春雷


 碓氷博光教授の奥さんが亡くなられたのは、一年前のことになる。
四十にして漸く、援助を受けていた企業重役の三女との結婚、そして結婚7ヶ月目にして 妊娠中毒症でうら若い妻を失った男の嘆きは凄まじかった。
周囲の声は、せめて子供だけでも生まれていれば、と言ったり、また或いは生まれていな かったから良かったのだ、子育ては出来まいから、と訳知り顔に言ったりもした。
 そのどちらも耳に入らぬように、教授の嘆きは深く、静かだった。
講義からは気迫が消え、見切りをつけて他の教授に尻尾を振るものも少なくはなかった。
出てきては気乗り載せぬ授業を講義し、ラボに篭り、実験だけを幽鬼の如く何日も行っては 家へふらりと戻って行く。そんな男を仲間の教授陣は嘲り、精神の安定を疑うようなことを 平然と学生の前で言い、謗った。
 優秀な男であるが故に。
従来の義手や義足ではない、身体に埋め込んでも拒絶反応の確率は非常に低い、優秀な人造 骨格を求める男。夢のような話だと、もう笑っていられる時代ではない。
サイボーグでも作るつもりかと知らぬものは笑う。いっそ作りかねぬほど、自分の技量に自 信がある男だったと、冷笑する連中もいた。
だが、次の春を境に彼は変わっていった。好ましい変化と呼べたのかどうか分からない。
未だもってそれは彼にも、確信の持てない変化ではあるだろう。
 僕がゼミに入ってすぐの春、一周忌の後、全ては始まったのだ。


「おぃ、加納」
 肩を叩かれ、僕は振り返った。院生の栗橋賢也。成績優秀者が集うと言われる碓氷ゼミの 一番の才能と、最低の性格を誇る男。
「……栗橋先輩」
 嫌々ながら、しかしそうとは気づかれないように、僕は一礼した。
「おぅ、相変わらず礼儀は正しいじゃないか。そこいら、お前は可愛い奴だよな」
 地方とは言え『大病院の院長の甥っ子』は笑う。猫を被りおおせることで、僕は辛うじて この猜疑心も抜群な男の探りから逃れることを得ている。
「その可愛らしさを見こんで、一つ良い目を見させてやろうか」
 ニヤニヤ笑いは、胸倉を揺すぶってやりたくなるほど不快だ。だが、それを表に出せばこ の男は豹変する。叩かれ、潰される。教授が正常な状態であれば何事もなかっただろう。
しかし、現在は十日も続く実験にかかっている、教授にこの独裁を止める力はない。
「何でしょうか」
「教授、夕方に家に戻られるんだと。で、一応あんな様子だから誰か見張りにつけて置けっ て意見が一致してな。めでたく、お前が送っていくことに決まった」
 おぃ、と声を上げそうになって慌てて飲みこんだ。教授は車で通勤している。
「……先輩、僕は免許持ってませんよ」
「なぁに。教授の腕は確かだ。そこいらは問題ないが、食事とかはてんで駄目のはずだし、 家政婦のおばちゃんとやらも休みなんだと。お前、行って雑事引きうけて来い」
 声が、恫喝するような低さに変わる。
「他の連中なら、俺はこんな真似頼まんで自分でやるのさ。何せ恩師だしな?お前は出抜く ような真似をしやしねぇから、安心して頼めるってわけだよ」
ぴたぴたと、手の甲で頬を叩いてくる。こう言いながら、もし妙な取り入りをしたら容赦は しないと、言外に圧力をかけているのだ。
「お前の仕事は、洗濯機回して、まともな食いもん出すか買うかして、しっかりと家政夫を やってくるこった。行きだけ教授の車だぜ。帰りは歩いて駅からだが、まぁ贅沢は言えねぇ な。……礼を言えよ?覚えていただけるチャンスやったんだ。あぁん?」
 まぁ、覚えていられる精神でもなさそうだ、と奴の内心の嘲笑が聞こえた。
「……有難うございます」
 雑事を押しつけて、甘い汁を吸うのはこの男の常套手段だ。
「俺がどれだけ心配してたか、伝えるのも忘れんな。いいな」
 医者じゃない。この男の天職は、ヤクザだろう。そう思いながら、僕は自分でも反吐の出 そうな従順さで、頭を下げた。
こいつが何と僕を言っているのかも、知ってはいる。いつか喉笛を食いちぎるチャンスがあ った時、僕はそれを躊躇うことはないだろう。
今この瞬間は、使い走りに成り果てているのに痛痒も感じないのと同じに。
「じゃ、5限終わったら駐車場に行ってろ。お待たせするんじゃねぇぞ」
 目標を変えるべきだろう男は、そうして待たせていた1年女子数名を引き連れて去ってい った。春先は、奴の頭も緩むらしい。遊びに行くのを隠そうともしていない。


 跳ねた頭髪。どこか虚ろな眼差し。中途半端に当っていない不精髭。
 それでも碓氷教授の背筋は伸びていて、こちらに歩いてくる姿は決して無様では片付ける ことが出来なかった。
駐車場に置いてあるのは、最近は洗車がおざなりな赤のBMW。ふた周り近く年下の妻と、 前にはこれでドライブにでも行っていたのだろう。
 頭を下げて、栗橋が心配していたと僕は一応は言い、お送りは出来ませんが雑事をと、短 くそれだけを告げた。
