死角


4.5


某月某日 雨のち曇り

 鍵を預かっておいて正解だった。
以前に暮らしていた場所より彼を連れ帰る。
気力が落ちているのか、本来なら謹慎状態のためか、口数少なし。
昨日に肉体的にも精神的にもかなりのダメージを負っているが、問いかければ返事がある ので、疲労しているだけと判断。
隠れ家を見つかったことは気にしているようで、助手席の窓ガラス越しにこちらをちら、 ちらと見ている。例の男なら底が浅いと罵るだけだろうが、何らかの理由で追い詰められ たとき、人間は馴染み深い場所を選んで身を隠そうとするものだ。
思いついて尋ねてみる。
「こちらに車を寄せてもらわなかったのか」
 バリウムでも突きつけられたように鼻の頭に皺が寄り、彼は答えた。
「……何処が良いかとは尋ねられませんでした」
 都合を聞いてもらえるような相手でもあるまい。
何かを学ぶことにかけては熱心だが、自分へ学費を出している男の事となると彼は消極的 になる。
徹底服従を要求され、これほどまでに従順な青年に育て上げておきながら、あの男は尚も 何を望んでいるのか、私には理解し難い。
勤勉さ。我慢強さ。理解力と判断力、才知が光るわけではないが、努力で己を磨き上げる 青年は、あと十年のうちに自分が予測しているより遥か高みにいるだろう。
 それを、あの男は萎縮させるような真似ばかりしている。
力だけで留めておける相手ではないと、理解していないのか。
それをも上回る暴力なら、屈服すると信じているのか。
愚かだ。それをどうにかしようとする私も含めて、愚かだ。
彼にとっては、私たちはどちらも足枷のようなものでしかないのだから。
 車を走らせるうち、助手席で彼が身を屈めるのが分かった。
エアコンは切ってある。急激に身体を冷やすようなことはない筈だが、と信号待ちを利用 して様子を窺う。
視線が、虚ろと見えたが、彼ははっとしてこちらに向き直った。
笑顔を浮かべようとしてうまくゆかず、紙のように歪んだ。
慌てて引き伸ばして、元通り、いつも通りの大人しめの平凡な青年に戻そうとする。
一度ついた狼狽の痕跡は、捻った紙のように隠しようがないのに。
「寝ていなさい」
 アパートでは軽いパニックを起こして逃げさせそうになった。
これ以上脅かすようなことはしたくなくて、そう言ってみる。
「すぐにつくが、シートくらい倒せるだろう」
 声に出そうとして呼吸が引き攣ったのか、半秒ほど間が開いて、彼はどうにか綻びを繕 った顔で首を横に振った。
暖かいものを取らせた方が良いのかもしれないが、精神的なダメージを受けていると吐き 戻すことも考えられる。
細かい震えが、膝の上で拳を作る左手に現れている。
私はギアから手を離し、その上に重ねた。
 小さく、息を飲む音。
再び虚ろになりかかっていた目が、膝を見下ろす。
その瞬間に青になり、発進までの間のうちに手はギアに戻さねばならなかった。
貸しきり状態となった道をひた走りつつ、もう一度様子をそっと窺う。
必要以上にさり気なさを装う必要はなかった。
左手を、彼は見つめていた。
自分には理解できないようなものに触れるように、おずおずと右手が重なる。
前髪で隠れて目元は分からなかったが、もう震えてはいなかった。
安堵の息を堪えた。車以外の音は、怯えさせてしまう気がしたのだ。
 そこまで彼を追い詰めた男を、憎いの一言では片付けられなかった。
影響の強さだけは、まだ私は越えることが出来ない。
ステアリングに僅かに力がかかった。
始めるのは、これからなのだ。


