残像


3


 その電話は、レポートを二つ提出し終えて、後は公衆衛生学の試験だけ、という時にか かってきた。
携帯ではない電話には、僕は極力気を使う。ここは教授のマンションだから教授が出るの が当たり前だが、年明けから増えた雑用には、電話番も含まれてしまったのだろうか。
教授が居るのに30秒ほどは、軽薄な機械音が鳴り止まない。

各部屋で電話を取ることが出来るようになっているから、今まさに、必死で教科書を丸暗 記している僕の部屋でもひっきりなしに呼び出し音が響いている。
共に暮らす以上、僕が教授の全てを無視しきることは難しい。教授は教授、僕は僕と切り 分けて生活するのは日毎に曖昧になり、未だ必死に保っていても、境界はカーテンのよう に曲線を描いて揺れ動く。
油断していると、僕は教授の側へ踏みこんでしまっている。
ドライでなければならない。割りきってやれると思っていた。
なのに徐々に徐々に距離は狭まり、今では辛うじて白墨で引かれた線めいて歪んだ、何時 風雨に晒されて消えるやら分からない境目があるばかりだ。
踏み消しているのは、僕の失敗ばかりではない。
気がつけば、教授も何時の間にかそのラインの上に立っている。
際どい所で、踏み越えて醜態を晒す真似だけはせず、しかし際から腕を伸ばして、僕を引 き寄せにかかる。
突き放そうとすれば、その手を取られて転げかねない。
教授の側なら、或いは許されたかもしれない。
でも、僕は其方側にだけは行くことがないのだ。貴方の傍にだけは、いられないんだ。
紛い物の恋人のように、時には父親のように、接してくれていても。
教授は所長のように、言葉にはっきり出しては来ない。だから、僕は拒否するタイミング を間違えて、彼の懐に転げ込みかかる。
飽きられたらお終いの、そんな関係だというのに、何をべたつくことがあるんだろう。
ここを出なくては。
僕が特殊な状況に、まるでドラマの主役の如く置かれている以上は。
いや、違う。
非日常的な事情がなかろうと、身寄りがなかろうと、僕は男で、生きていけるだけのもの は稼いで、どうにか暮らして行ける。
身体だって健康そのものだし、所長から学資は出してもらえる。
だから、ここにいる理由はない。全くない。
ああ、煩いなそれにしても。夜の10時を過ぎて電話かけてくるって非常識だと思わないの だろうか。
約束があれば、とっくに教授が取っているはずだ。だから僕は出る必要がない。
……それとも。教授、急に具合でも悪くして……、なわけないか。
とうとう、一語も頭に入らなくなり、僕は暗記を中断した。
仕方なし席を立つ。
教授が出ないわけはすぐに分かった。浴室の方に灯りとシャワーと思しき水音。
そも聞こえてないのなら出るはずもない。
僕が呼びかけても同じだろうと思ったし、しつこいことにまだ鳴っていたので少なくとも 最近流行りのワンギリや悪戯ではなかろうとリビングの電話に向かった。
受話器に手を伸ばし、取る瞬間に遠い水音が止むのを感じる。
「―――はい、もしもし」
碓氷です、と名乗るのは嫌だった。だが、加納と名乗るわけにも行かない。
名乗らない方が良い。
長々と鳴らすから、向こうから用件を言ってくるのかと思いきや、声はいっかな向こうか ら聞こえてこなかった。
「―――もしもし?」
控えめに、もう一度だけ呼びかけてみる。
変な息遣いもないようだし、これはよっぽど偏屈な人間からの間違い電話か?
