Liquid


3


 夢の中では、夜の色は青い。
そんな詩的な夜など過ごした覚えはないのに。
街灯のほの白さ、アスファルトの青い反射、それが、部屋の暗がり以外の全てを描く。
いつもいつも、青の濃淡と、清らかさの欠片もない白い色。
 温かい夜も昔はあったかもしれない。
身じろぎして毛布の近くの温かさに寄り添ったことも。
 けれど、一人の夜だろうと、形ばかり二人の夜だろうと。
夢の中では、青いままだ。
 僕にどれほどの仕打ちがなされようと。
悔しさや、苦しさにすすり泣こうとも、その涙にさえ、熱はない。
そして、夢の中の夜は、一つも未来に繋がっていないのだ。


―――いつも、過去ばかり―――


 欠けてゆくばかりの月が地平を目指している。
何を急いているのだろう。
夜明けに追いかけられて、青空に白く無残な身体を晒すのを懼れているのだろうか。
今の齢では、星にも劣る自分の光を、知られまいとするのに精一杯。
朽ちる輝きの残滓を零しつつ、西へと逃げる。
 逃げる場所などなく、惑った挙句、次の夜にはまた、一段と劣る身を空に晒す。
一夜毎に追い詰められる僕よりも無残な姿。
様々の形容に腐らされ、威容も優しさも失って、夜を青く逃げ惑うばかり。
嘆く暇さえなく、次の夜に至らぬ道を探している。
ただ、思いこみで西を目指して。


 僕はうつ伏せの姿勢から、濃紺の空が色をぼやかし、ただでさえ弱まっている月の輝きを一層無残なものにするのを片目で眺めていた。
誰かがそっと、髪を撫でてくる。
少し仰向くと、伸びた指が顎を撫でてきた。
「……つるつる。最後に剃ったの、いつだよ」
 耳奥で、空気が膨張したように、やんわりと聞こえる声。
ああ、また、昔の夜だ、と気づいた。
僕が枕しているのは死者の脚。
温かくもなく、柔らかくもない、今はいない男の脚。
顎から、再び髪に触れて弄ぶ指にも熱はなく、ただ、そっと触れる記憶だけが掠める。
 まだ若い。
僕より年上だったのに、僕はその年齢を越しつつある。
花を手向けに向かう度、無残なまでに生きながらえている自分に疑念を抱え。
立ち昇る煙に思い出を滲ませ。
 過去の夜なのに、吸っていた煙草の匂いもしない。
暫く、手向けてなかった、と思いだすのも過去。
「相変わらず、何処めがけて無茶してるんだ」
 声にある明るさも、月のようにぼやけている。
「無意味に頑張ってへばって」
 死者は、笑わない。
ただ静かに、思い出の中でだけ、僕を糾弾する。
連れに来てさえくれない。決して、そんな奇跡は存在しない。
僕たちを隔てたものは、幻想でもなく、宗教でもなく、身体だけの喪失。
 縋っているのは、僕だ。
恋愛にもならなかった相手。
勝手にやってきて勝手にライバル宣言をして、勝手に触れてきて、勝手に死んだ。
全て、僕の傍らで。
 この過去の中で事実なのは、そのことだけ。
完全に上を向いてみた。
脚の感触だけ。手の感触だけ。
見下ろして笑う顔も、青と白の線と面で、網膜の記憶にあるままに、過ぎた年月を知らないことが羨ましい。
「愛している?」
 誰を、と良く聞き返したものだった。
その度に、俺を、とか、あの人を、とか、言う相手が違った。
僕が誰を愛しているかを、とてもとても知りたがっていた。
誰も愛せない少年が、生きるために、誰のぬくもりならほしいのかを探っていた。
 誰のも、欲しくなかったのに。
寝床からも、車からも、突き落とされたことがある。
だから、ひと時の体熱も、温度がありそうに聞こえる言葉も、要らなかった。
 まやかしの夜の温もりなど、僕には何の意味も持たなかったから。


「愛している?」
 もう一度、言葉がぼやける。
身内と呼ぶものも、思いこみの恋の囁きも、不確かな友情も、未だに要らない。
裏切られ、身体を暴かれ、遠ざけられたものに何の未練がある?
今は、明日の道を探すことに倦まない心が欲しいだけ。
下限を過ぎた月のように、果たし得なくても、歩みを止めないだけの精神力。
 そんな道に、どんな愛情が必要なのだろう?