 硝子細工のように透明で脆くなっている彼を、ともあれ浴室に入れた。
湯は沸いているし、シャワーだけが良いならそれを浴びるようにと言っておく。
虚ろさを押しのけて何かを言うこともならず、彼はのろのろと、着せておいた上着を脱ぎ 出した。
疚しい気持ちで見ているわけではないが、視線は鋭くなる。
今回、見えるような傷はついていないようだ。
下着に手をかけた時点で、青年は私が立ち去らないことに気がついた。
 互いの裸ぐらい見慣れているものだが、やはり無防備になると感じるらしい。
「着替えを持ってくる」
 言うと、安心したのかこくりと頷いた。
手を洗う間に、いつ見てもバランスの取れた骨格が引き戸の向こうに消える。
寝室から洗ったばかりのパジャマを取り出して戻ってくると、ドアは閉じて、静かな水音 が流れていた。
 深夜帯だから、周囲により、気を使っている。
迷惑にならないように。目立つことがないように。年齢にそぐわぬほどの自重。
息を潜めて、気配を殺して、彼は何を恐れているのだろう。
私か、あの男か。どちらもか、それ以外の誰かか。
不本意なことだろうが、年上の同性の目を引く存在だ。大学の内外を問わず、視線が向く 先に静かに存在している。
 学問に対する熱意があるのかと思われるほど大人しい性格、と皆は見ている。
私がそれを良いことに手元で使っているのだと言い放った男もいる。
それは違う。
彼の内側には、間違いなく常人では持てないエネルギーが潜んでいる。
だからこそ人目を引くし、無意識にそれを悟っているから大人しく振舞うのだ。
 意見の合わない同じゼミの先輩である学生と、どんなやりとりをしたか聞いた者は皆、 その事実を認識した。
頭脳では優位に立つ相手を激昂させ、暴力に訴えさせるほど堂々としていた。
いざ、一人になった時、思っても見なかったような肝の太さが外に出てくる。
破れかぶれには思われない。授業で、質問でやりこめる時、習い覚えたことを総動員して 答えるのがやっとな質問に全力で向かってくる。
 あの時の目が、とても嬉しい。
誰に対しても噛みついてきた私と違って、爪や牙を出すべき場所を知っている。
だから、手放せないのだ。
もう、己の遺伝子を残す意味を持てない。それは私個人の価値観では虚しいものになって しまった。
ただ、既にある存在を育てることは出来る。
私という水がめから、彼の内側に全て中身を注ぎきることなら、有意義と言える。
既に青年が持っているものを、より高みへと引き上げて生命に触れさせることは、私にし か出来ない。
後見人だろうと、それだけは敵わないのだ。
 脱衣籠に着替えを置き、濡れた衣服は洗い籠に放りこむ。
全自動だが洗濯機を回すのは彼だし、時間が時間だから私がやってみても非常識だと後で 怒られることだろう。
バスタオルを棚から取りだし、着替えの上に載せておく。
どんなに落ちこんでいても、彼は強い。
自分を哀れむことがない。自傷するより自嘲を選ぶ。
 他者の視点で自己を笑って立ちあがることは、師である私にも容易くはなかった。
いや、正直に言えば、私は彼にその方法を習ったのだ。
水音が止まった。いや、数度、短いシャワーの音がする。床を洗っているようだ。
珈琲を淹れるべく、台所に向かった。自室に閉じこもろうとしても数分かかるだろう。
それに、性格上黙って引っ込むほど無愛想ではない。
 湯を沸かしていると、背後に静かに影が立った。
湯気を纏い、熱を得てぬくみを取り戻した唇がようやくまともに動いた。
「迎えに来てくださって、有難うございました」
私は頷き、ほっとして青年がゆこうとするのに片手を挙げ、飲んでから休むように言い、 それから彼が裸足なのに気が付き、言葉を改めた。
「寝室で待っていなさい。持ってゆく」
暫し躊躇った後、彼は横に首を振った。
「少し、起きています」
声に戻ってくる力強さが、後ろで忽ちけたたましく鳴り響くケトルの音を辛うじて上回っ た。
椅子に腰を浅くかけ、大人しく座って待つ。互いに珈琲には口煩い。
変わらぬ香りが立ち昇り、白いマグカップに、いつもの半分ほどの量を注いで渡した。
牛乳はいらないと言う。カフェインが入ろうと、疲れていれば、人は眠るものだ。
 一口飲むごとに、回復してゆく様子が見て取れた。
言葉でも手を取っても足りないものを、暖かい香気が癒してくれる。
ここまで彼を好ましい青年と思うのは、珈琲のせいもあるのだろう。
同じ物を飲みながら、そんなことを考えた。
無言の時間が、心地よいものに変わってから、彼の手からマグカップを受け取った。
洗おうとする彼を押し留めて水を入れて放置し、共に寝室に向かう。
私は二時限目があるのでそう寝てもいられないが、彼はゆっくり眠れる。
入り口で、カフェインを摂取しても取れない疲労のためか、少しだけよろけた。
先に入らせようとしていた私は、咄嗟に抱きかかえる形になる。
 強張りが一瞬、腕の中に生じた。
触れられることを極端に嫌うからか、と離れようとして、今度は私の動きが止まる番だっ た。
右手の甲に、微かな温かさ。
指先は冷えていたが、掌はまだ握っていたマグカップの温みを残していた。
自分でも何をしているか分からない眼差しが、私の手を、そして重ねてしまった彼自身の 手を見ている。
一秒もなかっただろう。
慌てて離れた身体にはまた緊張が走り、唇は閉じて、頬骨の辺りに狼狽が色をつける。
僅かな体温の上昇は、眠るのには役に立つだろうか。
「お休み、寧」
彼を横にならせ、私も片側に滑りこんだ。