首を傾げた時、後ろの方から教授の気配が近づいてくるのを感じた。
映画ならちょっとしたサスペンスシーンになるんだろうか。
こんな馬鹿げた考えがちらと浮かぶくらい、僕は電話で気を散らされていた。
「どうしたね、寧」
教授の声は、大きくなくても通りが良い。
名前を呼ばれてはっとした次の瞬間、がちゃり、と音がした。
後はこれまたしつこいほどの、通話切れの音が響き始める。
受話器を黙って示すと、教授は幾分不可解そうな顔になった。
「誰からだね」
「長々鳴ってましたが、名乗る前に切れました」
長々、の部分を強調した。そうでなければ出てなどやるものか、という意味を込めて。
教授はそれに気づいたかどうか、こざっぱりとした顔だ。
風呂を使っていたのならそれも当然か。
それにしても。誰だったのだろう。ゼミの、或いは大学の関係なら、教授が僕を名前で呼 んだのがはっきりと聞こえただろうか。
表で名前が呼ばれることもあるが、ゼミでは絶対に『加納君』『教授』を保っている。
不安は増すが、その時はその時とねじ伏せた。
弱みを握られていると見せるのは恥だ。この前のレストランのような失態は、教授ならば 苦笑で終わりにするのだろう。所長だった場合、僕は張り飛ばされていたはずだ。
堂々としていろ、男があからさまに風に流されるような態度を見せるのは水商売でもなけ れば負け犬の印だ、そう言われてきた。
別に僕は、気弱な振りをしたこともない。気弱な性格でもない。
でなければ、男二人の板挟みなんて状況を継続して行けるものか。
教授は、それも気にならないのか別のことを言ってきた。
「今日は寒い。お前も、風呂を使って休みなさい」
それどころじゃないんだけど、などと教授には言えない。
公衆衛生学は、非常に教師の辻川が退屈で、自習はしたがどの辺りが出そうかさっぱり分 からない。
院生たちでさえ、泣かされたことがある試験の一つだ。
「はい、暫くしたら休みます」
従順に頷いて脇を通りぬけようとして、身体の動きがとめられた。
教授が、見もせず僕の腕をつかんだのだ。
「あの……」
「今入って、もう休むんだ。でないと、このまま寝室へ直行するが」
良いかね?と尋ねてくる相手に、溜息しか出てこない。
どっちにせよ、今日はもう勉強にならないようだ。
普段の数倍努力してどうにか面目を保ちたいのに、邪魔をしてくるのは当の男達だ。
そんなに楽しいのか、僕を弄って。
不承不承頷いた僕を見て、教授は機嫌が良さそうに笑う。
手が緩んで腕が自由になる、と思った瞬間に掴まれていた部分をひと撫で。
びくっとなった僕を見てまた笑って、教授はソファーに腰を降ろす。
「早く浴びてきなさい」
「はい」
電話なんか、大嫌いだ。
先ほどの、気配さえ告げる間もなく消えた相手を、僕は内心罵った。
罵詈雑言を三つほど思いついた時、ふと電話自体に記憶が戻る。
そういえば、父親や西風の傍に暮らしていた時は、今はもう少ないだろう黒電話は滅多に 鳴らなかった。
どちらも、精力的に誰かにかけたりしなかったし、電話で話すこと自体苦手らしくて、良 く最初の一回を間違ってはすぐに切ってしまったりしたものだ。
今の相手が間違いか教授相手だったのかは不明だが、ひょっとすると電話が苦手な人間だ ったのかもしれない。
その頃とは軽さも機能も違っているコードレスの受話器を、僕はあの頃の重さを思い出し ながらそっと降ろした。
次は鳴らなかったから、間違いなのだろうと思いながら。


  溜息と共に受話器は下ろされる。
  色も長さもまばらな髪の毛の青年に、中学の詰襟を着た少年が声をかける。
  『どうしたの』
  青年はゆっくり振り向いて、苦さを妙にのほほんとした笑みに隠す。
  『電話ぁ……って、苦手でさぁ』
  『また、最初で切っちゃったの?』
  馬鹿な少年は騙されて、鞄をその場において相手の傍に寄ってゆく。
  何も本当のことなど話してもらっていないのに、一人で幸せになって……


 たじろいだ気配に、僕は現実に引きずり戻された。
闇の中。時刻も、息をするものも沈黙のただなか、夢だけが昼下がりの名残を引きずる。
覚醒の直前まで身体が覚えていたのは、身を寄せると頭を撫でてくれた手の感触。
