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医学的に、いや、物理的に、死ぬこととは何だろうか。 身体機能の停止、と大雑把にまとめてしまえば片付く人間もいる。 僕たち、医者を目指すものはそれでは済まされない。 死亡診断書を書く場合、死因は数段階にわけて記述される。いい加減に書く向きもあった ようだが、今日、患者からのレセプト請求が徐々に増えつつあることから、余りアバウト な書き方をできないようになりつつある、らしい。 それでも天寿を全うしての死ならば、割と緩やかな説明が多いだろう。大概は心肺の機 能の停止を書き、その原因についてもう一つ、二つ段階を書き足す。 後は役所に提出するだけだ。 殺された場合には、その説明も詳細になることだろう。 人に刺された場合、止血ができなければ、裂傷からの大量の出血に因り失血死する。 殴られて死ぬ時は、頭蓋骨の陥没による脳の圧迫や、脳細胞の破壊など、加えられた力と タイミングで説明は違ってくるだろう。 首を締められれば、脳への酸素の供給が途絶えて死ぬことがある。 毒を盛られれば、種類はあるが、内臓から多量の出血を起こしたり、やはり呼吸困難にな ったりと内側から体内を破壊されて死に至る。 火事で焼かれれば、糜爛した皮膚は大気中の毒素から組織を守れず、体液の流出も止めら れなくなって、酷い時には死に至る。 その前に一酸化炭素や、建物の建材から出たガスの中毒で死ねるだろうけれど。 監察医は遺体を切り、時には原因となった部位を切除して詳しく調べ、通常よりも細かく 相手が死に至った状況を、より多くの人目に晒される文書として纏め上げる。 警察に、犯人が捕まれば検事に、弁護士に、裁判官に。 祥代さんは、どのように記載されたのか。 僕の父は、その前に亡くなっていた母は、僕の係累と呼ばれるべき人は、どんな風に文字 として解剖されたのだろう。 そして僕は、どのように生命のあった痕跡を紙の上に染ませて終わるのだろう。 誰の診断書も見たことがなかったから、もし叶うのなら見たいと思った。 僕のだけは、自分で見ることが叶わないのだから。 誰に話すことも、書き残すことも、僕はできずにいる。 まるで誰かに語りかけるように―――西風一海にか、あるいは弟の三山にか―――こうし て脳裏で紡ぐ光景は、生きていても手の届かぬ彼らに、見せたり聞かせたりしたいわけで もない。 僕を手元に置こうとした男達―――所長や教授―――に知らせるわけにもゆかない。 日常すれすれの生活から、奈落を覗きこんで、『行方不明』の文字となって消えていた男 を現実に引きずり戻すなんて、無理だと思っていたからだ。 また、話した所で正気を疑われるだけだろう。 僕があの二人でなくとも、益体もない組織だの、人質同然の少年だの、言われたとしたら 相手のためにしてやれることは良い精神科の医師を探してやることだけだ。 死者には耳も鼓膜もない。霊魂の存在はトンデモ科学にでもまかせておく。 医学者は生きている人間のために働く。亡くなればその個体に対しては何もできない。医 学は技術であって、信仰ではないからだ。 時々、その技術で僕の現状を妄想の一言に片付けられたらと願う。 僕の左腕には小さな菱形の刃物傷がついており、首には一時、火傷の跡が残っていた。 血を流し、癒された直後に電流を浴びせられ、殴られもした。身体はたまに幻痛を、脳の 記憶として掘り起こし、伝えてくる。 僕の身体が、今は僕の生存の証明書代わりだ。 これが、僕の今までを否定することを許さない。 痛みの記憶を抱えていられる限り、僕は紙切れだけの存在にはならずに済んでいる。 本当は八年も前、そうなっていたかも知れない。 火事による死因は、一酸化炭素中毒が圧倒的だが、あの小さな家の焼け跡を考えると、呼 吸ができなくなって死んでいても不思議ではなかった。 だから、語るものがいなくても考えつづけよう。 疑い、問い、見えない壁を叩きつづけよう。 僕自身が本当に紙魚になって終わってしまうまで。 それでも、聞いていてくれる誰かがいたとしたら、少しばかり詫びることがある。 多少、時制が、前後するのを許して欲しい。 僕が見たものはできる限り正確に思い出すつもりだが、説明がつかない部分は推測や、仮 定で補うほかはない。 僕以外の誰かが語ったことには恐らく少なからぬ嘘があるだろう。 あちらだって疑っているのだから、お互い様だ。 いや、お互いが見たと思ったことだって、ひょっとすると目が眩んで見落としもあるかも しれない。 それに今回は、相当に混乱させられてしまった。 思っていたより多くのことが絡んでしまい、僕たちはコインランドリーの洗濯物よりも いい加減に、容赦なく掻きまわされて、ほぼ身動きが取れていない状態だった。 それは、人の体内で起きている様々な化学反応よりもずっと単純であったと思うのに、す っかり複雑なふりでごたまぜの見せ掛けを作り、ほとんどの目を欺いていた。 不安定な状態だったことに皆が気がついた時には、事態は一方へ傾き、水を満たしきっ たコップの表面張力が破られたように、最初の流れが起きてしまっていたのだ。 