Liquid


4


 ある程度の、いや、ある種の惨状を予想していたのだが、小田の部屋は意外にまともだった。
「何だよ、その目は」
 と言われても、写真狂いで、同級生さえその迷惑な趣味の犠牲にする男の部屋なんて、平均的な世の中の学生の部屋だと思えるはずもない。
表に出せないような写真を壁に貼っていたら一度はぶん殴っても良いかもしれない、と思っていた僕は、特にそうしたものを貼っていた痕跡もない壁や、高山植物だの家族だのの写真が幾つかフレームに入って置かれている様子に拍子抜けした。
「お前、俺のこと思いっきり誤解してただろう」
 小鼻を膨らませて、してやったり、とでも言いたげだが、残念ながら、今この瞬間も微妙に疑いが拭い去れない。
都下の開業医の息子である小田は世の中の平均値に納まっているような顔をしているが、つけてくる時計がロレックスだったり、教授陣の服装のチェックをして、胸のアイリッシュリネンのチーフが父親のとほぼ同じだとか呟いていたり、金銭感覚がやはり違う。
板倉辺りに言わせると、『微妙にせこい』らしいが。
 金持ちに僻むわけではないが、カメラだって高額な趣味だ。
僕が家庭教師のバイトで尋ねる家とほぼ互角の広さを持った家に通されて、少し高めに作られた天井を見上げても、取りあえず怪しげな写真がないことで、ようやっと僅かに安堵の思いが芽生える。
「あのな、俺、そこらのカメコじゃないんだけど」
「……疑うよな〜、隠してねぇかって」
「何でお前が言うんだよ、板倉」
 というのか、何故、板倉がついてきたのかが実はよく分かっていない。
なし崩し的に同行しても、昼飯はでないぞ、と、小田が脅しても無駄だった。
「だってよ、お前よりによって男の裸……」
 天井から顔を下ろした僕の無表情を見てか、それ以上は口ごもり、視線だけで同意を求めてくる。
ややあって小さい言い訳が続いた。
「だから、女のばっしばし撮ってんじゃねぇかって……」
それか、板倉。お前の目的は。
小田の目が呆れと哀れみとで細められる。多分、僕も同じ目をしていただろう。
「コスプレとか、レイヤーとかぁ?は俺やだもん」
 そこらのクッションを―――何故だか玄関で吠えてきた犬二匹の写真がカバーにプリントされている―――僕らに放り投げ、適当な場所に腰掛けるよう促しながら、小田はいつも座っているらしい車輪つきの椅子を引き寄せてどっかと腰を下ろし、足を組んだ。
「まあ、アレは魔が差したってのあるけどさ、樋口辺りに頼んで浴衣姿くらい、て思ったら潰れてたろ。だから自棄も半分だったんだよな」
 それで不特定多数に際どい姿を売り飛ばされた僕のことなどおかまいなしか。
というのか、樋口が酔っ払った勢いで受けていたら被害者は樋口だったわけだ。
そういう点での無防備さは女としてどうなんだろう、というのは他人事なので脇においておいて。
今はネットもある。妙な筋に売られて、所長や教授の手を煩わすことがないように、と僕は祈った。
芸能人ほどのスキャンダルではないだろうけど、説明が厄介になる。
品行方正な医学生、にけちがつく事態は極力避けたい。
喝采する連中は一人や二人でもなさそうだし、三流雑誌の記事に、『医学生のモラルを問われる』みたいな紹介をされたら、また学長の前に立たされることだろう。
小田もただではすまないので、逆手にとってやんわりとご協力願ったわけだが。
「けどよー、あんなん売ったって……」
 鞄から資料を一揃い取り出しながら、僕は板倉の言葉を遮った。
「それで、用件、先済ませてもいいか?」
「おっ、スキャナだっけか」
 小田は椅子の足を蹴って机へと移動し、デスクトップのスイッチを入れる。
結構な大きさの複合機も同時に音を立てたから、どうやら、主端末のスイッチが入ると全てオンになる、節電型のタップを使っているようだ。
「結構あんの?そしたら半分俺やってもいいぜ、もう一台もあっから」
「うっわ、キュウハチだ、古っりー」
「中は入れ替えてあるんだぞ、親父がそういうの好きだから」
 板倉が覗き込んだ古い方の端末のスイッチを押して、小田は手を出してきた。
僕は予め、少し余分に持ってきておいた雑誌や写真のスクラップを取り出し、それとは別に、小さなケースを取り出した。
「教授が、ポジやネガもも大丈夫だろうからって。こっちを頼めないか?」
「分かった」
フィルム入りのケースを受け取って、小田がまずこちらの端末にログオンする。
「そっちのは、このアイコンクリックすれば後は原稿置いて倍率指定してスキャン。あ、複数取得にチェック入れておくと楽だぞ」
「分かった、ありがとう」
端末前の椅子に座った僕とは少し離れた、外見だけは古いらしい端末の前にケースを持った小田が陣取る。
板倉がどっちを見たものか、とクッションを持ってほけっと座っている。
「フィルム、後でやりかた教えてくれよ。面倒か?」
「や、全然オッケー。板倉はやってんの?」
 ふるふると首を振った板倉が立ち上がって小田のほうに向かうのでホッとした。
例の写真をスキャンするところを見せたくはない。
わざと、最初は複数取得にせずに、雑誌のページを被せつつ写真を伏せた。
 実は、スキャニングは少しは知っている。
高解像度で例のポラロイドを画像データに落としておきたいが、どこで誰が僕を見ているか分からない状況で、西風の写っているデータを作成したくなかったのだ。
切り札かもしれないものを簡単に誰かに渡すものか。
「加納〜」
 小田の声にぎくり、となったがそちらを見ずに、画面チェックのふりのまま応じる。
「うん?」
「保存どうすんだ、MO?CD-RW?DVD?」
「フロッピー?」
小田が板倉の言葉にこけかかる。
それもないわけではないが、画像保存に一番向かないメディアではないだろうか。
「板倉ちゃん、いつの時代の人間だよ!8インチとか言わねーでしょーねー?」
「あ、USBキーあるから、いったんこっち落とす」
 嵩張るのが嫌だったから、目いっぱい大容量を買ったのだ。
教授に知られたくないので、出費は痛いのだが、自費である。
「おー、ちゃんと分かってんねー。流石」
 流石ってなんだ、と突っ込みつつ、無事に目的の写真だけを選択する。
目いっぱい解像度を上げてスキャニングを開始。
その間にキーを差し込んで、すぐにデータを吸い上げられるようにしておく。
僕が使用しているメインのノートはMS製品ではないが、USBを使える端末はマンションにある。
パスワードも設定してあるから、簡単には解除は出来ないだろう。
「あれ?そういえばお前マックじゃん」
「いいんだよ、教授のデータがメインだし、そっちからメールでもすれば」
 板倉がこちらを気にしている。その間に、スキャナがじっくりとデータを高解像度で読み込んでゆく。
「加納、雑誌類はそう、どアップにしないほうがいいぞ〜」
「あ、うん。ありがとう、小田」
 来るなくるなくるなっっ。そう念じるのとは裏腹の明るい声を出す。
素早く画面を切り替え、画像を確認、USBキーを選択して保存を押す。
形式はJPGの他にもあったほうがいいのか?
