Smoky Quartz


前編


 煙水晶の日々に、違う光が当たったのは多分、雪のちらつく日だった。


 その日は寒々として、病院で患者にかかっている時以外は無反応、と陰口を叩かれてい る私にも、もの寂しさが増すような日だった。
午後になると言うのに何の気紛れか、微細な六角形が天より零されてくる。
風流と感じるものもいるのだろうが、大概は私と同じくむっつりして、季節の変化を余り 喜ばぬ風に歩いていた。
 世界への認識が、私に全く欠けていた訳ではない。誰が何をしていたかは良く分かって いたし、私にどのような感情を向けているかも充分に感じ取れてはいた。
ただ、どうでも良いことになっていただけなのだ。
一人が、これほど心に食い込むものなのか。
或いは、妻だった人が世界の色彩を色褪せたものに既にしており、私はただ、好ましい名 画を眺める様にかの人といたために、何時の間にか他の絵は価値なきものと見なしていた のかも知れない。
 妻は、杏華は、或いはターナーの様に、他の画家に嫌われぬ様、一時的に煤をつけて己 の絵を平凡なものに見せる術も心得ていたのだろう。
かの人がいた間は、私は世界も素晴らしい面を持っているとどこか楽天的に信じていたの だから。
 日々の営みが一番活発になるはずのこの時間、人々の足取りは様々だ。
ある者は満足して緩やかに重たげに、またある者は忙しさに他人まで急き立てるような足 音を刻み、ただ、己が動くべき場所へと移動してゆく。
 私は、医師免許が、教授という地位が、妻を喪って廃人同様の男に居場所を保証する大 学へと向かうだけだ。
医師である以上、死は乗り越えやすい位置にいると思ってきた。患者の痛みや苦しみに情 を抱きすぎることなく、データとして冷静に対処できると。
これから生まれてくる命を抱えたまま、妻が重度の妊娠中毒症で亡くなるまでは。
 妻の実家には、家系には比較的蒲柳の質が多いとは聞いていた。
確かに結婚してからも人形の様に細い手足をしていたが、何もかも順調だったのだ。
この世に、妻と死別した男は大勢いる。
その中でも、多分私は立ち直れず情けないほどに挫けた一人だろう。
 涙は出尽くした。食物も摂れるし、必要な会話ならどうにか交わせる。
それでも私は、緩慢に精神的な死を迎えようとしていた。
人間は、死を求めると、急に己の生命を絶つのに相応しい場所や効果的と思われる方法が 視界に入ったり、突如として思いついたりするらしい。
 そうした、死ぬ前の生命の間違った火花さえ、私の前には飛ばなかった。
この、冷たいと感じさせるまもなく空気にさえ負けて消えてしまう雪のように。
あと数歩進めば大学だ。
今、数歩進めば赤信号だが、時間のせいか、私を跳ねてくれるような車もなかった。
一つ手前の信号に一台。黒塗りのリムジンが青信号にも係わらず停車する。
 こうなる前は、車も好きだった。いや、未だに赤のBMWを即決で取り寄せたことは学 生たちも知っている。
今も駐車場にあるそれごと何処かに突っ込まなかったのは、やはり、造形者の意思に反し て望ましくない事故を起こしては、という常識だっただろう。
車種を見定める前に、後方のドアが大きく開いた。
 ダッフルコートがよろけ出る。到底、車には相応しくないいでたちだ。
学生が、親に送ってきてもらったにしては、違和感がある。
降りる姿は、何故か私の曇った目にも、この午後の半端な雪混じりの空気より、格段に寒 々しい雰囲気を纏っていると見えたのだ。
 どう見ても、二十歳を迎えたかどうか、の顔つきだった。ダッフルコートの生地の新し さからも、立派な車に送られてきている所からも、一年次か、良くして二年次なのだろう と思った。
 草臥れ具合はそれほど少ないのに、何故か、車に一礼する姿はどうにも『暗い』としか 形容できない空気を醸し出していた。
 しかし一瞬、彼の表情は変わった。
上げた顔の眉根が僅かに寄り、頬が紅潮する。
そうすると、束の間かも知れないが、青年と少年のはざかいにいる男の生命力が、先ほど の年齢にそぐわないほどのやるせなさを打ち払う。
 信号が変わったことに気がついて私はそれ以上、学生を見るのを止めた。
揶揄されていなすより怒る年齢なのだ。
あれほどの若さがあれば、妻の死を乗り越えられただろうか?
 前方を行く学生の群れの中に、遅い歩みの姿が消えていった。
季節外れの雪が瞬く間になくなるのと同じ速度で。