ちら、と見た目は特に何の感情も浮かべていない。なのに鋭くて、背筋が引き締まる思いを する。
 先ほどの虚ろと見えた表情は疲れからくるものか。
要とも不要とも言わず、教授はキーを差しこんで車に乗りこむ。無視か、と思ったらドアは 開いた。人の話を判断する理性は、きちんと残っているらしい。
……いや、と僕は乗りこみながら、今までの評価を見直さざるを得なかった。
車をスムーズに発進させ、出て行く教授の眼差しは、講義の時間よりも澄んでいて鋭い。
滑るように車は構内を出て、信号待ちで停止したときはもう大分大学から離れていた。
「免許は」
「持っていません」
 余計なことを言わせない、必要なことしか聞いてこない口調。ゼミの面接以外では十数語 を交わしたかどうかの教授の声は、どうも今までの『無気力』の評価とは違和感がある。
「暇か金か嫌いか」
「……真ん中です」
「そうか」
 実際、どれほど稼いでも本に消える。医学部は、貧乏学生には辛い。アパートには、本と 僕以外を容れるスペースはないくらいだ。
車は制限速度を僅かにオーバーする程度、それでも素晴らしい速さで都市部を抜けて行く。
ステアリング、ブレーキ、アクセル、正確で冷静な運転技術。この後、免許を取った後も、 この腕前に叶うことはなかった。
「時間があるのなら、少し付き合い給え」
 ちらりと僕を見た、眼差し。
それは決して、無気力でも不快な眼差しでもなかった。だからぞくりときた。
碓氷教授は、周囲の風評を実は誰よりも把握しているのではないか。無気力と嘆きの仮面に 押しこめているだけで、実は全てお見通しではないのだろうか。
「……曇ってきたな」
 僕の内心も返事もお構いなしの様子で、教授は思うままに車を操り、薄日も途切れがちな 春の道路を疾走していった。


 結構な量の荷物を抱えて、僕は困惑を覚えながら教授宅の玄関をくぐった。寝癖は確かに ついているが、大学の教授と今の様子は別人だ。
違和感は募る一方だった。栗橋は、あの聡い男は何を考えて、何を見ていたのだろう。
教授が寄ったのは、知り合いの店だという珈琲の専門店だった。自分用にブレンドされた豆 を買い、店長と軽い会話を交わす。それは全く正常な、碓氷博光という男としか思えない。
『でも、学生さんを連れてきたのは初めてだね、碓氷さん』
 店長の言葉が思い出される。何故、彼は急にそうする気になったのだろうか。
怜悧な横顔。草臥れてはいるが、肉体の疲労とは違う、何か精神的な強靭さのようなものが 傍らから漂ってくる。
周囲の評価と現在の碓氷教授の違和感が僕を包み、違和感はやがて僅かな疑念に変質した。
教授は、実際は……。
 台所で荷物を降ろし、上着を脱いで隅に置き、食料品を選り分けてゆく。
斜め後ろで教授は別の袋を開けていた。珈琲の香り。引き締まった口元が動く。
「一人暮しは、長いのか」
 所属する学生のデータくらい、この教授の頭脳は簡単に把握しているだろう。そんな点は まったく、以前も今も変わりないのだとゼミでは呆れられていた。
入ったばかりの僕ですら、例外ではないらしい。
「はい」
「……何が楽しい」
 疑念でも否定でもない語尾だったので、僕はつい聞き返してしまった。
「はい?」
 ちら、と向けられる眼差し。駐車場と同じ無機質で、身包み剥いでくるような眼光。
「楽しみなどないように生きている。羽根を伸ばそうとは思わんのか」
 前を見たまま問われて、一瞬の戦慄が失笑したいような苦さに変わる。
楽しみ。『碓氷教授』に、そのままつき返してやりたい問いかけをされるとは。
だがそれは、間違いなく鋭い問いではあった。
「僕は、……何としても『医者』と呼ばれる職業に就きたいんです」
 ここまで這いあがるために、僕は人の数倍やってきただろうと思う。これから先にも平坦 な道など用意されていないことは、百も承知だ。楽しみなどとは無縁の人生。
教授に何もかも告げる必要はない。だから、短い答えだけを用意した。
苦しい上り坂、堕落して底辺に落ちないために僕が何をしてきたかまで、この男は知ること はないだろう。
それは逆に、
「……お前などに解るものかと言いたげだな」
教授の言葉に集約された、歪んだ優越感にも通じる。
「いいえ」
 恐怖を声に出さないようにするのが、精一杯だった。
 佯狂。偽って狂って見せている。そんな言葉が脳裏を占める。
先ほどの疑念が、確信に近くなって胸の奥に澱んでゆく。
教授は、周囲の考えているほど、嘆きに沈んではいないのではないだろうか。
だとしたら、……何故だ。
一人で住むにはいささか広い家は、まだ新しかった。ここで、僕が面影すら知らない新妻と 教授は暮らしていたのだ。窓辺のカーテンに可愛らしいレースがあるのが、今はそれを見て 喜ぶものもいない侘しさを訴えかけてくるようだった。
会話が、見つからない。
そんなに話し上手でも下手でもないとは思う。だが、この空気は話術に関係なく、僕を沈黙 に追いこむ重苦しさを纏っていた。
