残像


1


 タクシーで戻って来た時には、もう昼になっていた。
正月早々、身体の痛みを堪えてタクシーを降り、思ったより安く上がったことに感謝しつ つ、エントランスをカードで開ける。
セキュリティ万全のこのマンションの住人は、大半は海外旅行だろうか。それとも、寒い 間は何処かの温泉で、ゆっくりと過ごすんだろうか。
どうでも良いことを考えてしまうのは、元旦の午前の圧力から解放されたばかりだと言う のに、午後も別の視線に晒されることが分かりきっているからだ。
年が改まっても、溜息しか出てこないというのはどうしたものだろう。
打開するべく、頑張ってきたのだが……その代わり、これからが正直きつい。
などと唸っていたら、エレベータに乗りこむときに僅かな出っ張りにつま先が引っかかっ てしまった。途端に言いたくない一点から疼痛が走り抜ける。
頑張られた、というか頑張られすぎた。辛い。
もぞもぞとしないように、平静を装うので精一杯だった。セキュリティが万全ということ は、逆にどこで見られているか分からない、という欠点もある。
カメラのある位置は知っているつもりだが、油断が出来ない。
何だって正月からこんな目に、と言いたいが、何のかの言いつつ、実際に選んでいるのは 僕だ。NOと言う方法だって、なくはなかった。
ただ面倒で、楽な手段に頼った。狂っていると言わば言え。分かってて、やったんだ。
自棄と言うほどではないが、自分を笑いたい気分で、部屋の前に立った。プレートに書い てあるのは、この部屋の持ち主、碓氷博光教授の名前。
ここは、僕の家ではない。加納寧に、帰る家はない。
欲しいのは別に温かい家庭でもないし、そんなものを夢見る子供でもない。
医者になるために僕が犠牲にしたものは、微々たる物だろう。悲劇のヒロインを気取るに は、手にした待遇は恵まれていすぎる。
僕に莫大な学資を出してくれた男と、僕を手元で学ばせ、それなりに導いてくれる男。
むしろ贅沢と言うものだろう。
午前中は、僕は前者のものだった。
午後は―――。
ドアを開けると、人の気配は薄かった。もう起き出したようだが、空気に余り熱がない。
それならと一旦自室に向かい、コートを脱ぐ。手袋も外し、ベッドの上に目立たないよう に出しておいた服を手に取ると、僕は浴室に向かった。
一旦着替えを脱衣所の籠に置いてから、入念に手を洗う。
カタン、とリビングで音がした。結構このマンションは広くて、接触しないで済ませたい と思えばどうにかなる。
嗽もして、手を真新しいタオルで拭った。
一度、挨拶はしないとならないか。正月だから。
相手の不機嫌を覚悟で、出来るだけ通常を装って僕は廊下を歩いた。
「……寧、戻ったのか」
ドアノブに手をかけた瞬間、教授の声がする。
「はい、たった今」
 溜息にも似た音がして、僕は開けたものかどうか躊躇った。
「どうした、入りなさい」
僕の逡巡をどうやって察するのだろう、教授の声はすぐさま発せられる。
「はい」
 静かにドアを開け閉めして、僕はそれから声の主に視線を向けた。
リビングのソファーに腰掛けて、元旦の多少派手な紙面をめくっていた教授が、それを畳 みながら立ちあがる。
「寒かったかね」
「思ったほどでも」
 真新しいシャツにスラックス、ベスト。ネクタイこそ締めていないが、教授の服装は実 験が続くとき以外は全てきっちりとプレスされたものだ。
「そうか、……珈琲は」
「僕が淹れますよ」