 また次の週も、その次の週も、同じ頃に私は彼を見かけた。
次の週は車にこそ乗せられてこなかったが、相変わらず蝸牛の歩みに近く、覇気があるの かと怒られそうなほど、静かに平凡に真面目で暗そうに道を歩いていただけだった。
 何か、歩き方が変だ。そう分かって、流石に職業がら、彼の歩みを観察した。
学生が多い時間帯でもあるから、隈なく見る、というほどではなかったが。
蟹股と言うほどではない。しかし、どうもぎくしゃくしている。足取りの乱れと呼べるほ どのものはないが、身体本来の動きをできていないのだ。
腰でも打ちつけた後のように、そろそろと歩いている?いや、違う。
彼は途中で右へ反れ、私は左へ行くので、その観察はほんの二百メートルほどではあった が、それでも、関心ごとをなくした私には、良い退屈、虚しさの凌ぎだった。
友達はいるようだが、近寄ってまであれこれ知りたいわけではないので、名前さえ知らな いまま、見かければ観察する、といった程度のことだった。
 コートは殆ど変わらず、マフラーは数本持っている様で、手袋は革のものだが、微妙に サイズが大きいようだ。
一度、脱げ落ちかかったのを別の学生が拾ってやっていた。
現れた指はそれなりに長く見えたが、手袋が余ったと言うことは、元は誰かのものを貰っ たのかもしれない。
 車は、来ることも来ないこともあった。やはり何かのついでなのだろう。
降りる時の彼の姿は、どの時も最初のように薄曇りだった。
送ってもらいたいわけではないようだが、断れないのだろう。
そういう間柄は、私にさえある。


「少しは、落ち着かれた様だね」
 目の前には、若いのに私と同年代のような口調で話す青年がいる。
政略結婚と言うのは大袈裟だが、妻はこの男の血縁だ。
私の研究のパトロンでもあるこの男の招きに応じなければ、私は本当の喜怒哀楽からは遠 い場所にいたのだろう。
 人に傅かれる立場であるため、緩やかな動きをするが、見た目からは想像がつきにくい 俊敏さを隠していることは、お互い知らぬ振りをしている。
物憂げな表情を作ってはいるが、視線は鋭い。
「お気遣い、いつも感謝しております」
 私が廃人に近い状態の時、手を離すのは楽なことだっただろう。
パトロンはそれをしなかった。
感謝すべきなのか憎悪すべきか未だに分からないが、それでも、こうして時折招かれれば ゆくことにしている。
「少し、顔色が良くなられた」
 相手はいつ見ても血の気の薄い顔をしている。
「久々に、寄稿されたのは拝見したよ。あれを読む限り……」
 すっ、と目が細まり、
「……研究以外に、新しく興味を持てることでも」
「いえ」
 特にはない。医者らしくない考えだろうが、探られるべき内臓さえ、虚しさに食い荒ら されている。
「そう」
相手は強いて追求する風でもない。車が高速を降りるのか、減速した。
 ふと、あの不本意な送られ方をする青年を思う。
彼は何を思いつつ、あの車に乗るのだろう。
年齢特有の若さからは遠い、ぼんやりとした姿。
親子でないならば、彼は、あの車の主とどういう関係にあるのか。
パトロン。余り考えたくないことが、頭を掠めた。
しかし、あの暗さの理由の説明にはなる。
そうだとしても、私には何の関係もない話しだが。
不愉快な心地がしたので、私はそれぎりそのことを考えることを止めた。
観察も、もうすることはないだろう。