「怯えないでも良い。……喉が乾いたか。少し休もう」
 モカの香りと共に長身が動いた。
「あ、僕が」
 立ちあがりかかって、見たことのない笑顔に制止される。恐怖は僕の体内に噛みついて、 小さいけれどくっきりとした歯型を残した。
「これだけが趣味でね。誰かに飲んでもらうのも久しぶりだ。任せてもらおうか」
 大学とは違う、何かを楽しんでいる声音。気紛れであって欲しい、と僕は願った。
或いは、一周忌を終えて、教授の中で整理がついただけなのかも知れない。ゼミでは新参者 の学生だから、話して聞かせやすいだけなのだろう。
 これはチャンスだ、栗橋もそう言っていた通りの。うまく教授の機嫌を保てれば、少しは 目をかけてもらうことができるかもしれない。栗橋のような幅の利かせ方はなし得なくとも 僕なりに地保を固めて行ける。その、最初の一歩だ。
「有難うございます」
 教授への礼と言うよりは自分の奥の歯型を撫でるように、僕は一礼した。
そのまま、選り分けた食料品を冷蔵庫にいれ、袋などは畳んで、置き場が見当つかなかった ので1ヶ所に纏めておく。
ちら、と電熱式のコンロにかけた薬缶からこちらに碓氷教授が視線を向けてくる。
 針で突かれるような、その視線にはまだ馴染みがあった。
実験で、ラボに詰めている時の教授は学生の些細なミスすら見逃さない。研究に不要な私語 は禁じており、それを守れない学生は容赦なく教室外に追い出す。
そうして、実験に戻り、モニターを覗きこむ時。彼の眼差しは、モニターをも止めてしまう のではないかと錯覚するほど、厳しく冷たい。教室に残る僅かなメンバーは、皆一様に呼吸 を止めて、教授に見入るのだ。
 碓氷ゼミに属するものは、この表情を覗けることを、その眼差しの下でもたらされる成果 を共に味わうことを、誇りとするのだという。
今時笑わせてくれる話じゃないか、とは思っている。だが、成果は無視できない。
僕がこの男の下で学ぶことを決意したのは、外見でも研究への態度でもない。
あくまで、結果だ。世間にもたらす益と、名声。それ以外の面白みはない。
教授の口元が、ふと僅かに歪んだ。すぐに薬缶へと顔を向けてしまったので、僕は見間違い だと思ってしまった。
嘲ったとは、思えなかったのだ。


 極上の芳香。とびきりの苦さ。カップの中身は趣味どころか専門店顔負けの味だった。
折角だから奥でと言われて、台所から居間にまで移動させられたが、確かにこの珈琲ならば どんな客をも満足させるだろう。
 居間には見たこともないような鉢植えがおかれていて、少しだけ甘ったるい空気を撒き散 らしていた。小ぶりの花が、エキゾチックな香りとは対照的に慎ましい。
「気に入ったようだな。珈琲は、好きだろう」
 満足感を漂わせる教授に、僕はこればかりは素直に頷いた。
「あそこで飲まなかった時に、随分と気にしていたように見えたからな」
 慌てて、一瞬記憶を探る。確かに、喉が乾いた気はしていたが、そんなに恨めしそうにし ていただろうか?と、教授が破顔する。
「ふむ。ラボとは大違いだな」
 からかわれたのか。一瞬の怒り、それでも顔には出すまいと僕はとっさに口元を引き締め 仮面のように固定して息を飲みこむ。
「怒らんのか。何故、外に出さない?ここには栗橋も他の連中もいないというのに」
「教授、ご冗談が過ぎます」
 今日は、機嫌が良いだけかもしれない。それを損じれば、僕はチャンスを失うかもしれな い。懸命に自分に言い聞かせ、僕は同じく仮面の如く笑顔を張りつかせた男から目を逸らす ように、カップを取り上げて漆黒に近い液体に意識を集中させた。
「……君という人間は、理解し難い。何が楽しいのか、能力に見合う自尊心があるのなら、 何故栗橋如きの使い走りに甘んじているのか」
 苦い液体が、碓氷教授の言葉と共に、僕の中を滑り落ちてゆく。
「目標がある、意識も高い、強者には歩を譲ってやり過ごす。処世術と言えばそれまでだが 君のやり方は徹底しすぎている。年齢よりも抜け目がない」
「誉め言葉と、受けとって宜しいのでしょうか」
 流石に、眼光は鋭くなったのだろう。軽く目が見開かれ、それから逆に細まった。研究の データが予想とは違う結果をもたらしでもしたように。
満足げに。それでいて貪欲に。
「成る程、君は興味深い。加納寧」
 ゆるり、とソファーの向こう側から立ちあがる。
僕が動こうとしたのは、今度こそ紛れもないイヤな予感が、背筋を撫で上げたからだ。
まさか。いや、有り得ない。
理性は徹底的に否定した。だってそうじゃないか。
 最愛の妻を亡くしたはずの目の前の男が、自分の学生に、しかも男に手を出す筈がない。
こんな風に手首を捉えるはずがない。
「どうしたね?ゆっくりして、行き給え」
こんな風に突き刺すような視線を向けるはずがない。
「い、いえ、雨も降りだしそうですし、もう、帰ります」
酷薄な笑みさえ、浮かべて見せるわけがない。そうだろう?