「それなら」
腕が、静かに僕を縛る。
最後にそうしようとした時、彼の腕は折れていた。
「せめて好きでいさせてくれよ、寧」
そう囁いた時、彼の肋骨は内臓に突き刺さっていた。
誰かに、突き飛ばされて車道に転がり出た男は、あっけなく車に飛ばされて。
喧しかったのが嘘のように、逝ってしまった。
煙草の匂いさえなく、今はこうして頭上で過去の夢となっているばかり。
それでも、でてきたのは久しぶりのことで、本当に。
久しぶりのことで―――
「……円?」
 まどか、なんて女みたいな名前だと思った。ついていたけど。
僕を見下ろす男は、欠ける月と同様のぼやけた白い笑顔。
「愛しているか?誰かを」


 僕には、それは荷の重い行為だ。
守ってくれる存在などいない現在。救えるかも分からない未来。
今できることは、係わった人の死を減らすこと。
 せめて、不慮の死だけでもよい、それでも僕の心は落ち着くだろう。
そう言おうと思って、ふと、夢の中ならと気まぐれを起こした。
「同じことを言った人が、いるよ……」
「同じ?」
 少し、声が硬くなった気がした。
「好きでいさせてって……」
 その資格さえないのに、と泣きたくなった。
欺き続けることには慣れていたけれど、時折、言葉が痛くて。
当たり障りのない返事も草臥れて、無視するには相手が強すぎて。
「よせば、良いのに。さ」
 僕は身をよじって、死者の腕を逃れる。
冷たい夜に再び伏せて、無残に夜明けを迎える過去を指でまさぐる。
「置いていったり、置いてゆかれたりするんだよ……」
 父親、円、佐知代さん。
僕の身近で、幾人もの人が亡くなっている。
誰一人として、僕は押し留めることができなかった。
「意味がない……」
 僕を置き去りにした西風、踏みにじることにも躊躇いなかった所長。
執拗に命令だけを口にする吉良、その番犬でしかない開。
彼らだって、いつかは死ぬ。事故でか、老衰でか、知ったことではないけれど。
 ……けれど、知ったことかと突き放せない人が一人いる。
僕が道を迷走するとも、月が東から西を目指すように、指標となる存在。
医者になるには、望みを叶えるには、不可欠の男。
 愛情など一番要らないはずなのに、最早僕を手放さない教授。
医者になるまでは、死なせられない。
せめて巻き込む形では死なせない。
 薄情者ではあっても、恩知らずにはなりたくないのだから。
視界の中に、白い景色が増えてきた。
逃げる月を追うように、夢の中の過去にも、無情な朝が訪れようとしている。
 後悔の中、ただ嘆くことは止めて、起きあがれと促すように。
「誰?」
 少し眠っておこうと思うのに、再び、今度は背後から腕が回る。
そっと揺すぶってくる。
「誰だ?」
ぼやけた声で聞いてくる。
「円の、知らない人……」
 過去の幻影が知るはずもない。
珈琲が好きで、研究にはこの上なく真摯で、何でも卒がなくて。
言葉で愛情を探り、身体をまさぐって快感を調べ、それでも真実に到達できない人。
絶対に、僕が原因で死なせてはいけない人。
「誰だ?」
 多分、僕が、こんなにも爛れきって、良心などとうの昔に売り払って、目的以外は見向きもしない男が、死なせたら、破滅するだろう相手。
愛せなくても、踏みにじる真似だけは、すまいと思い始めた人。
 そして、過去にして、ただの未練にしてしまうべき、存在。
僕が傷つけたり、壊したりする前に。
離れて暮らすべきなのに、多分現実の僕の傍らで、眠っている男。
 知らないまま、ただ、不幸な生い立ちの若者とひと時暮らした、その記憶だけで済んで欲しい。
僕を大事にしてくれようとした、そのことを本当の意味で裏切らないために。
火や血や死や、不審な陰りをまとった存在は、傍らには必要ない人なのだから。
博光さんは。


