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学内の施設を利用するのは、ちょっとした手間がかかる。 ラボ側にあったスキャナは壊れていて、修理に出したままになっている。潤沢に資金があ るといっても、備品として申請したものが使えない、ということはどこの大学でもあるだ ろう。 マシン室があるにはあるが、利用申請をした記録が残る。 用事をでっちあげてもいいが、長時間待たされるのも嫌だった。 忙しい。五年次にあがる僕には、それまでよりも更に時間が大切になる。 長蛇の列にのろのろと並んでマシン室に入る所を誰かにつかまって、下手をすると呼ばれ て画像を取り込まずじまいに終わってしまう。 今後のことを考えると、スキャナ一台は買っても良いのかもしれないが、今回の目的は写 真一枚。今後があるかどうかも分からないし、それに。 「寧、済まないが」 「はい」 教授にスキャナを買ったわけを尋ねられることは間違いない。 別に僕は吝嗇なわけじゃないが、無駄遣いに終わりそうな買物は止めにする。 それを知っている教授に、少しでも怪しまれる真似は避けたい。 薄氷を踏むほどの危機感はないが、写真の顔が西風のものであったなら、僕はそれと教 授を係わらせるわけにはゆかなかった。 そうでなくても、僕を手元に置いていることで教授は知らず、危険を抱えている。 吉良は一度、自分のテリトリーに教授がいるときに、僕を暗に脅したのだ。 『ここには、今、もう一つ、いや二つ、お前の大事なものがある』と。 気がつくと、右手にメモを渡されていた。 亡失の時間は、数秒。 「スライドを準備したら、買物を頼みたい」 「……はい」 短いリストをひととおり覚えこむふりをしながら、僕は吉良の言葉を反芻した。 大事なものがもう一つ、と数えてから二つに増やした。 教授と、新井。 あの二人が学生としての僕にそれなりに大事なものだとして、残る一つは。 「どうした、紙質まで覚えなくても大丈夫だ」 教授の一応ジョークのつもりだろう、僕は口の端を笑みの形に作って頷いておいた。 残る一つ。 大事なものは、三山のことと思っていいのか。 あの時、何処かの部屋にあの細い身体はあって、作り出された清浄な空気で永らえつつ、 僕をモニターに映していたと? 吉良がいるならば、連れ歩いていてもおかしくはない。僕の合宿先にまで運んできたのだ から、手元から逃さぬように用心しているのかも。 いたのなら。会いたかった。 あそこにまた行くことが叶えば、或いは会えるのだろうか。 そう簡単に会わせてもらえないことは分かっていたが、確かめる方法はないかと僕はない 知恵を懸命に絞った。 そのためにも、画像が必要だ。 『……連絡してくるのは久々だな』 今日はあの会社での仕事はしていないのだろう、随分とリラックスした響きは、ひょっ とすると休みなのかもしれない。 開がそんなに機嫌を損ねていないことを確認してから、切り出してみた。 「西風の弟を、開は知っているか?」 ややあって、『まあな』と気乗りのしない返答がされたから、怒らせるのだけはやめよう と決めた。 「この前みたいな五分程度でも、話せないか?」 『……何の用でだ』 警戒されるのは仕方ないし、妙な隠しごとは僕の足元を切り崩す。 真実を混ぜつつ肝心の部分はぼかさなければ。 「手がかり、というほどのものはないけど、気になることがある」 『それで?』 開は、退屈しきっている。この男は猟犬と同じだ。ただ、命ぜられた獲物に走るのは得 意だが、見えない相手を嗅覚で探り出すにはいま少し忍耐力が足りない。 仕方ないだろう。僕も写真をみるまでは疑っていた。 「三山に確かめたいんだ。吉良がくれた情報じゃなくて、身内でしか覚えがないようなこ とだ。出来たら人づてじゃなくて、直接に聞きたい」 沈黙は、開の権限では不可能ではない、と判断させた。 「ほんの五分でいい。僕が聞いて、三山が答える。そうしたら、録音で誤魔化しもないだ ろう?具合が悪いなら、調子のよい日でいい」 『何でボスじゃ駄目だ』 「吉良なら、自分の願望で答えをひっくり返すかもしれない」 僕と開は西風の生存を疑っていた。今も開は信じきってはいないだろうが、僕はあの写 真が吉良の求める手がかりになりうると分かっている。 それでも、まだ開に全てを話す気にはなれなかった。 