「だったら、泊ってゆき給え。心配ない。ご覧の通り、一人には広い家だ」
「……遠慮するっ!!」
 振り払い、総毛だちながら居間を飛び出ようとして、横から衝撃がきた。
眩暈。頬骨にきた力で、理解力が一旦低下し、そのショックで目尻から涙が吹き出る。
倒れて行く中で、殴られたのだとはっきりと理解した。
床に直撃するところをを何とか、半身を捻って免れる。
「何て言う口の効きようだね?成る程、従順な顔の下にはそんな性質を持っていたのか」
 しゅる、と衣擦れの音がする。起きあがろうとする前に、腕をねじり上げられた。
絡みつく細さは、先ほどまで教授の首にかかっていたネクタイだろうか?
そんな事を考えていた瞬間にも、僕は抗った。もう一方の手を取られる前に、低姿勢のまま ダッシュして部屋から走り出ようと試みる。しかし、
「ふむ。筋肉の付き方も申し分ない。」
 ラボで見る金属に向けるような冷静な口調で、教授はそのまま背後から圧し掛かるように して僕の自由を奪った。重い。
「離せっ!!」
 腕をねじり上げられ、悲鳴だけは漏らすまいと唇をきつく噛み締めた。内側に、蘇ってく る感情。過去の屈辱を思い出させるこの男への、純粋な、怒り。
「私が、僅かでも疑念を抱けば突き詰める性格であることは知っているだろう?」
 首を捻じ曲げて、睨み据えた。ぎり、と歯が鳴る。唇の皮が破れて、血が滲む。
「変態!教え子を押し倒して楽しいか!?男を!」
 必要以上に叫びすぎたと、その時は思わなかった。教授の、碓氷の笑みが深くなる。
あぁ、どうしてこの男がこんな風に笑うと気づかなかったのだろう。
眼差しは冷徹な学徒のままで、口元だけがこの男には似つかわしくない、しかし僕がよく知 っている感情に歪む。
 欲望。その手の男達が僕に持つ、歪んだ性急さ。
「どうして、怖がる?……何故、そんなに怯える?」
 体重をかけたまま、碓氷は僕の耳元で囁いた。
「経験が、あるのか?」
 びくり、と身体が震える。吐息に、答えを得た満足感が滲む。
「そうか。……栗橋とは?」
「あんな、男」
 最後に力を入れて、床を蹴る。何とか碓氷の身体の下から逃れ出て、入り口に辿りつく。
殴られた頭痛と、吐き気がしたが、構わず玄関に走り。
ぐらり、と再び視界が揺らいだ。
 後少しで、外に出る筈なのに。意識が急速に現実から朦朧とした光景へと引きずり落とさ れてゆく。
(珈琲?いや、そんな暇はなかった。どこで?)
