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携帯が手元に戻ってくるまで、何度も何度も僕は記憶をなぞられた。 勝手な真似をして被害者の死亡を第三者に漏らした罰とでも考えたのか、刑事達は保って きた幾分親切ごかしの態度を止めてしまっていた。 いや、彼らは色々な方法で僕を試していただけかもしれない。 既に簡単な報告は上に届いたろうし、ある程度の情報を元に彼らは方針を固めつつ、発見 者からありとあらゆる情報を絞り尽くすまで公式の見解だけを避けていたのだろう。 暴力はなかったが、僕は彼らがそれを何時でも使いうると分かっていた。 武器を持っていればそれを使いたくなるように、権力の名の元に僕を拘束するのは簡単な ことだ。非協力的な態度を取ったと見なされればそれで充分なのだから。 携帯の後は悪戯をしてこっぴどく叱られた子供のような態度を取った。 それほど悪いことはしていないけれど、もしかするとかなり大人を怒らせてしまったので はないかと怯える悪戯っ子のように。 時には同じ質問が続くことに不安げに押し黙り、相手が尋ね方を変えただけで同じ質問を しているのには気づかぬ振りで従順に答えた。 後でそれに気づいてまた答える速度を緩めさえした。 一度トイレに立たせてもらい―――逃亡とかは考えもつかない段階なのだが、扉の外で 刑事は待っていた―――、喉のいがらっぽさに粉だらけのまずい珈琲を飲ませてもらった が、徐々に僕は疲れを覚え始めた。 まだたいしたことがない疲労を、それなりに酷いものに見せるのは難しくない。 「……ひょっとして、煙草は嫌いか」 灰皿の上に山を作ってから西田が尋ねてきたのは、何時間後だっただろう。 「僕は吸いません」 「だったら、そのくらい言やあいいんだ」 捻り潰される三箱目の煙草と西田の言葉に、僕はそろそろ刑事達も質問を出し尽くしてき たのだと感じた。 数日前からテストで、祥代さんとの連絡は取っていないこと。前日も当日もテストで、 遊びに行くような状況では全くないこと。 何より、祥代さんを殺すような動機が僕にない。 それは、多分これからの捜査でどれほど疑い深い男でさえも理解することだろう。 バックの中身をぶちまけるようにして話し、丹念に持ち物一つ一つを調べられた、そんな 感じだった。 本当に持ち物検査もされたけれど、試験期間に余計なものを持つわけがない。 「しかし、あれだな。本当に学生って中身だ」 筆記用具、ノート、医学用語辞典、学生手帳、ティッシュと折りたたみブラシとメンタム リップ。試供品で駅前で配られていたガムの袋。 財布だって普通の皮のものだ。買ったら中身がなくなるような高級品ではない。 「……裁縫するのか」 ミニの裁縫セットが男の鞄にあったらまずいのか。 「白衣着るけど結構あちこち引っかかります」 そそっかしいわけではないのだが、気がつくと機材の角や実験道具を運んでいて裂ける ことだってある。 だから、余程気にしない連中は別として、実験中は金持ちの息子でもユニクロのシャツに 着替えてやっている。それでも手首に光るロレックスはどうでも良いのかと思わなくもな いが。 一つひとつ鞄に戻す間も、視線は必ず僕に纏いつく。どんな小さな手がかりでさえ、僕 から引き出せるものなら貪欲に奪おうと考えている。 しまい終えてジッパーを閉め、静かに床に置きなおす間だって彼らと僕の緊張はほぐれな かった。 「……珈琲、もう一杯飲むか」 「いえ、お心遣い有難うございます。……あの」 この異常事態でも、敢えて言わせてもらう。まずい。 豆の良し悪しとか以前に、あの煮えきった液体はご免被る。 僕がおずおずと呼びかけた意味を察したらしいもう一人の刑事が、彼らにとって必要では ないことを、それでも一応伝えてくれる。 「二人ともまだ署内だ。お嬢さんにはご家族が来るらしい」 所長は遅くまで捕まらないと瀬里は言っていなかっただろうか。 