Liquid


2


 ロッカーに無理やり挿しこまれていた薄い封筒は、季節を反映してか気紛れか悪趣味か 知らないが淡いピンクだった。
しらけた気分になる。僕はラブレターまがいのものとは無縁にきている。
 ノートパソコンを壊された事件から、出入りはそれなりに厳しくなっているし、妙なも のがおいておかれれば騒ぎにもなる。
内部の人間が誰かの手紙を預かって来ることがないとは言えないが、それなら僕に直接渡 せばいい。
悪戯か、と思いつつも一応、縁に厄介なものが仕込まれたりはしてないと判断し、僕は封 筒を破った。
 用件は簡潔だった。色つきの便箋には勿体ない。


加納
前に約束した通りおごる。12:00に南の校門前。
西山

追伸 他の連中を連れてきたら自腹だ。


 さて、何の用事だろうか。
西山とも、研修の始まった栗橋とも、僕は顔をあわせていない。
逃げまわってはいないけれども、厄介事を招きそうな酒の同席は避けた結果、接点が激減 した状態だ。
研修医になっても、大学での研究を望むために、或いは論文の為に、ゼミに身を置いてい る人間は少なくない。二人の先輩は、いずれは郷里の病院を継ぐので、箔をつけるための 論文は必須といったところだろう。
 教授が当たり障りのないレベルで話してくれたことによれば、西山は院での研究を続け たいと望んでいて、そうした我侭を許すだけの財力が実家にあるらしい。栗橋は逆に、そ んなのと張り合うより病院を継いで発展させろ、と親戚にせっつかれているそうだ。
 僕と跡取の争いで、教授は栗橋の親戚に散々言われたと思うのだが、それについては僕 は尋ねられる立場にはなかった。
二人の先輩と僕との間には、医師免許という大きな隔たりがある。
僕が二人と同じものを手にするには後二年かかるのだから、その間に研修を終えた栗橋が 実家に戻されれば、少なくとも教授の身近での軋轢はなくなるはずだ。
 西山も妙なちょっかいをこうして出してくるが、昼だけなら、話しを聞いてみても悪く はない。
しかし、誰かと同道するなと暗に言うような追伸は何故だろう。
 内緒話があるような間柄でもない。強いて理由を探すなら、奢りと聞くと煩い板倉が来 ると、財布の中身を空にしかねないほど食べるのが嫌だ、ということか。
或いは、むっつりと僕に張りついている―――そう教授にまで言われた―――新木が、西 山を嫌っていることを考えに入れたのかも知れない。
下手すると二人とも同道、そう考えると昼向きではないな、と納得がいってしまう。
 怪しげだが、断るほどの理由はない。
西山は僕を煙たく思っていたとしても、栗橋のようなやり方は好まない。
悪意の示し方においてはもう少し洗練されているだろう。
暴力よりも、幾らかは対応しやすい。
僕は一旦ラボの外に出ると、携帯で、昼は西山先輩と食事にゆきます、とだけ教授にメー ルをいれた。
不在にしていて居所も掴めないと、最近の教授は不機嫌になる。
当たり前だ、僕はそうして事件に『巻きこまれた』のだから。
 後ろにちらり、と不愉快な影を見た気がしたが、敢えて無視した。
佐野明良とはもう、家庭教師と生徒の関係ではない。
いい加減に未練たらたらな態度は止めてほしいものだ。


 何処へ、と問いかけても『いいから、いいから』と言うだけの西山が立ち止まった時、 たっぷり二十分は歩いていた。
「……ここ知ってるか?」
「いいえ」
 案内されたところは何でまた、と聞きたくなるようなステーキハウス。多分雑誌に紹介 されているのだろう、列を作って待っている人の間を西山はとっとと進んで、ウェイター に予約のある旨を告げた。
 珍しい。西山が金持ちの息子らしい態度を見せることは記憶にない。
その点、大病院の跡取を自認していた男とは大きく違う。
