Smoky Quartz


後編


 手帳の中に、余計な文字がある。
普段は書き込むことのない、自由欄に折り目までつけて。
 記憶にたった今、名前が一つある。
何度も何度も目にした顔と、結びつけて。
 紙ならば文字を消せば良い。インクは消せないとしても、破けば何を書いていたかまで は誰にも分からない。
心の染みは、どのように消せるのだろう?
駐車場に向かう夜道、呆然と見上げた先にはオリオンの帯が一際綺麗だった。


 一度気にした事柄は後々まで事細かに記憶している。
知れば知るほど患者への興味は減退するが、抱えていた病気や癖については全く嫌悪感や 違和感なしで覚えていられるものだ。
元々の記憶力というよりも、職業病の一つのように思っている。
 だが、彼は違う。
患者ではなく、私の教室を希望してきた学生の一人だ。
しかも、本人は知る由はないが、余り若者らしくない、それどころか芳しからぬ印象を多 々、私に与えている。
 しかし、と改めて、画一的な答案と、彼の答案を比べてしまう。
渡した問題は、ある医学雑誌の中から抜き出した英文である。それを読んでから回答を書 くのだが、あることに気づけば数年前の諸先輩のノートをひっくり返して調べ、或いは教 科書から丸写しできる個所がある。
 写せる、と思うところに落とし穴があって、現在ではその回答は、禁忌肢とまではゆか ないものの疑問視されているのだ。
五年次からはこの手の引っ掛けは通用しなくなってくるが、三年次は容易く足を掬われて しまう。
 引っかからなかったのは五名。そのうちの一人が、加納寧。『彼』だ。
読み仮名だけならごまんといそうだが、バランスの取りにくい一文字を名前にする青年は 写真の中ではそう暗そうな表情でもなかった。
 あの車の持ち主が金持ちの老人や老女だろうと、私の知ったことではない。
好ましくないことで学費を稼いでいるのだとしても、それは彼のやり方だ。
だが、私のゼミには相応しくない。
 西山たち院生に採点を任せたことを後悔した。今刎ねてしまうと、何が原因かと探られ ることになる。説明は大変だし、そもすることではない。
強権で抑えこむ、というのは非常時か、無能な人間のとる手段と決まっている。私は無様 に終わることを嫌う根があるために、どうにか生きていたと言っても良いだろう。
 確たる証拠がないとはいえ、私はそんな存在に傍に来て欲しくはない。しかし、どんな 生活をしているのであれ、学生としてそれなりに見所があるかも知れない。
私が捻くれた見かたをしているだけという可能性も残ってはいるのだ。
 ―――面接までだ。その後なら、些細な点で、例えばそう、回答の姿勢で気に入らない だの、言いがかりはつけられる。
万が一、それもクリアされたら、単純に合わないものは合わないと言えば良い。
 予備知識、いや、先入観を持たずに彼を見ていたらどう思っただろう。
多分何の感慨も抱かずに、面接まで他の書類と重ねたまま放っておき、入れるかどうかは 結果に任せた筈だ。
知られなければ或いは期待が持てたかもしれないのに、悪行とされることは必ずここ一番 で自分の首をしめる。
運が悪かったな。
と、納得できない自分はどうしたものであろうか。
 私は車を路肩へと寄せ、手帳を取り出して改めてページを繰った。
消さねばならぬ名前は、灰色に変じた中、ハザードにさえ暗く揺らめいて捉えづらい。
表向きは平等に取り扱ってやるのだから、私としては優しい方だ。
もし後で納得がならないとやってこられでもしたら―――これは過去に幾人かの学生にや られたことがある―――煩わしいが、きっとどうにか理由を見つけることだろう。
名誉にかかわることをぶつけて、万一、問題にでもなれば周囲が騒がしくなる。
研究の邪魔になる相手には、消えてもらうに限る。
 手帳を破ろうとして、それが糸かがりの、ページがばらけて落ちやすいものであること を思い出した。
来年には新しくするのだから、このままで良い。
 思いなおして懐にしまう。
捨てようとするものをいま少し残すのは、適切な時を選ぶためだ。
私には時間がないも同然でも、他のものにはそうではない。
 他のゼミを選ぶ時間もある筈だ。
自分に言い訳が多い様に思いながら、私はハザードランプを消した。


