残像


7


 枕が違うと、僕は必ずと言っていいほど夜中に一度眼を覚ます。
眠るのには抵抗がない。休める時には無理しない、実験など続けているとそんな風になれ る。
流石に昨日は板倉と興奮して結局日付が変わるまで寝床に就けなかったが。
なのに疲れていようといまいとお構いなしに、一度覚醒のスイッチが入るようだ。自室と 定まっている場所ではそう神経質ではないし、不眠症と呼ぶほどのものでもないから、基 本的には放って置いている。
眠れるだけの時間があれば、僕はさっさと寝なおすだけだからだ。
隣のベッドを見れば、板倉はようやく眠れたようだった。
興奮していたのは二人とも同じだが、こんな異常事態に置かれたのは初めての板倉には、 かなりきつかったのだろう。
目の下に、実験中でもなければつかないほどの濃い隈が浮いていた。
可哀相に。そう思いながらも僕は寝床を抜けて、洗面室に向かう。
洗面室を開けて水道の栓を捻っても、板倉が目覚める気配はなかった。軽く顔を洗い、口 を漱ぐ。
昨夜は、軽食が運ばれた後部屋に用意されていた寝巻きに着替えて、と扉を開けて部屋に 戻り、自分の衣服を手に取りながら僅かな行動の記憶を追う。携帯の時計表示を見れば朝 の4時半。睡眠時間は4時間強で、まあ足りていると言えないこともない。
さっさと着替える事にした。この後眠くなっても、それはその時だ。
一通り昨日の衣服に着替えて、スリッパから靴にはき替えた。板倉は眠った姿勢のまま動 かない。後で筋肉痛とか訴えだろうと思いつつそれなりに足音を忍ばせて客室のドアを開 ける。
廊下には、誰もいない。両端にある窓が、照明と競う程度のほの明るさだ。
少し近い方の窓へと、僕は向かう。客室のカーテンまで開ければ流石に板倉だって目を覚 ますし、何処で誰が窓を監視していないとも限らない。
警察にしても、七瀬にしても。
教授は、何処の部屋なのだろう。昨日の警察とのやり取りを聞きたかった。教授らしい態 度を貫くことは確かだろうが、僕を放り出すかどうかは聞いていない。
これからの対策を考えるためにも、情報は欲しい。警察の考えや七瀬の思惑、大学側が取 るであろう態度。
誰も当てにしてはいない。身を守れる深ささえあればいいのだ。猛獣につかまる前に兎が 這いこむ深さの穴が。
窓辺からは、整然と整えられた樹木が見えた。白く舗装された小道が伸びている。
花はまだ咲いていないが、四季咲きの植物が寄せ植えられているようだ。客人を招く場所 としては、隙がない。
窓を少し開けて手を伸ばせば、空気はひいやりとしていたが思ったほど寒くはなかった。
湿っている。
目を上げればこの時期の色がくすんだ夜空が、同じ様に淡い気配を東の端に有しているよ うな気がした。雨になるのかもしれないとぼんやり思う。
洗濯物、どうしたっけか。と日常に戻りかかって我ながら強いものだと苦笑する。
着の身着のままで追い出されてもおかしくはないのに。数枚の布きれの心配なんか。
視線を下の道に落とした途端、僕ははっとして窓辺を中途半端に覆うカーテンの陰に身を 寄せた。
誰かが小道を歩いてきたのだ。一人ではない。
甲高い声を耳に馴染ませて言葉にすべく、息も潜めて音を追いかける。
「―――どうして、私が帰らねばならないの?」
 怒鳴り散らしているのではないが、声は苛立ちを抑え兼ねて騒々しかった。
「一目でも、一言でもご挨拶をと夜会の帰りに来たのよ。それだって、悠架さまがいらし てくださる筈だったのに」
 戒能茜だ。七瀬悠架の婚約者。恐らく整形多し。
結婚が一族内部のごたごたで延期が続いていると教授経由で聞いているから、まだ独身の ままだ。
「騒ぎがありまして」
答えているのは、五十嵐だ。
声は相変わらず感情らしきものは片鱗も覗かせず、湖面のように平静さを保っている。
姿も、見えなくても全く変わらぬと思わせる。昨日みたいに罅割れることなど、普段自分 に許すことはないのだろう。
「嘘仰い。昨日はあの男が来ていたのでしょう」
つけつけした物言いは、どういう感情から来ているのか。将来はここの女主でも、こんな 余裕のない声を出すなんて。
婚約者であることに自信があるのなら、もっと泰然としていてもいい。違うのか。
政略結婚の価値もなければ、七瀬はすぐさま彼女を捨てるだろう。白紙に戻らない限りは 戒能茜か、彼女の家にまだまだ価値があるはず。
破棄されでもしないかと思いこんでいるのか、ヒステリー気味の声は高まる。
「したり顔で、眼鏡などして、ああ、私あの男大嫌い!……あら」
何かに気づいたように声を潜め、それでも聞こえよがしに続けた言葉に僕は少しだけ窓に 顔を寄せなおした。
「お前も眼鏡だったわね。『あの男』と『同じ』で」
