残像


4


 公衆衛生学の試験は、毎年問題が変わるらしい。
付け焼刃な知識ではどうにもならないのだが、辻川の授業を理解できる学生はそうそうい ない。講義が難しすぎて、さっぱり理解できないのだ。
一昔前ならば名授業と言われたのかも知れないが、ハードルが高すぎる、というのが本当 の所だ。と、これは碓氷教授の受け売りだけれども。
ただ、最初の授業で実地経験がないと何を学んでも身につかない、と言っていたのは素直 に頷けたので、僕は数回、板倉とホスピスやケア施設の見学に行っていた。
しかし詰めこむにはきつい。正直、これは初めて最初から諦め半分で受ける試験になりそ うだ。
冬の1時限、大教室にいる皆からは一様に溜息しか出てこない。
試験開始15分前になったので、僕は携帯の電源を落とそうと画面を見た。
と、着信の表示がされていて首を傾げる。
携帯メールのアドレスはあまり多くの人間に教えていないし、ちょっと変わった名前にし ているので最近多いDMのたぐいも入ってこないのだ。
板倉は一つ置いた隣の席だから、かける筈もない。同じく試験期間の誰かか、と取りあえ ず表示ボタンで確かめる。
相手は、瀬里だった。
『早く来て!』という件名は、大袈裟だと僕を苦笑させる。
後にしようかと思ったが、もう一度、ボタンを押して内容を表示させた。


ヤスちゃん
さっちゃん家が変なの
電話して誰も出ないの
携帯も駄目
これから、行ってみる
からすぐに来て!!


時間を見なおすと、教室に移動した辺りである。
試験の関係者がそろそろ入って来ると思いつつ、僕は返信を打った。


公衆衛生学テスト中
終わって行くとしても
昼が精一杯だ
旅行とかじゃないか?
落ちつけよ


まあ、誰も出ないと言うのは確かに変な話かもしれないが。
従業員全て休みと言うのもおかしいし、旅行の類なら、前もって連絡が行くだろう。
昨晩のしつっこい電話の主だって、間違い電話だったら、相手が出ないから変だと騒いで いるだろう。
普通、鳴らして相手が出ないなら、間違いだと思うはずなんだけどな。
そこで自分が正しいと思いこんでしまうのは何故なんだろう。
そんなことを思いつつ送信ボタンを押して、電源を切る。
鞄にしまいこもうと横を向くと、教科書に没頭していた板倉がひょいとこちらを見た。
「余裕?」
「ケータイ」
「あ、俺もっと」
慌てて腰のポケットを探り、スイッチを押すと派手な音がして画面が暗くなった。
板倉の携帯は着メロだの画像だので際立っている。何処にいようと、自分だとわかるよう にしているのだそうだ。誰かが似た音にすると速攻で別のへと変える。
バイトから何から、頻繁にメールは飛び電話はかかってくる。流石に試験期間だから減っ てはいるが、テスト中に鳴り響いたら退室ものだろう。
「加納。自信あり?」
「わけないだろ。知ってる癖に」
持ちこみは、大学推奨の医学用語ハンドブック1冊のみ。正直、用語単語の意味が分かっ ても役には立たない。
教科書1冊丸暗記、で及第点かどうか、という噂の学生泣かせの試験まであと10分。
落とすのだけはどうにか避けたい。
恥さらしでも、全問埋めることだけは守ろうと、僕は悲愴な決意を固めた。
分からないからと何も書かないのでは、情けなさすぎる。
単位を落としたら、教授と所長に何を言われるやら。
学内で僕を仮想敵のように言う連中も出てきた。教授陣の権力を考えれば、その手元にい る僕を悪し様に言うことで、少しでも気晴らしをしたいのだろう。
冗談じゃない。代わってやりたいよ、成績だってそう上位ではないんだから。
必死に努力して、それでも一部のサラブレッドには負ける。元々医者一筋の金持ちと、文 系を理系に無理やりねじかえて、地方公立と私学一つずつどうにか合格、の僕とでは触れ てきた環境も資料も違いがありすぎるのだ。