後からきた人間のペナルティで、行列の空腹の眼差しを受けつつテーブルにつき、メニュ ーを広げられて絶句した。
 不況と言われても桁が違う。
「ランチだと色々ついてるけどな、肉の量が多いほうがいいなら、単品で言えよ」
 西山はまあまあ機嫌が良さそうだ。一番安い……と言うにも抵抗があるが……を頼むべ きかな、とメニューを早々に閉じると、見透かすように笑われた。
「別に、値段が違ったからって話まで違えやしない」
 確かに高い店に入って吝嗇な真似をすれば、僕でなくても軽蔑するところだろう。
「同じでいいなら……」
 大食らいではないはず、と頷いて任せた僕は、真ん中程度のメニューだったことにほっ とした。すぐに、オードブルの生ハムを載せたサラダが出てくる。
暫くは僕たちはぱりぱりと音をさせるだけだった。
「……こういう店は嫌いか?」
「別に、好きも嫌いも……」
「教授は?」
「……たまに」
 これは否定してもしょうがない。僕の作るものでは限界がある。
「あんまし優遇されてないのか」
「良くして頂いてますよ」
 下僕扱いをするような教授ではない。流石にむっとした僕を見て、西山は笑う。
「そうか、悪かった」
 スープとパンが運ばれてきて、また会話が途切れた。
固いバターをバゲットに塗るのに苦労していると、スープを一口飲んだ相手がスプーンを 下ろした。
「お前、どうすんの、卒後」
 まだ時間のかかることに何を言っているのか、と呆れ果てた動きが指に出た。
ぱりっ、と、外側の皮が大きく割れて皿に落ちる。何だか間抜けだ。
「……早いなんて思ってないよな。院に来るだろ」
「そこまでやれるかどうか……狙えるほどにはなりたいけど」
 西山が片方の肘をついて身を乗り出してきた。
「来るんだろう。教授が逃すわけないからな」
 バターを塗ったバゲットを口に押し込んで、返答しないことにした。
その程度で、相手が誤魔化されてくれるわけがないとわかっていても、奢られたからはい はいと言いなりになると思われるのも困る。
「知ってるか。あいつ、親戚に抵抗してまで院に来たいらしいぞ」
 あいつ、と揶揄する口調が誰だかは聞くまでもない。
「無理だって言ってやりたいね。指導教授の教科を落とすような奴、入ってくるだけ無駄 むだ」
「……先輩が卒試落としたって噂……」
「事実だよ」
 訂正する目は笑ってこそいないけれど、意地悪な光を湛えていて、食事など一緒にする のではなかった、と後悔した。
わざわざ昼食べながら陰口叩きたいわけじゃない。
「でも国試さえ通れば」
「その通り。どうにか引っかかったからいいものの、飲み会では勝ち誇っててな。お前が いないのいいことに悪口言い放題だったから暴露してやった」
 板倉と小田は、そんなことには触れていなかった。まあ、事実としても言いにくいだろ うけれど、合格して重荷を取り除かれた男は、酒が回れば暴言をダース単位で吐き出した に違いない。
「ま、そんなことはいい。けど、あれが院生になるなんて言うと、またぞろお前にちょっ かいかけてくるだろ?俺としては、可愛い後輩の苦難を見るに忍びなくて……」
 泣きまねさえ見せていても口元が笑っている。
医師免許を持って研修を受けて、仕事とテーマとを両立させているのに、こうしてラフな 服装でへらへらしていると医者には見えない。
逆に教授は、白衣をまとっていない時でも鋭くて、数日の研究でよれた服装になっていて も、見誤る人間なんかいないのじゃないかと思う。
「俺はあいつは基礎向きじゃないと見ている。逆にお前は臨床じゃへこたれる。だから、 不幸なこと増やす前に、そこんとこ理解してもらおうと思ってな」
「……つまり?」
 言いたいことは分かっていた。
西山につけ、と。
 学内の派閥は多い。教授同士の対立から、学生の実家関係に至るまで。
いつ、どこに、どこの大学の出身者が、何名所属できるか。