「……大事な人」
 時折、朝起きると、抱きしめていてくれる腕の持ち主。
温度のない夜から、熱くも冷たくもある朝に踏み出すことを思いださせてくれる。
どうか、この人の弟子として医者になれるようにと、願わずにいられない。
大事な存在。
 決してそう認めてはいけない、かけがえのないもの。
誇りに思う存在、或いは弱みになる存在を守る力を持たない僕が、夢の中でだけできる告白。
決して彼の元に膝を屈しきることはないけれど。
愛する、という言葉に確約を与えずに、いずれ終わることになるだろうけど。
 もう少しだけ、あと一日だけ、と願う朝もある。
もし過去がなかったら、昔の僕なら、胸元に顔を埋めて甘えただろう人だから。
これだけ長く一緒にいて、漫然とではなく、目標を持って生きる重みのある日々を共に過ごしている。
 支えあって。
―――支えあって。


「……有難う」
何故礼を言われるのか分からないまま、僕は今度こそ、夢のない眠りに落ちる。
回された腕が夢か現実かも判別しがたいまま、身体の疲れにだけ身を委ねて。


 睨み付けたい相手を睨んではいけない場合、あなたならどうするだろう。
「おはよう、良いお目覚めのようだね」
 七瀬遥架。
昨晩、教授のお供でこの男と食事をした後、少々気分が悪くなった。
胃腸薬なんて気休めにしか過ぎないが、これは効く、と出されたタブレットを断りようがなく飲んだ後の記憶が急に途切れている。
 胃は、物理的なむかつきからは解放されているのかもしれない。
あれはただの薬じゃなさそうだ、と、爽快になった身体と、重たさを引きずる心の矛盾が教える。
 何より、ああ、腹が立つのは。
ここが七瀬の別邸で、教授が横にしっかりいるということだ。
逆らいようがない、パトロンの手のうちでは喧嘩さえできない。
僕に妙な手出しをすることを、前もって告げておいたにせよ不意打ちにせよ、七瀬のしたことでは教授は一言も言えないし、そも言わないだろう。
「おはようございます」
 表に怒りを毛筋ほども出さないでいるのがせめてもの抵抗だった。
「昨日はすっかりご迷惑を」
 相手は頷きもせず、ただ、上の立場の無関心を装った視線で僕をただ見ている。
お前のことなどお見通し、と言わんばかりの視線にも、負ける気はない。
 僕ごときを掌の上で転がして充分なら、それ以上遊んでもこないだろう。
冷ややかさを物腰の真綿で包み、ソファーに背を預ける黒いスーツ姿。
存在そのものが、奇妙な威圧感を伴う七瀬を見ていて、ふと吉良を思った。
巨躯、赤茶けた髪、白い肌だが目の前の男のような艶はない。
スーツ姿だということと、多くの人間を従える以外に、共通項はない。