急いでその一枚を何種類かに保存、写真を挟み込んだまま雑誌を閉じた。
次のを被せる。
目的は達成したから帰りたいほどだったが、まだスキャニングは残っている。
「にしても加納、教授にスキャナ買うように言ったら?」
「あ?」
 そういえば、必要だったら買ってきなさい、と事も無げに言ってくれた気がする。
その時も忙しかったので生返事したんだった。
後が怖いかもしれないな。
その場は取り繕ったつもりでいると後日やその晩に手痛い逆襲をくらう。
あまり嬉しくない方法で機嫌を取ることにならないといいんだけどな。
 僕の返事をボケと取ったのか、小田はこっちに首を曲げて言ってくる。
「あ、じゃないよ。教授に言ってさ、どうせ本人使わないんだからお前が貰っちゃえばいいって……って、板倉!足踏むなよ」
言われた板倉を振り返るときょとんとしている。
手を伸ばしてマウスを動かし、こちらとは微妙に違う画面をあちこち操作しているが、足元が疎かになったようだ。
「悪ぃっ。んで、ここクリックか?」
「違うっ!お前なんでこんなにメカ音痴?」
 そういえば、コンピュータの授業だけ板倉は苦労してたな、と思った。
僕の隣に陣取って、やることをいちいち真似していて、女子からパントマイムの練習のようだと笑われたっけ。
二人の、というより一人の悪戦苦闘、というよりボケ漫才のようなやりとりを聞きつつのスキャニングはおかしくて、僕は時々笑って生じたマウスのブレを直しながら、残りのダミーの作業を進めていった。


 部屋に、果物の香りに形容される湯気が立っている。
正直、紅茶より珈琲だけれど、まあ、小田の母親がわざわざ用意してくれたのだから有難くいただくほかない。
「ほへへ、はふぉーは、へーはほひひはへるほは?」
「日本語話せよ、食ってから」
 僕の分のケーキを口中に詰め込んで喋るのは止めてほしい。
いや、ケーキはどうでもいいんだけど。
暫くもごもごやっている板倉に、小田がすっかりじと目になっている。
そりゃそうだろう。取った画像を保存前に全部消してしまいそうになるポカは、やろうとしてやれるものじゃない。
「……や、大学戻るんなら、俺バイトもあっから、途中まで一緒に、って」
 長いため息をついたのは僕ではなく、小田だった。
「お前、そうやって加納べっとりだから、あれこれ言われんだろ」
「関係ねーよ」
 板倉に、妙な視線を向けられたことはない。と言うより、彼女持ちだ。
バイの西山などと違って、そっちの嗜好がないことは分かりきっている。
「そういや、久美ちゃんだっけか、最近どうしてんだ、板倉」
 友達の彼女、としては、そこそこの印象だった気がする。
遠目だから実際は知らないが、ほどほどに清潔そうで優しければ、女の子なんてそれでいいんじゃないだろうか。
「こいつ彼女いんの」
「……いた」
板倉の、どこかどんよりとした過去形に、僕らは微妙に強張った。
「『た』、って……」
今度は板倉がじと目になっている。
ぶすくれた、というか、泣き出しそう、というか、あぁ、嫌な空気だ。
バイト先で何人か、こういう顔つきの高校生の悩み相談を受けたことがある。
メールで振られたとか、シャンプー代えたら臭いって言われたとか、マイナス要素が満載の、あんまし嬉しくない話題を持ち出す男の顔つき。
「喧嘩してよー、仲直りしようとしたらひでーの」
 頬が引きつる。話は聞かないほうが良さそうなんだが。
「何て?」
 こういう時、親しくないほうが残酷に聞き出そうとできるものなのか、小田?