 数日後、例の五人を含めて十五人の学生と、私は面接した。
右には、西山。左には、まだ学生だが成績は申し分ない新五年次、栗橋を座らせることと した。
 この二人の間柄は親戚ごと対立しているそうだが、どちらも将来に期待が持てる。
別段、一対一で話しても良かったが、全員が終わる頃にはさぞ疲れていることだろう。
程ほどと見たメンバーと、例の五人とは順番を混ぜこぜにされていた。気になる彼が、最 後であることがどうにも不愉快だったが、そこで厄介ごとが終わるのだから、と再び言い 聞かせた。
自分で決めろと言われたら、それはそれで面倒に思ったことだろうから。
 玉石混交でも、やはり玉は光る。たまには磨けば面白い石もあるが、今回は回答の良し 悪しと学生の質とが一致していた。
四人、だ。小うるさく言われようと決定だろう。
板倉も面白かった。空いた時間はコンビニでのバイト、と言う割には悲愴さは薄いし、子 供が好きで、専門としてはそちらの外科をやりたいのだそうだ。
目標があるのは、気が早いと言われるかもしれないが、とかく暗記で単調になりがちな勉 強の支えになるだろう。
 さて、最後だ。
顔を正面からあわせて会話するのは、初めてで、終わりだ。
ノック、型どおりの『失礼します』の声で、私は文字から顔を上げて彼を見た。
 オフホワイトのセーターから、細い首が見えている。コートは脱いで手に持っていて、 洗いざらしのジーンズ、最初に見た時と大して変わらない恰好だった。
細い。遠目より、近くに見てからのほうが、そう思われた。
バランスは良さそうだ。しかし、骨は余り太くない。華奢とまではゆかないが、同性とし ても危ぶむほど、肉もついていない。
 彼は、しっかりと立っていた。
目は、入ってきた面々の様に栗橋や西山の上をさ迷うことなく、私に向けられている。
一礼して、踵の音をさせながら―――スニーカーではなかった―――手の動きで示された 椅子に、背筋を伸ばして座る姿は一番品が良かった。
 西山と栗橋がその瞬間どう思っていたのか、私には分からなかった。
何を誰にどう聞いていようと、どんな資料が手元にあろうと、相手を見れば明瞭になるこ とがある。
 緊張と謙虚さを秘めた眼差しは、遠目では知りようもなかった。
引き結んだ口が僅かに空気を吸うために開いた時、また青年は私だけを真っ直ぐに見つめ ている。
 貧乏揺すりもない、瞬きも少ない。
静かに、最後まで待っていたもののプレッシャーを感じさせずに、座っていられる。
その胆力は、身体を誰かに切り売りしているふてぶてしさとは思われない。
私は、間違ったのか。
「加納くんだね」
「……はい」
 いや、面接を撥ね退けなかった以上、私は何ら間違ってはいない。
他の者と同じ様に、彼も試みられに来たのだ。
自分の価値が見合うものならば、私の元で学びたいと。
 この瞬間、僅かな疑惑で生まれた入れる、入れないの迷いは私から飛んでいた。
どうせ刎ねるのだし、疲れると簡単な質問に変えてしまっても良かったが、それは今の彼 には失礼だ。
 差別は、すまい。
その代わり、覚悟したまえ。
栗橋と西山が一つずつ、簡単な確認をする間に、私は彼に対してぶつけるべき問題を瞬時 に頭の中にリストアップしていた。