碓氷ゼミに入るのだって、必死だった。努力とか根性を見せるのはみっともないだけだか ら誰にも言ってないけれど、名簿に名前があった時には板倉と興奮して、珍しく二人で飲 んだりした。
そう言えば、もうすぐ1年だ。あっという間だと思う。
来年度、下に何人入ってくるんだろう。もしそいつらが優秀なら、教授の目はそちらに向 くかもしれない。
やっぱり出る準備をしておいた方が良いのだろうか。
栗橋は、どうするんだろう。僕ではなくその後輩たちに目を向けるのか、嵩にかかって僕 にますます当たるだけなのか。
「……のう、加納」
顔だけ覚えている前の席に座った奴に、不意に呼ばれた。
「何」
「この前の情報学、3問目の答えなんだった」
「2番」
答えると、そいつはぐえ、と叫んで上を仰ぐ。
情報学と言うのは大雑把な呼び方だが、医学統計とかをコンピュータを使って学ぶ、ちょ っと面白い講座だ。
テストは選択式で分かりやすかったが、苦手な連中はグラフの読み方から苦しんだ。
「やっぱ、教授のお気には違うって?お前の後ろから見れば良かったよ」
試験前、あからさまな言葉に周囲の視線が一瞬僕たちに向けられた。
好奇心。敵意。密かな、あるいはあけすけな眼差し。
下顎に、力が入る。
「関係ないだろ」
板倉もむっとしたらしい。相手は相手でそちらを睨み返して言ってきた。
「お前もなー。けっ、いっつもつるんでて、お前らホモかよ」
「んな発想なら公衆も落とすな、お前。じゃ、女同士いたらレズかよ」
低レベルの争いは僕が押さえるほどもなく、試験監督がやってくる。
「はい、持ちこみ許可以外はしまって。君たちは小学生かね、試験前には静かに!」
席を移りたくても、もう時間的にも間に合わない。
嫌な奴が前の席で良かった。後ろだったら、いつカンニングされるやらとか、妙なことば かり考えて集中できなかっただろう。
時計と筆記具とハンドブック、そして配られてきた解答用紙と問題冊子。
冊子と来たか。プリントではないのが分かって、眩暈さえ起こしそうだ。
解答用紙の下には『(裏面に続く)』とある。
しかも、選択式問題は、最初の1問目だけのようだ。
脳細胞に詰めこんだ知識の量で、どこまで2問目以降を解けるだろう。
絶望的な気持ちになった皆の背中を叩く様に、チャイムが鳴り響いた。


 試験が終わってからも、板倉はむっつりしたままだった。
彼女持ちが、妙なことを言われたのには腹が立ったのだろう。そう思って、僕は携帯のス イッチを入れなおし、また絡まれない様に足早にラボに向かう。
今年の辻川は、多分発表まで全員が不安になるだろう。
実地学習に行った僕たちが果たして彼を満足させる結果を書けたのか、自信はない。
行けなかった人間はそれなりの問題を出されていたが、果たしてこの選別に確たる目的が あるのかどうかも分からない。
無事、ボーダーラインを過ぎていることを祈るばかりである。
瀬里に確認のメールを打ちつつ歩いていると、黙って後ろから板倉もやってきた。
横目で見るとこちらも携帯のスイッチを入れて、メールでも確認しているのだろう。
正月のこともあって以来、余り会話らしい会話はしていない。
打ち間違えたので2文字戻してクリアしていると、
「……加納、今度飲もうな」
唐突に言われて、僕は一気に1行戻してしまった。
「え?」
「前に、お前と飲んだだろ、ゼミ決まってさ。お前珍しく暇してて、駅前行った」
「あ、ああ……」
板倉も、覚えていたんだ。そりゃそうだ。入るの大変だったし。
歩調を緩めて、二人とも殆ど画面しか見ていなかったが、それでも板倉の言葉には何だか ほっとした。
嫌な奴と飲みに行きたがるような性格でないことくらいは把握している。
「来週辺りにする?シフトは?」
板倉のバイトに合わせてやるつもりで言うと、意外な答えが返ってきた。
「もう、あそこ止めたんだ。だから、いつでも」
コンビニのバイトは、3年近く続けていたものだった。それを何故、と聞くと。
「そろそろ、本腰入れて勉強したくてさ」
