない。
 西風の件は進展なんかないし、僕の行動だけ報告されるんだろうな。
教授に舐めるように可愛がられている、とでも言われそうだ。
開には相当な誤解をされているし……否定しきれない部分もあるけれども。
「先輩……」
 新木は訳がわからずにいる。まだ、接待なんて言葉には縁が薄いのだろう。
「教授にごゆっくりお話を伺える機会を頂けるとは」
 開ではない、年配の、多分課長だの部長だの肩書きつきの男が、お世辞たらたら言って いる。
「3棟の会議室を、と思ったが、塞がっているのだそうだ。申し訳ないな」
「いえいえ、お時間を作っていただいたのに、場所まで、とは図々しい。社屋ですが、色 々と資料をお見せすることも出来ますし、お送り致しますので、ご足労を」
 過剰敬語には辟易したが、僕に向けられたものではない。
「学生の方々にも、幾つかペーパーを」
 社屋まで、足を運ばせる。これだと接待がどうの、と言われる。学生も同席していて、 たまたまの会合と雑談だった、特に何も過剰な接待はなかったことを証言する。
こうしたことは、別に医者の世界ばかりでもないだろう。
 現金や、美食ばかりが賄賂にはならない。絵画、宝飾、そうしたものは趣味でない人間 が持っていては怪しさだけを喚起する。
では、どうするのか。
医者の世界は、研究をやっている教授のような世界では、喜ばれるものの一つが『情報』 である。
膨大な医療雑誌の全てを読破し、常に最新の情報を網羅した上で、研究に没頭している人間 はかなり少ないと言いきってもいい。
 何せ本当に、半端な量ではない。自分の専門に係わる部分だけを読んでいたとしても、 アルファベットを拾い上げて熟読するのに、一日何時間を割かれることになるか。
教授はそれほど苦労はしていない。理由は幾つかある。
 まず、教授の語学能力は英語やドイツ語ではネイティブ並であること。
次に、マンションの雑誌の数冊は、勉強と称して翻訳が学生たちに回されていること。
自分でやらずに日本語で読める上、辻褄合わない場所だけ原文をチェックして弟子に突っ 込む楽しみもあるようだ。
 そして、『資料』として渡される、製薬会社の回す情報だ。
集める手間を考えると、非常に、非常に楽である。
別にやれと命じたわけではない。あくまで『参考に』渡されるだけで、金銭的なやりとり でもないから波風は立たない。
他にも、講演を頼んだり、地方の宿を押さえる便宜を図ったりもする。
あくまで『紹介』という形を取ればいいのだから、ホテルや予約を入れた製薬会社側で割 引があっても当然と言いきれる。
それで全額払わせている教授も少なくないらしい。
 碓氷教授も、そこまでではないにせよ、例外ではない。
医療機器や試薬の多くが血縁でもある七瀬側を契約するとしても、他社が入れる余地はあ り、そこをどこに割り振るかは、彼の胸一つにかかっているのだから。
医者としてと言うよりも、教授としての権力。
大学の君主たちの傍にいる僕のような存在を、MRたちはどう見ていることやら。
 脇をチラリ、と見遣ると、新木はまだ訳がわからず突っ立っている。
帰したほうが良いのかもしれないな、と思ったが、
「さ、どうぞ」
 上司に目で促された開が、深々と一礼して車のドアを開く。
タクシーを使わないのは、交通費はそれなりに饗応扱いになりかねないと、大学側もそれ なりに神経質にはなっているからだ。
社用というより、接待の為にだけあるような仕様の車だから、実質は何も変わらない。
 学生二人は黙って、教授とは別の車に乗りこむ。
(先輩……)
(しぃっ)
 流石に不安になったのか、スーパーの前に置き去りの大型犬のような目つきになった新 木を横目で睨む。
「……失礼、大丈夫かな、学生さんたち」
 教授の側に乗りこむのかと思っていたが、運転席を開けて入ってきたのは開だ。
「サークルや授業は?二時間ほど教授をお借りするから、その間大人しく遊んでてくれる と嬉しいんだが」
「……どうも、『根岸さん』」