 珈琲では、ない。僕はブラックのまま飲んだのだから。だとすれば。
(あの、花……)
 急速に遠のく意識に、逆にゆっくりとした足音が近づいてきた……。


「……骨も、ある。色も、素晴らしい」
 冷静さを欠いた碓氷教授の声など、始めて聞くな。
そう思った瞬間、寒気を感じた。
はっとして起きあがろうとして、身動きできない腕に気づく。
後ろ手に僕を縛るものは、先ほど感じた教授のネクタイ。
それ以外に身体を覆う布は、もう、ない。部屋の冷たい空気に晒されて、恥辱と狼狽とで、 肌が赤く染まる。血液が急速に、体内を駆け巡り始めるが。
「申し分ない、マテリアだ」
 僕の傍らにいるのは、こちらも最早上着は着ていない碓氷教授。ラボで実験器具に向かう のと変わらない眼差しに、白衣を着ていないのは何故かと問いかけたくなりそうだ。
指先が、丁寧に胸の辺りの肌を撫でている。
外気ばかりではない刺激に、肌が泡立つ。
束の間の失神か、それとも長いことこうされていたのだろうか?僕は更に奥の部屋に運び込 まれていた。分厚いカーテンが一方にかかっていて、夜なのだとしても何時かわからない。
 あっという間に記憶が蘇り、恐怖の跡が再び、僕に痛みのような焦燥感をもたらす。
「……おはよう」
 精一杯睨んだのに、教授は微笑んでさえ見せた。
「今が何時にしても、君は今私の家にいる。……私の元に」
 上擦りを隠せない、声。指先が、僕の胸乳の上を撫でまわす。ぴん、と爪の先で弾いて、 無視できない刺激を、覚醒を始めた身体に与えてくる。
「教授……っ」
 身を捩り、僕は何とかもう一度逃れ出る方法はと絶望に近いことを考えた。
このまま好きになど、されて溜まるか。
「何を、お考えなんですか……こんな真似……っ!」
 喉元を、強い力で抑えこまれた。
「スキャンダル、だろうな。『こんな真似』が知れれば」
 口元から、真っ白い歯が零れる。
「私を脅すかね?襲われて、……一時の享楽の、慰みものにされたと?」
 指は脇腹に移り、反転させて防ごうとする身体をくすぐるように動いた。
反射で身体を仰け反らせると、溜息と共に空いた方の腕が絡みついてきた。
「亡くなった、おく、さんに……」
 最後の常識を求めようと喘いだ喉を、再び押しつぶしかねない勢いで圧してくる。
「君は、私に過度の興味を持たせた。それは君の本意でないとしても、私を研究以外のこと に目を向けさせ、煽りたてすらしたのだよ」
 吐息が、鎖骨から首筋に向かって吹き上げる。
指が、ゆっくりと震えて縮こまっている僕自身に絡みついてきて。
「やめっ……やめろっ!」
 叫ぶと、叩かれた。冷静な目に、一瞬だけ興奮が上り色を変える。
「妻が亡くなってから、こんなに誰かを気にかけたのは初めてのことだ。これだけの若々し い身体を、抑えこんでいるその精神は、一体君の本質は、どこにあるのだろうと」
 再び、指は絡みつく。こればかりは他の何にも転化できない刺激が背筋を駆け昇り、再び 血流を伴って一点に降りてくる。息に、かすかな色が滲むのを抑えられない。
「最初は、笠間あたりのスパイかと思うところだった。君はしかし、奇妙に誇り高い」
 大学で一応『ライバル』と称される教授の名前を、碓氷は挙げてみせた。
「あの俗物には、君は御せない。君に誰かの影を感じるときはあった。だが、学内の人間で はないだろう」
「……や……っ」
 震えて声を殺し、しかし勃ちあがって先に露さえ滲ませ始めた僕の器官を、その間にも碓 氷は揉みしだく。溢れた液体を指に絡め、慣れない手つきでゆっくりと引き下ろし、押し広 げられた脚の、更に奥へと分け入ってくる。
「私の推測に過ぎないが」
 一度手を止め、教授はこの男が言うと思ってもみなかったことを口にした。
「君は目標を達成するために、……誰かに身体を許した」
 ギリ、と歯を噛み締めた。考えまい、感じまい。こんな男の言葉なんか、手なんか。
昔の自分、泣きたくとも泣くことさえ許されなかった日が蘇り、ぶれた。
「そこから抜け出すのには、どうしても君は医師になる必要がある。同性の慰み者であった 自分を、払拭して人生をやりなおすために」
 憎しみを込めた眼差しで、僕は碓氷を見据えた。
今度は、指が最奥の部分に達しても、怯むことなく。
「その意思の強さが、……私には、必要だ」
 碓氷も、見つめ返してきた。
「男であれ、女であれ。権力に、金に、屈しながらも、抜け出る隙を探り、感情を押しこめ ておけるだけの強さが。……何としても。私が、朽ちてしまう前に」
 不意に押しこまれる、痛み。指先が、僕の内部に侵入を始めたのだ。
「ぐっ……ぅっ……ふ」
「私が憎いか。だったら、告発してみるがいい。自分の将来と引き換えにな」
 悔しさが、体内で弾ける。