板倉にしては真剣な眼差しを見て、僕も頷いた。
4年になれば、大学でももう半分を過ぎたことになる。これからは臨床にしろ基礎にしろ 生半可な態度では勉強しきれない講座が増えてくるのだ。時間細切れのコンビニ通いでは きつくなってくるだろう。
しかも、彼女持ちになった今は、デートの時間だって欲しいはずだ。
それもあったりして、と僕は内心おかしくなった。
「そうか……」
「加納みたいにカテキョーやれれば、いいんだろうけどな」
携帯を持ったまま、板倉は大きく伸びをした。
「やれれば……って、興味あるのか」
「あるけど。お前のとこの、バイト募集ってあったけど、条件見たら色々厳しそうだし。 俺、要領悪いから駄目そうで止めた」
「紹介しようか?」
躊躇いはない。所長は、実力があるメンバーにはそれなりのものを払うし、板倉の明るさ なら、懐く生徒だっているだろう。
汚いやり口を色々と知っている男だが、スタッフの中でそうしたことに関わっているのは 僕を含めても極々一部だ。
「……ホントに?」
板倉は指を止めて、携帯をポケットに突っ込むと僕の肩を掴んだ。
こういう仕草を見て、さっきみたいなことを言われるのかもとは思う。
「受け持ちの難易度とか人数で、ペイは決まるけど。そこそこ貰えると思う」
後は、合格の成功報酬。これが決定するとボーナスがあるからたまらない。
受け持ち二人の片方しか受験ではなかったが、センターはパスしたと通知を貰って、正直 嬉しかった。
「今はシーズンだから、2月半ばに話してみるよ。一応、採用テストはあるけど、楽勝だ ろ、板倉なら」
奇声をあげて、板倉は片方では足りないのか両肩を掴んで揺すぶった。
「……ったあ!恩に着るよ。俺ほら、小心者だし」
「何処がだ、何処が」
笑って手を外させた時、まだ捕まったままの左手の中で携帯が唸った。
点滅している名前は、『瀬里』となっている。
痺れを切らして直接電話をかけてきたらしい。
「おっ……何これ、……彼女?」
「違うよ」
「でも女の子だろ」
板倉は瀬里と出くわしたことはないから、目を輝かせている。
のっけからのキンキン声を予想しつつ、僕は携帯スイッチをオンにした。
「もしもし」
『ヤスちゃん!?』
確かに、瀬里の声は高かった。でも様子が何時もと違う。
「今試験終わった。で、結局今何処なんだ?」
『さっちゃん家の前。……変よ、ヤスちゃん』
瀬里からは聞いたことのない、不安げな声に、僕は受話音量をあげた。
「店とかには電話したのか?大葉さんの携帯とかは知らないのか」
「さっちゃんのしか知らない。……お店電話したら、旦那さんは今、ショーの準備でいな いらしいの。でも前に、さっちゃん今日あたりパパと話す予定があるって言ってたから、 松濤にいないの変なのよ」
変でもないだろう、とは思った。父親に会う、となると、もしかすると前に言っていた芝 居が本決まりになったのかもしれない。
出かけるには、もと女優はめかしこむのではとも思えるし、美容室程度は予約していると も思える。
「瀬里、祥代さんの美容室とかは知ってるか?そういう場所に電話かけたら、出てくるか も知れない」
「でも、朝の7時にかけたのよ、最初の電話」
膨れる声に不安ばかりか不満も混じるのが分かって、これはともあれ来い、ということだ とは理解した。
「分かった。とにかく一度行くから、……渋谷の駅前まで戻れるか?」
「多分……大丈夫」
「じゃ、べただけどハチ公前で。40分待っててくれ。出来るだけ急ぐから」
「ヤスちゃん、ほんとに来てくれる?」
何をそんなに不安がっているのやら、と思うが、僕は頼りになりそうな声を作る。
とっさの言いくるめなら、家庭教師のバイトで習慣づいている。楽なものだ。
「行くから、そこでべそかく前に駅戻ってるんだぞ」
「……ふーんだ!」
馬鹿にされたと思ったのか、この煽りは効いた。瀬里は何時ものように鼻を鳴らして、電 話を切った。