 ゼミの人間には昨日の件につき固く口止めを行い、急いで授業を行った。
質問日ではないので直ぐに帰るつもりでいたのだが、やはり学長から昼過ぎに呼び出さ れた。
前もって弁当が取り寄せてある辺り、それだけ長く足止めするつもりでいる。
「大人しくしているか」
彼が見れば豪勢なと呆れ返りそうな、まだ温かい弁当を食べていると、言わでものことを 尋ねられた。
「なかったことになったのでは」
 この男と私は、同じ師の元にいた。年代的な隔たりはあるので、学長の方が数年上で ある。
「そう刺々しい声を出さなくとも。心配をしてはいけないか」
白々しい。顔に出さずに思ったが、付き合いはそれなりにあるので無駄とは言える。
「陰日向なく仕えてくれているそうだが。秘書を雇う気がないから学生で間に合わせてい るなどと言う者もいるようだよ」
 どうせ笠間辺りだ。口さがない男だが、こちらが足元さえ固めていれば問題はない。
わざわざ沢庵を煮つけて、余りおいしいとも思われないお菜にしたものを口に入れた時、 学長は更に面白くない事を口にした。
「昨日丁度、『彼』の後見人から連絡があった」
「『元』後見人です」
「学費を出していることには変わりはない」
それに寄付金も。具体的な金額は聞いていないが、学長がわざわざ取り成すに足るだけ のものを払っていたのは、万が一の厄介な事態をねじ伏せるためと、自分がいつでも物 事を思いのままに出来るのだと、彼に知らせるため。
後者の方が良かっただろう。
「しかし随分と相手に恨まれた。ゆくゆくは娘婿に、と思っているのに横合いから鳶に攫 われた、と」
 娘婿。マンションまで押しかけてきた、小生意気さを持った顔が浮かぶ。
養女なのだと、彼から聞いている。血の繋がりのない相手を自分の名の元に結び付けて、 それであの男は虚しくないのだろうか。
 しかしこれは、私も笑えない。
彼を大学終了後も身近に置きたいならば、人の手を借りることになるだろうからだ。
姻戚関係は、しばしば有望な人材への有効な保身、出世手段として使われる。
その効果を見て、他の欠点があったとしても目を瞑り、望んで縛られるものも多い。
望まないものに対しては、何を差し出せば良いのだろう。
 器用だから外科医には向いていると言える。体力にやや難ありだが、体調管理と栄養と で補えないレベルの問題ではない。
整形外科を選んだのは何故か。ゼミの試験の時の答えは無難そうなものだった。興味があ るからだと言っても、地味で、学費を返すのに稼げる分野とは言いがたい。
 強いて言えば私の研究だが、人工関節、いや、骨格としてさえ代替が利く素材の発見は 七瀬側の資金と部分的には人材提供があってこそなりたつものだ。
盗んだり、自分一人の手柄に出来るものでは決してないことを、彼は良く分かっている。
 現在の技術では、患者本人の身体とある程度適合しはしても、摩擦による炎症や他の部 位への損傷を完全には防げないのだ。
だからこそ、人工関節、人工軟骨の研究は必要なのだが……。
彼の身近にそうした技術を必要とする人間がいるとは聞いていない。
いるのかも知れないが、あの克己心では語ってはくれまい。
 どの弟子よりも私の身近にいるとはいえ、完全な信頼を勝ち得るにはまだ長い時間がか かる。
幸い、どちらも健康体だ。必要だけ時間をかければ良い。
「敢えて欲しがるのなら、筋は通せ。トラブルは極力避けたい」
今日明日の問題ではないので、私は昼食の礼だけを言って立ち上がった。
どうせ学長が私を簡単に切り離すこともないのだ。