一般の開業医はさておいて、総合病院ともなると、少しでもできる医師を確保しないと今 後は生き残りが危うい。
西山と栗橋の争いは、同県で凌ぎを削る総合病院二つの対立の縮図なのだ。
「メインでやりたいことがないってのなら、俺を手伝わないか」
 ソフトな申し出だ。
「教授の手伝いもあるだろうし、たまに頼まれてくれる程度でいい。色々取っ払っても、 俺はお前がやれる奴だと思う」
 相手の顔から、先ほどの小ばかにしたような笑みは消えていた。
西山なりに、僕に丁寧にせっしているようだ。
「前にも言ったろ。あの時は酒が入ってたからお前本気にしてなかったかもだけどな、俺 は余計な手間は一切かけない主義だ。こんなお誘い、他の奴にする気ないぞ」
 普通の学生には、この申し出はちょっとした先行投資になる。
大学時代可愛がられた先輩のつてで、より良い条件の病院に入れることもあるからだ。
医者だって職場を選べるに越したことはない。
 僕は。二年後、本当に医者になれるのか。試験を受けるまでに西風を見つけ出し吉良に 引き渡せたとして、途端に明るい未来が開けるとは思えない。
教授の手元に残っていられればいいが、最悪は所長に引き据えられて惨めに終わることも あり得る。吉良に殺されることだって。
そうならないように努力するとしても、可能性を排除できない。
「……そう、深刻な顔しないでもなあ。別にお前に栗橋ともう一度取っ組み合えって言っ てるわけじゃない」
 西山は、僕の憂いを別の方向に捉えた。
「教授には俺からきちんとお願いするし、お前にもメリットある。医局の連中は今から顔 繋いどいて悪いことないぞ。お、来たきた」
 空腹の胃を締め上げるような音を立ててステーキがやってくる。
「俺もお前を使いたいわけだから、本とかは貸すし、自信ないとこは見てやるよ。ま、断 る前に肉だけは食ってくれ。二人分詰め込むのはごめんだからな」
最後の言葉には妙な実感があって思わず吹きだした。
表面以外はほぼ生の肉を切り分け、僕たちは熱した鉄板の上で一口ずつ焼いては食べるこ とに集中した。


 即答は強いないが考えておいてくれ、と言われて、返答は実質保留の状態になる。
デザートのシトロンケーキを相手に慎んで進呈した他は、申し分のない昼だった。
レジでもらったガムを噛む。戻ってすぐに歯を磨けない時、キシリトールの板ガムは手軽 であり難い。
 先に店の外に出て、西山が会計を終えて出てくるのを待つ。
礼を言ってないことを思い出し、慌ててガムを右の奥歯辺りに押しやった。
「……今日はご馳走様でした」
「や、俺も久々どっかり食べたかったし。もう少し軽い店とかがいいなら、また」
 西山もガムを口に放りこんだ。
「お前甘いの駄目なんだなー。カレーとか好き?」
「辛いのも別に……先輩は好き嫌いないんですか」
「俺?食べ物も人間関係も博愛主義」
 お愛想で笑っておいた。
「あ、おかしいか?俺はいつもそうだけど……っと」
ポケットから携帯を取りだして、西山は誰かにかけ始めた。
「……もしもし、俺。ちょっと拾いに来てくれると嬉しいなあ……なんて。一人連れてる し食いすぎて身体重いんで。え?や、真面目なお話」
 たかが二十分の距離だが、昼休みは終わりに近い。僕も西山も遅刻だろう。
食後は胃を休めるのが原則だが、奢られて送られたというのは、申し出以前にずうずうし いことになる。
「先輩、これで失礼します」
 途中に本屋があったので、チェックだけしていこう。入室に遅れても十五分少々、厳し い叱責の対象にはならないはずだ。
「あ、おい待て……ちょっと回ってくれたって……」
携帯のの向こうが誰であれ、昼休みが終わるのはご同様だ。嬉しくないだろう。
西山がぼやいているのを気にせず、さっさと歩いた。
歩きながら考える。