「それと、もう一人、彼と君には迎えが来るそうだ」 良かったね、と言ってくれる。 居場所があることを教えて、何時間も無機質な部屋に閉じ込めたことがなかったように掏 りかえる。 答えきれない疑問を茫漠とした海に漂流する人に投げかけ、雁字搦めにし、溺れる寸前で 網から引き上げてずぶ濡れのまま置き去りにする。 僕を魚のように扱っても、腹も満たされない。 仕事でなければ、向こうもとっくに飽きていることだろうが。 「それまで、こっちで待つかい?それとも、廊下に出るかな」 ようやっと、ヤニ臭さと別れられる。心底ホッとして立ちあがり、僕はふらついた。 流石に、現在の状態は身体に堪えていたのだろうか。 事件の後で食欲も睡眠欲もなかったが、精神的なショックには色々と慣れている。身体は 栄養と酸素の不足を訴え始めていた。 腹が鳴らないのが、せめてもだ。 刑事達は、そんな僕を見て無言で顔を見合わせる。 鍛えている彼らからしたら、僕はまるっきりひ弱なお坊ちゃんといったところか。 「大丈夫か、医者の卵」 冷やかすように言われた言葉は、しかし僕に僅かな気力を持たせた。 「すみません、すぐに出ます」 なりたい。どう言われようと、早く全てを覚えて医者になりたい。 この願いさえなくしてしまったら、僕はどうやって生きてゆけるだろう。 腕力も権力もない僕が、掴み得る力としては最大のもの。 人の生命を握ることの出来る、世界の何処でだろうと求められる職業。 それを持てば、或いは……。 手に、いや指先だけに残った、微かな感触を握り締める。 彼のことは、まだ遥か先だ。もう一度手を握るまでは、諦めるものか。 廊下に出ると、数メートルしか離れていないドアが開いて、板倉を吐き出した。 先程よりは落ちついた感じがするものの、まだ顔色は優れず、僕と同じく大した荷物もな い鞄を無意識のうちに両腕で抱きしめている。 疲れているのは板倉も同様だ。 僕と同じく勘ぐられながらの『丁重な』扱いを受けた彼は、幾分ぼんやりと顔を上げた後 でこちらに気づいた。 「加納」 何と言ったら良いのだろう。 巻きこんで済まない、具合はどうだ……最悪の気分に決まっている。 僕絡みでなければ祥代さんと擦れ違うことだってなかったろう板倉は、僕を恨めしく思っ ているに違いない。 「……その、板倉」 つかつかと、怒ったような顔をしてやってくる相手に、何を言われようとされようと、仕 方ないと僕は思っていた。 例え、あの時僕を階段から突き落としていたのが板倉だとしても。 断片になってまとまりにくい謝罪の言葉をそれでもどうにか言おうとした時、 「大丈夫かよっ」 思っても見ない板倉の反応に、抱えていた言葉が再び散らばって僕は気が抜けた。 え、とも、お、ともつかない声を漏らした僕の肩に、重みがかかる。 板倉の手だ。 何かを堪えている唇の間から、言葉が搾り出される。 「お前、お前だって大変なの分かってるけど、俺っ……」 何が言いたかったのか分からなくなったのだろう、板倉は俯いたけれど、僕には何となし 理解できた。 警察の矢継ぎ早でしつこい問いに、板倉は自分を守るので精一杯だったのだ。 同じ様に取調べを受けている僕や瀬里のことなど、考えている余裕はなかったろう。 まるで一人きりで被害者になった気分にさえなる雰囲気の下で時間を過ごしたのだ。 なりふり構っている暇はなかった。 きっと、僕たちへの文句も言ったことだろう。最大限に自衛の努力をしたに違いない。 しかしその程度で罪悪感を感じられても困る。 「俺っ……」 「板倉。こっちこそ、まさか……」 声が水分の欠如でしわがれていて、丁度良かった。 打ちのめされた僕の姿に、板倉は瞳を歪ませる。 「……あんな、事件なんて、お前を巻き込んで……」 こんな時でも僕は、身を守る術を考えつづけている。 ここで終わりにしないためには、どうしたらよいか。 「ごめんな。迷惑……かけて」 「なっ、何言ってんだよぅっ」 ゼミに残れる可能性を少しでも高めるために、同じ被害に遭った板倉の気持ちをどう引 きつけるかと。 