 祥代さんの件以来、あまり表立った接触をしていない。久々に顔を合わせることになっ た僕の皮肉な口調も気づかぬ体で、開はイグニッションを捻る。
「そっちは、後輩か?」
「新木」
 ぼそりと、苗字だけでも名乗ったのは上出来なんだか不出来なんだか。
「はいはい、アラちゃんだな」
 開の口調は、教授の眼がない時にはかなり砕けたものになる。僕は思わず吹きだしてし まった。
「タラちゃんじゃない、俺は新木っ」
 おっ、単語のぶつぎりじゃないぞ。
というのか、聞き間違えも可笑しい……。
「だから、あらきのアラちゃん」
「違っ……先輩!何笑ってんだよっっ!!」
 ばしばし叩かれても、可笑しいものは可笑しいわけで。
後は、むっつりと押し黙ってしまった後輩に対し、今度、融通の利かない真似をしたら今 の遣り取りを漏らすと脅そうかな、などと考えつつ僕は窓の外を見ていた。
ミラーごしの開の視線は、相変わらず不快なものでありつづけたけれども。


 L―――社の本社ではなく研究部門のビルの会議室で、様々の『資料』を渡された後、 僕たちは早々に席を立つことになった。
話が余りに専門的過ぎるから、と、学生たちは辺り障りのない社内見学ということで開放 されたのだ。
 タイトスカート、ぷっつり切ったショートボブの美人女性が出てきて、当面は新木と二 人で引っ張りまわされていた。
僕たちの胸元では、ゲストナンバーの大きなバッヂがカチャカチャ鳴っていたが、社員は 見学者には慣れているのか、こちらを見向きもしないのが殆どだ。
綺麗なブース、いるのは必ずしも白衣と眼鏡だけではない。
「実験棟のほうは、本日はお見せできないの、ごめんなさいね」
 時間を限った上、誓約書を書かされるなどかなりのややこしい手続きがあるようだ。
未来の医者だと思うからか、単なる仕事好きか、本間というプレートをつけた女性はすこ ぶる親切で、先ほどの社内の不機嫌を忘れて新木がぽうっっと見入ってしまっている。
ちら、とカルチェを眺めて、再び笑顔。
「そろそろ、休憩したほうが良いかしらね。この階では飲食できないから、下に行きまし ょうか。飲み物とか、ケーキは?」
「僕は、珈琲だけで」
 新木はもじもじし始めている。先ほどから会話のたびに、本間の襟ぐりを覗くような位 置になってしまっているので、目の毒になっているらしい。
「あの、俺……その、トイレ。せっ、先輩は?」
 余りの分かりやすさに頭を抱えたくなる。
前がセーターで隠れているけれど、身体の反応は致し方ない。
「行ってこいよ。待ってるから」
 苦笑して言うと、新木はエレベータ脇を小走りに逃げるように向かう。
それを待っていたように、本間の胸元でPHSが鳴った。
「はい、3422本間……はい、主任。はい。……畏まりました」
 通話を切って、ボブの頭が軽く傾げられた。
「ごめんなさい、主任が、二階の小会議室Aでお待ち下さいって」
「主任?」
「えぇ根岸主任が」
 一応、肩書きつきだったのか。そんな妙な感心をしながら、言われた通りの場所に案内 される。
 会議室にはテーブルと椅子だけで、誰もいなかった。
「ちょっと、座ってて。お友達は、後でご案内するわね。それじゃ」
 怪訝な顔をしながら本間が去ったが、何が起こるにせよ、開からの接触だ。
緊張してる場合じゃないだろうと、爪を立てるようにして拳を握った。
扉近くの壁に凭れて待つうちに、ノックもなしでドアが開く。
入ってきた靴先が思ったより大きいと気づいた時、そういうこともあり得ると分かってい たのに、再び動揺が喉元までこみ上げた。
長い脚の次は、大きな手。ドアノブではなく、ドア本体を握って開ける、病的に白い指の 太さを隠すような手袋。
ぐっと入って来た人間の背丈は、会議室の入り口より遥かに高く、煤けた毛髪は薬品を浴 びたような艶のなさ。
その下にある肌も、手と同じ色合い。
がっしりとした骨格、太い、髪の色と同じ眉。灰色の虹彩。
背広を着ていても、威圧感から軍服の方が似合うと言いたくなるほどだ。
「……吉良」