注意していれば防げた類の物事もあるが、それでもいずれは傾いたことかもと思う。 不注意をしていたのは僕だけでもなかったし、また、適切な対応をできていた人間は僕を 含めていなかった。 水が零れるだけでは済まなかった。僕たちほぼ全員を巻き込んで暴れ狂ったのだ。 竜巻とまではゆかないが、僕が遭遇したのは八年前に匹敵する嵐だった。 最初の兆候は、あのポラロイド。 あれがなければ、傾きはもう少し遅く、緩やかで、最大限の幸運が僕にあれば、雫の一滴 たりとも零さずに終わったのでは、そう思っている。 これは、僕の未だに直せていない悪い癖だ。 物事は最悪を想定しているべきなのに、僕は昔の、甘ったれた少年時代のように、お伽噺 のハッピーエンドを夢想する。 終わってしまったことだから、想像するのは自由だと言い訳しながら。 そう、終わってしまった。これを語る僕の前には、まだこれからやるべきことは山積な のだが、嵐は既に止んで、無残な残骸が残ったばかりだ。 だから、断った通り、これから語るのは過去になる。 その前に僕の現状を見てもらおう。 両手首に擦過傷多数、チアノーゼになっているのが左手首。 掌にも、擦過傷はついている。大きい破片でもやられたが、刺さったとげは全て抜いて、 消毒した。 後頭部に瘤が一つ、今はできた時よりも小さい。 多少、空気に混じってはいけないガスを吸って頭痛がしているし、節々に微かだが痺れ たような痛みが残っている。 腹部にも痣がついている。首の皮には薄く刃物の痕跡。掠った程度なのが救いだ。 髪の毛はさっき、水を使わない形式のシャンプーで汚れを取り除いたがくしゃくしゃ。 衛生的とは言い難い状態にある。 それでも、僕は生きている。 傷口は癒着しつつあり、頭痛も、吐き気や眩暈さえ伴っていたのが軽減した。 もう少しで僕は死ぬ所だったのだ。 僕だけではない。あと二人の人間も、分からぬまま撒きこまれて、書類の上の紙魚として 消えていたかもしれない。 そうはならなかった。 何も分からぬまま二人は助かり、……知らずに一人の男を犠牲にした。 恐らく遠からず、その男が誰かの手によって紙魚になる。 それを僕は止めることは出来ないし、恐らく無駄なのでそうしない。 僕を、そして僕の知り合いを殺そうとした男だ。 命を握る資格を持つ身で、その資格に最も相応しくない真似をした男を庇う気など、どう して持てる? 脇で、落ちついたか、と声がする。 生返事を返さないために、僕は自分の手をじっと見てから頷いた。 傷だらけの手。 この手がまっさらな手かと聞かれれば、人を死に追いやったことがまだないだけだ、とし か答えようがない。 また同じことを聞かれた。 大丈夫、と答えを搾り出した口も、綺麗ごとばかり言ってきたわけではない。 サイズの微妙に違うシャツで隠した身体も、真っ白とは言い難い。 それを容認する僕の魂など、どす黒い色だと言われても否定しようがないだろう。 それでも、僕は生きている。 爪の先に引っ掛けるようにして掴まえた生命だが、確かに僕自身で拾ったものだ。 嬉しかった。 以前、吉良たちに追いまわされた時、僕は自分の生命を拾える状態ではなかった。 泣き叫び、逃げまわり、途方にくれ。 彼らから見れば、実験のためのマウス同様だったに違いない。 それと比べれば、今回はどうにか抗うことが出来た。 誇ることは何もない。むしろ悔やむことのほうが多いだろう。 それでも嬉しかった。 最後にこんな気持ちになったのはいつのことだっただろうか。 思い出せなかったけれど、きっと随分と前だ。 笑いだそうかと思ったけれど、同乗者に狂ったと勘違いされそうだから止めておいた。 家を失った日から、もしかすると狂ってしまっているけれど。 今はまだ、僕は逸脱してはいない。 表面張力で保たれている水面から、一滴たりとも狂気を零しはしない。 生き延びて積んできた時間を、経験を、無駄にするものか。 済まない。まだ、何の説明もしていない。 まずはポラロイドのことから始めよう。 僕は、あの写真の小さな面積から、どう、西風を抽出したら良いか分からなかった。 写真を直に吉良に渡すには、余りに証拠が足りないと思ったからだ。 まずスキャナを、僕は持っていなかった。 写真に関する知識も、残念ながら皆無に等しかった。 どうにかして一枚のポラロイドを、画像をできる限り潰さないで大きく引き伸ばしたいと 考えた僕は、考え抜いた末に、あいつを利用することにした。 少なからぬ貸しがある。 相手が真剣に考えていなかったにしても、僕は、その貸しを取り立てることにした。 あいつにとっては、些細なことだ。 僕は相手に沈黙を守ることを納得させ、ある分野に対して、相手が抱いている優越感をう まく擽れば良い。 酒が好き。写真が好き。 この二つを満たしてやれば、使われてくれるだろう。 小田正友。 僕のある意味こっ恥ずかしい写真を趣味の一環で撮った男は、酔った弾みで売り飛ばした ネガを、まだ見つけられずにいたのだった。 脅迫の類こそなかったが、僕は、この弱みを使うことにした。 それが、コップを揺らす最初の動きになった。 |
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