 今の件、教授にはどう話したものだろう。基礎に進ませたい考えの教授は、諸手を上げ なくても、恐らく反対はしない。
院を目指す考えで勉強するなら、今からやっておいて損はない。ただし僕の学費は所長か ら出ているし、医学部六年のそれは借金だ。
院に入るにはまたしても所長に頭を下げることになる。突っぱねられても道はありそうだ が、教授と所長の確執が怖い。
 医者として現場で働くとしても、よほど良い職場を見つけないと、眩暈のする学費を返 却していくことは難しい。教授は僕を干上がらせることも簡単にできる。
あることがちら、と頭を掠めた。首を横に振ってその考えだけは追いやる。
 返すにも払うにも半端な額だ。到底足りない。
本屋へは次の角を左だ。時計に目をやって、横道へ入った瞬間だった。
「加納」
 考え事と、用事と、災難は同時に扱いがたい。
憎々しげな声の主と鉢合わせしてしまった。
栗橋は、相変わらず元気なようだ。
「お久しぶりです」
 まあ、壊れてしまったものは元に戻しようがない。人間関係は尚更だ。
内心の溜息は表に出さず、僕はその脇を抜けようとし、半ば予想していたことだが腕をつ かまれた。
 振りかえって、全く感情をのせずに相手を見てやる。その方がたじろぐと思ったのは当 たりだった。
「……何かご用ですか」
「どこに行ってた」
「昼ですよ」
 体が重たくなっているのはマイナスだな、たまに楽しんだと思うとこれだ。
穏便に離れられることを願いつつ答えたものの、逆に機嫌を余計に損じたようだった。
「西山とか」
どうやら一緒の所を見られたらしい。店内か、それとも出た所か。
「あいつに何を吹きこまれた」
 先ほどの話しが嘘でないなら、この男に僕をつべこべ言う権利はないんだが。
ここでまた争うような真似はしたくないので、ほどほどの答えを探した。
「資料探しを頼まれただけですよ」
 申し出を受ければ、そうした雑務を手伝わされることになるだろう。
嘘はついていないが、真実を全て語るのは愚かしい。
「……他には」
「それだけです。午後間に合いませんので、これで」
「待てっ」
 これ以上答えてやる義理も義務もない。僕は、相手が激昂しない程度の冷静さで、腕を 掴んでいた手を振りほどいた。
「お前っっ」
 本屋に入った方がやりすごせるか、しかし携帯が使えない。
付きまとわれる前に表の通りに戻ろうか、と悩んだが無駄だった。
「いつもいつもそうして涼しい顔しやがって……」
 一度手を出すと、次も勝手に体が動くのか。
今度は避けたのだが、それでも肩に手が当たってよろめいた。
「こそこそこそこそと、陰で他人のこと笑ってやがって……」
 それはそちらの方だろう。面と向かって言ってやりたかったが、この前の今回だ。しか も場所としては学外。今度こそ警察沙汰になる。
「先輩がどう思ってるか知りませんが、昼食べてきただけです。失礼します」
 この前は、相手に対して僕までヒートアップしたのが拙かった。今日は堪える。
相手と僕は、あの時と違うのだから。
「加納っ」
「午後始まってますから、これで」
 医者とは言え、研修中の栗橋だって、忙しい筈だ。貴重な昼休みを割いて、こそこそし ているのはどちらだ、と言いたいのを堪えた。
本屋を諦めて授業にゆこう、とUターンしたことも、相手の形相を悪くする一方だ。
けれど、おかしいじゃないか。
「待て、加納っっ」
栗橋が僕に追いすがった時、
「……いい加減にしろよ」
 心底呆れたと、後を追ってきたらしい西山の顔には書かれていた。
「お前、そんな暇ないだろうが」
 背後のぎらついた目が、僕の背中を逸れて西山に向いたのがありありと分かる。
「加納、いい、行け」
「待てっ」
 この場合、迷うことはない。拗れきったものはもう元には戻らないだろう。
戻す気も、もう失せている。
「失礼します」