 もう戻れるかと思っていたが、足元に草が結んであるようにまたしても私は呼び止めら れた。
三年次の、彼が面倒を見ている後輩である。
子供の扱いに慣れている彼が呆れるほど強情な学生だと言うが、院生に聞いてみたところ では懐いているらしい。
口をへの字に結んでこちらの前にずい、と出てくる姿は最低限の礼儀からも遠い気がした が、一瞥するだけで十分だったのか、彼は慌てて一歩下がった。
「何かね」
まっすぐに姿勢を伸ばしたのはまあ、悪くないが相変わらず視線は近所の頑固親父でも見 るように反発と遠慮の矛盾を混ぜ合わせて言いたい事が知れない。
「昨日の、ことで」
 文節を区切るのは当節の流行なのか。
「今朝の話を聞いていなかったのかね」
 私の言葉には思った以上の力があったのか、三年次は一歩下がった。
「それなら先輩は。出てきても」
 まるで私が不当に閉じ込めているように詰る。
彼によらず誰に対しても虐待も酷使もしていないが、そうは見えないらしい。
あの男もそういうのだろうと思うと、少しばかり業腹だが。
「彼は自主的に行っているし、時間を無駄にする真似はしていないと思うがね。他に何か 言いたいことがあるのなら、要点を言いたまえ」
 ややあって、少しはましな答えが返ってきた。
「端末を壊したのは、ゼミの人間じゃない……です」
「誰か見たのかね」
 竦みあがり、それでも必死に後輩は言葉を纏める。
「名前は言わないと約束しました。事故だったって。探しに入ってきて、帰ろうと思って 飲んでたペットボトルを引っくり返したって言ってて。だから」
「随分と都合の良い言葉を言うのだな、相手は」
 その言葉自体、怪しいものだ。しかし引き下がらない。
「ゼミの奴でないなら、先輩は」
 私は黙って相手の目を見た。
懐かれているのは問題ではないが、懐かれすぎのようだ。
仮にも指導教授に正当な理由無くして食って掛かる学生が許されるものだろうか。
流石に青くなった相手は、言葉を途切れさせる。
弟が、兄を気遣うような感じだが、何せ彼は自分に向けられる感情に鈍い。
もう少し影響力に気が付いていれば、少なくとも謹慎の事態は免れたはずだが。
いや、よく我慢している方だ。
「ともあれ、もう済んだことになっている。彼には君が気遣っていたことを伝えよう」
それと、一つ付け足した。
「彼に直接謝れば、そう怒りはしないだろうと相手に言いたまえ。事故なら尚更、その場 できちんと弁明して欲しかったものだが、もう遅い」
 一つ頭を下げ、三年次は脇に退いた。それでも納得してはいない。
数メートルを歩いた時に、彼の傍に幼い顔つきの少年が走りよるのが見えた。
ちら、と視線をやると、慌てたようにその少年を相手が自分の背後に押しやる。
私から隠すようにしたことから、その少年が『事故』の原因かとも思ったが、たった今済 んだことと言った以上、追求しても仕方あるまい。
格別に害意もなさそうな、小柄な横顔はそれほど興味深いものでもなく、私は今度こそ、 誰にも邪魔されず車に乗りこむことが出来た。
 時計を見れば三時近くになっている。
中途半端に戻れば、不要な気遣いをさせるだろうし、思いつきである店に寄った。
立場上、家族同様に思っていても庇ってはやれなかった。
また彼は怒るかもしれないが、この方法ならさほど問題はないだろう。


 林檎のマークの描かれた箱を前に彼は黙っていた。
私がまた碌でもない思いつきをした、と顔にありありと非難の色が出ている。
喜怒哀楽を少しずつ表に出してくれるようになったと、実は嬉しい。
もう少し図々しくなってくれても、とも思うが、これは性分だろう。
「どうせ、データは移さなくてはならないのだろう?」
「僕のはあくまでついで、ということですか」
最初は私が1台買って、古いのとデータを入れ替えて渡そうかと思ったのだが、彼がマッ キントッシュを使用しているためにOSが違い、この案は駄目になった。
「済まないが先に、セットアップとデータの移行を頼みたいんだが」
 プロジェクタやデジタルカメラ、医学用語辞典、他計測器のドライバーなど、インスト ールしていたらかなりの時間がかかる。
彼の時間をそれだけ圧迫することにはなるが、一日かそこいらの作業だ。
「データ類はそれなりに大事なものだから、君に是非頼みたいんだが」
抗うのは無駄と諦めたのか、彼は諦め半分に頷いた。
「……有難うございます。作業、明日始めます」
 深々と溜息をつかれたので、どうしたと聞いてみたところ、
「最新型なんか持っていったら、壊されるどころか盗まれますよ」
という返事が返って来た。
過ぎたるはなんとやら、と言うことらしい。
夕飯は何時もより品数が多かったので、喜ばせるのには半分成功したらしい。
もう少し、別の方法でとも思ったが、後日に期待することにした。


追記

贈り物に気を良くしたからではないだろうが、随分と素直だった。
マシンのセットアップは予定より遅れそうである。


Back Next





Copyright 2001-2004 PleasurePrinciple Web master:ai-shiba@mbi.nifty.com