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十日の自省する時間を与えられて、先ず最初にしたことは、部屋の片付けだった。 学生とは汚すと言うより散らかす職業だと時々思う。 教科書、ノート、ノートのコピー、プリント、レポート、医学書や雑誌や補強で読むリー フレットにパンフレット……バインダーに閉じる様に習慣づけていても、印刷物は部屋に 溢れ返り、溜めこんだつもりはなくても一隅を閉じてしまう。 こうなると、不思議なもので勉強しにくくなる。朝読むものを昼に、昼読むものは深夜 になり、気がつけば数日後に埃を被ってどれが必要だったかと判断する前に頭に叩き込む べき資料が増えるだけだ。 だから、窓を開けて埃を落とし、掃除機をかけた。ついでに部屋についているが碌に使 っていないエアコンのフィルターも埃を吸い取っておく。 雑巾を照明の傘にかけ、目立つ場所をざっと拭き取ると、掃除機をかける時に部屋の真ん 中に寄せた資料の山の前に腰を下ろした。 これだけは色を買い揃えているマーカーペンを取り出す。 レポートや印刷物をカテゴリ別に外科や内科、解剖学や発生学、生理学などに分け、マー カーを引きつつ仕分けする。 複数の分野にまたがっている資料は複数のマーカーを見える様に引き、必要ならインデッ クスをつけた。 穴をあけるべきものはパンチで空け、余白のない資料はビニールのシートに挟む。 資料を整理する時は、資料に読みふけってはいけない。 必要な知識だが、すぐに詰め込まなかったものなら整理した後で詰めこむしかない。 僕が怠けていたのだ、結局の所。 十日間反省の機会を貰えたのだと思って、しっかり覚えることにしよう。 のこのこ出歩かなければ誰とトラブルにもならないし、やることもたくさんある。 どんな騒ぎがあろうとも、医学生である僕を違うものにするわけではない。 今回、たとえ所長に救われたのにせよ、そのことがとても有難かった。 夕飯の支度を挟んで3時間ほど、没頭していたので作業はそれほどの時間もかからず終 了した。 教授は凝ったものを要求するわけでもないし、買出しはこの前の日曜日に終えていたから 困るようなことはない。 カジキマグロにチーズと玉葱を散らばしてオーブンで焼いたものと、洗って切った水菜に 煎りじゃこをかけたサラダのようなもの、ご飯と味噌汁。 栄養価があるんだかないんだか分からない品を準備して、作業途中で疲れて戻ってきた教 授が入浴を終えるのを待つ。 やはり、教授は不機嫌だった。 僕にことさら当たるような人ではないけれども、表に噴出せずに内側で保たれているもの の際どさが恐ろしい。 学内で、もし勉強に関する態度や成績で彼にこんな空気を纏わせる学生がいたとしたら、 彼は来年は他の教授の下で単位を取り直すことにして、今年の整形外科の単位取得を諦め たに違いない。 普段から会話はそう豊かではないから、僕たちはもそもそと食事を進め、それでも結構 平らげた。 どこか気まずい空気のまま、後片付けにかかる。迷惑をかけたことは詫びたかったが、互 いの感情がどこにぶつかるかはっきりとしないからとにかく汚れた皿に意識を向けた。 スポンジで撫でれば見た目の汚れが落ちるように、この空気も払拭できたらよいのに。 洗った食器をかごに伏せ、鍋類も取り片付けるといよいよ静かで、普段は全く苦にならな い静かさが、耳に痛いほどだった。 手をぬぐい、リビングを見れば教授は夕刊を広げている。広げてはいるが、めくる音が聞 こえないことからも、彼が紙面に意識を注いでいるわけでないことは明らかだった。 僕の視線に気づいたか首筋に僅かなこわばりがあったけど、まだこちらを向かない。 