「『いいわよ、プラダ?グッチ?シャネル?』って」
顔が俯くのに付き合ってがっくりと落ちた肩、ややあって顔だけあがった時は情けない涙目になっている。
「おー、買ってやれ、……ってお前んち普通のとこだっけ」
 板倉の家は商社勤めで、亡くなった祖母の残した財産で息子を医学部に送り込んだ口だから、貧乏とはゆかないが、そう裕福ではない。
小田もけしかけながら思い出したのだろう、肩をすくめる。
「板倉、それ、かなり彼女怒ってたんじゃないのか」
 口調からすると、突っぱねる感じが、厄介ごとを持ちかける瀬里を思わせる。
何故か女たちは、男の些細なことで原子炉のメルトダウンを引き起こしかねない。
板倉の口真似から察するにも、さっきの小田のように足を踏まれたから、というわけでもなさそうだ。
「謝り倒して、それから何かもちょっと別のものにしてもらえよ」
「……もう、別れてだいぶ経つし」
 小田の目を見ると、地雷を踏んだと言うか、薮蛇だったな、と言っている。
にしても、一度見た時は普通そうな女だった気がするんだが。
やっぱりブランド品なんて欲しいものなのか、油断がならないものなんだな。
「加納こそ、瀬里ちゃんすっぽかして遊んで―――」
「誰だそれ、何だよ加納もいんの?」
 冗談じゃない。と言いたかったが、立ち上がった板倉が、肩をつかんでくる。
「瀬里ちゃんすんげー心配してたんだぞ、お前一度くらいデートでも……」
「ちょっと待て板倉、遊んでるって何だ、そも付き合ってないし」
息を呑んだ板倉の目元がぴくぴくと痙攣している。
 何だかぶん殴られそうな空気だ、と思ったのは僕だけではなかったらしく。
「はいはーい、二人ともそこまでそこまで。ココ俺のお部屋」
 小田が間に入って引き剥がしてくれた。
「まーでもお前ら、つるんでると思った割には彼女いたりなんだったりすんのかよ。おホモだちと思うとこだったぜ、一時の俺も」
『冗談だろ』
 僕と板倉の拒絶の言葉が重なる。それはそうだ。
紅茶カップを取り上げて、ぬるくなった紅茶を一口啜る。
空になったケーキ皿に未練がましい視線を向けつつ、板倉は更に言葉を続けた。
「俺ら別に、要領いいわけじゃねぇから。だから、ノートとか授業のやりくりとか、他の連中ともやってっし、バイトしねぇと小遣いだってそうないしよ……」
 語尾が途切れたと思ったら、腹を押さえている。
「……悪ぃ、小田、トイレどこ」
「食い意地張りすぎだな。出て右の奥。スプレーしとけよ、終わったら」
「はいはい……っと」
 ドアから微妙に前かがみになって出てゆく背中を見送った後、小田は椅子の上で伸びをした。車輪が転がって少し後ろに下がる。
「西山先輩がさ、『板倉が甘えてるだけだろ』なんて笑ってたから、ゼミの中ではあーだこーだ言うのいないから」
 何となし、それでも目に安堵の色がある。
微妙に疑っていたのが、今のやり取りで落ち着いた、とでもいう感じだ。
恐らくは、僕のほうに何らかの要素があったのだろう、と半分諦めつつ、僕も一度伸びをした。
「でも、板倉の言ってるのは誤解だから。バイト先の知り合い」
「可愛い?」
「紹介するか?西山先輩が目つけてるけど」
 小田は一瞬固まり、ぷるぷると首を横に振った。
視線が僅かに同情を含んだものに変わる。
「お前、ろくでもねーのばっかり知り合いにいるのな。今度合コンでも行くか?」
 ははは、と笑った僕は、心理的な頭痛を散らすためにもう一口紅茶を飲んだ。


 まだどこか渋り腹の板倉の背を、駅のホームで軽く叩く。
「大丈夫か?どうしてもだったら休めよ、所長だって一回くらいは怒らないから」
「……大丈夫だよ」
 小田にまでホモ扱いされかかっていたのがショックだったのか、それとも元彼女がやはり地雷だったのか、板倉は微妙にぶすくれている。
あの後、小田の家を辞去してから、微妙に気まずい空気だが、まあ仕方ないだろう。
どうやら「久美ちゃん」という地雷による精神的なもので、送るほどの重症ではないし、僕は反対のホームの電車に乗るので、板倉とはここまでだ。
いわゆるコイバナはどうも苦手だ。
僕が誰かと結ぶ関係が、所詮は一時的で、かつ擬似的なものでしかないからというのもあるが、他者の結ぶそれも、ことに年下の場合は、真剣さを疑わないとしても永続性、連続性とはほど遠い。
その場限りのもの、或いは、学年の変わり目、進学、就職、そうしたもので切れてしまう程度の触れ合い、言葉のつながり。
それに縛られることが本当に楽しいか?と正面切って聞くわけにもゆかない。
聞き流せば終わっちゃうのよん、と、瀬里に言われたことがある。
けれど、どんな難問に向かうよりも真剣な眼差しで、生徒の大半は何らかのリアクションを求めてくるのだ。
いや、何らかの、ではない。
欲しいのは例外なく、同情や共感を伴った柔らかく不定形の、自分にだけ優しい回答。
それが一体何になる?仮に真剣なアドバイスをしたとして、三日後には相談者の脳細胞から消えていても僕は驚かない。
自分で掴み取った何か以外に、感銘を与えつづける言葉など、そうはないからだ。
いわゆる箴言や、警句や気のきいた言葉は、他者の経験から出たものだ。自分が蓄えた経験には敵うものではない。
例えば、これから板倉がバイトに行く以上、テンションが下がりっぱなしだと非常に拙いと生徒に伝染する、と僕は知っている。
家庭教師なんて言っているが、これも期限つきの大きなお友達、とほぼ同義である。
勉強を教わる以上、目上として尊敬されるが、ずっと覚えていてくれるほどではない。されても困るが。
いつもなら何か大学での話を出したりするのだが、今日はさっさと離れるのが正解か。