実際に与えられたのは、右の脇腹を突き放してきた左手。
一気に。
午後の穏やかさから真夜中の冷たい空気に僕は引きずり出された。
掛け布団の隙間から、冷気が染み入ってくる。
過去の暖かさにまどろんでいた僕を現実の厳しい空気が叩く。
驚いた教授の顔は、酷く歪んで見えた。
時折は優しい言葉を与えながら、仮初のまどろみに縋りついた教え子を、異質なもののよ うに男は見ていた。
(『……なぁんだ。』)
脳裏で、西風の声がした。
(『その程度の相手なんじゃぁないか』)
母音の一つだけを伸ばし気味にした、奇妙に懐っこい声。
放り捨てられた今になっても、僕を揺らしつづけることが出来る存在が何処かに生きてい ると聞かされてから、疑いつつも僕は西風の影を探してしまう。
記憶の欠片から拾い上げた顔が、声が時折鮮明に僕の五感を刺激する。
痩せぎすで、頭がとびきり良くて、いつも無意味なほど自信にあふれていた男。
(『やめちゃえ、やめちゃえ、そんなの』)
ひらひらと僕の心の中で手を振っている。
緩慢な体温の低下は嫌で、僕は何も言われないうちに自分でベッドを滑り出た。
『西風』に言われたからではない。
僕を傍に置くのは、教授が寂しかったからだ。
何時かは、突き放される切っ掛けがあると思っていた。
それが今だっただけだ。
記憶だけの存在の、言いなりにはならない。
僕は僕だ。夢を掴むにせよ、墜落して終わるにせよ、それは僕が決定したい。
吉良たちのように振りまわされてたまるものか。
男が弾かれたように上体を起こす。
あなたにだって、支配されるものか。
そんな思いと、冷えに強張った顔を上げる。
「……やす……」
「おやすみなさい」
しのごの言われたくなかったので、僕は言いきって振り向き、寝室のドアを開けた。
「寧っ」
教授の言葉を断ちきったのは、思ったよりは静かなドアの音。
自室に入り、一応ついてはいたものの使わなかった鍵をかける。
時計を見たら、2時だった。朝は4時には起きるつもりでいたから、ちょっと教科書を読 んでさえいればあっという間に過ぎるだろう。
勉強は朝したほうが効率もいいに決まっているし。
本当は今すぐ出て行くべきだろうけれど、それはそれで波風が強そうな気がした。
前のアパートに戻るとなると大家も煩いだろうし、新規に安い場所を探したい。
けれどこの時期から空き部屋は何処も割高になってしまう。引っ越すなら初夏が良いと知 っていても急ぐ以上は仕方ない。
次の週末までに決めてしまおう。ここに厄介になって以来、貯金もしてある。
使い果たすのは痛いけれど、結局は双方のためになることだ。
僕の立場など説明できないのだから。
掌に、爪が食いこむ感触がして僕は身体から力を抜こうと努めた。
動揺することじゃないだろう、自分にそう言い聞かせる。
予定されていたことだ。
開が近くにいる以上、僕の周囲には吉良の目も手も及ぶ。
万が一の事態に大学の連中を巻き添えにする、それだけは避けたかった。
教授は縁戚である七瀬に守られているのかもしれないが、それだって何時までなのか分か らない。
膝を屈する相手に七瀬悠架は寛容であるのかもしれないが、全幅の信頼を置けるのかどう か、所長の口から油断ならぬ男と聞いている僕は確信を持てずにいた。
僕など、切り離した方が良い。僕も、そうされた方が安心出来る。
傷が小さいうちにさっさと処置をしておいた方が、治りは早い。
大学を去ることにならないよう、所長に頼まなければならないだろうか。
あの男だって、自分に不利益と見たら僕を切り離しにかかる。どうやって説得すれば、医 者の勉強を続けられるのだろうか。
諦めたくはない。絶対に、医者だけは諦めたくない。
(『やめちゃえっての』)
横に首を振る。
(『寧は向いてないって』)
もう一度首を振る。
(『抱きしめて欲しかったんだろ?』)
「……違う」
小さいけど声に出してしまった。このままじゃ妄想だ。
(『突き飛ばされて動転してるんじゃぁ、お終いだよ』)
教授に、縋ったんじゃない。誰かにしがみつきたいんじゃない。
ただ、思い出しただけなんだ。それもいけないって言うのか。
五年を経て僕は未だに、あの時の場所で足踏みしていると西風は笑うのか。