誰かと正面から向き合う気力は使い果たした気分だかあ、怒られるにせよ言うだけいって 引っ込もう。 片付いたことをもう一度視線で確認して、僕はリビングの出入り口へと向かった。 「寧」 静か過ぎるから、呟くような声は無視できない。 僕は向き直ると一気に言ってしまうために口を開いた。 目を見ると気おされるので伏せる。こんなやり方は嫌いだが、仕方ない。 「申し訳ありませんでした、ご迷惑ばかり……」 「おいで」 舌がこれで止まってしまった。 来なさい、でも来たまえ、でもない。僕が理解している限りの教授の言葉ではなかったか ら、混乱を起こしたのだ。 まだ、相手を見てはいない。だからさっさと部屋に引っ込めばいい。 「おいで、寧」 柔らかい言葉はしかし、僕をそこから後ろにではなく前に押しやった。 教授の座る、ソファー。左手が柔らかく布地を押す音に示されるままにその横に座り、背 に腕を回されて引き寄せられた、と気がついたときには頭が左胸、心臓の上に当てられて いて。 先程の空気とは打って変わった静かな鼓動が、右の鼓膜を震わせ思わず吐息をついた。 小さい子供のような扱われ方だと思って、抗いたいのだけれど僕も疲れている。 今度の静かさも嬉しいものではないけれど、そのまま動かない腕にそれほどきつさはなく て、相手の、いや、二人の気が済むまで僕はそのまま姿勢を保った。 「本当に、お前は自分が悪いと?」 見上げようとすれば回された腕が上がって頬に触れ、そっと持ち上げられる。 不機嫌を拭いきれないとしても、柔らかさを大分取り戻した眼差しが僕をただ労わるよう に当てられる。 むず痒いような悲しさを覚えたまま、返答に窮した。 「それで引いてしまって良いのか、寧」 「こうして頂いているだけで、僕が悪いことになるんでしょう」 捻くれた言い方だ、と我ながら思ったが、仕方なしそう答えた。 「そうかな」 教授の声に現れた響きは、全くそう思っていないと告げていた。僕の頬に当たった手の 指先は、何度も頬を軽く叩いて宥めようとしている。 「……そう言えるだけ、お前は大したものだ」 素直に頷けはしなかった。 自分が正しいと信じていたって、必ず周囲がそう見てくれるとは限らない。 逆に自分の正義を振りかざし、相手を成敗すべき悪人に仕立て上げる人間は、結局誰から も振り向かれなくなる。 それは、僕が人格者だからではなくて、経験から学び取ったものだった。 西風に騙されたからといって、吉良の同情を買うことが出来なかったのと同じことだ。 寄生虫か植物の如く言われた去年の夏の方が、まだ吉良は僕を見ていたことだろう。 「まあ、あちらも形ばかりとはいえ叱責を受けたのだ。暫くすれば、もう少し利口にはな ることだろう」 それは苦味を帯びた声で、何となし予言の響きにすら聞こえた。 意味も気にはなったが、それ以上にその苦さが気になった。 「どういう、ことです」 そろそろ離れようと思っても、腕は緩んでくれず、僕は穏やかさを保った表情に阻まれ る。 壁の向こうに何があるのか懸命に考えをめぐらすうち、余り良くない予測が浮かんだ。 「学長が、……所長が、何か」 今度のことは、タイミングがどうであれ所長に筒抜けになるだろう。 問いかけが悲鳴にならなかったことだけを、一瞬誇らしく思った。後は無言の恐怖に胃が 痛くなる。 所長の腕は長い。そして彼は、自分に従わないものをどうすれば良いか知っている。 栗橋以上に。 僕は一度、家庭教師先で受け持ちの男子生徒に暴行されかかった。それに対して所長は 表向きはやんわりとことを宥めた。 そして、担当が別の学生に替わって三週間後。 その生徒は別人のように大人しくなったばかりか、センターで出くわした僕を見た途端、 一目散に逃げ出したのだ。 