「加納……慣れてるなあ」
感心した様に板倉が首を振っている。
「別に。それより、教授に伝えて欲しいんだけど」
「あー、待った。一緒に行こうぜ、加納」
そう言って片手を挙げた板倉の目はキラキラしていた。
「祥代さんて、この前の女優さんだろ?俺、あれからお袋に聞いたらキャーキャー言われ てさ。すんごい人だったんだって?」
まあ、と頷くとぐいっと顔が寄ってきた。
「それに、その瀬里って子、見たいなあ」
「だから彼女じゃないって」
「でも、すっっごく頼ってるぅ、みたいな声してたじゃん」
ほら、行こうぜ、と板倉はさっきとは打って変わった上機嫌で僕の背を押す。
「丁度昼時だし。渋谷ならなんか食えるだろ。そしたら行けばさ、女優さん戻ってきてた らそれでオッケー」
その通りなんだが何で昼飯、……と、はたと気がついた。
「板倉、お前……」
「まあまあまあ、教授には後で俺も一緒に謝るしぃ、な?な?」
要するにこいつは昼飯が食いたいだけなのだ。
出来れば、僕の奢りで。
「やー、ちゃんと春してるんだ、加納も。今度ダブルデートあたりどうだろ?テーマパー クとかは瀬里ちゃんって好き?こうさー、二人っきりもいいけど大勢で盛りあがるのも」
「人の話を聞いてるか、板倉?」
「そっちこそ話を逸らすなよ。で、加納はどこなら行きたい?寒いけどディズニーシーな んかどーだろ?」
試験が終わった開放感から来るのか、高額バイトがもしかすると決まるので嬉しいのか、 壊れ気味としか思えない板倉に押されるようにして、僕は駅へと向かった。


 瀬里を見て、板倉は口をぽかんと開けた。
こういうと世の中の女性に袋叩きにあいそうだが、見てくれだけは確かに悪くない。
性格の方は外見に合っているのか逆なのか、自己本位で気紛れだと思う。
不思議なことに、それでも猫を被る術だけは身についているらしく、やってくる顔には少 し頼りなげな笑みを浮かべて気が優しそうに見えなくもない。
「……板倉」
仕方なく、僕は肘で板倉の脇腹を小突いた。
「あ、どーも初めまして。俺っ」
小首を傾げただけで、どうして頬を染めるんだ。彼女もちだろう、お前。
そして瀬里は、どこでどうやって聞いたものか。
「板倉君でしょ?いつも、ヤスちゃんがお世話になってます」
世の中の大半―――どうせ僕は例外だ―――が可愛い女の子と誤認しそうな声を出して、 ぺこりと頭を下げた。
「あ、いや、俺こそすんげー世話に……って、こら加納!」
腕をぐいっと引っ張られた。なんだよ、と視線だけで尋ねると。
「お前、こんな可愛い子待たせてたのかよ」
「……さっきまで試験だったろ。で、あれから連絡とかは、瀬里」
どことない不安の翳りは嘘ではないらしく、瀬里は眉を潜めて首を横に振った。
パールピンクの携帯を胸の前で握り締め、ビスケットみたいな色のピーコートを着て、脚 は格子模様のタイツにブーツ。
こんな寒い日に膝上のスカートは風邪をひかないだろうか。
「とにかく、どこか入ろうか。一度話しを整理して、対策はそれからにしよう」
人の多さは何処に行ったところで緩和されもしないが、延々歩いてどうにか、松濤もそう 遠くはないカフェテリアに座ることが出来た。
ベーグルだのマフィンだのといった、腹に溜まりそうなものを板倉が見繕っている。瀬里 と僕の分を合わせても、板倉が取った量には及ばない。
支払いは、やっぱり僕だった。
まあ洒落たレストランで昼飯にならなかっただけ、ましだけれど。
「一昨日、パパといたらね、さっちゃんから電話が来たのよ」
カフェオレを啜りつつ、瀬里は話しを始めた。
「パパはね、何だか面白くない風だったけど、さっちゃんは今日来るみたいなこと言って たわけ。あ、お芝居するのかな、って、あたし思ったの」
どうやら、芝居の話は本格化している様だ。
所長の養子たちは、大なり小なり、『父親』の機嫌を損ねることを怖れる。