急に自分から、饐えた匂いが漂っているような気がした。
何ともないような会話をして、僕は教授に笑いかけている。
一方に散々に弄られた身体で、他方に珈琲をって?我ながらよく反吐が出ないものだ。
それでも、演技は出来る。取り繕うのには慣れているから、大丈夫だ。
不意に、教授の手が上がった。
反射的に身を引きかかっていた僕の頬に、その手は当てられた。ぶったり殴ったりするの ではない、何気ない触れ方だ。
この手にぶたれたり、殴られたりしたことがある。だから、怖いんだろうか。
触れられた部分が、焼けた棒のようなものを押し当てられたように熱く感じる。
「……冷えているな。風呂にでも入ってきなさい」
僕以上に感情を隠すのに慣れているのか、どうでもよいのか分からない声を聞いた。
頬の熱が引く。そこから冷気が体内に染みこむ気がして、部屋の中なのに寒く感じた。
「沸かしてある。正月に朝湯なんて、贅沢な話しだが」
「……有難うございます」
礼を言ううちに苦しくなって、僕は早足に浴室に向かった。ひりつく部分が訴えかけてく るが、堪えて脱衣所で服を脱ぐ。
風呂が仕度してある、ということは、教授は僕がどうなって帰ってくるか予測していたと いうことなのだろう。
僕がどんな位置にいるのか、どんな破廉恥な真似をして授業料を得ていたのか、今更知ら ない相手でもないが。教授だって押し倒してもくるのだし。
……じゃなくて。シャワーノズルを捻りながら、僕は鏡に映る自分の顔を点検した。
隈は出てない。目一杯消耗したという顔もしてない。澄ましたものだ、とシャワーを鏡に 向けた。虚像が崩れて少しほっとする。
普段は余り使わない腰かけに座り、少しだけ腰を後ろにずらす。湯を人肌程度に温くした シャワーを当てて、少し力んでみた。
滑りが身体から出て行く感覚は気持ち悪い。でもまだ凄いことにならずに済んだようだ。
男同士で触れ合って、結局はこうなる。受けとめたり受け入れたりすることは出来ないの に、一時の縺れ合いの後に無意味な熱を注がれる。
こんな目に遭ってる馬鹿は、後始末までしなきゃならないような大馬鹿は、僕一人だ。
罵りながら、下腹部に力を入れる。
「……ぅっ……」
今の僕が解剖されたら、どんな様を晒すんだろうな。
全く、笑える話だよ。検体の提供なんか申し出ることも出来ない。
「くっふ……ぅ」
もう、流れ出ただろうか。そこを指で探る。大丈夫そうだ。
手を外して、立ち上がろうとして急に虚しくなった。
何度も繰り返していることだから、こんな風になるのは知っている。
男であって男でないような状態に置かれ、割り切って平気なつもりでいても、たまには揺 り戻しのように悔しさだの、哀しさだのが押し上げてくる。
手で、膝を強く掴んだ。息を止める。
目を瞑り、姿勢を低くしてからゆっくりと息を吐く。
静かに、鼻で息を吸う。1秒止めて、口から吐き出す。
こうなった時は何度か繰り返すうちに、落ちついてくる。
目は閉じたまま。外界は見ない。音も聞かない。
僕以外の全てがなくなって、一つの問いが残る。
あの時、路上に放り出されて、決めたことは何だった?
何も出来なくてどうにもならなくて、利用価値もなくなって捨てられた。
それを、おしまいにする。
もう一度、膝に置いた手に力をこめる。
例え西風が生きていようと、僕の決意には関係ない。
身体から力を抜いて、目を開けた時。
教授の顔が、すぐ傍に来ていた。