非難の矛先をこちらに向けられて攻撃されることがないように、最低限の味方は作ってお かなければならない。 教授、七瀬、そしてそれに繋がる大学の実力者たち。 事件が知れるのは避けられない以上、それを僕の不利から有利に傾けるため、ありとあら ゆる手だてを講じる必要がある。 栗橋の勝ち誇る顔が、西山の冷笑が見えるようだ。 負けるものか、生まれながらの保証のある連中には。 足を引っ張られることがないように、板倉には心情だけでなくこちらについてもらう。 「加納は、何も悪くないじゃんかよ。ついてきたの俺なんだぞ」 僕は目を閉じ、板倉がやったように両肩に手を置く。 邪魔っけに思われない程度に身を寄せると、肩に痛いほどの力が与えられた。 突き放されない程度の、距離。 相手を頼るようで頼られるようで、実は何も与えない。 快も不快もない、薄ぼんやりとした存在感は、数時間の僕たちの孤立を埋める。 「有難う」 本当に、感謝するよ、板倉。 正直、瀬里のほかに僕一人だったらと思うと、ぞっとする。 気の良いお前だから、ある程度までは僕の望む方向に動いてくれる。 後は。僕たちの伸ばす手が、教授に、引いては七瀬悠架に届くかどうか。それだけだ。 その時、廊下の端から重々しい足音が響いてきた。 「寧!」 堂間声など日常茶飯事だろう刑事達が思わずそちらを睨んだほどの大声を上げてやってき た人物を見て、僕は瀬里の立場に同情しないでもなかった。 来島厚志。所長の長男は、片手に瀬里を文字通り引きずっていた。 手首を押さえて痛そうにする瀬里のことなど気にも留めていない。 驚き飛び離れた板倉には目もくれず、男は僕の前に立つ。 「一体どういうことだ、お前がついてながら」 無茶なことを言う。こんな惨事を誰も予想できたはずがない。 言い返す間もなく声を荒らげる男は、そんなことを考えてもいないようだった。 「何も分からんのか、聞いていないのか、目端の利くお前が試験如きで何か見逃すとは思 えん、気がついたことがあるならとっとと言え」 ぐいっと持ち上げられて呼吸が若干苦しくなる。 僕は経験から抵抗しなかった。この体格に殴り倒されたら今は死ねそうだ。 胸倉を掴まれた所で、刑事がすっ飛んでくる。 「ま、まあまあ、ご家族のことでお気が立っているのは分かりますが、穏やかに」 数人がかりで巨体を僕から引き離す際、シャツの襟からボタンが弾け飛ぶほどの勢いだ った。別にまだ厚志はいきり立ってはいない。普通の箸を使用すれば折ってしまうような 馬鹿力の持ち主なのだ。 「ともあれ、連れ帰ってやる。親父殿に説明してもらうぞ、お前から……」 傲慢不遜な声を打ち破るように、静かな声が被さった。 「それはまたの機会としていただきましょう」 何時の間に、この男は来ていたのだろう。 一瞬、誰もが呆気に取られて厚志の脇にいる黒服の男を見遣った。 「……五十嵐、さん……」 牛乳壜のように分厚い眼鏡。以前見た時と同じ黒を基調としたスーツ。 七瀬悠架の傍に影の如くいる男が、僕たちを迎えに? 「お迎えに上がりました。加納さま、板倉さま」 『さまぁ?』と壁際で板倉が呟いたがそれでも奇妙な緊張は消えなかった。 厚志がぎろりとねめつけるも、五十嵐は動じない。 「それと、ご同道なされる方はどなたでしょうか」 全く、傍らにいないもののように扱われたのが分かって、一瞬だけ顔をどす黒く染めた男 は、しかし次の瞬間義理の妹を振り回すように身体の向きを変え、廊下を進むと右に折れ て姿を消した。 最後まで、瀬里は言葉もなく僕に何処か懸命な視線を向けるだけだった。 恐らくは厚志に何も言わないよう命ぜられていたんだろう。 後が、厄介かもしれない。五十嵐が七瀬の部下だと知れば、所長の機嫌を損ねる。 「西田巡査部長が、向かわせていただきます」 僕を尋問していた刑事の片方が答えて、正直いやな気分になった。煙草臭いのが。 「西田だ」 自分よりは年若い相手の所為か、西田は横柄に言ってのける。