バイト先の話は、引継ぎ以外では禁止だ。一応、個人情報にあたるので、教えあわないことになっている。
何か奢る、というのも手なんだが、自棄食いされると今月は財布がきつい。
向かい側のホームに目をやった僕は、それらの考え全てをリセットする。
「……加納?」
 板倉の不審そうな声にかぶさるように、こちら側の電車の到着を予告するアナウンスが始まる。
「反対側だから」
「え、あ……」
「じゃあな、板倉」
 僕は階段を上り、足早に向かいのホームに移動する。
板倉は、電車がくれば反射的に乗ってしまうだろう。
架線橋を渡り、向かいのホームを見ながら、見えない位置に立つ相手も恐らくは同じようにこちらを見ていることだろうと思った。
探るというよりは、突き刺すような眼差し。
階段を下りるうちに、さっきまでいたホームに電車が滑り込んでくる。
金属の摩擦音に、気持ちを切り替える。
最後の一段を下ったのを確かめてから、相手はこちらに近寄ってくる。
気づいたことに気づかれているのは分かっているから、下った階段から数歩の位置で立ち止まった。
通行人の邪魔にはならない位置だが、相手のほうが電車がわに近いから、黙って乗ろうとすれば止められるかもしれない。
二人に用事なら、僕と板倉が一緒にいる時に寄ってきただろう。
それをこっちで待っていたということは、用事があるのは僕に対してだけだ、ということだ。
苗字しか知らないが、確か、刑事は西田といった。祥代さんの事件で僕たちを取り調べた刑事のうちの一人だ。
瞬きの少ないこの職業独特の視線にすぐ気がつけてしまう自分の慣れを、ひそかに僕は嘲った。
暫し、無言で向き合う。
電車のアナウンスは急行だった。どのみち途中で乗り換えることになるから、これは逃しても構わない。
祥代さんの件では、流石に疑いは晴れたのではなかったのだろうか。
だとすれば、別件の───過去に僕が関わった厄介事───の、一体どれなのだろう。
起きた事件は人の生命を犠牲にしていて、そのどれにも、僕はただの傍観者たることを許されず、巻き込まれ、それでいてどこか空虚にその場に立たされ、いつも、何故こうなったのかと問い詰められて、常に明確な答えなど出せずにきた。
けれど、その場にいた以上は、知ってさえいれば僕に何かができたように思うのだ。
何となし、不注意で危険な試薬が入ったビーカーの中の液体を大きく揺らしてしまったような、嫌な心地がした。
「久しぶりだな」
 声音からは何も感じ取れない、ただ、水面は揺れつづけている。
「お久しぶりです」
 作った堅い声音になることは避けられなかった。
「ちょっと、個人的に話が出来ないか」
 僕は電車の到着状況を確かめる振りをして、ホームに視線を滑らせた。
板倉の乗った電車の扉の閉まる音がする。
もしあちらにもし別の刑事が張り付いていたとしても、もうフォローが出来ない。
 板倉がバイトを休むことにならなければいいけど、と思いつつも、僕はすぐには刑事の言葉に頷かなかった。
教授は、捜査上のことならば自分か弁護士などの同席を、と言っていた。
仮にこの場では「個人的」でも、後日の厄介の種にされたりしたらたまらない。
相手は権力者だ。必要と感じればいつでも、僕を拘置して調べうる存在、けれど、ある種の人間たちからは、僕を守りえない強権の持ち主。
用心せざるを得ない。
 ちら、と、あの写真のことも脳裏を掠めた。
持ち物検査でもされれば、また不審なものが増えてしまうことだろう。
板倉や小田にまで聞かれて、当初の目的がばれるのも避けたい。
身体から意識して力を抜く。気取らせるわけにはゆかない。
「……自分ひとりだ」
 一般人の仕草などお見通しなのだろう、やや苦い色が彼の目元に浮かぶ。
「それに、今の『友達』には聞かせたくもないだろうな」
やや引っかかる言い方だ。
水面の揺れが静まるどころか大きくなる。
「何のお話ですか」
 僕は、西風や吉良のことを隠している時点で、犯罪者の予備軍なのかもしれない。
人殺しや盗みはしていないけれど、所長の意で誰かを陥れたこともないわけではない。
『君は、僕らを棄てて自分で進んで』
硝子の向こうで僕を信じてくれていた少年が、それを知ったらどう思うのだろう。
それでも幾許かは、僕が医者になることを望んでくれているだろうか。
生きつづけていてくれているだろうか。
「戸波君の交通事故のことは覚えているね」
 身体が強張るのを、今度は止めようがなかった。
戸波円。所長に引き取られた子供たちのうちで、一番の信頼を受けていた少年。
僕の脇で、誰かに突き飛ばされ、車に跳ねられて、死んだ彼は、その数日前に、所長に切りかかったらしい。
 理由は聞けなかったが、僕は飛び出した円を探し出して、ともあれ、所長のところに連れ戻そうとした。
その途中での、不審な事故だった。
円を突き飛ばした犯人は、未だに捕まっていない。
そればかりじゃない。いつも、僕の周囲で起きた事件は、解決からは遠い。
職場の閉鎖直後の父の死、西風の起こした火事、円の事故、祥代さんの殺人。
何一つ、明確な結果が出せないまま、今日に至っている。
 所長や教授は、そんな僕を承知で膝下においている。
けれど、板倉や小田たちは、そんな僕を知れば、今日のように接してはくれなくなるだろう。色々とこじれた関係もある大学で、無くしたくない繋がりとは呼べる間柄だ。
それを知っているから、西田という刑事はこんな風恩を売りつけつつ僕を縛る。
死者との関係は、もう永久に変えようがない。
円のことだって、忘れる気はない。
「未だに、墓参りにも行っているらしいじゃないか」