『……伝言では』 「駄目だ。進展がない腹いせに、吉良が殺してないって保証が欲しい」 『おい、物騒なことを言うな』 怒ったのか、それとも慌てたのか、判断する前に返事はきた。 『いいだろう、ただ今日明日じゃ無理だからな』 「話せればいいよ、有難う、開」 礼は別に考えてもらうぜ、と言って、相手は一方的に通話を切った。 あそこに三山がいるか、運ばれて来ることがある。 或いは、開がゆける範囲に、三山の居場所もあるわけだ。 それがあのビルなら、会う機会はゼロではないかも知れない。 今は、声で満足するほかはなかったが、ささやかな期待は持てた。 開が恩に着せる言いかたをするなら、声一つでも嘘にはならないだろうから。 本当は去年、願ったことだった。声だけでも聞きたいと願をかけた。 去年はかなわなかったことが、今年は実現するかもしれない。 代価に何を求められるかは、また後で考えよう。 教授の握る権利の一つをL―――社にとでも言うのだろうとは思うが。 数を減らしつつある電話ボックスの中で、僕は小さく声を立てて笑った。 この時、僕がひとときの幸せに見過ごしていた視線が、恐らくはあった。 気づかれれば無視されるか離れられてしまうため、遠くからしか伺うことができず。 近寄りたくとも、言葉は、ごたまぜの鍋が煮えたぎったようになっていて、聞いてもらう 以前に、本人が自分でも何を言いたいのか分からないほど、湯気だけがもうもうと立って いた。 半透明の個室。わざわざカードを使ってかける相手は誰なのか、携帯を利用しない理由 も分からないけれど、ともあれ相手は箱の中。 ドアを押さえて出られないようにしてしまえば、と思っても、人通りが多い辺りではそう 乱暴な真似に出られないし、また、ほんの一時話しをしたいだけだった。 もうその時は、相手と冷戦状態にあったから。 無視されればまた感情は沸点に達する。 元から嫌いぬいていたならそれでも会話になっただろうが、いつ擦れ違ったのか分からな い人間にとっては、僕の無視は理解しがたいものだった。 もちろん、僕は殊更に相手から顔を背けたわけじゃない。相手が、一方的に見損なって いたのだろう。逆も同じことだが。 電話ボックスから出てくる僕を追おうとして、その足が止まった。 背後から、一つの手が伸びてきて、肩に置かれたからだ。 振りかえったにせよ、そうしなかったにせよ、僕はその時はもう、相手の視線から外れて 次の教場へ向かっていた。 小田は、すぐに見つかった。 お互いもう、五年次になる。そうそう遊び歩いているわけにもゆかない。 それでも春先は、被写体を物色するのにも良さそうな高い場所に陣取って、レンズを回し ているのがいかにも小田らしかった。 一揃い、持っていてくれればいいんだが。カメラ小僧だから現像の道具はあるだろうし デジカメも新品を見せびらかしてた記憶がある。デジタルデバイスに関してはゼミの連中 で一番だろうと、見当をつけた。 上がって行く途中でふっ、とレンズが僕に向けられる。睨むと慌てたように逸れた。 学生会館の中二階のベランダ部分は、写真部の連中が時々たむろしている。 「……撮ってませーん」 近づいて行くと、小田は後ずさりした。 「小田」 「や、ほんとに俺、懲りたのよ?あの件で」 夏合宿の写真。 猥褻物陳列罪にぎりぎり引っかかりそうな風呂場の写真。 ヌードなら男女関係ない被写体だと開き直りかかったが、酔った弾みに知らない相手にネ ガを売り飛ばした分、小田には弱みがあった。 「ちゃんと同意してもらってるからな、な?今度はちゃんと……」 ぺらぺら喋ってくれるので、僕は黙って相手を見据えておいた。 時として板倉よりも饒舌になる小田は、軽薄な奴だ。 沈黙は、武器になる。相手は落ちつけず、上っ面の思考で誤解する。 アリジゴクの巣に、勝手に落ちてくれるのを待つばかりだ。 小さい頃、残酷にもアリをあのすり鉢に落とした記憶は誰にでもあるだろう。 本当に体液を吸われて吐き出されるのかと、虫一匹も生命であることを実感しきっていな い子供は、わざわざアリを捕まえてきてそこに落としたのだった。 「……ネガはもうどうしょうもないんだよ、その代わり……何か埋め合わせするって。前 もそう言っただろ?なぁ、今まで特に事件にもなってねぇじゃねぇか」 なったら唯でおくわけがない。