 椅子を片側に寄せつつ、遠慮がちに栗橋が口を開く。
「……教授、最後のは今度の三年ですか」
「そうだが」
「留年組ではなかったと思うんですが」
 西山も不思議そうにしていた。二人とも、最後にまさか定期試験レベルの問題を三年次 がつきつけられるとは思っても見なかったのだろう。
加納は殆ど蒼ざめていた。ほぼ、答えようがない筈だ。今のレベルでは。
必死に記憶を手繰り、少ない知識を繋ぎ合わせて戦う姿は蟷螂の斧と分かっていた。
知識的に学生を弄ぶのは教師失格かも知れないが、私はそれを楽しんだ。
「丁度最後だったことだし、時間も余っていたからな」
 背後で、ひそひそと会話がなされる。
(……久々に気合入ってなかったか?)
(不幸な奴だな、待たされた挙句)
 もう一度、私は久々に楽しい思いをした。
手中で抗い、それでも挑んでくる相手がいることはとても楽しいことだ。
皆が、妻を失った孤独な男の眼差しを凶器の様に避けた。
ゼミの学生でさえ、僅かに、或いは公然と間を置き、私の傍から離れていようとした。
 それでも碓氷の名前は使えると思ってやってきただろう学生たちも、無難に印象付けを して、どうにか安全に上がろうとしていたのは分かっている。
 今まで見てきた暗さが嘘のように、加納にはなかった。
まっすぐに自分の入れる場所かどうかを確かめに、やってきたのだ。
逆を言えば、私が彼の指導教授に相応しいかどうかを確かめたことにもなる。
 あのひたむきさに見合うだけの教師であるのかと。
書類を全て一まとめにした。各学生のメモは別に取ってある。
今年の収穫は、まだ決定しきってはいない。
「……教授、それでは自分達はこれで失礼します」
「ご苦労。来週のゼミは、スライドだから準備を頼む」
「……はい」
 不可思議そうに顔を見合わせ、すぐに栗橋がそっぽを向いて、二人は出て行く。
殆ど、この時点で結果は出ているといってよいが、私は尚も躊躇っていた。
四人にするか、五人にするか。
書類を鞄にしまうと私もラボを出る。
今日〜明日一杯はどうせ各ゼミの面接が重なるから、授業はあってなきが如しだ。
血の気が引いた後、彼はどこに行ったのだろう。
自分から探しに出るのは、初めてのことだった。


 図書館の、いるだろうと思われる棚の前に、まっすぐな背中があった。
ほぼ全講師の、代表的とされる、もしくは最新の論文が紹介されている棚である。
最初の頃のものと最新のものと並べるのはいかがか、とは言わないでほしいものだ。
私たちはまず例外なく、研究と発表と教育の繰り返しで生きているから、この程度の棚で もないと目立ちはしないのだ。
この大学の抱える技術の一端が、ここにある。
全ての論文やレポートは、別の場所にファイリングされていて、データベースから引き出 すことも出来る。
まだ彼には荷が重い問題は、この棚の面白い部分から取り出してきた。
そう多岐にわたって質問したつもりはないが、脇の二人が呆気に取られていたことからも やりすぎだったのだろうと、正解に繋がる文献名は教えておいた。
ゼミに合格にせよ、不合格にせよ、彼はきちんと教師の言うことを覚えていて、早速に来 たらしい。
 私は手近の館内ポスターをチェックしている振りをして、彼が棚に手を伸ばし、最初の 一冊を抜き取るのを確かめた。
ぱらぱらめくって戻したら許しがたいところだが、ページを確認し、栞に使えと棚につけ てある紙片を挟んで閉じている。
次にも手を出すのかと思ったが、禁帯出のシールが張ってあるためか、すぐ脇の閉架図書 の受付カウンターにゆき、学生カードを取り出した。
 まず一冊、きちんと読み込むつもりでいるようだ。
教えても本人が無駄にすることは多々あるし、私も多くはそうしてきただろうが、彼は与 えられた高度な知識を教わるときまで放っておかなかった。
 柱をさり気なく回り、閲覧場所でノートとペンを取り出すところまでは見届けた。
難しかろうが、いずれはそこにゆきつかなければならないと、知っている。
数年の間に、理解度が今日出された問題に及ばなければ、ゼミ内部にいるだけ無駄な結果 になるのだ。
 食いついてくる気概を持ちつづけていられるか、どうか。
刎ねると決めていたのが軽率だと、身を翻して階段を降りてゆきながら、私は認めた。
外で何をしていようと、ここでは彼は学生だ。医者になりたくて、必死に勉強しているた だの青年だ。
 もう少しだけ、慎重に考えることとしよう。
あの暗さとは、全く異なる姿を見ただけで、私は何を狂ったのか。
自問するのはそう経たないうちのことであった。


