残像


5


 僕らはまず落ちついたと見えるまでは一緒にいられた。
板倉が携帯で通報してから、到着までは20分かかったろうか。
高級住宅地であろうと、警察はやってくれば動きは早い。
彼らは、どれほどのものを見ても、眼光から鋭さを失うことはない。
 ドラマにあるような居丈高な様子は見せない。至って普通の事務でも扱うように、淡々 と僕たちから事情を聞き、現場を封鎖し、右に左に動いて、僕たちを何時の間にか祥代さ んだった死体から遠ざけた。
なのに時折、顔に、手に、呼吸にさえ突き刺さりそうな視線が向けられている。
刑事に比べれば、所長などまだ優しいおじさんだろう。
それでも、彼らは僕たちをいきなりの被疑者と言うよりは、通報者としてみてくれている ような扱いだった。
状況説明には程遠いまま通報を終えた僕たちは血溜まりの奥へは行けもしなかったし、そ こから出て行こうとしても、部屋の入り口まで退くので精一杯だった。
 死因は外傷によるものだろうが、それがどの部分にあるのかを見て取ることは勿論無理 だ。慎重に、しかし決然として刑事たちはそこを超えて操作を開始した。
余りにも凄惨な光景は、多少板倉をえずかせ、瀬里は震えの余り、毛布をかけられた。
 僕は、その場で尋ねられたことには答えた。
瀬里の携帯メールで呼び出されたこと、板倉も同道してくれたこと、見て殆どすぐに通報 したこと、など。
殆ど茫然と話しているように見えたのだろう。肩を叩かれたりして、何度か注意を彼らに 向けなおさせられた。
 当然のことだが僕たちはショック状態にあった。殆ど言われるままされるがままの様子 の若者に予断など下す刑事たちではないが、小突き回す必要もない素直な羊をどうこうす るような無駄は、彼らはしなかった。
声をかけて瀬里を立たせたり、板倉の背中を擦ったりしてやっていても、言葉の少なさと 短い命令の遣り取りは、彼らが『白』としない限り、僕たちに許される色はないことを示 している。
どんな説明を受けても、警察はこう考えるのだ。
この三人は、真昼間にどうして他人の住居に侵入し、死体を発見したのか。
被害者との利害関係は、またどの程度の知己なのか?
何故、今日ここにいる必要性があったのか、被害者のこうなる理由に心当たりは?
僕たちが何度同じ答えを返そうと、問う相手は入れ替わり立ち代り同じことを尋ねる。
まだ、二度しか質問を繰り返されていないが、これから嫌と言うほど尋問を受ける。
犯人ではないけれど、乗りきれるだろうか。
 その後別々の車に乗せられ、引き離された。
少なくとも実行犯でないことだけは、すぐに警察にも分かるだろう。
それまでに瀬里や板倉が疲弊しきって、妙な被害者意識を持たねばいいが、と思った。
僕は誰かにあれこれ問い詰められることに、慣れていたからだ。
所長にも、教授にも、そして警察にも。
「君、落ちついたか」
 僕は覆面パトカーの後部座席に座らされ、左には見るからに強面の男がいた。
一応笑みらしき形を顔に作ってはいるが、やはり恐ろしい。
逃げ出す前に腰を抜かしそうだが、気配だけで真顔に戻って腕をねじられておしまいに違 いない。そんな様子を隠そうともしない男だった。
しかし、答えにくい質問をするものだ。
「……刑事さん」
 確か、西田と名乗った。草臥れた背広とシャツが、冬でもうっすらと汗臭さを発してい る。余り夏場は同乗したくないものだ、車でも電車でも。
「板倉と、瀬里は」
 多分一緒の警察署に連れて行かれるだろうと思いつつも、質問してみる。先程よりは意 識は醒めてきて、刑事のネクタイが大分草臥れたものだが、元は結構良い品だと気がつい た。
「前の車で、同じ場所だ」
返事は素っ気無いが、聞く必要もないとか言われなかっただけ、ましだ。
「これからまだ、聞くことがある。友達と一緒に協力してくれ」
 素直に頷き返すと、顎をしゃくって前を見て黙る。