ここは、風呂場だ。
僕は、生まれたままの姿で。教授は、ベストこそ脱いでいたけど服着たままで。
……何で、一緒にいるんだろう。
「……ぅ」
「ぅ?」
「うわぁぁっっ!」
 仰天した僕の大声に、教授が無言で顔を顰める。
心臓が小刻みに鼓動を刻む。血流が勢い良く身体を駆け巡る音が聞こえる気がする。
片膝つきそうになって、僕の顔を覗きこんでいた教授は、案ずるように肩に手を置いてき て、そのまま顔を近寄せてきた……。
「大丈夫か?余り長いから、湯中りを起こしたのかと思ってきてみれば」
「だ、大丈夫で……す……」
そんなに時間経っていたんだろうか。焦ったのでなかなか鼓動が収まらない。
頬が熱い。いや、耳だって多分真っ赤だろう。
そんな僕を、教授は肩に置いた手で引き寄せようとする。
「あ、あのっ。濡れますっっ」
「乾いてるが」
 言われて身体を見下ろすと、足元はともかく上半身は確かに熱を風呂場の空気に奪われ て冷たくなっていた。確かに、これじゃ濡れはしないけれど……。
僕を胸板に引き寄せた教授の手の方が暖かくて、何時の間にか服を着ていたときより冷え ていた自分に苦笑する。
まったく、僕は一体幾つの子供だ。今更、今更あんなことで落ちこんで。
「……湯に入りなさい。風邪を引いてしまうぞ」
 そう言って、教授は僕を抱き寄せたまま立ちあがった。
構わず湯船の蓋を開けようとするので、僕は慌てて手で押さえる。
「寧?」
「あ、濡れますっっ」
湯は結構一杯入っているようだった。僕が浸かれば、飛沫が教授にかかるからと押さえた のだが、寒さで強張った腕は突っ張って少々ぎこちない。
教授は何だ、と呆れた様に呟いた。
「それなら一緒に入れば済むことだろう」
「え?」
ぽかんとした僕の身体を離して教授は脱衣所に向かった。一旦閉められたドアの向こうで 衣擦れの音と灰色のシルエット。
ほどなくタオル一枚を掴んで入って来た教授は、当然のようにシャワーを手にとって湯を 出し、再び浴室を湿った暖かさで満たした。
少し熱く感じる湯が、僕の肌にも当たる。
「……冷えているな」
撫でてくる手が、不愉快ではなかった。案じる眼差しが、湯の流れと共に身体中に絡みつ いてきているのに。
ざっと二人の肌を流してノズルを止めると、教授は再び僕を支えた。
さっきと違って、無意味な手だと言う間も与えてくれない。
「入ろうか」
僕の返事を聞きもしない。
それなりの大きさのユニットバスだが、大の男が二人も浸かれば湯は盛大に外に溢れて、 やがてうっすらと乳白色の靄に満たされた湯船に、僕は教授に後ろから支えられる形で入 った。ちょっとだけ遠慮して出た肩に、教授が湯を掬いとってかけてくる。
「ちゃんと浸かりなさい」
その時、静まりかかっていた水面が揺れた。教授がかけたのより大量の湯が、湯船の外に 流れ落ちる。
「……寧?」
湯に入ったのに、僕の身体は僅かに震えた。それに気づいた教授は、顔を見ようと僕の顎 に手を伸ばしてくる。
身を捩って逃れたので、また湯が溢れた。
「どうしたんだね、本当に具合が悪いのか」
唇が開いたのに、暫く僕は声を出せなかった。
「……大丈夫です。あ、熱かったかな」
我ながら白々しかった。そのせいか、教授は再び腕を伸ばして来て、
「ぁ……っ」
赤面する余裕も今度はなく、僕はしっかりと彼の腕の中に抱き取られた。
抗いを宥めるようにきつくなる腕。
間近に、実験の対象のどんな変化も見逃さない眼光がある。射すくめるような鋭さはしか しすぐに減じて、湯の流れと共に、大きな手が僕の背を撫でてきた。
「別に、恥ずかしがることもないだろうに……風呂くらいで」
僕は、強張りが身体から抜けて、湯の中に溶けてしまったような錯覚に囚われていた。
―――こんな風に。
風呂に誰かと入ったのは、何年ぶりだろう。
暖かかった。さら湯だけど、どこか柔らかくて、空気には僅かに石鹸の香りがする。
尚も僕の背中を往復する手は、今朝肌に与えられた刺激とは遠くて、寒さとそれ以外で固 くなった僕を解すようにゆったりとしている。
見上げようと頭だけ動かすと、顎が教授の肩の上に乗った。鎖骨の固い感触が、多少細め ながらしっかりした骨格だと伝えてくる。
体格は、かなり違っている。
それでも僕は、一瞬だけ、錯覚を起こした。
いや、錯覚でもない。思い出したのだ。記憶の断片、偶然にも意識に浮いてきた脳内の古 い情報がナーバスになりかかっている神経を刺激したに過ぎない。
この人は、僕の父ではない。
碌に喋らなくて、仕事一筋で、男手一つで息子を育てていた父と教授は余りにも遠くて、 今まで僕は比べたことさえなかった。
小田が、あんなこと言ったからだ。養子だなんて言うから。
内心十くらい罵声を浴びせていると、後ろで湯の跳ねる音がして、今度は後頭部が暖かく なった。水滴を残してるだろう指が、何度も何度も僕の髪を梳いて弄る。
急に、子供扱いされたような気がして教授にも腹が立った。
湯を蹴立てても構わないから立ちあがろうとした時、
「正月くらい、笑ってくれないか」
静かで、低いひくい声だった。それが耳に届いた途端、筋肉弛緩剤でも注射されたのかと 思うほど急激に、身体から全ての力が抜けた。
教授……?
「折角、二人で迎えた正月なのだから……」
午前の数時間のことを、教授は計算していないように言った。
「たまの休みにお前の笑顔を見たいと思うのは、私の我侭かね?」
あっという間に、視界がさっきの鏡面のように歪んだ。