 明日には、ゼミの合格者を発表する、その午後のことだった。
私は近くのスタンドに久々に洗車を頼み、いつもとは違うルートを、徒歩で大学へ向かっ ていた。
晴天と聞いていたが、見上げる空は灰色の雲に分厚く覆われ、手袋をしていても肌をきし きしと寒さがこじ開けるような、重たい冬の日である。
 一度我慢できずに手近の珈琲ショップに入り、すぐさま、香りの半分飛んだ代物に辟易 して外に出ると、その重たい空から、冷たさを増すものが舞い降りてきていた。
今度こそ、雪だ。去年舞い散った粉ではなく、着実にアスファルトを濡らし、土に解けこ み、少しずつ少しずつ熱を奪い去る、小さな雪片。
大学に行けば傘はあるから気にせず歩き出した時、私の視界の隅に、また黒塗りの車が入 ってきた。
 彼を乗せた車か。
いつも信号を待つ位置まで足を急がせながら、私は、こうも一人と出会いつづけるのは杏 華以来だと苦笑した。
色々な可能性はある。大学内部でなら、笠間や他の講師陣が、生徒を送りこんでスパイの ような真似をさせることもないとは言いきれない。
 確かめるには、陰鬱な光景だろうと見ておかねば。
と、車はほぼ急発進に近い状態で、走り去る。
私は暫し呆然とそれを見送ったが、慌てて顔を後方に振り向けた。
彼は?
 ややあって、のろのろと歩道から何かが起きあがった。
ダッフルコート。今日はマフラーを車中に忘れたのか、首が覗いているのは寒々しく、何 より、彼が身を起こす姿が痛々しい。
 車の相手と、彼の間柄はこの時、ほぼ疑えなくなっていた。
自分から転がり出たにせよ、突き飛ばされたにせよ、内側の誰かと彼の関係は、不本意な ものでしか有り得ない。
 自分を放り出し去りゆく車を見ようともせず、周囲の奇異の視線も目に入らぬように、 彼は埃を払って歩いてゆく。
無表情の仮面を被り、重たい足取りを出来得るだけ早めて、何事もなかったように校門を 潜って。
 ただの学生でいられる、大学構内へと。
 横断歩道の信号が、明滅している。
いつもならば一つ待つその道を、足早に私は渡った。
外で声をかければ、逃げてしまうかもしれない。
内部でならば、呼びとめて話すことは出来る。
 ……だが、何を?
何を話すのだろう。今見たことをか、今まで見てきたことをか。
それとも白々しくこの前の問題のことでも?
 彼は気がつくだろう。傷ついた直後には、人は自分をあらゆることから守ろうと敏感に なっている。
気がつけば、逃げてしまう。私が彼を落とさなくても、彼が視界から消えてしまう。
後ろめたいことを抱いたまま、平然と来られる性格には見えなかった。
 それとも、私も客の一人と見なすのか。
あの素直で懸命な表情が跡形もなくなって、陰鬱に、しかし媚びを湛えてこちらを向くよ うになるのならば、やはり始めから刎ねるほかはない。
ダッフルコートは右へ折れる。
躊躇ったまま、私の足も同じ方角へと向いた。
 足取りが乱れている。今日は相当酷い目にあったようだ。
少し前傾姿勢になって、教科書の入ったリュックを背負ったまま、歩いてゆく彼の上には 雪さえ慰めを与えまい。
 斜めに歩く先にベンチが空いている。こんな天気だからか、人影はまばらで、私は慎重 に足取りを緩めて青年がぶつかるようにベンチに腰を下ろすのを見た。
虚しく、形の良い顔が空を仰ぐ。
灰色の天空の壁に、そこから剥がれ落ちてくる冷たい漆喰の破片に、暫し彼は身をそのま ま晒していた。
目は閉じられている。あの車も、今までの自分も、この雪空も、離れてみている私も、全 て切り離すように。
弛緩してだらり、と下げられていたと見えた手が、何時の間にか拳を握っていた。