僕は彼から十メートル以上離れていたのだけれど。 「いや。立場のある人間の叱責を理解しないことは、無いだろう」 手の動きは安心を促すようなゆったりとしたものに変わった。丹念に僕を撫でている。 「学内のことに、部外者が口を出す権限はない。それは、栗橋の側も同じことだ」 確かに今回、学部長の叱責はそれなりの通告になったはずだ。 大学は、ある程度の自治権を有する。ただし、今回のように本来なら警察に届け出るべき 事件が起きた場合は別となる。 大学関係者以外の介入を招くようなことは、学長が極力避けたがっていることは僕だって 分かっていた。 僕たちは、罰金以上の刑罰を受けることになると国家試験を受けても医者になれないこと がある。 医師法の第四条でそう定められているし、学長の嘆願書をつけて別室で試験を受けるなん てことになるのは願い下げだ。 相手は一族の恥さらしだろうし、僕も出来る限り透明の存在でいたかったのだから。 「……それでも、お前は良くやった」 良かれ悪しかれ僕に陰影を付けて目立たせた男は、僕に向かって頷きかけた。 「最初はあわや理事長レベルでの叱責だったが、学長が取り成してくれた。どちらも優秀 な学生だし、被害らしき被害とはいえないと上申もしてくれた。実際、二人ともと話した が問題はない、反省を示してもいるから記録にする必要はないと思う、とな」 ほうっ……と、溜息がどちらからともなくこぼれた。 僕は腹を立てていても正しい選択をしたのだ。 あの趣味の悪い眼鏡の男が、ことを収めるために出来る限りのことをしていてくれたとい うわけだ。 まだ複雑な心境ではあったが、僕は相手にやっと感謝できた。 「有難うございます、教授」 この姿勢で言うのもなと思ったが、そう言ったら腕が緩んだ。 ほっとして僕は身を起こし、改めて頭を相手に下げる。 「あなたにだけは、申し訳ないと思っています」 顔を上げた僕に教授が何か言おうとしたとき、それよりも明確な音が部屋をまるで警報 のように押さえ込んだ。 電話を取ったのは僕だ。 やり取りは酷く簡潔で、ただ、所長が話があること、迎えをやるから来ることを要求して いた。 逆らいようがなかった。自主的な謹慎状態だろうと、後見して学費を出してくれている相 手に会うことに誰が異議を唱える? 事件の後でさえなければ、断る理由もあったかもしれないが。 電話の後また、僕たちは会話をなくした。 二時間後、とのことだったので僕は風呂を浴び、この後起きうる事態に憂鬱になりながら も身体を隈なく洗った。 浴室から出ると、自分では選ばないような着替えが用意されていた。 淡いストライプの入ったコットンの伸縮の良いズボン、薄紫のサマーセーター、細かいチ ェックの入ったハイネックの上着。 似合うのかどうか、そもいつこの服が買われたのかも分かっていなかったが、僕はそれを 出来るだけ手早く身に着けた。 何も言われないことは苦しい。放り出してもらえないのはもっと苦しい。 出て行けと言われれば、僕はいつだって荷造りしてここを出て行ける。 身の回りの品は、持ち出せるように纏めてある。波風を立てたくないから目に見える場所 には置いていないが、もうそろそろ使う時なのかもしれない。 一旦リビングに戻ると、教授は先ほど読みさしていた新聞を丁寧に畳んでいるところだ った。 こちらを向いてはくれない。 「遅いと思いますので、休んでいらしてください」 まるで本当に家族か何かのようだと思いながら、そう口にした。 相手は頷きもしない。 「ご迷惑にならないように、努力します」 教授は、やはり何も言わなかった。 手にした新聞にも皺が寄らなかったことが、小さな安堵には繋がった。 仕方のないことだ。僕は、誰の所有物でもない。 