大きな身体をどうにか通したドアが、静かな悲鳴を立てて閉まる。
 声が震えなかったことを、辛うじて誇れた。
年齢は、教授とそう変わらないように思われる。年月だけは、誰の上にも平等に流れたわ けだ、と安堵と緊張とがまざった感想が湧いた。
その癖に、あの手で目を覆われてから一年は経っているのだけれど、大量の血を失ったあ の時と今と、大して差はないような気もしてくる。
吉良の姿は、雷のショックで生まれ、己の醜さに絶望したあの怪物を思わせる。昔に出く わしたときには、ただただ恐ろしくて、腰を抜かしていただけだった。
「……三山は元気?」
僕の弱点はどうせ知られている。開き直って先に尋ねた。
「五体は無事だ」
 無表情な答え方は、好ましくはないが嘘とは思えなかった。
どこにいるかは聞いても教えてくれないだろう。
「奴は見つけたか」
「残念ながら、墓さえ分からないよ」
生きてはいないだろうと思う。たとえ逃げ出したのだとしても、助かる傷ではなかったの ではと。
「死ぬはずがない。探せ」
「どうやって」
「奴はお前の近くにいるはずだ」
恐ろしいほどの確信をもって、吉良は言ってくる。
「僕の周辺は、しっかり見ているんだろう」
「西風を庇うのか。お前を見捨てた男を」
 この男は既に狂っているのではないだろうか。
それでも、会話としては辛うじて遣り取りできている。
「何か見つけたら、あの子のために喋ってる」
硝子の向こう側に、清浄な空気としかいられない少年のために。
弟の助命と引き換えに兄を売るのか、と言われてもやるだろう。
「本当に、見ていない、声も聞かない」
 繰り返すと、本当に人工生命のような得体の知れなさを宿す男は一歩下がった。
「ここには、今、もう一つ、いや二つ、お前の大事なものがある」
 言いたいことは瞬時に分かった。
このためだけに三人バラバラにしたということか。
ここが吉良のテリトリーか、その一つだからこそ、開を使えるわけだ。
吉良の服には、当然なのだろうがゲストのバッヂがない。社員証も見当たらないが、警備 員がどちらかを表に放り出すとしたら、恐らく僕のほうだろう。
 それでも、怯む理由にはならなかった。
「新木と教授には、身内もいる。下手に手を出すと、そちらに火の手があがるよ?」
「お前がぐずぐずとしていれば別だ」
 吉良にすれば、僕もさして変わって見えないのだろう。
三山の影に庇われて、震えていた少年と同じ姿をしか見ない。
脅せば何でも言い付けを果たすのは、この男の部下だけだ。
「僕なら、七瀬悠架に探られる真似だけはしない」
 死人かどうかはともかく、失踪した相手を探し出すよう、所長や教授に頼むことは全く の不可能な問題ではないだろう。
しかし、それには今までの僕のことを打ち明けなくてはならない。一歩どころか半歩間違 えば僕が気違い扱いされ、鉄格子の入った病室行きとなる。
 精神的な問題ばかりではない。この男の手は身動き取れない僕の首をやすやすと締める ことだろう。
精神を病んだものの身体が後を追うことは、少なくないと聞く。そんな風に偽装するくら い、たやすいことに違いない。
 果たして、七瀬の名前は効いた。
威圧感が僅かに引く。
「……もう一度、洗い直せ。全てを」
 軋るような声に、憎悪と言う油は役に立たないのだろうか。
「お前の周囲で、様々起きている。死人も出たのに、お前に何事もないとは信じ難い。探 すのだ、奴は生きている」
 狂気が源にしても、強固な意志には少々羨ましい気もしてくる。
「やってはみるよ」
 けれど、吉良にとっては生きていても、僕には死んだ男なのだ。
同じ日本でのうのうと暮らしているのなら、とっくに捕まっている気がする。
 僕の考えは吉良には分かっていただろうが、表だって反抗しなかったことで取りあえず は満足したらしい。
「探せ。以上だ」
 再び怪物の手によってドアが短い悲鳴を上げる。
悪夢にしか出てきていなかった男が、再び何処かへと出て行く。
そのまま、夢のままに消えて欲しい。
吉良も、西風一海も。