 碓氷が指を回し、更に奥へ奥へと分けいってくる。おぞましさと同時に、そこは熱を帯び て異物に絡みつき、吐き出そうとして蠕動を始める。
それは逆に、紛れもない快感を、一点から呼び起こしてしまう。
「……ふっ……はぁぁっ!……んんっ」
「できまい。将来を失えば、君は結局地に堕ちて、這いずりまわりながら生きてゆくしかな くなる。ただの、男に腰を振る、淫売だ」
「や、めっ……ぅん……ぁぁ……」
 掻きまわされる。熱は内奥から、ゆっくりと僕をかき乱して行く。おぞましさと裏腹に、 声は艶と甘さを帯びて、男の優越感を刺激する。
「はぁぁん……」
「その怒りを、持続してゆけるか、寧」
「気やすく、名前、で、呼ぶなっ!」
 今度は、暴力はこなかった。それで良い、と碓氷が笑った。
「いつか、私を追い落とすために上がってこい。どんな醜態を晒しても、自分にこんな仕打 ちをする男に復讐したいのなら。私も、それを忘れはしない」
指は、一度抜かれて二本に増え、再び押し込まれて腸内を擦り立てた。弄られていない前か ら、ぐじゅぐじゅと音を立てて先走りがしとどに溢れた。僕の腹の上で弾け、碓氷の下腹と 下着に染みをつける。
「まだ朽ちたくはない。私も、同じなのだ。……まだ、世に捨てられたくはない」
 指が、中から不意に引かれた。
「ぁぁぁん……」
 善がり声が、悔しさと同時に快感を倍増させて行く。
ゆっくりと、碓氷が下を脱ぎ捨てる。反り返った、余り色づいてはいない碓氷自身が、年齢 に似つかわしくないほどの反りをみせて、目の前に突きつけられた。
「どうすれば良いか、分かるかね」
 問いかけと言うよりも、それは命令だった。
牡の匂いをかぎながら、僕はゆっくりと先端を舐めた。今度は碓氷の喉から、低いうめきが 漏れる。
僅かに優越感を、情けない一時の感情を取り戻し、僕は貪欲に喉の奥まで碓氷の象徴を飲み こんでいった。
 喉の奥にまで、達する長さ。ぐんぐんと勢いを増して、窒息させかねない熱さで口腔が充 たされる。丹念に舐めてやると、手が髪を掴んで引き毟るように力を込めてきた。
 口の中に溢れる、苦く青臭い男の体液。指はもう離れているのに、僕の内部も熱くなる。 申し分なく大きい、静脈が浮き出た器官を丹念に濡らし、唇を離す。先ほどより質量を増し て、腹につきかねない勢いを見せた碓氷のそこは、僅かに震えていた。
ゆっくりと、碓氷が僕の脚の間に入り、脚の間に腰を据える。
耳に、カーテンでも遮れない雨音が聞こえてきた。降り出してしまったらしい。
 こんなことになるとは。こんなことだけは、考えてもいなかった。


「……止めたほうが良いらしいぞ」
 ベッドに腹ばいになった男の声が、僕の背を打った。
まだ冬の冷たい雨が降っていたときだった。
「一昨年ならば、私も勧めていたがな。碓氷ゼミは、現在然程魅力的な存在ではない」
「感情なんて、いつか消えますよ」
 内股から、どろり、と白濁したものが溢れ出る。濃い、牡の匂い。自分のではなく、咥え させられた暴力の証。
「研究費の援助は、続けられているらしいし。面接でも、少なくとも不要な学生を振るい落 とす気概くらいは見せていました」
 以前より少しだけ太った腹が、それでも強靭さを示すように蠢く。
「しかし、所長。あなたの目や耳は、一体どこまで届いているのです?」
 本意でなくても身体を寄せれば、手が伸びて感じやすい場所をまさぐってくる。
息を止めていても、嬌声をあげさせるように、狙いを定めて弄んでくる。
「今回は、たまたまのことだ。何せ、うちで一番の稼ぎ頭の将来だからな。私も少しは親心 を持つときもある。……そこまで言うのなら、まぁ好きにするがいいさ」
入りこんでくるのにあわせて、腰を持ち上げる。流し目で相手を見て、自分の秘奥を自分で 割り開き、強請るように腰を振る。
 慣れきってしまった媚態。相手も虚妄と知っていて、圧し掛かることを止めない。
最低の営み……。


 指先で、目の回りを拭われて、僕は我に返った。
「泣くな。その男が、憎いのだろう」
 先端があてがわれた花びらが、酷く疼く。
泣いていた筈はない。僕はもう、それに爛れきってしまったはずなのだから。
「その男が、私が、許せないのなら、悔しいのなら、耐えきって見せろ」
 そういうと、準備する暇さえ与えずに碓氷は押し入ってきた。杭を打ちこまれる苦痛。
激痛の中に、それでも身体を慣らしてゆく熱と官能が潜んでいる。
「……くはっ……ぅぅんん……っく」
 一人の女性しか知らなかったはずのそこが、今僕の中に埋めこまれてゆく。
熱い。静脈を波打たせ、慣らされたものとは微妙に違う形と太さで、刺し貫くように押しこ まれ、根元まで飲みこんですぐに引き戻される。
「や……っ、な、なが……ぃ」