マンションの近所の公園で、のろのろと傘を広げた。 ベンチに座るわけではなく、入り口でただ夜の街路と公園を見比べる。 夜に見る公園は、随分と寂しいものだ。 降り出した霧雨がうっすらと膜を作り、昼にはしゃいでいただろう子供たちからも、こう して誰かを待つ僕からも、少しだけ草臥れた遊具を休ませるように遠ざけている。 街燈の光はほの白く青みも帯びていて、それを見たくない僕は傘を少し持ち上げて、細 い骨組みだけを見ていた。 身体はそうして傘に守られ、服に守られていたけれど。 雨は細かさで僕に纏わりつき、髪から、目から、傘を握る手から染み入って身体を冷やそ うとする。 ほぼ一年前のこんな雨の日だった。 手ひどく傷ついたあの時と同じように、僕は教授に送り出された。 衣服には怪しい所もなかったし、ポケットも袖口や襟裏も違和感はなかった。 そうして教授を疑うことは、去年と違って僕を酷くやりきれない気持ちにさせた。 あの時、激昂した所長から救ってくれたのは、その原因を作った教授だ。 何が話されたにしても、あの時、所長は僕を教授の手元に置くことに同意した。 詳しい遣り取りは、今に至るまで尋ねられずにいる。 苛立たしく思っているのは、こちらだけではない。 僕が教授と共にいながら、所長との『契約』を取り消さないことを教授は苦々しく思って いる。 自分への恩と感謝は嘘でないのに、師である男の手を振り払わないことを所長は何度も言 葉で責め立てる。 どちらかに身を委ねたら破滅するのは僕だから、仕方のないことなのだが。 医者になれば、少なくとも所長へ学費を返せる目処が立つ。 僕の卒業時には研修が義務付けられるから、教授の元ではなく何処かの病院に行くことに なるだろう。 二人の頚から解放されたら、僕は一つのことだけ追い求めよう。 七年―――いや、もう八年は前になる。 西風を追うにせよ、彼の弟の傍に行くにせよ、医者と言う肩書きがあれば。 僕の三分の一以上を占める年月を、無駄にしなかったことになる。 虚しいものにするものか。 傘が震えたとき、幾度となく見て知っているビームライトが、霧雨の重たさを撥ね退けて こちらを照らした。 少し行き過ぎ、車体は雨の日の繊細さで停まる。 ドアが、近づく僕を待ってから開いた。 ナンバープレートを見るまでもなく、所長の車だ。 傘を閉じて滑りこむとすぐに、車は発進した。 床にそれを置くのとは反対の手を、がっしりした手に掴まれる。 「冷えているな。待たせたか」 「いいえ」 即答し、僕は改めて所長を見た。 「何時もお心遣い、有難うございます」 相変わらずの仕立ての良いダブルのスーツ、多分、品も良いのだろう。 光沢のある赤銅色の太いネクタイは、これほど堂々とした男でなければ似合わない、と僕 にさえ判るものだった。 「心遣いはあの男だろう」 所長は手を離し、今度は上着の袖をつかむ。 「めかしこませたな。お前が選ぶ服ではない」 黙って苦笑するしかなかった。正直、僕は流行には興味がない。 「食事には遅いが、少し付き合ってもらうとしよう」 「はい」 従順な返事に、所長はそのまま袖を引いた。 息が、胸の途中で止まる音が車内に響かなかっただろうか。 自身の前に触れさせるように僕の手を奪う。 意味する所は、分かりすぎるほど分かっている。 そのことは経験がないわけではなかったが、僕は胃が縮むのを覚えた。 身体が強張るのを誤魔化せない。 「どうした」 まだ、男は平静なままである。特に欲求があるわけではないときに、彼は敢えてこうし たことを強いる。 見せ掛けだけの恭順を打ち砕き、どう思っているにせよ自分に服従させるために。 覚悟はしてきたけれど、自分を宥めるのに一瞬、思考を他のことに振り向けなくてはなら なかった。 