経緯までは知らないが、大葉氏との結婚の折、祥代さんが引退したのは彼女自身の意志で はなく、父親たる所長の命令によるものであったらしい。
舞台だけとはいえ、未だ引退を惜しむ声があるし、未だあの演技力を持つ女優としては、 どうにか説き伏せて今一度脚光を浴びたい筈だ。
僕の覚えている限りだがスキャンダルらしきスキャンダルもなかった。舞台の間は舞台に しか感心を持たないし、短すぎると評される活動期間に、ロングランも含めてたった三作 を演じただけ。
僕が見に行ったのは、そのうち最後の作品の、最後の公演だけだった。
きっと、教授の奥さんも見に来ていたはずのその一回だけ、舞台の彼女を見た。
「で、そのあと、あたしに代わってって言われて、何だろうって、思ったの。そしたら、 ヤスちゃんのお友達について聞きたいって言われたの」
「―――僕の?」
板倉と顔を見合わせた。祥代さんが知っているのは、板倉と栗橋だけだ。
「名前、具体的に言ってた?瀬里ちゃん」
問いかけた板倉に、瀬里は首を横に振った。
「さあ。あたしも出かけるとこあったから、その時名前聞き損ねちゃった」
そこで今日寄るとは言っておいて、来たというわけだ。
アポイントというほどではないが行くと伝えたのにいないのはおかしい。
ともかく、もう一度行ってみたい、と主張されては仕方なく。
誰もいないにしても、もう一度、瀬里の気持ちを満足させればそこで放免されそうだと思 ったので、僕たちは3人揃って松濤の大葉邸へ向かうことにした。
そこに何があるか分かっていれば、食事などしなかっただろう。


延々と歩いて辿りつき、大葉邸のインターフォンを鳴らす。
返答は、なし。
最初に連れて来てもらった時には、大山がリモコンでゲートを開けてくれたが、今回は鉄 の重々しい門扉の外で、誰かが中にいるのかどうかも分からない。
脇に人間用の出入り口はあるが、返答もないからどうせ鍵がかかっているだろう。
瀬里は何度か携帯を鳴らしたが、相変わらず誰も出ない様子だ。
いっそうざったいと思われているのでは、と言おうかと思ったが、後日紛糾しそうで止め ておくことにする。
勝手口があるかも知れないが、わざわざ塀をぐるりと回ってそちらから入るのも変だし、 こうした家には防犯カメラなどもあるだろうから、後で僕たちが間抜けにうろついている のが映るのは嫌だ。
「所長は?」
「夕方まで何とか協会の定例会で、晩まで帰って来ないわ」
「諦めるっつーのは……」
瀬里のしつこさを知らず言いさした板倉は、睨まれて慌てて作り笑いでごまかした。
「で、でも、誰もいないんならどうしょうもないし……」
食事していた間に誰か来てくれれば良かったんだけど、と脇の入り口に凭れかかろうとし て、見事にひっくり返る。
「……っ?!てっ!!」
ガタン、と音がして、人一人が通れるギリギリの大きさのドアが、半開きになった。内側 に開く形式だったのか、板倉は凭れた姿勢のまま仰向けに倒れ、強かに腰を門の下の部分 のでっぱりにぶつけた。
「あー、いてててっ」
「大丈夫か、板倉?」
声をかけながらも、僕は瀬里に問う様に首を向けた。
「ここ、いつも開いているのか?」
「知らないわ」
「さっき、試したか?」
「まっさか。ヤスちゃんなら、試すの?」
腰と、ついでに頭も押さえて起きあがった板倉ともども、僕たちは開いた戸口を不審のお ももちで見つめた。
「どうする、入るか?」
黙って人の持ち家に入ると住居不法侵入と言うことにはなる。
だが、誰も応答しない家のドアが開いていたら、やっぱりまずいのではないだろうか。
最悪の場合、既に誰か侵入しているのかもしれない。
服の埃を払いつつ、板倉が真っ当な提案をする。
「……警察に電話した方がいいのか、こういう場合?」
うっかり閉め忘れ、というのはないように思う。
セキュリティに問題があるなら、警備会社が来てもおかしくはない。
しかし、これでそのまま帰るわけにはいかなくなってしまった。