どうやら西田はこれでも友好的な態度を取っているつもりらしい。運転席の男はちらりと 僕を見たが、すぐにハンドルに意識を向けなおした。
 被疑者に対しては、扱いは厳しくない。僕たちが血まみれでもあれば緊急に身柄を確保 して数倍する激しさで問い詰めて来ただろうが、言われたことに従順であれば、最悪暴力 的な拘束は受けずに済む。
僕たちを分けたのは、共謀や勘違いから同じ証言を作り上げる危険を減らすためだ。
 人間は、容易く錯覚する。目で見たものをはっきりと記憶に留めていられる時間はそう 多くはない。一緒にしなくても同じことを答えつづけるならば、その証言は信憑性が高い ということにもなるのだ。
 それにしても、板倉は良い迷惑だろう。
瀬里に興味を示して来たのは板倉自身だが、一度出くわしただけの人間が、次には死体に なって目の前に現れたのだ。
その上、第一発見者は暫くの間は大なり小なり言動を疑われる。
祥代さんの死亡推定時刻を正確に計りようもないが、僕たちが試験を受けていた頃にはも う死体になっていたと思われる。
アリバイの有無、動機、そうしたものを積み重ねて白と出るまで、不愉快な思いをさせて しまう。それは何となし僕を居たたまれない気持ちにさせた。
僕の所為ではない。祥代さんをあんなにしたのが誰なのかも分かっていない。
 だけど。
人が一人殺されるには、それなりの理由がある。
警備システムが仮に壊れていたとして、あの邸宅の中に押し入り、確実に祥代さんを殺す のは手間がかかりすぎる。
大体、壊れていたなら犯人はどうやってそれを知ったのか。
或いは壊したとすれば、何故今日を選べたのか。
今日は人気がないと知っていて押し入れるのは―――
がくん、と体が傾いた。
「何してる、黒川」
運転席の刑事の名前なのだろう、西田が怒鳴る。
「事故です、警部補」
 暫くのろのろと進むうち、ミニバンとバイクがどちらもぼろぼろになって道路の端に寄 せられているのが見えてきた。
ドラマならここで、人情家を気取る刑事が『何て日だ……』とでも嘆息するのだろうが、 それより陰惨な場面を見てきた僕たちは、日常の何ともない一こまを見るようにただ過ぎ ただけだった。
 まだ比較的新しいアスファルトに白々と、タイヤが擦れた後が白くついている。
その近くにヘルメットを抱えたまま項垂れ、腰を落として座りこんでいるメッシュの髪の 男に、救急隊員が何事か話しかけていた。
適当に、と言うよりは汚したように不自然な黄色さに目を引かれたが、車は加速し僕の視 界から哀れな男は消えた。
バイクを大破した男と、今の僕と、どちらがより道を踏み外しているのだろう。
それでも僕は、まだ嘆きからは遠かった。
まざまざと人の死を見せつけられたのに、解剖もやって漸く医学生らしく認識が出来あが りつつあるはずなのに、僕に係わりのあった人間がまた消えたのに。
 僕は5年前と大して変わってはいなかった。
何か対応する術もなく、呆けていればあの時と同じじゃないか。


「名前は」
「加納寧です」
「年齢は」
「二十一歳です」
「職業は」
「大学生、医学部の三年次です」
「医学生ね」
 リラックスしろと言われたが、無理な話だ。
灰色に乾いた取調室は、警察署が大分古い建物であることを示していた。
最近は綺麗に建て替えられている場所も少なくないから、ここだけ取り残されているのだ ろう。
「じゃ、これまでの状況を説明して。ゆっくりでいいから」
 既に刑事達に説明していても、調書を取る際にはこんなものだ。
そう思いながらも僕が不安げな顔を見せると、年配の、西田よりは優しげに見せている刑 事は片手を挙げた。
「いや、事件や事故の時は、何度も説明してもらうことになっている。記憶違いや、見落 としなんかもするからね。これが終わったら、少し休んでもらうから」
「気分悪い場合は、トイレ行くか」
西田が一応言ってくれる。
「……大丈夫です」