僕の首など何時でも捻ることができる、という点でもまあ一緒か。
何を思ったのか僅かに笑みが深まる相手に、とにかく、敵視と取られるような視線を向けないことで精一杯の僕は、代わりに僕を無理やりここへ連れてきた相手を、やや控えめな皮肉と悪意をこめて見やった。
後で何を言われようと脅されようと、たまには不機嫌であると相手に示したほうが良いこともある。
 教授はそ知らぬ顔だ。
僕の困難の半分が西風の所為だとしたら、もう半分は教授と所長の所為だ。
世の大人の親切には棘がある、と三人とも充分過ぎるほど教えてくれた。
医学の技術を教えてもらうこと以外で、感謝なんてする意味はないかもしれない。
いや、きっと微塵もない。あぁ、腹が立つ。
「どうかな、胃の具合は」
「有難うございます、落ち着いたようです」
 声が堅いとしても五十嵐レベルの慇懃さに近づけるように努力した。
牛乳瓶の底のような眼鏡を今時かけている七瀬の秘書は、壁際で微動だにしない。
見た目だけでもこうなれていたら、もうちょっと楽な人生を送れるだろう。
そう思いつつ、僕たちは見せ掛けの気だるさを纏った男に、辞去する許可を貰う。
「長く引き止めてしまったね、今後とも頑張りたまえ」
 涼しげに言った男は、僕たちが一礼して扉まで下がってから、ふと思いだしたように声をかけた。
「碓氷教授」
 教授の振り向き方は、滑らかなのに何かいつもと違う気がした。
まるで、その瞬間が来るのを待っていたような動き。
何か嫌な事が起きるような、妙な重たさに僕も足を止める。
七瀬は仮面のような笑みで言葉を続けた。
「確信があるならば、今からでも弁護士を呼ぶが」
肘掛に緩慢に這う指先さえ、ぴくりとも動かない。動きは口元だけだ。
ただ、物憂げに見せる目の奥には、凝ったような光がある。
「いえ、これが目標を達成してから、お願いいたします」
教授は僕を見ないまま、少し間を開けて笑みを浮かべた。
「世間体の悪い思いなど、させてやりたくはないものです」
「温室なのか路地向きか、いささか難しいようだね、君の学生は」
二人の視線はこちらには向いていない、けれど話題は僕に絡んでいる。
僕の意思は一切無視して。
そう思った瞬間、奥歯をかみ締めていた。
 これが初めてではない。
腹立たしさを堪えるのも、落ち着ける材料を探せず、知らぬ振りをしきれないことも。
だから、待つしかない。
十代だろうと二十代だろうと、僕が力のない存在である事に変わりはない。
そんな事実ばかり見せつけられても、今は流すしかないんだ。
 けれど、負けるものか。屈服するものか。
「私は構わないよ。徒花に終わらないならば」
教授の口元に、笑みを浮かべた時にだけ見える引きつれが生じた。