脅されでもしようものなら、所長に頼んで片をつけても らう。教授は嫌がるだろうけれど、金目当ての連中に対してはどちらが強力か、僕は知っ ている。 「そうだな」 「だから、その……さ」 ポルノまがいの写真を撮影したことは教授にも知れているので、小田は立場が弱い。 笑顔を作るようにして、僕は小田をバルコニーの端へと追い詰めた。 アリジゴクが牙を広げて、獲物を捕らえにかかるように。 「ちょっと写真について聞きたいことがあって」 「写真って、だからお前のは……」 「別件だ」 表情を変えずにおいたからか、小田は目を白黒させた。 「簡単なことか、難しいのかも分からないけど、お前ならどうにかなるかと思って」 周囲は開けているが、近寄ってくる気配がない分、話しを聞かれる心配が少ない。 ついでに相手は逃げられない。 「うーん……」 「そっちじゃなくて、デジタルの方だけど」 銀塩カメラ、なんて古い言い方を思い出しながら、小田の胸元のカメラを指差す。 「小田、ひととおり持ってるだろう?」 「持ってるけど……あんまし、人には、な」 カメラ小僧は渋りだした。 「使わせてくれないか、あっと、その前に使い方も教えてくれると」 「なんだよ、マシン室かキンコースとか行けよ」 「マシン室は時間がかかるし、キンコースは操作を覚えるまでに相当ボられそうで」 不特定多数の目に晒されたくない、ということは当然言わない。 でも嘘をついているわけではないので、僕は気楽なものだった。 「いいじゃないか、壊すほど不器用じゃないし」 「でもな、でも……」 どうやらカメラ小僧、カメラフェチでもあるのか。 自分の持ち物を人に弄くられたくない気持ちはあるんだろうが、僕はどうでもいい。 「お前、あれで幾ら儲けた?」 声はできるだけ低くして、写真の借りを返せと暗に言ってやった。 「……部屋が、散らかって……」 「それとも、見せられないような写真が……?」 「ん、んなわけなっ、ないっっ」 首を一生懸命横に振って否定するが、大方、いかがわしい雑誌に出すような代物がある んだろう。それもどうでもいい。 散らかっていてくれればそれだけ好都合だ。 「またあんなもの撮ってないなら、他のことについては黙っておく。いいじゃないか、別 にその趣味止めろと言ってるわけじゃないんだから」 視線が左右に揺れている。あとひと押しだ。 「スマートメディアとかはこちらで持ってる。お前の使わせろとかは言わない」 「……分かったよ」 渋々と頷いた小田は、明後日の夕方なら、と猶予を求めた。 この時も、やはり目立たぬ場所から見ている姿があっただろう。 近寄りはしないだけで、僕が表情はにこやかにしていても、小田を追い詰めている所をし っかりと、視界のうちに収めていた。 他のことに意識を向けるべきだっただろう。僕と係わることが何を引き寄せるか、僅かで も予想がついたなら、少なくともこの人物は避けられたのじゃないかと、思う。 しかし、相手には僕の行動は奇妙には見えても大したことではなくて、気になったから ちょっと後で問い詰めてみよう、そんな程度にしか思われなかったのだ。 相手にとって僕は、勉強のこと以外はいつも曖昧で、好きなものは珈琲以外特になさそう で、なのに教授に気に入られている変り種、その程度だった。 だから、相手はいつでも僕をどうにかできると考えていた。 医師免許を手にしているのだから。僕はまだ持っていないから。 苦労して手に入れた資格が、まず相手に求めている第一のことを、男はその時忘れ去って いた。 医者であることを最初から求められていた人間、医者になることを後から目指す人間。 前者が後者に劣るとは思えないけれど、スタートラインの違いから、富者であることを理 由に傲慢になる者も確かにいるのだ。 そしてそれが、誰かを踏みつけてないと気が済まないような錯覚を起こさせることも。 「そういや、栗橋先輩ってどこの病院で研修だっけか」 板倉が首を傾げた。 「さあ。飲み会の時に西山先輩がからかって、怒り出してそれっきりだったよな」 試験管をよく濯ぎつつ、小田も首を傾げた。 「加納は……聞くわけないか」 「そも、飲み会欠席」 手を洗いつつ、僕は答えた。 国家試験合格者、碓氷ゼミの六年次は皆ボーダーラインを潜った。 当然の結果と言われるものの、春休み集まれる面子は集まったようだ。 