五十嵐はそれも別段気に しないように頷いた。 本来、引取りにきた人間相手なら、もう一人と同じ様に丁寧に言葉を使うのが刑事だと思 うんだが。 板倉が小声で囁いてくる。 「加納、あれ、誰」 「教授の親戚の関係者」 七瀬悠架の手元にある駒。恐らくはそうそう一学生に使いはすまい。 電話ではどう言っていようと、この事態が並ではないとあの男は認識したのだ。 その事実に僕が気づくのを待っていたように五十嵐は一礼した。 改めて緊張が足の裏にぴりぴりと沸き起こる。 「お二人をお連れするよう言いつかって参りました。車を用意してございます」 言葉は少ない。必要な役目だけを果たす、といった姿勢を保っているこの男は、一体七瀬 悠架に何を見出されて傍にいるのだろう。 ただ言われた通りのことしか出来ないのなら、ここにまでは来るまい。 「それでは、手続きをあちらで」 刑事達に案内されて廊下を先ほど二人が進んでいった方角へと向かう。 西田の同道は、教授の任意での事情聴取だろう。 僕たちは学生で、成人しているとはいえ保護されるべき存在だ。まして保証人として碓氷 教授がついたのでは、文句のつけようがない。一度手元に帰して寄越し、しかるべき日に もう一度証言を確認すれば済む。 送るついでという形を取れば、教授への聴取だって角は立たない。 七瀬側がどの程度手を回したかは分からないが、警察側が遠慮しているような雰囲気がそ こはかとなく感じ取れた。 助かるかもしれない、僅かな希望が胸に沸き起こる。 その代価はどれほどなのか、どのように支払うのかはまだ見えない。 だけど、相手に売るべき恩があるなら、買っておくのは悪いことではないと僕は自分に言 い聞かせ、板倉と並ぶようにして五十嵐の後に従った。 大きめのセダンの中は、快適そのものだった。 西田は同乗した途端に空気清浄器らしき機械が作動したことに口の中でぶつくさ言ったも のの、僕や板倉がぐったりと車のシートに凭れている所為かそれ以上煙草を持ち出さない ようだ。 五十嵐は何処へ向かうとは言わなかった。 具体的な場所は警察側には知らされているのか、西田は尋ねもせず、僕たちは問うには 疲れていて余裕がなかった。 どうしてこんな状況で眠れるのか、と人は聞くだろう。 緊張感は決して途切れたわけではなかった。しかし、車のシートの心地よさと揺れの少な さ、勧められて飲んだ何だか良く分からない味のお茶の相乗効果だろう。 ハーブティなのか漢方薬なのか分かりにくいものだったが、薄いオリーブ色の液体はじわ じわと体内に染み入って、幾分人心地ついた。 精神的に参っていても、身体は健全に機能するためにスイッチを勝手にオフにする。 余程のダメージでない限り、眠るのは一時間、いや数分でも事足りる。 「お二人とも、もうすぐ到着致します」 五十嵐の声に朦朧とした状態を破られた時、僕は右に座っている板倉に寄りかかり、板 倉は片手で程よい毛羽立ちのシートをしっかり握っていた。 西田はと見ると、微動だにしていない。煙草を吸えないのではパトカーの中よりは居心地 悪いのではないかとも思ったが、自分のテリトリーでない場所で吸うほどの中毒者や常識 なしではないらしい。 時計を見れば、夜の八時半だった。 大葉邸での通報が午後二時過ぎ。六時間近くが、警察の事情聴取に費やされていたことに なる。発見者として『保護』された時間としては長いのか短いのか良く分からない。 もう、大葉条氏に訃報は届いているだろう。僕らが解放される前に来られなかったところ からすると余程の遠方にいるようだ。 車が一旦停止したので板倉がドアを開こうとしたが、五十嵐の手が上がって制止した。 「お待ちを」 門扉の開く軋んだ音は、僕たちが何処かの敷地に入ったことを教える。 薄暗い中さほど進まずに車寄せに到着し、先ず五十嵐が、ついで西田が降りて、車内は一 瞬だけ僕と板倉だけになった。 こんな状況に置かれたことはない板倉は、不安で一杯の顔になっている。 