 車の中で、いい加減痛くなってきた顎を解放し、僕は教授に食ってかかった。
「どういう意味です、あれは」
「お前が察したままのことだろうな。問題はないと思うがね」
 僕に横顔を向けたまま教授は平然と答える。
車の運転にはちっとも支障が生じない。腹立たしいほど正確な運転ぶりだ。
「あの男は未だに、お前が医者になるのを面白く思っていないらしい」
それは分かっている。誰よりも僕が分かっている。
所長はそれでも、僕を蹴落としたり突き放したりはしていない。現時点では。
「学費は振り込んでくれましたよ」
 当然だ、と教授はまだ前を見たまま続ける。
「お前の手を離すならば、いつでも私が正式に貰い受けると言ってあるからな」
 人をもの扱いか、と怒鳴りつけたいのを再び堪える。
僕はやりとりされる家畜か何かか。所詮は稚児扱いか。
貴方たちにとっては僕はいう事を聞いて時々身体を好きにさせる玩具程度なのだろう。
けれど僕は違う。安っぽいプライドで言っているんじゃない。
全部犠牲にしたって、ここから抜け出して見せる。
必ず、医者になってやる!
言っても始まらない言葉をかみ殺す悔しさを、それでも堪えていると、教授が今度こそこちらを見た。
信号は赤。
「どうした、言いたい事は言ったらどうだね。私はあの男と違って、おべっかや媚態だけを望んでいるわけではないぞ」
 揶揄するような言葉だが、僕はそれでも懸命に自分を抑えた。
教授の目は言葉よりも鋭利に、見透かすように僕に向けられている。
「お前にそれだけの価値がなければ、こうして連れまわすこともない。七瀬側とやり取りをして、一学生に対する捜査を止めさせることも、だ」
「捜査……」
 その言葉で少し感情の沸騰が収まった。
佐知代さんの件か。まだ、警察は犯人を特定できていないらしい。
そうなると、関係者の来歴を洗いなおす必要がでてくる。
僕を調べれば、親の事故死、元後見人の失踪、不審、胡乱な物事は山ほどでてくる。
 円の事故死の時も、そう言えば散々、調べられたのだった。
突き飛ばすような位置には絶対にいなかったにもかかわらず、だ。
それらは全て、僕という情報として警察のデータベースに存在しているのだろう。
新聞にこそ伏せられても、公務員にまで隠しとおせるわけではない。
 第一容疑者は三人いるがその中で僕が一番怪しい、ということだろう。
僕が刑事の立場でも疑うに決まっている。
「疚しい事がなくても、大学近辺をうろつかれては迷惑だ。お前が私から離れる存在ではないと理解してもらうのに、七瀬側の口添えを願うことになった」
 再び教授は前を向き、青になって一秒後の道路を車は走りだす。
「無実以前に、お前はお人よしだ。僅かにでも恩義を感じた相手に、後足で砂をかけるような男ではない。まして、惨殺して現場に戻ってくるような真似は出来まい」
 そしてその晩、僕たちは一緒にいた。
同じ寝台で、抱き合って、ただ静かに夜を過ごしていた。
教授の偽りのない証言がなければ、僕は、拘束され疑われて、こんな風に守られはしなかっただろう。
突き放しても、良かったのだ。一学生のことなど。
教授の名に傷がつくくらいなら、そうしたって問題はない。
 けれど、教授が救ったのだから自分の所有物だ、とする考えでいるのなら、それは僕には受け入れがたかった。
ウインカー、数秒後に右折。
後ろから一台のバイクが交通法違反をしてまで僕たちを追い抜いてゆく。
ヘルメットからはみ出した黄色く変色した髪が、一瞬風に煽られた。
「まあ、どうであれ、後一回は警察の訪問があるだろう」
 そうだ。捜査終了の時に、念のためもう一度、と刑事たちはやってくる。
忘れていた事をこちらが思いだしたり、或いは、間違いなく事実であることをなぞるために、靴底をすり減らして話を確かめるのだ。
「私か、弁護士の同席なしには何も言わないことを告げなさい。昨今は失礼な言動の警察官もいると聞くからな」
「教授……」
少し走ったところで車は減速し、教授は路方に停車すると真っ直ぐに僕を見た。
腹立たしさを拭えないけれど、こうして僕を庇護下に置いてくれている。
教授が、所長と対立する必要などない。
僕を一学生として扱う以上の義務は、彼にはない。ないのに、いつも腕は伸びる。
 決して人間が一人では生きられないことを、いつも僕は思い知らされる。
所長のようなビジネスライクの援助ではなくて、不可解な教授の感情で。
同情も憐憫も要らない、家族も心からの友人も有り得ないのに。
「ただ、勉強の事を考えていなさい。今はそれで良い」
 唇の下の歪みは、いつ出来た傷なのだろう。
この人が心から思った妻を亡くしてから、僕に興味を移したのは一体何時だろう。
何も、僕は尋ねられない。
知ったところで、不可解だ。本当に理解しあえるわけではないものを追うだけ、傷つけ合うことになる。
「有難うございます」
 僕はただ、全て飲み込んで頭を下げるしかないのだ。
どれほど寛容に振舞ってくれていても、相手を怒らせるわけにはゆかない。
べし、べからず、のルールは所長とは大差なく、相手は権力者だ。
突き放すどころか、突き放されてはならないのは僕のほうだった。
頭を下げる僕に向けられている視線はやや悲しげな気もしたが、いずれ、少し過剰なスキンシップで誤魔化すことにしよう。
そうした歪んだ考えを浮かべる自分をこそ、僕は憎むべきなのかもしれないが。



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