  ―――たまの休みに、お前は本当に愛想がないなあ。
  帰ってきたろう、せめて笑うとかしたらどうだ―――


こんな声、父さんは出さなかった。
低い声だったけど、教授とは違う。絶対に違う。
ちょっと言葉が被った程度で、どうしてこんなに否定しないとならないんだ。
「……寧?」
本当に、何て正月だよ。
ばしゃり、と僕は湯船に顔を伏せた。
一体どうして、教授のすぐ目の前で泣き出したりするんだよ。
正月早々所長に弄ばれたのだって、僕がやったことだろう?
何年何回こんな真似をしてると思ってるんだ。
今更綺麗な身体じゃないって泣いてるみたいで、みっともない。
自分に言い聞かせる時間は短くて済んだ。
顔をざばりと上げる。驚き呆れたような教授に、多分注文通りには行かないが笑みを浮か べて見せる。
所長に今朝見せてやったような、きっと娼婦のような笑みを。
「済みません。調子、本当に悪いみたいで。すぐ上がりますから」
語尾が震えた。居たたまれなさはどうしても拭えなくなって湯船から重たい身体を持ち上 げる。
教授は黙って僕を見上げている。
その眼差しは不審でも怒りでも哀しみとも見えなくて、立ちあがった僕は動きを止めてし まった。
哀れみでもない。それだったら憤って張り飛ばすことさえ出来ただろう。
分析する時間は、また貰えなかった。
少し身を起こした教授の手が、伸びてきて僕の腰を抱きかかえる。
息を呑んで退く間もなく、腹部に、ぴったりと頬が押し当てられた。
「……ひ……」
そのまま、動かない。
何か言いたいのかと待ったが教授は何も言ってくれなくて、僕は困り果てた。
また湯冷めしてしまいそうだ。手を伸ばして、湿気で少し乱れた相手の髪に触れる。
そしてゆっくりと撫でてみた。
何だか、これじゃ僕が慰めてるみたいだ……。
尻の辺りを、ぎゅっ、と握られる。でも嫌らしさは感じられない。
今日は、僕はどこかおかしくなっているようだ。
「博光さん、出ましょう」
もう一度だけ頭を撫でると、相手はゆっくりと立ちあがってきた。
触れ合う面積が自然に増え、それよりも穏やかに互いの腕が身体に回される。
キスもしなかった。下を擦りあわせるような事もなかった。
それでも僕たちは、暫し黙ったままで抱き合っていた。


 少しふやけた指で、僕は餅を抓んだ。
「博光さんは、餅焼きます?」
御節なんて無理だが、雑煮は作ったことがあるのでどうにかなる。
因みに昆布だしと鶏肉と小松菜という、関東風のシンプルなものだ。
「……どちらでも。お前が焼くなら、それで」
湯に中ったのは、教授のほうじゃないだろうか。声は少し脱力していた。
「じゃ、炙る程度にしますね。幾つ召しあがります?」
熱しておいた網に、僕は取りあえず4つほど載せながら尋ねた。
ちらと見ると、教授はソファーにバスローブ姿で座っている。手にしたグラスの水はあま り減っていない。ちょっと襟元に乱れがあるのが、教授らしくない。
僕も、バスローブで鍋に向かっているから人のことは言えないか。
「……任せる」
これまた珍しいことに、教授の返事は曖昧だった。
「はい……また焼けますから、取りあえず2つにしておきますね」
餅を焦がすのは好きじゃないので、周囲が膨れてきた程度で焼き網から下ろし、碗に移し た。熱い汁を注ぐ。煮こむのは僕は好きじゃない。
二つずつ。何だかつましい正月だ。
冷蔵庫には、お歳暮だのなんだのと製薬会社―――主に七瀬側の会社が多い―――から送 りつけられたハムや魚介類が山ほどあるから、食べたければ出せばよいだけのことだが。
受け取ってはいけないんだろうが、間違って僕が開けてしまったことにすれば誤魔化しき きそうだ、ということで幾つか冷蔵庫に取り分けてある。
熱い所を盆に載せてテーブルに運ぶと、教授はきっちりと襟を正して座りなおした。
二人して、箸を持ち、手を合わせる。
「いただきます」
膨れて、少し汁が染みた程度の餅は、自分で作った割においしかった。
もごもごと噛んでいると、ふっ、と教授の目が和む。
昼下がりのリビングに余りにも似合っていて、僕は暫し餅を咥えて教授をまじまじと眺め てしまった。
僕の視線に気づいても、教授はもうどうしたのかと聞いてこない。
それどころか、微笑を浮かべて一旦碗を置く。
「あの……お口に合いませんでしたか?」
聞くことがなかったのでそう尋ねると、笑みは深くなる。
「とんでもない」
そして微妙な間が開くか開かないかのうちに続けてきた。
「お前と正月を祝えて、幸先の良い年になりそうだ」
控えめな、しかし揺るぎない自信を持った声だったので、僕は否定できなかった。
胸に湧きかかった冷笑さえ昼間の月のように霞ませる、そんな声を誰が笑える?
現実に周囲で起きつつあることを知ったら、彼はとてもそう言えなかっただろう。
僕に笑顔など向けられなかったのではないか。
 しかしその時、僕はそれを予期することさえ叶わなかったし、何と返事をするかで頭の中 は抜き打ちテストよりも難しい状態に置かれていた。
礼も言えずもごもごと餅を食べているみっともない僕を、それでも博光さんはとても嬉し そうに眺めていたのだった。


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