一瞬だけ、僕は板倉の手を握り締めてやった。 そんな真似をされたことのない板倉は、ぱちぱちとチック症のように目を瞬く。 「……加納……?」 「行こう、板倉」 イニシアティブを僕に握られて、縋るような視線へと変わる。頷いてやれば、大人しく 僕の後をついてきてくれた。 正直、僕だって不安だ。勝負はこれからなのだから。 降りれば、車は僕たちが乗せられた一台だけではなかった。警察の覆面パトカー、ランプ こそつけてないが降り立った油断ならぬ目つきの男二人は西田の同僚というところか。 確かに大きな邸宅だが、七瀬の本宅ではない。教授に聞いている雰囲気とは微妙に異な る。更に聞いた所によれば、七瀬はもう少し大きな一族の分家で、そちらの本宅は噂だが もっと恐ろしい雰囲気の場所であるらしい。 薄暗い中、所どころに灯る明かりの色も青白く見える。足元と建物が見える程度のそれか ら十数歩の玄関は、人を和ませるように少しオレンジがかった色で満たされていたけれど も、この邸宅の主のことを考えれば、寛ぐより他者を圧倒するための演出ではないかとさ え疑えてくる。 言葉すくなに出迎える使用人たちのお仕着せもどこか古風なイメージが抜けない。 「いらっしゃいませ」 仮面のように無機質。生きているものの気配が、ここには少ない。 前を歩いている五十嵐が、まだ生気に満ちた存在だと感じるほど、ここは誰かが暮らして いる気配に乏しかった。 アンティークのドールハウスを思わせる、天鵞絨の端の微妙な変色。アイボリーのレース の房飾り。階段の手すりは磨きこまれていて、黒光りする建物を案内されるうち、取調室 とは別の意味で時間の経過がわからなくなる。 応接間に入ると、二人の人物が立ちあがった。 こんな豪奢な場所でも、ラボでも、碓氷教授は全く動じていない。 案ずる視線で僕たちを視界に収めてから、少し目を眇めてすぐ脇に並んだ刑事へと目を転 じる。 向かい側には、ここの主である七瀬悠架。 主側の座るソファーの背中には、珍しいことに一人の男が手をついて何事か囁きかけてい た。それを見た途端、五十嵐の書割のように微動だにしない態度に僅かの亀裂が走る。 銀縁眼鏡の、七瀬とそう変わらない年齢だろう男は、ゆっくりと身を起こした。同じよう な無関心な態度を取っているが、七瀬悠架に比べれば抜き身の鋭さがかいまみえる。 「やあ、いないと思ったら客人を迎えに奔走していたわけか」 親しげに五十嵐に顔を向けた男に、五十嵐が極力自制心を発揮しているのが分かった。 嫉妬とも鬱陶しさともつかない、苛立ちを必死でコントロールしているような。 それは相手にも伝わった。いや承知のことなのか、唇がきゅっ、と釣りあがる。相手の嫌 悪さえ楽しむような、嫌な笑い方だ。 「申しわけありませんが」 「それじゃ、これで招かれぬ客は退散するかな」 僕たちをじっくりと見ながら、銀縁眼鏡の男は身を起こした。 「おや、大人しい」 七瀬の声も、聞いたことがない響きをしていた。 顔の作りが違いすぎるし、身内でもないだろう。それでも他者とは違う。 何が違うとは言いづらいが、相手はそれなりの縁ある存在のようだと思えた。 良く出来た日本人形のように淡い色で構成された顔に、銀縁眼鏡がつい、と寄る。 「この間の無作法を許してもらったことだし、いずれまた土産でも」 「楽しみにしているよ」 言葉ほどには熱心な響きではない。相手が行ってしまうのなら、それでもう放念するつも りなのか。男から視線を離した七瀬は、もう数度見かけた、それでいて見慣れない気だる げな無関心さで、僕たちを一瞥した。 「ようこそ、遅い時間に」 僅かに両腕が広がる。 板倉は今にも縮こまりそうだった。眼鏡の男はその様子を面白そうに眺めつつ、わざとそ の脇を抜けて応接間を出て行く。 含むものを感じて改めて銀縁を横目で見ると、気づいたかまた唇が釣りあがった。 刑事達は部外者は問題ないと思ったのか、青年を一顧だにしない。 