 思わず感嘆の声を漏らしてしまっている。慣らすための注挿が、殊更時間をかけて行われ ているために、碓氷を長く、自分の内側で感じてしまっている。
それが一層羞恥と屈辱を煽り、しかし怒りに転化した瞬間に身の内は快感に苛まれ、もっと 奥まで欲しいと男性を咥えこんで食らいついてしまうのだ。
「はん、あぁ、んんっ、……教授、きょう、じゅ……」
 腰を緩く振りながら、僕は鳴いた。涙は出ない。下のほうから代わりにと先走りが、しと どに溢れて噴水の如く下萌えを濡らしてゆく。
「これは……っ」
 教授の冷たい眼差しが、一変した。彼もまた、囚われたのだろうか。
同性を押し倒し、狭い部位に己をねじ込んで支配して、喘がせる嗜虐に。
「……こんなに、君の中は……」
 言った教授の眼差しは、もはや熱情に潤み、逃れようとしてか求めようとしてか足掻く僕 の脚を抱え上げて、何度も激しく腰を打ちつけてきた。
「ひあぁっ!きょうじゅ、きょう……」
「熱い、……溶けて、しまいそうだ。」
 何度か、往復する腰が慣れ、一定のリズムに僕が喘ぎを止められなくなったとき。
 そのまま動きを碓氷は止め、僕を見下ろしてきた。
最早抵抗など出来ず、僕はただその下で快楽を混ぜた吐息を吐きつづけるだけである。
リビングでかいだ、あの花のような人に絡みつく香りを。
 碓氷の手が、再び喉にかかる。
縊られる、と思った。それで良いと、心底願った。
快楽の唯中で朽ち果てる前に死ねるのなら、それで、と。
だのに手は離れ、顎の線を何度も指で往復し始めた。
「どうやら、君は私が思っていた以上の、逸材のようだ」
 再び冷静な声に戻って、『碓氷教授』は酷薄なまでの笑みを見せた。
「何もかも申し分ないなら、……全て貰いうけるとしようか」
「どうい、う、いみ、」
 聞いた唇が、四十にしては若い男に吸い上げられた。
「……私の『女』に、なるんだ」
 答える間も与えず、再び力強く突きこむ碓氷の肉欲。
僕は絶叫した。それ以外なにも出来なかった。
「ひぃぃぃぃっ!あっ、あぁふっ、あぁ!あああああっ!あ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
「それで万事、良くなる。口止めも必要ない。お前なら、分かるだろう?」
「くぅうん、あっ、はっ、あはあああ〜っ!い、いっ、いくぅぅっ……」
 言葉のすぐ後に、強張ったまま放って置かれた僕の先端から、先ほどとは違う濃くて白い 液体が、びゅびゅっ、と勢い良く迸り出た。それは僕と教授の間で砕け散り、双方の胸にま で飛び散って互いを汚した。
身体全体で大きく息をしながら、僕はまだ動きを止めない碓氷の身体を、何とか押し留めよ うと抗う。けれども、腕の戒めはきつくなる一方で。
「まだだ」
 両足を、高々と抱え上げられる。一向に勢いを減じない碓氷の男性が、秘孔をくぐって、 大きくエラの這った部分をこすりつけ、こね回し、目も眩むような刺激で僕を蕩かす。
「やっ、あぁ、もぅ、もぅっ……」
「他の、誰とかは知らないが、もう、相手はさせない」
 身体中を碓氷の手が、唇と舌が、這いまわる。日向の飴のように滲み、汗をかき、甘い滴 りとなって崩れてゆく僕を、余さず味わおうとでもいうように。
「何もかも、私のものになれ。……寧」
 手が、再び硬さをもって張り詰め始めた僕にかかり、何度も扱き上げる。
「きょ、ぅ……じゅぅぅっ……」
「自分の男の、『旦那様』の呼び方も、判らないのか?」
 ぐいっと、一際激しく突き上げられた。悲鳴を堪える。
「ひぃぃぃっ!……ぁぁ!」
「これからは、こういう時は名前か「あなた」と呼べ。良いな?」
 誰が、と首を振るつもりだった。だが腰は、熱すぎて。とても抗し切れなかった。
一時が過ぎれば、こんな男なのだと醒めた目で見る自分がいることを知っていながら。
「……あっぁ、……ひろ……」
 身体は、既に堕ちきっている。同性に組み敷かれることに慣れ、むしろ貪欲になってさえ いるのだ。
「きちんと」
 早く、……解放、されたい。
「ひろ、みつさ……ん……もっと……」
 自分の意思で、張り裂けそうな苦痛と快楽を味わいながら、碓氷のそれを閉めつけた。
「……寧……っ」
 これまでにないほど、中に熱さが伝わって。繋がった場所から、収めきれない液体が吹き 零れ、じゅぶじゅぶ、と鈍い音を立てた。
 遠くでは、雨の音だけでなく遠雷が轟いている。春の嵐。
何もかも風雨にねじかえて去ってゆく、一時の季節の狂乱の音。
 それが、僕の覚えていられた限界になった。


 季節は、初夏へと変わる。
 ラボの外に来ると、栗橋はじめ学生が所在なげにしていた。
「先輩」
 ちら、と扉に目を向けて栗橋はしっ、と指を立てた。