 次の日は、各ゼミの三年募集の説明会だった。
欠席したくとも、そこまでやる気がないとなると大学からは放り出されるだろう。
自分の生命を自発的に絶つ気力もないままに、職場へと向かう。
彼に出くわす日ではなかったが、あの車が停車していた。
赤信号の間に、ドアが開くかと思ったがそのまま発進する。
 校門を抜けると、まばらな人影の間に全身を引きずるような背中が見えた。
彼だ。
 歩くのは億劫そうだ。全身に負担がかかっているようなその姿は、今日は百メートルも 歩かないうちに、近くのベンチに腰を下ろした。
少しずつ、別にそちらに寄るわけではないが、私と彼の距離は狭まる。
 近くなると、思ったより顔が整っていることが分かった。黒髪は冬に入ってもじっとり と額にかかっており、唇は褪せた赤で細い下向きの線を形作っている。
好ましい顔と言えないことはない。同性を好む手合いも知っているし、座興と称して、昔 連れて行かれたこともある。
とびきりの美形とまでは行かないが、一重の目元は伏せれば物憂げな中に何かを含むだろ う。強張った身体に、普通の運動では使わない筋肉が酷使されたのが見えるようだ。
 ひょっとすると男娼か。
それにしては車の主への愛想がないことだ。
軽蔑にも似た感触を覚えて、私は視線を背けた。
褪せた視界の中を、笑顔で学生が一人駆けてゆく。
「おーい、どしたんだよ」
 平凡な、明るさだけが取柄のようなジャンパー姿が、ベンチの前に立つ。
思わずもう一度視線を向けていた。
「板倉」
 声を聞いたのは、初めてのことだった。
目の前の相手に声をかける青年から、見た目だけにせよ、疲労の色が消える。
「ゼミ説明会だぞ」
 板倉と呼ばれた学生は、両手に手を当ててベンチの彼にせかせかと言った。
「お前、どこ受けるんだよ」
 俯く時に表情が強張った様だが、彼は滑らかに立ちあがった。
顔が上がると、先ほどの気だるさが嘘のような笑顔になる。
作り笑いか、それとも、目の前の友人には気を許すのか。
 相手が視線に気づく前に、私は彼らの横を過ぎて歩き出していた。
観察は止めたはずなのだ。


 説明会は恙無く済んだ。
私は去年とさして変わらぬ説明を行っただけである。
各科の長所短所は語っただけでは把握しきれぬものだし、どこから始めようと自分の向き 不向きを理解すれば、学生は望む場所にゆきつくものだ。
腑抜けになったとの噂を笠間が流しているから、整形外科希望の大半は、あの男の教室に 流れたかもしれないが、それはそれで構わない。
教授選でも、学長選でも、あの男は敗者の側に組みした。先の見えない愚かさは、多分一 生付きまとうだろう。
 そんな男に騙される大半の学生よりも、手元に来た数名を、医者の卵として世に送り出 す。『教授』としての私の使命だが、それが全うできるかどうか。
 研究を放棄することは、哀しみの余り崩落しそうな危うさの只中にいてもできることで はなかった。それは、私の生命の間違いなく半分であり、もう半分が身重の身で尚、大事 にしてくれるよう、私に頼んだものでもあったのだ。
 希望者には、掲示板の指示通りに自己紹介票と事務局で渡された問題を解いて、窓口に 提出する様に指示してある。書類選考らしきものはその程度だが、興味本意はそこでカッ トされる。
次は、面接だ。正直、今年残るのは何名だろうか。
面倒を見きれるのは医局と大学とを併せて毎年最大でも三十人が精々だ。
 それでも数倍は応募があったと、院生の西山が運んできたのにはうんざりした。
「教科書から引き写しが大半でした」
 理解度は、現場で医療行為をしているならば看護婦でもある程度分かる問題だが、学生 には難しいことだろう。
「自分で考えたな、ってのはこの五名でした」
 写真つきの自己紹介票と、回答とが個別にファイリングされている。
「ふむ。女性二名か」
 外科も、整形外科も、体力を使う。持久力と瞬発力をどの程度二人が兼ね備えているか どうか分からないが、持てば良し、その前に他に流れるかも知れない。
「他にも十名ほど、一応面接は通せるのが」
 残りの三枚を、何故私が床に取り落としたのか、西山は分からなかった。
聡い男にも、私の全てが見えるわけではない。
「……失礼しました」
 如才なく、拾い上げてデスクに置きなおし一礼した顔は、また私が思い出に囚われたと でも錯覚したのだろう。
「珈琲をお持ちします」
 唯一の機嫌取りになることを言って、部屋から出て行く。
私にも、何故手が震えたのか分からなかった。
三枚の自己紹介票、その二枚目にあった名前は『板倉隆介』。
聞いたばかりの名前、見てまだ記憶に新しい顔。
その下の名前は、『加納 寧』。
写真を見る前に既に床に落としていたが、私には医学でも説明のつかない、所謂『虫の知 らせ』で、それが誰か分かっていた。
 デスクの上に重ねなおされた紹介票をめくりなおし、推測を事実に置きかえる。
知らなかった名前、知っている顔。
指先が、震えた。
 どうしてこうも、彼は私の視界に入りこんでくるのか。
手が、勝手にペンと手帳を取り出す。
学生番号と名前だけを、素早く私は書き込んで再び書類を元に戻していた。
珈琲を手にした西山が戻って来る前に。

(続く)



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