 それだけ言って、僕は背後を振りかえることもなく早足で立ち去った。


 携帯メールに板倉から、『悪い』とだけ入っていた。
何だろう、間違いかとメールをいれなおそうか迷い、続けざまに送信がないならたいした ことではないのだろうと放っておくことにする。
 午後の2コマを終えてラボに戻ってくると、何ら変わらぬ西山がいた。
「よっ。ばっちりだったか」
ドナルドダックそっくり、と瀬里が言ったひしゃげた笑顔からすると、どこも殴られずに 済んだようだ。栗橋のフックは痛い。
「……シミュレータでしたから、何とも」
 実際の手術に近く見せるシミュレーションを使っての授業は、それでも頭には入りやす い。平面の文字や画像だけでは、立体をイメージすることは難しいからだ。
「そのうち、嫌って言うほど本物に当たるさ。医者になればな」
 板倉は今日はバイト、小田は見かけないが、明日僕が行くことを了承した以上は、ばた ばたしているのだろう。
新木もサークルにいる頃だから、珍しく僕の周囲には人がいない。
ある意味拙いな、とは思ったが昼だって似たような状況だった。
「昼はご馳走さまでした」
「……助かりました、とは言わないんだな」
 ちょっとアヒルの嘴が尖った。拗ねて見せたつもりだろう。
平然と僕は聞き返した。
「当然じゃないですか?」
「どうして」
 正解を知っていて、僕の回答を予想していて、西山は問いを投げる。
「もう、僕なんか相手にしてる場合じゃないですよ」
 いがらっぽさに息を一つ吸ったが、言葉は割とスムーズに出た。
「もう、敵にするんなら西山先輩の方でしょう」
 数秒後、また唇は笑みの形に変わった。
敵意こそないが、相手の目はちっとも笑っていない。
「……お前は、本当に物分りが良いよな」
ゆっくりとこちらに近づいてくるが、あと三歩、の辺りで西山は足を止めた。
「そう。お前はあと二年、学生。栗橋は医者。天と地ほどの差があるってのに、本当のと ころをあの馬鹿は分かってない」
 同じ医学生、であるならば、多少の諍いは愚かでもあり得る話しだった。
片方が医者になったなら?知識と、建て前上は見識もあると見なされる職業が、ただの学 生を虐めたところで何になるのか。
 僕が取りうる方法は、だから、無視、だった。
「お前があいつの立場だったらな。そうしたら、俺はもっと真っ当にやりあえるのに」
心底残念がる口調で西山は続ける。
「危機意識がある割には、親戚の洗脳で妙な特権意識だけ持ってる。常識も少しならある 筈なのに、自分に頭を下げる相手ばかり見てきたから、ちょっと違う世界の奴が来ただけ でびくつく」
 違う世界、か。確かに、西山たちから見たら僕は奇妙な奴だろう。
「あんなののやる病院はいずれ潰れるさ。金だけ落とせばいいんだろ、でやってりゃ、俺 のとこもあいつのとこも、過疎が進んでお終いだってのに」
ぼん、と何かが爆発するジェスチャーを片手でやってから、西山は僕の微かな驚きに気が ついたらしい。
「跡継いで左団扇、てわけにもゆかないよ。俺とこは親父が若いから、兄貴も俺もある程 度好きにやらせてもらってるけどな。いいのいたら引きぬけ、くらいは言われる」
 地方の病院の事情は、思ったより深刻らしい。
「横の連携をやって生き残りを計ってもいいのに、栗橋の親戚連中は目先の金と利権にし がみつくだけだからな。というのか、連携やったら俺らに食われると思ってるから、博打 ができない」
「……患者からしたら、博打ってのは……」
「おいおい、例えだよ。ま、悪趣味ってのは認めるが、俺としては万一の時に近くにいる 医者は厳選したい。栗橋がこの先どれだけの技術を身につけるか知らないが、まず無理だ ろ。お前か俺だかを気にして追い掛け回してるレベルじゃ」
「……きっと寂しいんですよ」
 げらげらと西山は笑ったが、僕は半分本気だった。