 今日は手袋もしていない。寒さで白い肌に少しだけ、ほの赤く血の色の昇るのが分かる 気がする。
ほんの、数秒のことだった。
何もかも白く存らせようとする冬の大気の中、彼だけが、褪色した写真の切りぬきの如く ベンチに座っていた。
唇が僅かに動いて何か呟いたのかもしれないが、流石に聞こえない。
 ややあってゆっくりと顔は見据えるべき世界を天空から地上へと変えて、閉じた瞼で何 を拒んだにせよ、開いて煙水晶の目に映す。
瞬いて、驚きの表情でこちらを見たことから、最初の認識は私であったらしい。
唇が再び、今度は躊躇いの歪みを見せて動く。
 虚をつかれている間になら、話しかけても逃げられはすまい。
私は黙ってそちらへ歩いて行くと、彼の前に立った。
ところがその間に、彼は慌てたように鞄を背から下ろして何かがさごそとやっている。
立ちあがって挨拶するのが先ではないのか、と些細なことに苛立ちを覚えた途端、青年は 勢い良く立ちあがり、私は思わず一歩退いていた。
 少し眉を寄せ、真正面に向かってくる目。
口元は一度引き結ばれ、それから口中が干上がっているのを乾かそうと喉が蠢き、唇をご わつかせてから、そっと開いた。
白い歯並びと、ほんの僅かに閃く赤い舌。
 ただの学生が指導教授となるかも知れない教師に出くわした緊張感しかない。
それなのに、どうして、こんなに艶やかに見えるのだろう。
まだ私は、彼の今までのことに拘っている。
 どうにか湿した唇を動かして、彼は鞄を前に抱えたまま声を発した。
「碓氷教授……」
 聞きやすい声だ。こんな声で睦言を囁くこともあるのだろうか。
今日は鋭く放って、挙句車から放り出されてしまったとしても。
「何かね」
 鞄から、右端に皺の寄ったレポート用紙が数枚取り出された。
「……この前は、答えられませんでしたが」
 間近に見ればとても綺麗な目をしている。
「厚かましいお願いですが、見ては頂けませんか」
 そう言いながらも、まだ手は差し出さない。
相手に受ける気があるのか、突っぱねられないかどうか、測るだけの遠慮は持ちあわせて もいる。
 彼をひととき自由にするのに、あの車の主はどれほどのことをしているのだろう。
世馴れた金持ちの息子の気配が全くないことから、恐らくは学費稼ぎではないかと思った りもしたが、虜にするほどの魅力がある身体なのだろうか。
この姿がまた、豹変する。
 唇を再び引き結んで、返答を待つこの青年は、一体どれだけのことを抱えているのだろ うか。
誰かに時間を切り売りしながらもハードルの高い問題を必死で調べ、纏め上げるだけの時 間を作って。
 ここでは、彼は学生で、私は教授だ。
それ以外の間柄には、なれない。そう分かっていながら、割りきれずにいる。
「―――生憎と」
 僅かな希望の光が彼から消えるのを見ながら、私は、本当に自分が何を望んでいるのか 訳がわからなくなってきた。
「質問日以外には、そうしたものを受けつけない」
 相手も訳がわからず、瞬きをする。
「冬休み直前の火曜日だ」
 言いながら、心を決めないうちに言葉が出てしまったことに内心は驚いた。
「『質問日』……?」
 聞きなれない言葉を耳にした青年の耳は赤く、綺麗な形をしていた。
見上げる目に浮かんだ落胆と諦めの色が、揺らぐ。
確約を与えてはならない。だが、もう手遅れだ。
 日にちまで指定してしまったのだから、彼は来るだろう。
私の教室の学生として。
「……教授……」
 彼が理解する前に、背を向けた。
問い返す暇も与えずに、本来の道へと足を運ぶ。
「……有難うございます……」
小さく礼の言葉が聞こえてきたが、胸中には再び苦味がこみ上げてきた。
男娼を、一時の情けで入れるのか。