 僕のことなど、調べつくしているだろう刑事の、懐柔を装った無神経な言葉が指のささくれのようにいとわしい。
アナウンスが入り、若干だが急行が遅れていることを告げる。
「―――何か、進展があったんですか」
 あの事件でも、真っ先に疑われたのは僕だった。所長の気に入りの円のことが気に入らず、揉めた挙句に突き飛ばしたのではないか、という動機を聞かされ、怒りを通り越してあきれ果てた。
あの当時そんな真似をしていたら、僕が所長に殺されている。
 円の墓を建てたのは所長だ。
墓参の折に瀬里が一緒にいた理由までは知らないが、ひょっとすると、所長に言われて円の墓の手入れをしているのかも知れない。
少なくとも、僕が死んだ場合よりは情けは深いことだろう。
所長は、あの頃と比べて笑わなくなった。
僕も、以前ほど誰かと深い付き合いはしなくなった。
比較的親しい板倉とも、大学近辺を離れてどこかに行ったことはない。
「あの時、見たのは野球帽の、君と同い年くらいの少年だと言ったね」
 反射的に跳ねられた円に駆け寄り、振り返った僕と、数名の人間の証言。
僕は濃紺の野球帽を、僕と円の周辺の人が、十代から、行っていて二十歳頃の少年が、人ごみを逆に駆けて行くのを見た。
横断歩道の信号がそろそろ変わる頃、皆が前進することに意識を向けた瞬間のことだったので、野球帽を目深に被ったその人物の詳細を描ききることはできなかった。
個人を狙ってのものなのか、悪戯なのかも、はっきりとは出ていない。
 ずばり聞いたつもりだったが、西田刑事は、何故か躊躇った。
「……本当に、野球帽以外は見ていないのか」
ずっと聞かれ続けた質問が、もう一度なされる。
 友達が事故にあった瞬間に僕が犯人探しを出来ると思うあたり素晴らしい想像力だ。
駆け寄って助けようとした少年が、そう都合よく、背中の位置になった犯人まで見ていられるなんて、誰が思うんだろう。
それでも僕は首を横に振った。
「人相書きは」
「『170cm〜175cmの男性、年齢は十代後半から二十代前半、野球帽を目深に被っていた。上着は灰色のトレーナー、下はジーンズ』」
これでは余りにアバウトに過ぎて、このホームの中にも数名犯人候補が出そうだ。
 あやふやな供述を元に描かれた絵は犯人逮捕に繋がるのかどうか、正直疑問だ。
それにしても、刑事の意図が分からない。あの事件をネタに、僕を虐めにでもやってきたか。いや、それほど暇な警察ではない。
何か、意味があるはずだ。私的にせよ公的にせよ、元被疑者に会いに来るくらいの。
いつも十分な情報を得られないまま、僕はその推測だけでも行おうとする。
「他に、ありましたっけ」
 このデータだけだから、所長のセンターにも、家庭教師側も生徒側も含めて大量にいすぎて、僕までも当てはまる。
これ以上に付け加えるものがあったなら、とっくに。
「―――いや」
とっくに、そいつは捕まっていただろう。
相変わらず、杭のように突き刺さる西田の視線の下、鼻と口元がくしゃみの前兆のように歪んだ。
けれどこちらに唾を吹きかけては来ず、男はそろそろと息を吐き出す。
「周囲に今でも、該当しそうな男はいないか?」
 水面が大きく揺れて、飛沫が容器の中で跳ねる。
「あなたがあの時の事件を担当しているんですか」
 あの時僕を責め立てた男たちの中に、この顔はなかった。
細かなことは色褪せても、覚えているべきことは覚えている。
「いや。直接の担当ではない。ただ……」
飛沫が容器の内側の壁にぶつかって弾け、水面に落ちても勢いでまた跳ね上がる。
「自分は、あの日に……」
口ごもる相手を、僕は無言で睨みつけた。
あの場に居合わせなかったなら、法の番人だろうと、何を言う権利がある?
僕は、円を助けようとして助けられなかった。
その変えようがない事実に、どう手出しをしようって言うんだ、西田刑事。
 再度の駅のアナウンスが、間もなくの急行の到着を告げ、豆粒ほどの存在が、ホームめがけて大きくなり始める。
そのアナウンスの間だけ間を空けてから、もう一度、岩を刻んだような口元が動いた。
「説明する。時間があるなら、場所を変えないか」
極力感情を抑えた声を出せる相手を、今は羨ましいとは思わなかった。
人を踏みにじるためにだけ来たのだと思いたくはなかったけれど、この数語で無意味に僕をかき乱しておいて、これ以上何の説明がある?
 ひょっとすると躊躇っていたのだろう、と思えるようにはならなかった。
正義感が強い人間が時折やる感情の無視だと誤解していたのかもしれない。
警笛の短い音、鋼鉄の塊が人を飲み込んで僕たちの脇を行き過ぎる。
それがゆっくりと動きを止めはじめ―――
「……加納っ!」
 不意に、僕の背中を声が打った。
完全には刑事を背に出来なくて、首をやや捻じ曲げた僕を目指して、階段を駆け下りてきたのは、向かい側のホームからバイト先に向かったはずの板倉だ。
「い、たく……」
ら、と発音するかどうかの時に、電車のドアが開いた。
僕の傍に少しくたびれたスニーカーが駆け寄るのと、電車から降りてきた乗客が刑事にぶつかりそうになり、見もせずに避けられてたたらを踏むのとが同時。
 板倉は僕の半歩前に出る。
斜めに見る形になった顔が、まるで敵でも睨むように見える。
その視線の先にいる刑事は表情を消し、こちらに踏み出そうとしたが、今度は少し逸れてきた乗客が、左右をはさむ形で動けない。
 発射前のベルが鳴り、皆がその反射的な音に動きを止める。
半秒ほどの瞬間だった。
「……っ!」
何の前触れもなかった。
 僕の左手首をつかんだ板倉が、ベルが鳴り響く間に急行の扉めがけてダッシュする。