「今、教授の奥さんの親戚ってのが尋ねてきてんだよ。まだ若いけど、とんでもない秀才だ ったって奴。聞いたことあるか」
 首を横に振る。今まで、碓氷に亡くなった妻の実家について聞かされたことはない。
そうだろうな、と栗橋が満足げに頷く。しかし、彼も怖くて立ち入れない。
 碓氷教授は、ほぼ元通りの評判を取り戻した。授業も、学内での評判も、隙のない立ち居 振舞いも。
 変わった、とこれだけはひそひそと囁かれている点は。
「……誰か、いるんでしょ?教授には」
 ゼミの樋口明日美がコワゴワと、ラボのロッカールームで口にした疑念。
「どんな相手だか判らないけど、教授が多分、一途に思っていらっしゃるのよね。この前、 珈琲を飲みながら笑っていらしたのを見たけど、怖かったもの。あの顔」
 かつての若妻の話をしたときには、あんな笑みはなかったと樋口は言った。
 それから、皆の関心はどうしてもそこにゆきつく。
変な女につかまっているようには見えないが、と。僕は適当に話を合わせながら、思い出す まいと努力する。
 何もかも、自分にだけ向けさせようとするあの男の、眼差しを。手を。押し入ってくる、
男の感触を。
ラボにいて、隣に並んだってお互いおくびにも出さない。
 お互い約束も強制もなく、学内では今までの関係でしかない。
不意に、ドアが開いた。
「誰か、珈琲を」
 碓氷教授は、『誰か』と言いながら、今回は僕を見た。
殴りつけたくなるほど冷静な眼差しで。僕を貪るとは思えない口元で。
そしてぱたりとドアを閉めてしまう。
「……はい」
 使い走りの仕事にまで、栗橋は目くじらを立てない。そんな気の回し方を知る男ではない のが、救いといえば救いだ。
 僕をこうした位置に置いた原因である点は許し難いが、それも仕方ない。
まだ、僕は人生を捨て去るのは惜しかった。いや、捨てるわけにはゆかなかった。
珈琲を淹れて、声をかけてから入ると若い男がソファーからチラリと僕に目を当てた。
 ほっそりとして、僕より2,3才年上のようには見える。だが若い。
顔立ちも、女のように整っている。スーツもオーダーなのか、光沢が薄日のラボには似つか わしくない。
ちら、と妙な位置に視線を当てられた気はしたが、僕は珈琲を二人の前に置いた。
「ですから七瀬さん。私は、杏華以外の女性はもう考えたくはないのです」
 動揺は、出さずに済んだ。珈琲はこぼれはしなかった。
「これまで通り、お付き合いを願えないと?」
「そんなことはない。私は、彼女に出会わせてくれた貴方がたには感謝に堪えない。しかし 彼女以外の女性を、妻と呼ぶ位置に据えたくはない。分かっていただきたいのです」
 ゆる、と顔を仰け反らせて、彼は失笑した。
「あぁ、忘れる所だった。お互いに、好いていらしたのでしたね、貴方と彼女は。失礼」
 頷いて、珈琲に手を伸ばし、儀礼的に口をつける。
「そういうことなら、私は構わないよ。縁戚として、これからも援助はさせて頂く。まだお 若い貴方に、出来れば誠意をお見せしたかったが」
 自分より年上の教授に、『お若い』などと言う態度は、威圧と命令に慣れた、鼻持ちなら ないお育ちの良さとやらを感じさせた。
「お言葉で、十分です」
 行って良い、と手を振られ、僕は一礼して退室しようとした。
「そのようだ。……面白い人を、手元においているようだし」
 七瀬と呼ばれた男の視線は、僕が部屋を出るまで首筋にかかっていた。


 水曜日、5限後。僕は足早に大学を去る。
正門ではなく、裏門を出て逃げるようにアパートに帰ろうと。もう、正門近くを通ればあの 車が、その主である『碓氷教授』が、僕を待っている。
来月には、アパートを出るように言われている。あの男が大学の近くに持つマンションへ、 荷をまとめてくるようにと。
 それを拒めば、僕はゼミどころか、大学を去らなくてはならない。
従えば、綱渡りの途中を、何度も快楽で突き落とされそうになる生活が僕を待っている。
 せめて、その日が来るまでは。僕は出来る限りあの男との接触を避けようと努力を続け、 これまで何度かは逃げおおせている。
 駅へ通じる裏道を、足早に北へ向かった。
その途中で。
南から、聞きなれた、聞きたくないエンジン音が追いかけてきた。
脇道へ、逃げこむ。もう、嫌だ。会いたくない。触れられたくない。だのに。
 無常にも赤いBMWは狭い路上に僕を追い詰め。
窓が、開く。手が、差し伸べられる。
「乗りなさい」
 震えを押し殺して、僕は視線を向ける。この眼差しが刃物なら、何度この男を殺せただろ うと考えながら。
 戻り道などないように、車のエンジンが一度吹かされる。
それは、あの日聞いた遠雷にどこか似ていた。



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