唇を噛む。深呼吸して、預けていた背をドアから離そうとしたとき、鋭いノックが僕を揺 らした。
「……寧」
答える気のない僕に、一度ノブを確認して教授はまたノックを繰り返した。
まだ答えずにいると執拗に声がかかる。さっきの電話のように。
「開けなさい、寧」
この声を、僕は決して嫌いではない。
教授は、学生を呼ぶのにもはっきりと相手が自分と分かるように、しかし柔らか味を含ん だ発音をされる。
教授に呼ばれて、振り帰らない人間はいない。
命ずる言葉としては、余りに優しい響き。抗うための杭を抜き去る音。
晩の電話のようなけたたましさとしつこさがなければ、敵わない。
「……もう、休みますから」
そう言うのが、僕には精一杯だった。
余裕をもって行動したくても、僕は周囲ほどに己に余裕がない。
金銭的に、精神的に。学業でも、目的でも、……想う人でも。
最優先とすべきが誰なのか分からなくなりそうなほどに、僕は今大勢に囲まれている。
その何れかには、余裕のある人々。僕にないものを持ち合わせた連中を。
羨む余裕すら与えられずに。
だから。
「聞くことがある」
僕は、教授の声から急激にその余裕が失せたことに驚いたのだ。
急きこむように扉を声が叩く。僕の鼓膜を弾いて揺すぶる。
「お前が。お前があんな風に……抱きしめる相手は、一体誰だ」
軋んだ音。悲鳴と聞こえたのはドアか、それとも男が堪えた声か。
僕ではなかった。息をするのさえ出来なかった。
一体、寝ぼけた僕の仕草に、教授は何を見たのだろう。
幼い頃の、世界が未だ淡い色彩だった頃の、愚かしい少年の夢にいた僕を。
後に思うと、恥ずかしさを通り越して自分に愛想が尽きそうな気がしたものだ。
それでもやはり、僕には給料日前の銀行口座のように振り出せる余裕はなかった。
「私ではない。お前が本当に愛しいと思う相手は……」
教授のその声が、どんな感情を表しているのか分かっていれば、僕はもう少し違う態度を 取れていただろう。
そんな感情を向けられたことは全くと言って良いほどなくて、だから教授の真意を汲み取 れない僕は、ある意味最悪の方法を取った。
鍵を捻り、ドアをそっと開ける。
殴られでもするのかと思っていた。その方が、ましな状況だったろう。
何時もよりは鋭くない眼光が目の前にあった。
少し濡れているなと思った時、僕は余裕を持つどころか更に混乱した。
泣いた所なんて、見たこともなかった。腕が伸びて、僕を抱き取る時、まるで責めるよう に腕が挟んで、抓られたような心地になる。
これが夫婦なら、きっと危機だろう。不意にそう思った。
仮初の同居の場合、何と呼び換えたら良いのだろうか。
相手が、感情を向けているのが僕ではなく、この場にいない誰かだとは分かるから。
言葉を重ねられなくても、この様子を見れば僕にも想像はつく。
見るまで分からなかった自分の鈍さを何処かで嘲笑したくなるほど。
目許の僅かな滲みだけで十分だ。
信じられないけれど、教授は今、僕の想い出の中の存在に……嫉妬していた。
恵まれて、失ったものは大きくてもまだ余りあるものを持っている男。
他の誰かなら、容易く心を掴んで幸せになれるだろう人が、一学生の行動一つに、夜中わ ざわざ部屋まで追いかけて来たのだ。
「ひ……」
名前を呼ぶ余裕は、今度は教授が下さらなかった。
春から上達した口付けに、思わぬ情報で混乱した脳髄まで侵される。
荒い息遣いと、きつい腕が、夜の静かさごと僕を抱き取って離さない。
「んぅっ……っ」
抗っても、本気になれない。
終わらせるには、僕はこの男を突き飛ばさなければならない。さっきこの男が、僕にした ようにすればいいだけだ。
腕も、背も、折れそうなほど締め付けられているけれども、渾身の力を振り絞れば、でき る。困難なことと言いきれないのに、僕は動けなかった。
今、教授が、僕だけを見ている。
仮初の身体だけの関係でも、先ほど突き離したはずの腕で抱きしめている。

とくとくと血の音が鼓膜にこもり出した時、漸く唇は離れた。
しかし酸素を求めて喘ぐ僕の唇のすぐ端に教授は再び自分の顔を押し当てる。
執着を示すその感触に、最後に徹底的に抗ったのは何時だっただろう?