教授は当然出席したが、僕は家庭教師の教え子の合格祝いに招かれたため、栗橋と顔を突 き合わせずに済むとそちらを選んでしまった。 先輩方の機嫌を取り結ぶのは別に嫌ではないが、酒席でまた絡まれたくない。 栗橋の合格については、特に感慨はなかった。もともと出来も違うのだ。合格しなかった としたら、一服盛られたか、流行っているウィルスにでも感染した時だろう。 「……けどさ、西山先輩の言ってたこと……」 「あれか、禁忌肢。ほんとかな」 水気を拭った後、僕は顔を見合わせたままの二人に尋ねた。 「禁忌肢?」 医師国家試験には、いやらしい落とし穴がある。 それだけは絶対に選んではいけない回答、というのが何問か紛れているのだ。 これを幾つか選んでしまうと、本来はボーダーラインの点数を取っていても、見事に不合 格となる。 単なる間違い、どころでは済まない。医者として常識問題が解けていない、ということで 恥さらしもいいところだ。 某芸能人宜しく『禁忌キッズ』という恥ずかしいネーミングの参考書まであるくらいの厄 介な問題だ。 「卒業試験で、先輩三つ踏んだんだってよ」 六年生の受ける卒業試験は、当然、国家試験を踏まえてのものとなる。禁忌肢を含んだ 問題を作成して学生に来るべき試験の厳しさを教える教師は一人ではないが……。 「で、三つ受けなおし。内科と、公衆衛生と……」 二人が複雑な顔をしているので、まさか、と思った。 「三つ目は?」 「西山先輩が言うには、整形だって」 「……まさか」 碓氷ゼミに所属して整形外科を落とすなんて、考えもつかない。 ましてあのプライドの塊の栗橋が。 「ま、西山先輩もはっきりは言ってないんだよ」 「ただ、『笠間におちょくられるいいネタを』って言っててさ……」 「栗橋先輩、超!絶!のフキゲンに」 笠間とは、碓氷教授のライバルと言われた存在だ。その昔は教授戦で争ったらしいけれ ど、その後色々あって地方の病院に出されている。 教え方は面白いらしいのだけど、セクハラまがいのこともしたらしい。 教授が不機嫌になるから余り聞けないが。 「……本番に強ければいいんじゃないか」 二人も手を洗い終える。 僕は一つ伸びをした。珈琲が飲みたい。メーカーに残された煮えたぎった泥水じゃなく て、熱いのを一杯。 「そうだけどさ」 「当てずっぽうにしても変だよな」 確かに、卒業試験の成績なんか、普通に見られるわけがない。 しかし、西山と栗橋は親戚ぐるみ争っている間柄だ。学内に派閥と呼べるものもあり、横 も縦も使える限りの権力を駆使して相手を追い落とそうとしている、らしい。 栗橋派と見られていた僕が対立した時、西山はすかさず声をかけてきた。本気とは到底 思われないが、味方を増やしておくことは、普段から欠かさないのだろう。 「―――君たち、もう終わったのか」 ドアが開いて、小方助教授が入ってきた。いつ見ても風采が上がらないが、学生にはや はり怖い相手だ。 「今出ます」 片づけを言いつけておいて『もう終わったのか』もないだろう、と板倉と小田の顔には 書いてあったが、取りあえず三人で大人しくラボを出た。 「……じゃ、加納。明後日、昼食い終わったらな」 「ああ」 小田は小声だったのだが、板倉が反応した。 「なんだよ、明後日って」 「ちょっとな」 「ちょっとって?」 板倉は、祥代さんの事件の折、教授や、所長にそれぞれ勝手なことを言い含められたら しい。どちらを信用しているかは良く分からないが、僕は放っておくとあの二人の板挟み で潰れてしまうと思いこんだのか、時にこうした追求がある。 「や、知り合いに写真のこと聞かれたんで、小田に教えてもらうだけだよ」 微妙に小田への説明が食い違うが、仕方ない。当たり障りのない言葉に板倉は納得した ようだった。 「そっか、じゃあ……」 「君たち!足が動いてないぞ」 前を歩いていた助教授が戻って来る。この男もしつっこい。トラブルを起こすと後々ま で尾を引くので僕は未だに用心はしていた。 「はぁーいっ」 小田と板倉がハモって、僕と助教授はぎょっとし、ついで二人も顔を見合わせた。 ちょっと薄気味悪いと、当人達さえ思ったらしい。 西山和文が僕を呼び出したのは、次の日の昼食時だった。 |
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