 答えたものの、僕は少し頭痛がし始めていた。
この部屋が凄まじいほどに煙草臭いのだ。医学的に言えば吸うものでは絶対にないし、社 会的に言えば他人の嗜好物を否定してもどうなるものではないが。
ただ、喫煙者が刑事とあれば、黙るほかあるまい。
僕は訊かれることにゆっくりと答えていった。
一通り自分の情報を引き出された後、被害者との関係を当然のように聞かれる。
誰に聞かれても同じ答え、バイト先の所長の娘で、僕を可愛がってくれた。
最後に直接会ったのは去年の秋。日にちまで覚えていることを驚かれる。
「随分、記憶力がいいんだね、医学生さんは」
「その日、ゼミの助教授が帰国されるので夕方にはそちらに行ったんです」
「一緒に行ったのは」
 質問を発したのが目の前の刑事ではなく西田だったため、返答がやや遅れた。
その途端に僅か煙草臭い空気が硬直する。
「どうした」
「あ……板倉と、ゼミの教授と先輩です」
 教授。連絡、入れるのだった。
入れてどうにでもなるものでもないが、このままではただ迷惑だ。
今日のこの惨劇を、教授はどう捉えることになるのだろう。
自分の妻を、宝物のように惜しみ、悼んでくれた女性の死は、教授にはただの死であるか どうか、目の前の白色蛍光灯が翳ったような気がした。
情の深い人だ、碓氷教授は。見まいと思っても、共に過ごしていれば分かる。
今回の事件をどう伝えたらよいのだろう。
死体を発見したのは自分の所の学生で、手元に置いた男だ。
あの死に様だけでもマスコミの餌食なのに更に迷惑を、と他人の心配をしている自分を笑 い飛ばしたくなった。
 これから餌食になるのは、僕のほうじゃないか。
住居不法侵入、死体の第一発見者及び通報者、名前が出てなかった頃ならともかく、今や 教授の気に入りとして何かあれば叩かれ放題。
スキャンダルと大学側が見なせば、放逐だってあり得ることかもしれない。
これまで積んできた努力が、卵を積んだより危うい状態になっている。1センチ進むのに も慎重に、呼吸すら潜めてやってきた僕の力など、こんなものだ。
せめて、……残れれば。
こんな状態でも、いや、こんな状態だからこそ、僕は願った。
医者になりたい。何を犠牲にしても、それだけはやり遂げたい。
「結構賑やかだったんだな。それで、先輩と教授の連絡先は」
 僕は、不承不承ながら床においていた鞄を持ち上げ、引っ掻き回すようにして、携帯を 取り出そうとした。
なかなか見つからない……と、鞄ではなく椅子にかけた上着の方が震え始めた。
動転したまま、どこに入れたのか失念していた、と携帯を手に取って、画面を見てそのま ま切りたくなる。
 教授からだ。
全く、どうしてこうも良きにつけ悪しきにつけタイミングが良い人なのだろう。
この混沌の状態で、僕に最悪の状態を告げろといわんばかりだ。
いっそそうして壊しておけば良かった、もっと前に。
徹底的に喧嘩でもして、出て行けばせめて迷惑は最小限で済んだろうに、お互い。
恐らく僕は、その時凄まじい表情をしていたのだと思う。
二人の刑事達は、全く僕を問いただしも、咎めもしなかった。
それまでの短いが精力的な質問が、この時全くなかったのだ。
「……加納です」
 すぐに教授は声を発さなかった。これにはおや、と思った。
知っているわけはない。まだマスコミがこの事件を嗅ぎつけるには早すぎる。
『今、何処にいるんだね。板倉君と一緒か』
 挨拶してからゆくべきだっただろうか?今更なことばかり考えかかるのを止めたくて、 僕はむかむかする空気を吸いこんだ。
「はい、一緒ですが……別室です」
『寧?』
 声に奇妙な引っ掛かりがあった。教授は移動中か。
車を運転中に携帯での電話は道交法違反……とまた思考が逸れたとき、
『実は、七瀬氏の車でな。遅くなりそうだから、良ければ一緒に、と言われている。どう だね?』
何も知らない教授は、またしても決定打を出してきた。