食事は大量に摂ってはいない。多分、大丈夫だ。多分。 先ずは置かれたままの手を動かし、ゆっくりと前を撫でた。 最初は、大きな羽がふわりと舞い降りたような、さりげなさ。ひと撫でするごとに微妙に 力加減を変え、布地の上から、内側の相手に変化が生じたとわかるまで撫でつづける。 強く、弱く。 リズムを定めきらない、しかし執拗な動きに応えるように、上質の布地が押し上げられる まで待ってから、一度手を止めた。 ジッパーに指先がかかる前に、運転席と後部座席を仕切る板が作動する。 運転手は口の堅い人間ばかりだが、それでもこれまでに四度、違う顔を見ている。 第三者と遮られてから、指で相手の前の金具を抓み、三秒ほどかけて引き下ろした。 擦れる音が僕を嘲笑うようだ。 そこをくつろげて、まだ下着には指を潜らせず、布地ごしに所長の熱を確かめた。 少しずつ指の腹に這いあがるような感覚はあるものの、完全に興奮させてはいない。 上からまさぐって、先端の納まっている辺りを確かめ、親指と中指で摘むようにした。 相手の呼吸が少しだけ深くなって、自分が間違っていないことを教えてくる。 大正解だったにしても嬉しいものでもないが。 指を擦り合わせて揉み立て、幹に残りを絡めるとぐっ、と力が下腹部にこもる。途端に掌 を押すように、所長自身が硬くなる。 脚の間に生じた筋肉の強張りが、忽ち意識しないで薬缶を触った時のように質量も熱も 増して、その感触に喉がひくりと震えた。 普通は火傷に離して冷やそうとするところだが、僕は理性を追いやって、手を動かしつづ ける。 下着の前から指を潜らせ、直に触れた。 低温の火傷を負いそうな熱さが、指に余る。 粘り気を指先に感じた時、もう一度腕を引かれた。先程よりは強く。 口の中に早くも苦さを覚えて、今すぐこの車を降りて逃げ出したかった。 でも、……何処へ? 苦笑を見られないように、顔を伏せる。 「今更の恥じらいか?」 嘲笑は、所長が発する必要はなかった。 誰よりも、同じ言葉で僕自身が自分をこの瞬間嘲っていたからだ。 上質な皮張りのシートから腰を浮かす。上体を伏せ、所長に触れていないほうの手は、腕 をシートにぴったりつけるようにして身体を支えた。 もう、余計なことは考えない。 焦らしはせずに、しかし殊更に急ぐことなく相手の熱源に顔を寄せる。指先は一度所長 から離れて布地を捲り上げた。 ジッパーは既に下ろしているから、相手はすぐに外に出てきた。 節くれだったそこに、唇を宛がおうとして一度前髪を掴まれる。 抜けるギリギリの強さで、少し持ち上げられた。 視線に映るのは、男の唇の動きだけだ。 「あの男には、何度している?」 頬に、焼き印のように先端が当たった。 答えられずにいると、尚も引っ張られ、顎が完全に浮きあがる。 鼻の奥がつんとするのは、髪の毛が痛いからだろう。きっと。 無理やり位置を合わせられた鋭い眼光は見慣れていても、身体が震える。 誰も、助けてなどくれない。教授だって。 冷房が効きすぎている車内から、逃れようはない。 教授は、僕の奉仕は余り好まない。強引に引き寄せておいてその癖、と言いたくなる。 「……一度か、二度は」 急に離されて、相手の太腿の上に顎をぶつけた。 打撃は頭上からも降ってくる。 「良く言えたものだな」 恥知らずめ。吐き捨てられた言葉を否定しようがなかった。 もう一度つかまれて、再び顔を所長自身に押し当てられる。 息を止め、僕はのろのろと口を開けた。 車からよろめかずに出られたのは自分にしてはちょっとしたものだった。 体力はない方ではないと思うが、強いられることで大分消耗している。 時計を見る気力もなかったが、空を見れば止んだ雨の名残を被った十日の月がまだ怪しい 薄雲を帯びて、午前を回っていたことを教える。 