一瞬の浮揚感。瞬く間に引きずられ、箱の中に入れられた途端背後で閉まる扉。
こちらに後頭部を向けたままの板倉から、はっとして振り返ると、半歩遅れた西田の前にはだかった金属の扉が、乗り物特有の温度の違う空気ごと、僕たちを隔てていた。
もう一度、板倉を振り返る。何故だか、彼は刑事を見ようとはしない。
僕のことも。
ガクン、と一度の揺れの後、ゆっくりと急行は動き始め、何かを言いに来たのだろうに、結局は目的を果たせなかった腹立たしい男から、この電車には乗らなかったはずの学生二人を運び去ってゆく。
 車内アナウンスが急行の止まる駅と通過駅を告げる中、僕は、何故板倉が向かい側の電車に乗らなかったのかと尋ねようと口を開く。
「板倉、さっきの……」
「お前なんで、いっつも何にも言わねぇんだよっ」
 金属扉を向いたまま、僕の手首をつかんだまま、板倉は低く、予期せぬ糾弾の言葉を発した。驚いて言葉を切った僕からの即答は期待していないようで、言葉は続く。
「変なのとか来たら、教授か誰かいるところで、って言われたんじゃないのかよ」
 あれは変なのじゃなくて刑事なんだぞ、と思ったものの、手首にこもった力が少々痛くて、これは相当に怒っているようだ。何故か。
「なんでいっつも、一人で背負って立ってるつもりになんだよっ」
何故か僕は一方的に怒られ、周囲の無遠慮な視線を集め始めている。
何で僕が。
「板倉、バイ……」
「休むっ」
 バイトどうするんだの前に一言で叩ききられた。
腹が痛いんじゃなかったんだろうか。
「見てたら、泣きそうな顔してるしっ」
 それは板倉の見間違いだ、と思ったけれど言えなかった。
あの刑事の腹立たしい質問に、さっきの僕なら、揚げ足を取られそうな嫌味でも言ってしまいかねない。それくらいなら、友達の誤解だろうと、いったん退いて冷静になってから次回の作戦を練ったほうが良いに決まっている。
円のことなんか持ち出されなければ、もう少しだけ冷静にいられただろうけど、それは仕方がない。
手首に、もう一度、きつい力が込められた。
「板倉、痛ぃ……」
「お前最近、俺のこと避けてるだろ」
 全く覚えがなかったので、首を横に振った。
「じゃあ何で、小田のとこ行くの前もって言わないんだよ」
それは写真の件があったからなのだが、説明するわけにも行かない。
というのか、いつの間にか板倉が後ろにいたのにも最初ビックリした。
「あ、あれはさ、板倉もほら、写真に写ってたから、ヤなんじゃないかと……」
「一番ヤなのはお前だろ」
 はい、そのとおり。
「あの……事件からこっち、俺といて居心地悪いのかよっ」
 喉奥にいがらっぽいものが広がる。
「そうじゃなくて、ただ……」
 むしろ、居心地が悪いのは板倉のほうではなかったのだろうか。
第一容疑者扱い、警察による厳密で底意地の悪い調査、嫌にならないほうがどうかしている。
「……新木が、一緒いると色々言うだろう、だから……」
 人を『おやじキラー』などと呼ばわってくれた、無神経な、けれどどこか神経質な後輩の名を挙げて、お茶を濁す。
女気がほしいならサークルに入り浸ってろ。と言ってやったら、それは誤解だ、俺は飢えてるわけじゃないですと背後から延々言ってきて、それはそれで憂鬱だった。
あー、とか、うー、とか唸った板倉は、ようやっと振り向いた。
コンビニで買った飲料が不味かったときに似た表情をしている。
「確かに俺も、引っ付き虫みたいに言われたけどな。この前、加納には瀬里ちゃんて可愛い子がいるから、構って欲しいならお前もも少し可愛げ出せって言い返してやった」
何か違う言い返し方だとは思うが、お人よしの板倉は、祥代さんの事件から瀬里に同情しているのだろう。
ひょっとして小田の家で怒ったのは、自分が言ったことが僕に覆されてしまったからなんだろうか。
「だから、お前さっき怒ったの?」
 もう一度、唸り声っぽい音を短く立てて、板倉は、手近の空いている座席に座るように僕を促す。
仕方なく腰を下ろすと、板倉は僕の前に立った。
三駅で降りないと大学の乗り換えが……と思いつつも、今言い出したら、話が長くなりそうだ。
それに、一回くらいは休んでも、とは言ったが、バイトを傷病以外の理由で放り出させるのは拙い。下手すると僕が所長に、嬉しくない形で言い訳させられる。
それで腰を痛めようが顔が腫れ上がろうが、僕がバイトを休めずにへたばるのは嫌だ。
 しかし板倉がここまでお人よしだとは思わなかった。
西田刑事の顔は覚えているだろうし、犯人ではないから―――夜中の学生のアリバイなんかなくったって、板倉に祥代さんを殺す動機があるとは微塵も考えられない―――知らん振りして逃げればよかったんだ。僕ならそうする。
 板倉の今の視線の言いたいことは、僕にも良く分かる。
この馬鹿が道理や常識と言うものを弁えるには、どう言いだしたものか、そう悩む『家庭教師』の時の顔だ。
ああ、そうだ、僕の問題より―――個人的な問題で追いかけてくるほど刑事も暇ではあるまいし―――板倉をどうやってバイトに行かせるか、だ。
何ていえば、と悩む僕の肩に、板倉の両手が置かれる。
やや眉間に皺がよっていて、まさか、と思った。
「板倉、まだ腹が痛むんなら……」
 ここで倒れるとか下すとかされたら、かなり周囲にも迷惑なんだが。
それでも一応、僕を庇ってこうなった相手を放っておくわけにもゆかず、座席から少し腰を浮かせて相手の顔を覗き込む。
「……加納」
 苦しげな声だ、次の駅でうまくトイレが近い場所にあればいいんだが、そこまで保つかどうか、僕が立って板倉を座らせたほうが良いだろうか?