何時の間に、こうされることに僕は慣れたのだろうか。
所長とは契約のように身体を交わしていただけだった。数時間を共に過ごしても、後から 抱きしめられたりしたことはない。
そんなものを与え合う間柄でない事を、二人とも承知していたからだ。
互いに深く干渉しあわないことは、それはそれで心地よかった。
けれど、教授は僕を当然のように傍らに引き寄せる。
春に触れられた時、こうなるとは思わなかった。
所長のような男が増えただけ、そう割りきろうとしても教授がそれ以上を求めてくる。
肌だけではない。僕が与えられない、感情を。
尊敬はしている。僕が得たい技術を持ち、知識を貪欲に蓄え続け、ヒポクラテスの誓いに 違わず、力量のある学生に自分の持っているものを与えて倦むことがない。
他の教授たちと比べても、間違いなく素晴らしい人だと思う。
だけど、僕にそこを踏み越えるほどの思いはない。
理屈に合わず、人は何かを欲しがる。確たる理由を示せないまま、誰かを想うことだって あると、分からない僕ではない。
それでも、あなたを、あなた一人を愛して生きられる僕じゃない。
大学内では間違いなく屈指の実力者に気に入られて、普通の学生は有頂天になるだろう。
僕にはそれが出来ない。出来ないと告げる自由さえ、僕は持っていない。
全てを打ち明けられる位置に、あなたはいないんだ、博光さん。
「僕は、別に……」
「お前は、前を向いているつもりかもしれないが」
唇は顎を擦るようにして囁いた。
「お前が幸せそうなのは、夢の中だけでのことだ」
また、腕がきつくなる。
返事がすぐには出来なかった。その通りだったからだ。
「この年になってから、世の中が自分の思い通りになどならないと知らされる。お前一人 さえ、……幸せにしてやれない」
「……違いますよ」
それは、思いあがりだ。そう言ってやろうと思っていた。
「博光さんがそう思うのは、あなた自身が幸せではないからだ。僕といたって……」
音がこもって、うまく声にならない。顔が近い所為だ。
「あなたは、幸せになれない。もっと、他の誰か」
いるに決まっている。大勢の中から、僕を欲しがることなんか、ないんだ。
ああ、違う。こんな言葉を与えたいのではなくて。
出て行く、チャンスなんだ。うまくやらないと。
「誰がいると言う、誰がっ」
揺すぶらないで。考えがまとまらない……。
「お前も、私も、失くしたものはある。それを大事に思う気持ちがあるから、お前は医者 になりたいのだろう?」
動きは止まった。そうすると今度はまた、嫌でも正面から見据えられる。
「だが最近のお前は、過去ばかり向いている」
そうじゃない、過去が、僕に絡んで来るんだ。
叫べたらどんなに良かったろう。
「このまま、堕ちるつもりか」
黙ったままで、首を横に振った。
声に出せば、言ってはならないことを全て口にしてしまいそうだった。
それでは、教授をいずれ巻きこんでしまう。
もう、この執着では手遅れかもしれないけれど。
苦い笑いがこみ上げてきた時、別の振動が、僕たちの身体の動きを束の間止めた。
軽やかな、深夜に不似合いな機械音。
一度、二度では止まらず、息を呑んだままの僕たちに応答を求めて何度も鳴り響く。
身体への圧迫感が解け、僕は教授という熱源を失って再び冷気に晒された。
それも、しかしほんの少しのことで。
音は少しずつ減じて、やがてすっかり聞こえなくなる。
壁のランプの赤い明滅はしつこさを示していたから、受話器を動かしたわけではない。
音量だけを調節したのだろう。
戻って来た男の腕は、今度は少しだけ遠慮して、しかし体温を感じられる近さに僕を引き 寄せなおした。
「……休もう」
夜中の不毛な争いよりはそれが良いと思ったので、僕は頷いた。
教授の部屋でだってその音は鳴るだろうけど、音だけなら消してしまえば良い。
大学とか、本当に緊急の電話なら、僕の携帯だって鳴っているはずだ。
こんな非常識な時間に電話をかけてくる知りあいは、どちらにもいない。
教授の部屋に戻り、同じ様に音を消して寝るまで、僕たちは互いの体温に包まっていた。
その朝に、本当の非常事態を迎えるまで。
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