「教授っ」 堪えきれなくなったのか、声を発したのは板倉が最初だった。 教授はすぐに慈父の笑みを浮かべて教え子に声をかけてくる。 「……二人とも、災難だったな」 一歩、二歩進んで、ふと刑事達をみると教授は穏やかに一礼した。 「碓氷博光です。この度は、うちの学生たちを保護していただいたそうで」 刑事達は、西田を始め黒川と石鳥と名乗った。 座るように身振りで促してから、七瀬は何も言わず、教授だけが言葉を発する。 「ところで、二人とも流石に疲れているようだ。七瀬氏と警察の方々のご了承を頂けるな ら、暫く休ませてやりたいのですが」 刑事達は、一斉にこちらを見た。緊張が解けかかって泣きそうな板倉と、立ってはいるが 無口この上ない僕は、確かに限界に近い状態と見える。 「ああ、発見当初のことは詳しくお聞かせ願ったから、また明日以降でも」 漸く石鳥と名前がわかった刑事が、判断を下す。西田は車の中でのことを知っている所為 か、何も言わない。 どうせ、聴取は一回では済まない。今日はここまでというだけのことだ。 それでも警察の目は少し僕たちから離れる。 七瀬は頷いて、視線だけを五十嵐に走らせた。 銀縁眼鏡が去ってから、五十嵐は元通りの平静さに戻っていた。 一瞬の葛藤など、もう髪の毛一本ほども見られない。 「お二方、二階へどうぞ」 案内されて階段を上れば、廊下は鈍い照明にぼんやりとして、ますます感覚を鈍らせて くる。歩いてきたメイドに五十嵐は何事か言いつけ、彼女は黒いスカートと白いエプロン を靡かせて小走りに何処かへと向かった。 真ん中ほどのドアを開けば、廊下ほどにいかめしくはない、胡桃色の部屋にツインのベッ ド。座りごこちの良さそうな椅子が二つ。 「洗面はそのドアにございます。只今軽食をご用意致しますので、こちらで本日お休み下 さい」 「あの……俺、いつ帰れるんでしょう」 情けなさそうな声を板倉が上げたが、五十嵐は別段慰めるような態度を取らなかった。 「お帰りは、教授とご一緒にお送りいたします。では」 静かにドアが閉まれば、そこにある気配は僕と板倉の二人きりになった。 廊下を去る五十嵐の足音さえ聞こえない。 板倉は、まるで場違いな空間に入りこんでしまったためか、ベッドではなく床にへたり 込みそうになった。 「おい、大丈夫か」 腕を引っ張って、どうにかベッドの端に腰を落ちつけさせる。 「加納……落ちついてんな」 「冗談じゃないよ。僕だって……怖いさ」 教授はたった今、階下で刑事達と向き合い、事件の様子や僕たちの人となりなどを聞い ているのだ。 七瀬悠架も勿論、あの乗り気ではなさそうな態度で、聴覚だけは最大限に研ぎ澄まして全 てを掴もうとしているのだろう。 「どうすんだろ、第一発見者って、疑われんだろ?な?」 「分からないよ。ドラマじゃあるまいし」 僕も板倉の脇に座る。身体が寄り添って、板倉は何時もならびくりとでもしただろう。 疲労困憊し、判断力も鈍りきった男は、逆に温もりで安定したそうにくっついてきた。 「警察は……きっと、やってくれるよ」 何をしてくれるのか。祥代さんの死をもたらした相手の逮捕か、万が一事故ならば原因 の究明か。五年前の事件の究明だって、碌に出来なかった連中が。 いや、今はそのこととは関係ない。 目を閉じて首を横に振ると、背中から腕が回った。 「ごめん……加納のお姉さんみたいな人なのに」 「何、謝るんだよ」 とことんのお人よし。 「加納だって、あんなに真っ青な顔してたのに……泣きたいの、お前の方なのに」 涙なんか、出る余裕もない。 亡くなったことが事実ならば、僕の立場が微妙なものであることも事実だ。 病気なら、治すことも出来る。 医者は、死亡した人間を原因を究明する以外では振り返らない。 僕は、顔を伏せるふりをして板倉と死者の目をやり過ごした。 悼むのは、後でだって出来るのだ。 |
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