教授の覚えも良く、後輩を従え、いつかは西山にも打ち勝つと思いこんでいたとしたら、 現状は悲惨なものにしか見えないだろうから。
何をして良いか、分からなくて途方にくれていたことは、僕にもある。
「寂しい、ね。やっぱり、教授の寵愛受けるだけのことはあるんだな」
 寵愛、という揶揄に顔を顰めた。
「事実だろ。合宿のキスマーク、覚えてるぞ」
 一瞬冷汗が出たが、瞬く間に引いた。
二年も前のことを今更どうできる。
切り札になるとしたら、合宿中か直後が精々だ。
「虫刺されでも見たんじゃないですか」
平然と返すと、また西山は笑う。
「あの時も、お前は『事故』と言い切ったな。怪我してるし、血も抜けてるのに全く動じ なかった。俺が年下に押さえこまれたのはあの時くらいだよ」
 仕切るのは俺か栗橋だったのに、と言われた。片方じゃなくて両方だろう、と思う。
なかったことにしろと脅される前に僕からきっぱり言われて、まだ血に慣れていない栗橋 も、仕事で見慣れてはいても彫刻刀で僕を刺してしまった西山も、うろたえていた。
「事故ですよ」
 鮮血の色と共に、あの夏のことは覚えている。
色を変じた血だまりの祥代さんを忘れないように。
「そうだな、事故だ」
 僕は助かっているし、傷痕も小さなものだ。
静かに呟く西山に恩を着せずにおいたことが、プラスかマイナスかは分からない。
「……その年でそう言えるか。教授が手放さないわけだよな」
半分は不気味に思い、半分は感心しているらしい。
脅しや駆け引きは高校の時から、もっとえげつないやり方を見慣れている。力のある人間 を下手に脅かすとどうなるか、所長の傍にいたのもあって嫌になるほどに。
荷担したこともある。一度や二度ではない。
「俺もお前なら欲しいよ」
「……どうも」
 西山は冗談半分ながらバイと公言している。あんまり嬉しい言葉ではない。
三歩が二歩に縮まったので、逃げ出す口実を考える。
肉の消化に身体が集中しているのか、どうも重たい。
妙なことになりそうなら逃げるに限る。
「なあ……」
喉に絡むような声なんか出すな、気持ち悪い。
「一度くらい試してみないか?」
冗談じゃない。実験の手伝いなら考えないでもないが、西山の欲望処理までさっきの申し 出に含まれるなら蹴り飛ばす。
「俺、結構自信あるんだけどな……」
カツッ、と小さく聞こえた音を、先に聞き取ったのは多分僕だ。
「先輩は、何だろうとこなせるんじゃないですか」
 さり気なくドアの方へ身をかわした僕に、なおも西山は寄ってきていた。
音に気がつけば止したに違いないのに。
「そう思うんだったら、これからでも……」
 室内に新しく空気の流れが起き、僕はうまく開いたドアを西山との間に挟むようにして 逃げた。
「……あ」
 ドアから半分見えている西山が、ばつの悪そうな顔になるのも無理はない。
 笑顔だったとしても、碓氷教授が大学で鋭さを失うことはほぼ、ない。
「今日はこちらでの手伝いを頼んでいたかね」
「いいえ……今日は、加納と話しに」
教授は相槌は打たずにきっと見えないドアの向こうで冷たい笑顔を作っている。
西山がぎこちなく顔を覗かせて、口元だけまたへらへらと緩めた。
「じゃ、考えておいてくれ……出来れば色気のある返事をしてくれよ」
 怖がっている振りをしながら、西山はちゃんと教授の気配を探っているな、と思った。
それで尻尾を掴ませるような人ではないと分かっていても、弱みと思われることを探り出 すことに余念がない。
才能を除けば細心さが、この男の最大の武器なのだろう。
「お疲れさまです、先輩」
 教授がラボに入ってくる。西山が一歩引いてそれを通し、改めて一礼して廊下へと出て 行く。
「……そうだ、西山」
 思い出したように言ったので、僕も西山も、何か用事があるのかと動きを止める。