男二人がどう判断したものかと悩む間に、本能的に女は決めてしまったらしい。
「あたし、入ってみようかな」
そういうと瀬里は、戸口をひょっと潜って、中に入っていってしまった。
「おい?」
「あのー。それちょっとヤバくないかなー?」
と言いつつ、踏ん切りがついたのか板倉も瀬里に続く。
さて、僕はどうしたものか。
警備会社や警察に見咎められて、お叱りを受けると教授に影響が出そうだ。
かと言って通報して大事になるのも面倒だ。
迷う間に、中から声がする。
「ヤスちゃん、何ぐずぐずしてるの?」
「加納、とにかく行ってみようぜ」
何が行ってみようぜ、だ。可愛い子と見るといい顔したいのか?板倉。
溜息をつきつつ、僕も邸内に足を踏み入れた。
入ると周囲をぐるり見て、カメラがないかどうか目視で探す。
少し離れた位置の塀にそれらしきものはあるけれど、僕たちを捉えているかどうか分から ない。
近寄って、その結果大写しにされても嫌なので放っておくことにした。
瀬里は何度かここを訪れているのか、真っ直ぐ夫妻の住居エリアを目指す。
車は何台か停まっているが、人の気配はない。
これは主が二人ともいないからなのか、それとも本当に急遽、皆が出払うような事態が発 生したんだろうか?
住居側の扉は、しっかり閉まっていた。今度は叩いてもブザーを鳴らしても開かない。
祥代さんはここにはいなさそうだ。やはり出かけているのだろう。
「……留守っぽいなあ」
「仕事場、誰かいる?」
今度は瀬里は、踵を返すのではなく、住居側の奥の方、植えこみのある方へゆく。
「そっちに行けるのか?」
「庭があるのよ。何だか、変な石とか置いてあってね。近道」
「あ、俺も庭見た見た」
僕たちはカルガモよろしく、一列に連なって、壁と植えこみの間に向かった。
途中板倉が詰まったので瀬里が引っ張り、僕が押し出す様にしてそこを抜ける。
荒削りの彫刻めいた―――多分彫刻なのだろう―――を横目にゆけば、庭に面してついて いる硝子張りのドアがある。
「あ、多分そっから俺来たんだ、この前」
一応ドアは閉じている様だったが、近寄ってみる。
施錠されているかと思いきや、引くと簡単に開いた。
無用心さに警戒と不安を募らせながら、僕たちはそこから内部を伺った。
ある程度の広さとはいえ、住居側にはやはり人気はない。
僕たちは、特別足音を忍ばせてもいないから、そろそろ誰かいれば物音が耳に入ってもお かしくない。とっくに出てきているだろう。
「そうだ、瀬里。大葉さんの携帯、この家の電話帳には書いてあるんじゃないか?」
家の主の連絡先が、全くないわけがない。
「あ、そっか」
「それで探して、連絡してしまえよ。ついでで、ここ開いてましたって申告すれば、後で 何かあっても大丈夫だろう」
精々、空き巣に入られた程度の騒ぎだろうと僕はまだ思っていた。
「電話帳って……仕事場だよな、やっぱり?」
勝手知ったる、ではないが、板倉は決めてしまうと動くのが早い。
「おっじゃましまーす……」
それでも小さく言って、左右見まわすのは間抜けな泥棒の様で、僕と瀬里は一緒にくすく すと背後で笑った。
「あっ。笑ったろお前ら、今笑ったろ?」
指を付きつけてくる板倉に、
「えー?頼もしいなーって思っただけよ?……ヤスちゃんと違って」
惚けて瀬里は笑顔を作る。
「そこで何で僕を引き合いに出すんだよ」
仕事場の方にも、動く気配はない。灯りも格別付いていないが、歩くうちに、布地や梱包 用の資材の置いてある、無機質な空気に包まれる。
前に、栗橋と大山が取っ組み合っていた部屋の近くまでやってきたが、人影はない。
しかし、妙な匂いがして、僕たちは鼻を蠢かせた。
「……何これ、染料?」
瀬里がハンカチを出して口元に当てる。
僕と板倉は、その問いかけには同意せず、顔を見合わせた。
心当たりのある、嗅ぎ慣れた匂い……というには、それは余りに物騒なものだ。
それにまだまだ、僕たちは経験をつんだ医者でもない。