残るなら、……残るなら言葉でだけ生命を保証されている三山だけでいい。
 何の匂いも、気配の名残さえも残さず吉良が消えた後も、暫く僕は動かずにいた。
指紋を取られないように手袋をしていた男を廊下に追った所で、何か掴めるわけもないだ ろうと思ったのだ。


 教授や、新木と合流する時には、既に本間の姿はなかった。
応接室で珈琲とケーキを出されたが、持ってきたのは普通の受付嬢で、吉良に呼ばれでも したのか開も、首を傾げていた本間も出てこない。
 そのことを新木は随分残念に思っている様子だったが、出されたケーキは何とか言う上 等な店のものだとかで、全く手付かずの僕のに手を出そうとして、教授に睨まれた。
それなりに収穫があったのか、資料のファイルは分厚いものになっている。
 僕にも、嬉しくはないが収穫があった。
本拠地に呼ぶような馬鹿な真似はしていないだろうが、吉良の拠点のひとつがここである こと。
ここの研究部門から何か盗まれたのなら、それは確かに追っ手がかかってもおかしくはな い。
恥ずかしい話、最初につかまった時は動転しまくっていて、自分が逃げたりつかまったり していた地域をおおまかにしか特定していなかったのだ。
更に言えば、その辺りだろうと考えていた場所が、人気のない辺りだったのもあって近寄 らないようにしていた。
相変わらずお世辞と専門用語だけで喋っている偉い人間のことは半分無視して、僕は渡さ れた見学者用の資料をぱらぱらとめくった。
詳細ではないが、フロア地図も出ている。
新木が脇腹をつついてくる。仕方ないのでそっとケーキの皿を押しやった。
まだつついてくる。
「……学生さんは、やっぱり研究志望かな?」
 にこやかな声にはっとして顔を上げると、担当部長(だったと思う)がにこやかに、教 授が無表情にこちらを見ている。
「あ、製薬会社の見学は初めてだったもので……」
当り障りのない返答のつもりだったが、両脇の視線が痛い。
「すごく熱心に見てもらっているのだけど、来年国試かな?」
 首を振り、まだ二年先だと答える。教授の無表情は一瞬僕に向けられただけだが、一瞬 と思って安心していると後で困ったことになる。
「とてもお出来になる学生さんばかりだと根岸を通じて伺っているから、そんなかわゆら しい顔をして聞いてもらえるとおじさんでも悪い気はしないよ」
「先輩は」
 ぼそっと新木が呟くので顔を向けたが遅かった。
「オヤヂキラーだから」
「新木っっ」
「はっはっは。後輩くんは、面白いこと言うねえ」
 微妙に突き出ていて多分本人も気にしているだろう腹を揺すって担当部長が笑う。
教授は気にしてない振りだ。
丸っきり本気にされてないと思ったのだろう、新木はまた言葉を続けた。
「だって、根岸って人も」
「『だって』、じゃないっ」
 勘弁してくれ……教授は笑った顔を張りつかせてはいるが、革張りのソファーの肘にさ り気なく置いた手の指が、僅かに食いこんでいる。
自分のテリトリーである大学で、親しげに僕と話す連中を細々チェックされるのは非常に まずい。
「仕事で親しい人間を、セクハラまがいの発言にするのは止めたまえ」
 叱責にしては声は非常に穏やかで、その分後の嵐が恐ろしい。
しかしこれにも新木は何か言いたそうだったので、思い切り睨み付けて黙らせた。
ケーキでも食ってろ。
「……こんな具合でね、優秀かどうかはともかく、癖だけは豊かなのが多い。地道な研究 にどの程度残ってくれるかどうか」
「いやいや、教授のお弟子さんたちなら、正直今のうちにでも唾をつけておきたいと、お や、これもまずい言い方になるのでしょうかな」
 後は元通り、大人同士の穏やかな腹の探り合いに戻った担当部長と教授は、もう学生二 名のことは歯牙にもかけない様子ではあったが。
これで、開がいない間にもう少しだけ詳しくこの施設について質問しようと思っていた僕 の思惑は大きく外れることとなってしまったのだった。


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