「また、何かと騒がしいらしいな」
「は……」
 明日の授業の話しをするように、滑らかに言われたけれど、意味がすぐには取れなくて 理解が遅れる。
「くれぐれも、私に、有望な医師二人がラボにいたことを忘失させるような真似は、しな いでくれたまえ」
 教授は、僕を見なかった。西山のことも見なかった。
それでも二人とも一瞬の後には、言わんとする所を理解する。
学外での騒ぎが誰かに見られており、教授まで注進がされたのだ。
「……肝に命じます」
 西山は、それだけを答えた。それ以上のものは望まれていない。
教授はそれだけの権限を持っている。
医者になれたとしても、大学に残る限り、逆らうことは許されない。様々の疑問や矛盾を こちらが抱えても、上からの決定には頭を垂れる。
才能があろうと、教授に対して真っ向から刃向かえばただでは済まない。
 碓氷教授は、これまでそうした武器をちらつかせることはしなかった。
権威というのは振りかざすほど安っぽく見える。実際の打撃は大きいけれど、鋭い刃がな まくら包丁に見えてくるように、相手に与える威力は低くなってしまう。
 教授は、完全に抜いたわけではなかった。ちらり、と閃かせただけだ。
最大限の効果を発揮するタイミングを狙って。
西山が大病院の息子だろうと、関係ない。医局にいる限りは、教授の命令は絶対のものに なる。
 立ち去る足音をドアを薄く開いたまま背中に聞き、消えたと分かってから教授はこちら を向く。
 学内では全く態度を変えることがない人だ。
ゼミの面接を受けた時から今に至るまで、僕たちの間には『指導教授と学生』以外のどん な関係もないと言わんばかりに。
もっとも、面接の時なんて僕は十把ひとからげの学生だったから、教授が興味を持つよう なこともなかっただろうけれど。
 一体、いつ僕は、この人の目を引く真似をしてしまったのだろう。
質問日あたりかな、と思ったところで教授が素っ気無い口調で言った。
「小方助教授が、栗橋と西山の争いを偶然に見かけて止めたそうだ」
 それで腑に落ちた。厄介ごとを嫌い、僕と栗橋の争いを知っている小方助教授なら、親 しい西山と栗橋の争いは腹立たしい限りだったに違いない。
居あわせていたら、僕も再び叱責の対象だったろうと思うと、ほっと息が出た。
「怪我はないのだな」
鋭い視線に射すくめられながら、僕は頷く。
「宜しい。六時に駐車場で待っていなさい」
 今日は実験の類はないけれど、それにしても何だろう。
「七瀬氏が、久しぶりにお食事をと仰っている」
 漆黒以外の色彩に覚えがない男の顔が浮かんで、顔が強張るのが自分でもわかった。
西山の狡知でもない、教授の平静でもない、捉えどころのない癖に、何もかも知られてい るような錯覚を覚えさせる男。
知るわけがない、僕のことなど知るわけがないのだけれど。
避けるに越したことはない、と逃げ出すのを分かっていたのだろう。
「この前より、君についてはお気遣いを頂いているが、まだお礼も申し上げていない」
 教授は先に、僅かに咎める響きで、僕がまだ作り上げていない言い訳を封じた。
「百万言よりも、一度直接にご挨拶する方が早い。違うかね」
せめて、プレッシャーは軽減したい。必死に僕は犠牲者を増やそうとした。
「それじゃ、板倉も……」
 僅かに、教授の口元が引き攣れる。
笑む時に出るその引き攣れを見たくはなかった。
嫌な予感を払ってやろうとでもいうように、教授が軽く肩に手を置く。
「声をかけたのだが、今日はバイト先にゆくので同席できないそうだ」
 その時ようやっと、板倉のメールの意味を理解した。
例外は誰一人としていない。僕たちもまた教授に支配される学生でしかないのだ。



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