「……は……」
「は?」
 自分の腹を視線で見やって、板倉は呟いた。
「……はら、へった……」
 次の駅でこいつを置きざりにして、僕は各駅停車で帰るべきなんだろうな。


 チキン照り焼き、シーザーサラダ、茄子の和風スパゲティ、ジャンボマロンケーキ。
先ほど放り込んだケーキ二個はなんだったと言うのだろう。
一挙に並ぶと壮観な眺めである。
「やー、一時はどうなることかと……」
 板倉ほどの鯨飲馬食になりたくはない。
「加納、お前それでほんとに足りるか?」
 僕の分のクラブハウスサンドイッチは結構量があるのだが、うっかり手を止めるとそれも掻っ攫って行きかねない勢いで、板倉は次々と皿を消費していってる。
ウェイトレス数名のあきれた視線にも気づいていない。
「足りる」
「そうかー、お前足りないならあと冷たいパスタ取ろうと思ったのに」
 どういう胃袋だ、一体。
先ほどの気色ばんだ様子を微塵も考えさせない幸せな表情で、板倉は咀嚼している。
空腹の余り幻暈がする、とまで言われたので、やはりバイトは休みとなり、僕も教授に予め遅れるとメールをいれてファミレスに入ったのだが、二度とこの店に入れないほど凄まじい。
 板倉が誘ったとしても、僕は絶対にもう来ないぞ。
ある意味虚しい決意をしている僕の皿から、ひょいとプチトマトをつまみあげて、板倉が口に放り込む。
「加納あんましトマト食わないよな」
甘いタイプのものはな、と思ったけれどもう否定も肯定もしかねるほど疲れた……。
これ以上の横取りを防ぐべく、のろのろとだがサンドイッチを口に運んだ僕の腰元で、携帯のバイブレーションが発生する。
 まだ旧式なので、確認にはいちいち操作をしないとならない。
最近の携帯は、メールの文面を流して見せてくれるが、使えるものをショップでわざわざ有償で交換するのも面倒で、未だにメールのみの携帯を使っている。
「加納そういえば、機種変しねえの?」
あいまいな返事をして、いったんサンドイッチを更に戻す。
 ボタンを押してゆくと、小田からだった。
「小田だ、『電話クレ』ってさ。ちょっと行ってくる」
「ふぉーー」
板倉の妙な返事は、サラダをかきこみつつだからだ。
 念のため、サンドイッチ食うなよ、と釘を刺してからファミレスの入口に向かった。
コール音が二度鳴らないうちに、すぐに相手と繋がった音がする。
「加納かっ」
「小田、どうした、何か忘れ物でも……」
「へっへっへ」
「切るぞ」
 守銭奴の手もみが似合いそうな声に、嫌な感じがしてそう告げると。
「いいのっかなー、美人の写真なんかスキャンしてたくせに」
 まさか、と思った。喉が小さく鳴る。
「結構……熟女の?パーティ風景?ちっがうかなー?」
 どうしてだか、ばれた。
肩越しに覗かれる、いわゆるショルダーハックかと思ったが、作業の最初に寄ってこなかったことから考えると、有り得ない。
データは写すときに全削除したはずだが、どうやって復活したのか。
やや考えて、どこかで、ハードディスクのデータを復元するソフトがあると聞いたことを思い出した。
全てを復元することは無理だろうが、直近のデータなら、十分に元に戻せるのだろう。
それとも、スキャナのプレビューで何か残っているのかもしれない。
他者の端末を利用すると、こういう番狂わせがあって嫌なものだ。
「ま、それはいいんだけどさ、加納、元の写真あるか?」
 急に口調が変わった。それでからかうためではなさそうだ。一体どうしたんだ?
「ああ、持ってるけど……」
「もしかするとだ、もーしかすると、だからな」
 妙に強調する口調だったので、待ち受けていると、
「聞いてるのかよ、おい」
「聞いてるよ、あの写真が?」
「右端っこ、人いるよな。ちょっとしか写ってないけど」
 何かを操作する、カチ、カチ、という音がした。
「……半分切れてる、やつか?」
「そうそう。今、ちっと拡大して見てるんだけど……粗いな、やっぱり……」
 西風。胃が痛んだのは、気のせいだと自分のシャツを押さえつつ、僕は何ともない声を作ることに神経を集中する。
「俺さ、ネガ売っちゃって……怒るなよ、もう。相手が男だってのは覚えてたんだけど、髪の毛メッシュでさ、……なんかこの人に似た感じで」
 息が止まる。胃が痛いのはもう幻痛とは言えない。
「えっ……」
「そー、俺もえっ。って感じ。でも、雰囲気すごく似てるぞ、この感じ」
 カチ、カチ、拡大と縮小でも繰り返しているのだろうかマウス音。
「手首がへーんな感じでさ、そうそう、見てたらこんな風にやって、髪の毛も結構ばらけてるし、不潔ってんでもないけど、へーんな感じ」
 共にすごした時間を持つ僕だから気づけたこと。
写真や画像の処理がお手のものの小田だから、気づくこと。
西風の特徴は、ポラロイドでも十分に現れていた。
「これ、何処のだ?加納の知り合い?」
「……頼まれ物だよ」
 思ったよりスムーズに、普段に近い声が出た。
「小田、本当にこの写真の人にネガ売ったのか?」
「多分な。酔ってたから色々気のせいっぽくて言わなかったけど、本人見たら分かる程度だとは思う。これ誰だよ?」
「……いや、知らないけど」
 またチクリ、と胃が痛んだが、声は相変わらずすらすらと出せる。
「ついでのスキャン頼まれたものだったから、知り合いに返しがてら聞いて見る。まだ持ってれば……」
「おー、もしかすると買い戻せるか?良かったなー、加納」
原因を作ってくれた男がのんきそうに言うが、咎める気力が半減していた。
西風の手元にあると分かっただけでも、厄介ではあるが、収穫とは言える。
「小田……」
「あ〜、怒るなよ、ちゃんと正直に教えたろ〜?で、この美人誰だよ」
「幽霊。じゃあな、小田」
 へっ?、と、間抜けな声が聞こえたが通話を切る。
西風の手元に僕の写真があるとすれば、ただネットに流したり、いかがわしい雑誌に出すような真似はしないだろう。
何らかの手段で利用するために、手元に隠しているはずだ。
もっとも、裸の男の画像なんか見たがる人間の気が知れない。
 僕の知り合いならば、からかう材料に使うくらいのことをしそうだ、そう考えた時、脳裏に幾つかの記憶が閃いた。
手から力が抜け、携帯が滑り落ちる。
 急いで拾い上げたが、表面を撫でながら、僕はそこから浮かんだ勘としか呼べないもののためにすぐには席に戻れずにいた。
 写真。祥代さん。西風。いつか分からないパーティ。
シナリオの間に何故あれがあったのか。
流れる血。凭れかかった姿勢。
あの姿勢は、火事の日、庭にいた西風の姿勢と似ていなかっただろうか?