エントランスをカードで潜り、階段は使う気力もなくエレベーターを待つ間、世界は何時 もよりも細かく、視界の中でぶれつづけていた。 恥知らず。 その言葉が頭の中でぐるぐると回る。 今更だ。僕はその恥知らずの代償で、前に進んでいる。 必要以上のものを受け取らないように、細心の注意だけは払って。 上を向いた矢印が消えた。 一時僕を上昇の為に閉じこめる箱が開く。 虚ろなそこが、棺桶のように口を開いた時、今度ははっきりと世界が震えた。。 今夜の僕は、死人も同然の麻痺した感覚でいたのに、ふと背筋を冷たさが駆け上る。 所長にいいようにされて。それでも僕はまだ教授の元に帰ろうとしている。 多分、眠っているだろう。それでも明日の朝、相手にどんな顔を見せろと? 磨き上げられた壁に、不恰好に顔を腫らした学生が映っている。 見たくなくて片手でそこを塞いだ時、金属のドアはするすると閉まった。 そうだ、恥知らずでも、見せてはいけない姿がある。 再びエントランスを出ると、夜の空気は僕を冷たく包んだ。 殴られたわけでもないのに熱を持った頬だけは避けるように、それでも汚さは月光からも 隠すようにして、自分以外の熱を収めた身体を冷やしてゆく。 僕がいるべき場所はこの夜の下にもない。 でもまだ、行ける場所はあった。 少しずつ湿気て重くなる身体を引きずって、歩き始める。 ここからなら、歩いて半時間かからない。 明日の一時限目まで、身体を横たえていられればいいならあそこで大丈夫だ。 教授はその時間にマンションを出て行くはずだから、その後に入ればいい。 自宅謹慎中、とはいえあそこは学籍で僕の現住所になっているだけだ。 家ではない。 本当は身体を洗いたかったが、贅沢を言える状況でもなかった。 生かされているだけ、ましと考えるほかはない。 何時もより時間をかけて道程を半ばまで来た時、それでも胃袋は痙攣した。 側溝に胃液しか出なくなるまで吐きたいのを、必死で堪える。 五分ほど壁に手をついていたら、どうにか治まった。 その時に、傘をどうやら所長の車に忘れてきたことに気がついた。 こんな天気に夜歩きでは、人が怪しむかもしれないな。 夜の警邏中の警官などに捕まりたくないから、出来るだけ姿勢を正して歩く。 どうして今日は、嫌悪感を払いきれないのだろう。 以前なら所長にどうされようと、シャワーを浴びれば平気になれたのに。 ああ、そうか。身体が未だ汚れているからだ。 前にはそんなことさえ考えなかったのに、と誰かが嘲笑った。 自分が何者だと勘違いしている?さぞかし清純で、理想に燃えていて、立派な医者にな ろうとする青年に見えてるんだろうな。 自己満足の癖に。踏みにじられた自分を回復したいだけで、恥も外聞もない真似をして男 たちに擦り寄って、好きにさせて。 よく、それで汚れたなんて言えたものだ。 自嘲は、どうにか僕の足を前に進ませる。 マンションから離れれば、せめて教授を汚さずに済む。 今回のことでは、僕はあの人に迷惑をかけてばかりだ。 だから、……だから。 「申しわけありません……」 何時も巻きこんでしまって。 あなたのゼミに入らなければ、せめてあの日あなたを退けることが出来ていたら。 「……申しわけ……」 いや、幾度でも出るチャンスはあった。僕は甘えていたのだ。 そうした態度は、捨て去ったつもりでいたのに。 「……ごめんなさい……」 十日の謹慎が終わったら、出よう。 これだけ迷惑をかけたのだ。理由には充分どころかおまけがつく。 分からない人ではない。話すんだ。 街灯が震えた後、滲んだ。 「……、さん……」 名前は呼べなかった。 目元にせりあがる今更のような熱を消すように、頬に幾つかの水滴が当たる。 