 白い磁器に、触れるだけで愛でるような唇が、ふと動きを止める。
「煩わしいことでも?教授」
 私のパトロンは、思っても見ない時に人の心を抉るのが好きだ。
いや、彼ばかりでなく、権力を持てば人はそういうことをたやすくするようになる。
綺麗で親切そうな悪魔の仮面を、一枚何処からか手に入れるのだ。
「いえ。貴方のお手を借りるほどのことは、何も」
 結局、私は五名の学生を受け入れた。
決まった後、彼は友人とささやかな祝杯をあげたらしい。
彼を見なかったので直接には分からないが、板倉が今にも吐きそうな顔で歩いているのを 見たので、多分そんなところではないかと思う。
 門の内側でだけ見つかるように気をつけている。外での暗い加納と、質問日にやってき た彼とは別人のように今でも思われてならない。
「それは、残念なことだね。今でも我々は、出来る限りをと望んでいるよ」
 聞いている印に、私は軽く頭を下げる。
「そう言えば、蘭はどうしてるかな」
 植物のことはさほど詳しくはなかったが、このパトロンの好むものはある程度覚えるよ うにした。結婚祝いに、蘭の花も貰っている。
とんでもない作用があることは、後に知った。
「枯らすような真似はしておりませんよ、ご安心を」
 貴重な一株を分けたのだといわれ、最初は押しつけがましさを感じなかったわけではな いが、気をつけて世話をしている。
「また、春には花を咲かせるだろうから」
 人の心を緩ませる、花。
私が知りたい心が、今一つだけある。
しかし彼に触れられるのは、大学の内部でだけだ。
 初めは、まだ平気だった。
私の目の前に立つ時の彼は間違いなく一人の真面目な学生で、それを反れることなく、外 で道に外れたことをしている気配は微塵もなかった。
 感じられないからこそ、外での彼の姿を知りながら知らない私は少しずつ耐えがたくな って来たのだ。
腹を割って話すことではない。
下級生が抜け駆けのようなことをしないように、栗橋は目を光らせているから、うっかり すれば彼の立場は最悪のものになる。
 どうやって、引き寄せたら良い。
あの面だけを見ていれば、私は彼を素朴な青年とだけ見て終わっていただろう。
最初に、あの陰鬱な空のような姿を見ていなければ。
「……花の咲く頃、宜しければ、またあの館にでも」
 珍しく立ってあちこちと動きながら、黒いスーツの青年は笑んだ。
「そろそろ、身の回りの世話をするものも、いた方が良いだろうから」
 非礼を承知で、私は何も答えなかった。