違うのは、西風は生きていて、祥代さんは……
「加納っ!」
 肩に衝撃。耳朶を引っ張られ、もう一度名を呼ばれる。
視線だけを動かすと、何だか何故だか怒り満点の板倉が立っていた。
「何やってんだよ、サンド食っちまうぞっ!」
「あぁ……いいよ」
「いいよ、じゃないだろスカタコっ!」
 ぐいぐいと引っ張られ、席まで戻される僕を見ながらウェイトレスがおろおろ気味に避けてゆく。
座らされ、向かい側に再び陣取った板倉は両腕を組んだ。
「何だよ、小田に何言われたんだよっ」
「別に何でも……」
 僕がテーブルの上に置いた携帯を、板倉は睨み、ややあきれた顔になった。
「まだそんな古いの使ってんのかよ?」
そう言いつつ皿をこちらに押しやり、とっとと食え、と言ってくる。
さっきもそういえば、機種変更しないのかと聞かれたな。
正直もう食欲なんて失せてしまったのだが、僕はもそもそと、少しべっとりしてきた軽食を口に運んだ。
紙でも噛むように味気ない。
「本気で怒ってるんだぞ加納」
 西風と、その手元にあるだろう写真のことで考え事をしたいのだが、さっきの刑事に今の電話で、僕のとった態度が、蚊帳の外の板倉には腹立たしかったようだ。
「お前、自分が一人だとかさ、とてつもなく不幸とか考えてないよな?」
「……なんだよそれ」
 僕は一人ではあり、不幸ではあるが、生きて努力できる環境にある。
不幸の極みにある、と僕が思うのは僕ではなく、硝子の向こうでしか生きられない身で唯一の家族に捨てられた、ミタカだけだ。
彼だって、あの短い会話の時に、「出来ることがある」と言っていた。
健常な僕が世を拗ねたりすれば、それは彼に対する侮辱だろう。
「だったらそう、一人で背負い込む顔してないで、もちょっと話せよな。教授は、所長が脅かすからお前がそんなだんまりになったって言うし、所長は教授が単位でお前を縛ってるって言うし、話聞いてるとお前ぐるぐるだろうけどさ」
 唐突に所長と教授のことが出て一瞬疑問符しか浮かばなかったが、要するに板倉は、二人の作り話を聞かされて、僕の板ばさみ状況を誤解しきっているようだ。
「俺だって、あのヤな刑……奴に疑われてるわけだろ、こそこそきたってことはさ」
 違うのだと説明しようかと思ったが、機嫌をすっかり損ねた板倉に、円の事故の話をしても仕方ない。
西田刑事はどちらかというと容疑者の色の濃い僕にばかり張り付いていたはずだから、板倉にはさほど嫌がらせめいたことにはならなかっただろうが、思い切りしかめた顔つきを見ているに、まるで補導されたことでもあるようだ。はは、まさか。
「愚痴言うの、お前しないよな。いつも俺があれこれ言って、お前割と黙って聞いててくれてるの嬉しいけどさ。たまには逆だっていいとか思わね?」
「割と、板倉には話してると思う」
 バイトの話は出来なくても、学内のあれこれは本当に板倉とつるむことが多い。
大体、こちらが離れていても板倉が気づいてやってくるから、というのもあるけど。
「……ほんとに?」
 マロンケーキがまだ大半残っているのも気にせず板倉が聞いてくる。
食べ物より質問を優先させるというのは常人なら当たり前だが、板倉がやると怖い。
間違った返答をしたら僕が頭からバリバリと食われてしまいそうだ。
答えようとした瞬間、テーブルの上で携帯が踊り始めた。
画面に明滅する番号に、見覚えはない。
見覚えはないのだが、下四桁が引っかかった。
「0110……?」
 警察署の固定番号じゃないか。
あの駅から、まっすぐ西田刑事が戻ればそれなりにかけられる時間だろう。
もう一度僕は席を立とうとしたが、板倉がその前に携帯を引っ手繰った。
「……加納、悪い」
 目が据わった表情の板倉に短く謝られて、何が?と思ったすぐ後。
僕の携帯は、板倉の目の前の、水の入ったグラスに無造作に突っ込まれていた。
「……っ!馬鹿っ、何するんだよっ!」
 慌てて取り返し、おしぼりで拭いたが、震え続ける携帯の立てる音が何だか妙になってゆく気がする。。
「板倉っ!」
「教授じゃないよな?」
 一旦呼び出しは切れたのか動きは止まるが、一度すっぽり浸かった以上、乾かして無事かどうか非常に怪しい。
「番号も見ないで突っ込んだのかっ」
「名前出てない番号っぽかったから、携帯故障でいいだろ」
「いいだろ、って、どうするんだよ教授に連絡とか」
 怒ってみた、僕にしてはきつい声を出したつもりだったのだが。
 これも、「キレた」うちに入るのだろうか。板倉はやたらとすっきりした顔つきで座っている。
「え、俺がへまして、水かけて動かなくなって、ショップいけば遅くなるだろ」
「だろ、じゃなくて……」
「俺、一緒にいって教授にちゃんと怒られるし、機種変更、もう安いよな。いいの知ってるからそっちにして、ストラップも換えてさ」
 板倉は笑顔なんだけれど、目は未だに笑っていないことに僕は気づいた。
確信犯のような揺らがなさのある笑顔が、何だか怖い。
ひょっとすると、怒ってるという意思表示をこんな形でしたのだろうか?
 久美ちゃんだったかが怒ったのも、こんな強引な態度を示されたのが理由なんじゃないだろうか、と余計な考えまで浮かぶ。
にしたって、もしこれがすっかり壊れてしまったら、番号幾つか吹っ飛ぶし、ブックマークもまたしなおしなんだが、その手間を板倉は承知でやってくれたわけか。
「俺に心配かけさせてほけっとしてた罰」
「罰ってな、板倉……」
 幾らなんでも携帯を壊すことはないだろ、と言うまえに、今度は立ち上がった板倉が脇までやってきて手首を捕まれた。
「さ、ショップ急ごうぜ。ここの近くでさ、この前ちょっと見たらすんげー綺麗なお姉ちゃんがいて……」
 結局、僕をだしにしてきっかけ作りかっ!
マロンケーキを置き去りに、伝票ごと僕を鷲づかみに引っ張ってゆく板倉の身勝手さに半ば呆れつつも、僕は奇妙な感覚に、振りほどくのを躊躇った。
円の奴も、こんな風に大きな手で僕を気ままに引きずりまわしていた。
今の板倉のように、僕が誰にも何も話さないことを文句言いながらも、どこか楽しそうに。
そんなことを思い出してしまったからだ。



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