もしそれが、僕たちが想像してしまった匂いだと言うのなら、そう考えて、背筋をぞくり とかけあがる寒気に、僕は身を震わせた。
板倉も、ほとんど同じ思いだったらしい。
否定よりも、そうあってほしくないと言うように無言で首を横に振る。
瀬里が数度見比べるまで、二人とも言葉を発することが出来なかった。
「ヤスちゃん……?」
「か、加納。いて、やれよ」
声は震え、上擦っていた。でも、そう言えた板倉は良い奴だ。
「おぉぉ俺、み、見てくるっ……」
「待てよ、別にお前だけ……」
「かっ勘、違いなら、すぐ、呼ぶからさ」
匂い、というよりは異臭だろう。
妙に金気臭い。
それは誰でも嗅いだことがある、味さえ知っている馴染み深いものだ。
去年の夏の合宿中にも僕と板倉はその匂いを嫌と言うほど嗅いでいる。
それでも、ここまで強く感じることは、大概の人間は経験しないだろう。
余程のことがなければ、こんなにインパクトのある匂いにならないに違いない。
僕と板倉が、それを口に出さなかったのは、瀬里がいたからと言うのもあった。
これが病院なら、慌てはしない。
僕たちが既に医者であったなら、慌てることは許されない。
「なあに、何よ二人とも」
「あ、待て瀬里……っ」
瀬里を止めるのは、何故か皆、一瞬だけ遅れる。
僕の指は空を掠め、板倉の手はあと少しの位置でコートを捕らえそこなった。
異臭の源となっている部屋に少女は躊躇うことなく飛びこんでゆく。
そして。
本当に異様な状態に置かれた彼女は、暫し、己の眼前に広がる光景を理解せずに立ち尽く していた。
ドアから数歩、その位置で止まった小さな背中が、そのまま記憶の入り口になる。
短いスカーフを髪止めの代わりにして纏めた黒髪が、肩の上で小さく揺れ、息を呑む音が はっきりと聞こえた。
最悪の予感が脳裏に浮かびかかり、見るまでは何も断じてはいけないのだと、三年間培っ た医学生の素地のようなものが懸命に否定する。
それでも後から考えれば、その時は冷静な方だった。
瀬里の膝が揺らぐ。手が、震えながら口元を押さえに上がってゆく。
事態が悪い方向に既に転がっていることを察知したのは、殆ど直感だった。
常人なら見たくもない光景を見るために、僕は前に出て、さっきよりも大きく響いた深呼 吸を聴いた時、腕を伸ばして瀬里を背後から抱きとめていた。
ここで、無意味に叫ばせたら全員パニックに陥る。
そんな風に考えていた。


目の前には、赤黒い水溜りが広がっていた。
異臭の源となっているその水は、濃く、多分数時間前までは持っていた熱を失って、無秩 序にタイルを張ってある床にぶちまけられたようになっていた。
そこから少し離れた場所にある梱包材に、点々と水溜りからの飛沫が散っている。
束になったそれに凭れかかるようにこちらを見ている人一人。
いや、僕たちではなく、迫っていた死を見ていたのだろう。
睨み据える様にして、最後まで毅然とした態度で。
心臓が停止する音さえ、拍手喝采のように聞いていたのだろうか。
朱に染まったローブ姿の大葉祥代の口元は、紅もないのに赤黒い……。


「……ぃゃ……」
「板倉っっ!」
瀬里の口を拳を捻じ込む様に封じて、僕は背後に叫んだ。
「何だよっ……!!」
夏に、僕の怪我を見ていたおかげか、板倉はどうにか叫び返す余裕を持てた。
「救……違う、110番しろ!すぐっ!」
目を張り裂けそうに見開いていた。
凄惨な光景のはずなのに、三人とも目を逸らせなかった。
無言の悲鳴が拳に齧りつき、細い腕が解放を求めて僕の身体中を殴打する。
物理的には何も捉えてないはずの死者の目が、こちらを射すくめる様に見ている。
慌てていてうまく押せないらしい携帯の音を聞きながら、僕は何故か祥代さんに責められ ている気がしてならなかった。


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