それは瞬く間に大粒の雨となり、僕の頬ばかりでなく全身を濡らしていった。 以前、借りていたアパートはそのうち取り壊されることになっている。 大家が一度入院したため、計画は中途で止まっているが人は殆ど出て、本を教授のマンシ ョンに持ち込みきれなかった僕は、まだ数十冊をそこに残していた。 置き場として借りていることになっているから、多少安くついている。 教授には内緒だ。どうせ僕が何冊本を持っているか知っているはずはないから、ここのこ とを説明もしていない。 屋根はあるし、タオルケットは確か捨ててなかったから横になる程度はできる。 埃は出るだろうけど、贅沢は言うまい。以前は寝起きしていた場所なのだ。 馴染みのある建物の影を見出した時は、正直ほっとした。二階にあがってすぐの部屋へ と、転んで打ちつければ痛いコンクリの階段を上る。 濡れて張りついたズボンの後ろポケットから財布を取り出し、濡れてうまく動かない指で 鍵を取り出し、挿しこむ。 その時何か違和感を感じたが、雨としてきたこととで疲れていた僕は、追求を諦めてド アを静かに開けた。 僅かな軋む音は、懐かしい。 一歩を踏み出した時、玄関とも言えない浅い窪みに、足を取られた。 ……違う。コンクリをならしただけのそこに、何か置いてある。 僕はうっすらと埃を被った畳に無様に転がった。 鈍い衝撃の奥で、真っ暗な中に動きがある。 誰か、いる。泥棒?空き巣?不法侵入者? 瞬間パニックに陥りかかった。普段なら抵抗するにしても今の僕には体力がない。 それに、医学書以外に盗むものもないここで、僕の財布の中身で満足されなかったら。 指先を歪んだ畳につき立てるように力をこめて立ちあがる。 どうであれ、逃げなくては。 真っ暗なので向こうの目が有利だろうが、僕はまだ玄関先にいる。 勢い良く振り帰り飛び出そうとしたその時、思いもよらぬことが起きた。 急に、辺りが白くなる。 侵入者なら、顔は見られたくない筈だ。 大家がここを又貸しでもしたならともかく、堂々と灯りを点せるはずはない。 背後の気配が、一歩踏み出した。 振り向こうとして、僕の目は開いたドアの向こう、今頃見えたものに釘づけになる。 そちら側からは来なかった通りにある、赤い影。 あの形は見間違えるはずもない。 足先に当たるのは、靴の感触だった。確かイタリアのもので、木製の踵がカツカツと、独 特の音を立てるので分かりやすい。 六畳一間の部屋には相応しくないそれが転がっている。 理由までは分からなかったが、何が起きたかを知るには十分だった。 空気のそよぎは、誰のものか振り向かないでも伝わり、それだけ共にいる時間が長かった ことを悔やんだ。 何故。 寝言にでも言わなかったのに、どうして先回りされてしまったのだろう。 「こちらだろうと思っていた」 何かに対して憤りたい僕を宥める様に、声は穏やかだった。 また、一歩。 走り出そうとした身体を捕らえて、腕は後ろから回され、拘束する。 抗った。間違いなく、力をこめて抵抗したのに、男は容易く玄関先で扱いなれた身体を抱 きとって、くるりと半回転させると胸に押し付けた。 数時間前に、聞いた鼓動。 その音を一瞬乱すようにして、ドアが軋みつつ閉じた。 片腕だけで押さえられるほど、僕は弱っていたのか。 鍵はかからず、ドアノブから戻った手が、何度も濡れそぼった僕の頭を撫でる。 意味もなく喚きたかったが、他の部分とは違って喉は干上がっていた。 「……ぜ……」 こんな学生のことなんか気にしないで、部屋にいれば良かったのに。 一人だけを気にかける立場では、あなたはないのに。 いや、僕に資格がないのに。 「ああ言ったが、お前は、戻ってこないと思った」 でもここは、教えなかった。黙っていたんだ。 