記憶に残る七瀬悠架の冷たい微笑が、今度こそお終いだと痛感させる。
彼は以前、こう言ってのけた。
(『害虫なら、退治するに如くはない。だが、君は別段教授をどうこうしたわけでもなさ そうでね。将来ある青年は好きだよ』)
教授に傷をつけるような真似をすれば、将来どころか、僕ごと踏み潰されるに決まってい る。
あの蝸牛と同じに。
無実でも、無関係ではない。
清廉潔白なだけで生きてはゆけなくても、外だけはせめて洗いたてのようにするのが人間 の取るべき姿だ。
 一点でも染みをつければ、僕は高いクリーニング代を払わされる。
『……寧?どうした』
こんなことで、昨日の晩みたいに突き放されて、終わる。
それは嫌だ。
虚ろな虹彩が僕に、どうしてこんな目に遭うのかと訴えていたように、僕だって知り合い の死というだけで引き摺り下ろされたくはない。
だけど今の瞬間の僕に何が出来るって言うんだ。
『寧……失礼』
 答えたくても答えられない僕の耳の中で、音が摩り替わった。
若々しさを老成のオブラートにくるんだ、権力者の声。
『久しぶりだ。教授と君の話しをしていたよ』
「お……久しぶりです……」
 情けなかったけれど、声が震えた。
『……トラブルかな。具合でも悪く?』
「いえ、具合は」
 そうだ、別に腕がもげたわけでも脚が動かなくなったわけでもない。
知り合いが、亡くなっただけだ。
僕は、まだ何もかもなくしたわけではない。
叩き出されるとしても、ただ終わるのだけはご免こうむる。
『そう』
「教授にお伝え願えますか。大葉祥代さんが、亡くなられました」
がたっ、と席を蹴る音がした。
「おいっ、誰と話しているんだ、部外者に勝手に話すことじゃねぇっ!」
西田がやってくる間に、僕は携帯に向かって言った。
「不審死で、発見者が僕と他に数名いたため、現在警察です。僕のほうこそ何時戻れるか は分かりません」
血相を変えて近寄ってきた刑事を見上げると、相手の目にはみっともないほど蒼ざめた顔 が映っていた。
でも、殴られたりしているわけでもない。
携帯を取り上げそうな手が、何故か近くで止まっている。
憤怒の形相が、どうして驚いているんだろう。
『……それで』
どうなるかなんて、分かりやしない。
「ご迷惑をおかけしますと、教授に」
『寧っ』
 押し殺した悲鳴のような声が聞こえた。
何もかもなくなるかもしれない。心配してくれる相手だって一時のことだろう。
もう、負けるものか。
どんな惨めな真似だろうと、僕は自分に出来る限りの努力をしてきた。
無駄で終わらせて溜まるか。
そんな耳に、何時だって低温度のままの声が届いた。
『……加納君。君は、発見しただけなのだね』
「はい」
『それならば、そこに何時までもいるわけではないだろう。何処の署か、分かるかね』
「え……」
 電話の向こうで、教授も呆けているような気がした。
七瀬の意図が分からない。
『発見しただけなら、どんなに悪くいっても被疑者だ。容疑者ではない。証言が済む頃人 をやるから、こちらに来たまえ。君の話しを聞こう』
「おいっ、勝手に会話しているんじゃないっ」
 今度こそ、西田の手が僕の手から携帯を取り上げる。
不精髭がうっすら生えている面に押し当てるようにして、
『……S―――署の西田と言いますが、そちらは』
 そのまま、僕から離れて尋問室を出て行く。
僕はもう一人の刑事に探るような視線を向けられているのを感じながらもどうでも良くな って、パイプ椅子に脱力した背中を預けた。
突き放されるのは、今すぐではないだろう。
それにしても、僕が縋りつくことも出来ないでいるのに、わざわざ手を引いてくれるよう な声をかけてきた七瀬の目的があるのか、それさえも分からなくて、僕は部屋に立ちこめ る紫煙と共に、意識が揺らぎかかるのを感じた。

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