 妻と呼ぶ女性は、杏華一人で充分だ。
私の遺伝子は無理に残す必要を感じない。残すとすれば、それは只一人の女性に与えてや りたかったものなのだから。
 七瀬との婚姻関係は、魅力だった。だから、妻となる女性を愛せた私は、失っても幸せ なのだろう。
次に誰かを娶れば、それは杏華への冒涜になる。
私は未だに、良いパトロンに出会えたことに感謝をしているのだから、恨むような結果と なるだろう縁戚関係を再び作りたくはなかった。


 何時もの道を、たまには右へ折れることがある。
また、ベンチには彼が一人でいた。
出くわすはずの時間が微妙にずれたから、今日はもうこちらにいたらしい。
今は大きな白木蓮の木が、ベンチの後ろで花の終わり近くを迎えていた。
何と一年の早く、私の心も薄情なことだろう。
 杏華をのみ思い、かまけていた自分が、この学生一人を心にかけている。
同性だから、学生だからと言い訳を出来るものではないのに。
 春風はまだ冷たいこともあり、ジャケットをきちんと着ている彼は、あの冬の朝のよう にどこか寒そうにしていた。
また、辛いことがあったのだろうか。
目を閉じ、今日は薄日の射す空を静かに仰いでいる。
空の色は彼の今の気持ちを示すような幸薄い青さだった。
 彼と、話しをしたい。
今の姿を偽りだとは思わないが、もう一つあるだろう姿を見ることが叶わない。
私は一年前に狂ったつもりでいたが、今や、己が狂気を押さえるのに必死な毎日を送って いた。
 触れてみたい。学問以外では大人しく、誠実で、呼吸さえ潜めていそうな彼が、私から 閉ざされた場所では何をして、どんな言葉をどんな声で語っているのか。
知るには、一つしか方法はない。
言葉だけでなく、直に彼に触れることだ。
 拒まれようと、暴れられようと、彼は今はもう、私のゼミにいる。
私の手の内にあるものに、不可解なことがあってはならない。
同性とはいえ、妻を裏切ることになるかどうか、私にはもうその判断もまともにはつかな かった。
だが、どうやって……?
 白木蓮の花が、一つ、はたり、と花弁を落とした。
それは彼の肩にふと当たり、地面へと落ちてゆく。
 花。
頭を掠めたものは、家政婦がいなければ荒廃しそうな家の中にある、一つの鉢。
蕾を鈴なりにつけていて、この数日にも咲きそうだ。
また、はたり、と花弁が彼を叩く。
それでも青年は目を開けない。
 目を閉じて、平穏を求める求道者の顔が、誰かと床にある時どう変わるのか。
家から、あの花を持ち出すのは危険過ぎる。蕾は敏感な部分だ。
だったら、どう彼をあそこまで連れてゆくか。
 他人のテリトリーには出来る限り踏みこまない彼と、二人きりになることも難しく、私 は、敢えて彼を無視してそこを通りすぎる。
 白木蓮の雨は、まだ彼に降り注いでいた。


 ふと、気がつくと肩に手が置かれていた。
「大丈夫ですか、教授」
 栗橋と西山が、私を揺すぶっている。
「……ああ、君たちか。どうした」
「どうしたではありません、教授。もう何日過ごしておられるんです?」
 何日だろう。
私は、何もかも崩してしまいたい衝動に耐えつつ、実験に入っていた。ラボに三年が入る にはまだ暫く間がある。
その間は、彼の顔を見ないで済むのだ。
「一度、戻ってお休み下さい」
 西山が熱心に言う。
「データは院の方で、きちんと取得しておきます」
 栗橋は点数稼ぎめ、と言わんばかりの視線だったが、すぐに顔をこちらに向けた。
「誰か、荷物持ちに」
 自分がと言わない所が、姑息だが、ふと、予感めいたものがあった。
「そうだな。……何日だ」
 聞いた日付は、もしそうなればうってつけの日であった。
「家政婦が、休みでな。大したことは出来ないだろうが、着替えてくるとしよう」
 加納と、友人の板倉は、栗橋に良いように使われている。
どちらかが来る可能性があり、そしてそれがアルバイトに明け暮れる板倉ではないかも知 れない。
 連れてゆける。彼を、完全に私の手の内に置ける。
長い偽善の状態を、終わりに出来るかもしれないのだ。
「荷物持ち程度でいい。誰もいなければ、それでも構わんよ」
 そう言いながら、私は顔だけは洗うべく、立ちあがって洗面台に向かった。
「二人とも、宜しく頼む」


 駐車場に、所在なげに佇む影が一つ。
今まで、彼に関する予感が外れたことはない。
これから、それを全てこの手で、この目で確かめるのだ。
 緊張はしているものの、加納は何も知らないで車に乗りこむ。
学外で、共に過ごす時間を持つのは初めてのことだ。
彼は窓越しに、自分の数時間後を象徴するような薄曇りの空を知らず眺めている。
言葉を交わす間にも、彼が異変を悟って出ていってしまわないようにと、私は祈るべきも のを持たぬまま何かに願った。
 初めて信号で停止した時、彼を守る大学の敷地からは既に離れていた。
「時間があるのなら、少し付き合い給え」
 今頃不安そうな表情を浮かべた所で、もう遅い。
漸く手に入れた相手を、乗せてきていた黒い車は今日は見えない。
それでも、それからも青年を奪って逃げるように、私はアクセルを踏んだ。




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