乱打している僕の鼓動とは逆に、教授は落ち着き払っていた。 「……ぅ、やって……」 「お前を越させたあと、ここの持ち主と話しをした。万が一、ということで鍵をもらって おいたんだ」 容易いことだっただろう。医学部の教授と知り合いになれた大家は安心した筈だ。 いやな顔をせず場所を貸していてくれた理由が今頃はっきりした。 頭を撫でていた手が、頬におりた。散々焼き鏝のように所長を押し当てられたそこを、 包むようにして持ち上げる。 「駄目で、す……」 僕は、穢れている。今までに何度となく同じことをしてきたのに、今日は酷く打ちのめさ れている自分を僕はもう嘲笑うことも出来なかった。 「……あなたは、これ以上……」 「あの男には、傷つけるなら取り上げる、と言った」 唇が所長を扱きすぎて腫れたと分かるだろうに、教授はそこを痛ましい患部のようにそっ と擦った。 「お前には耐えねばならない痛みがあると、言っていた」 過去形。 僕が所長の折檻で死にそうになった夜以外、二人が会ったとは聞いていない。 初めて、何があったのか聞けた。 ずっと聞きたかったんだ。 「これはその痛みではない」 深い、外の雨空のように暗い瞳に、しかし冷たさは感じられなかった。 「こんな痛みは、与えて良いものではない」 顔が、降りてくる。横を向かせてもらえず、乾いた温かさが息を塞いだ。 縋りついたのは息苦しさからだった。与えられたのは、呼吸ではなかった。 ここに着くまで全身を時々襲っていた震えが、濡れて冷たい身体から上着とサマーセータ ーごと剥ぎ取られた。 無防備な背を、何度も大きな手が往復して体熱を取り戻させようとしてくれる。 「お前は、もっと大事にされて良い存在だ……」 その言葉に体内に熱が残っていることを示すように、再び頭蓋骨の奥から痛みが眼底へ と吹き零れた。 尚も声は続く。 「いてくれるだけで、お前は私を名前の通りに平穏にしてくれる」 息と言葉を奪った唇が、僕の名前を呼ぶ。 「寧」 安心して暮らせることを意味する字なのだと、漢和辞典には出ていた。 そぐわない、名前負けだと虚しい思いをした日もあった。 それを、教授は――― 充分だ。意味のある名前だといってもらえるだけで、僕は満足した。 けれど相手には、足りなかったらしい。 囁く声に、僕が理解できない熱が生まれた。 「もう、苦しい思いはさせない」 巻きこんではいけない。僕は懸命に横に首を振った。髪の毛からも目元からも飛び散っ た雫は、しかし相手の気持ちまでは冷やせない。 「僕の招いた、結果です……博光さんは、何も……」 「もっと早くに、決めておくのだった」 困惑と疲労で脱力寸前の身体を教授は抱きしめなおした。 「今回だって、お前を完全にあの男から切り離せば、黙らずに済んだ」 「無理です……」 それは、あなたがご存知のはずじゃないですか。 僕の反駁を、教授は唇で封じなおした。 膝が笑いかかるのを、自分によりかからせることで支えきり、尚も囁く。 「無理ではない。お前さえ、信じてくれれば」 俯いて首を振る僕の耳元に、雨の冷たさをも忘れさせる言葉が吹きこまれる。 「……生者になら、勝てる」 既に手の届かない場所にいる相手に、勝るものはない。 教授には亡くなった妻。僕には、……遠い父と欠片すら記憶のない母親。 いや、それだけではない。 西風は、どちらなのだろう。 所長にも、吉良にも勝てるわけがないのに、弱っていた心は一瞬だけ、教授の言葉が真実 になれば、と願った。 僕は二度と誰かに依存する生活には戻れないのに。 そう思いながらも、指先だけが相手の上着に皺を作った。 |
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