疲れていたためか良く思い出せないが、銀縁の眼鏡が脳裏を過る。
返事には僅かの間が開いた。
「―――ともあれ、悠架様には私からもお伝え致します。埋め合わせも考えておられまし ょう、どうぞ、今朝はお静まりを」
最後の『どうぞ』に、低い恫喝の意図を感じ取ったかどうか。
「えぇ、お前相手ではつまりませんもの。帰るわ。見送りせずとも許します」
「ありがとうございます。お気をつけて」
 翻ったドレス姿はギリギリの際どさで、一昔前なら良家の令嬢とやらは身につけなさそ うな赤だった。
剥き出しの肩は白いが、多少厳つい感じもする。
七瀬の黒と並べれば映えるのか、貶めるのか。微妙なところだ。
カツカツとハイヒールで背を向けて歩いていた女の顔が、くるりと振り返り、何故か振り 仰いで見えないはずのこちらを睨めつけてきた。
歪んだ形相。立ち聞いていた者を咎めるような眼差しだが、姿は捉えられなかった筈だ。
少なくとも僕だとは分からないで終わるだろう。
もう少しだけ首と視線をやりくりして、下を見る。
五十嵐はその場で礼をしたまま立っていた。
主の影であるように黒い服のままの男に、昨日よりはどこか人間らしい影が見えるようで 黙って見ていると元の姿勢に戻ったものの、昨日警察に来た時と違って微妙に肩が下がっ ている。
休んでいなかったのだろうか?警察の応対やその他に僕たちが泊るための段取りなど、仕 事も増えたなら、五十嵐は僕たちより寝不足だろう。
ずっと、僕は彼に視線を当てる。見つかるように。
今の彼は、全てを防御しきれている風ではない。迷惑をかけている当事者に、何らかの含 む所があればそれと知れるだろう。
ほどなく分厚い眼鏡が真っ直ぐ窓に向けられた。
内側から僕は硝子を押し開く。
「おはようございます、五十嵐さん」
「おはようございます」
きっと夜会でも通じるような丁寧な礼だった。この男に、多くの者が信頼を寄せる根拠の 一つ。
無機質さの鎧の下に、この男はどれほどの努力を隠しているのだろう。
僕には不似合いなものだとしても、一瞬だけ五十嵐が羨ましくなった。
愛想よくすることも、超然とした態度を取ることも、実は非常に難しい。
目立たずにいるのが僕の精一杯だったのだが……。
スポットを浴びてしまったなら、ある程度は役回りがあるだろう。無様に退場することは 避けたかった。
「お休みになれましたか」
嫌味を言う相手から逃れられたため、五十嵐は明らかに安堵していた。
「有難うございます、ゆっくり休めました」
小声だが、互いの言葉は湿気を帯びた空気の間を抜けた。僕は殊更態度を装わず、会釈を 返す。
上からでは礼も何もあったものではないだろうが、今しがたの客よりは数等ましだ。
「お寒くはありませんか」
下から尚も声が上がったので、この状態での会話は不自然に思えてきた。
「あの……そちらに降りても、良いですか」
到着は晩だったから、外観を観察する暇も余裕もなかった。
それに少しは外の空気を吸った方が良い。
「真中の階段を降りましたなら、緑のタイルの廊下を右手にお進み下さい。突き当たりの ドアからこちら側に出られます」
案内はデパートの受付みたいに聞こえたが、待っていてくれるようだ。
「すぐゆきます」
騒々しくない程度に、僕は階段まで急いだ。
こうして降りる間にも、少しずつ東は明るさを増してくる。暗緑色のタイルを探し当てて 外に出れば、五十嵐は変わらぬ位置に相変わらずの無機質さで立っていた。
でも、彼は鋼で出来ているわけではない。数メートル進んで、男の前に立つ。
「昨日は、有難うございました。助かりました」
改めて一礼する。
「いえ、仕事ですので」
声は平板だが、観察する時間を持てたせいか、思ったより疲れがひどいのか、五十嵐は幾 分親しみを覚えているように見えた。
正直この男の到着が早かったから、僕は来島側に連れてゆかれてあれこれと問い詰められ なくて済んだのだ。
いずれは所長から説明を求められるにしても、警察の直後よりはましというものだ。
こうして見るとしっかりした体格なのに、どうして唐突に姿を現すように思われるのだろ う。
足音だって忍ばせているわけでもない。気配そのものを幾らでも希薄にできる人間?
いや、彼を前にした相手が気を抜いてしまっているか、もしくは他のことに集中している だけだ。
手を見る。大きな手だ。鍛え上げているのか、指は太い。来島厚志が黙って引き下がった のは、恐らくこの指に気づいてのことだろう。
力のある人間は、相手の力量を己のそれと絶えず比べている。外見に反して、厚志はそう した気配りができる。所長の『息子』は侮れない。
瀬里が無言で従うしかなかった相手だ。
「……昨日の、ことですが。教授は、どのくらい?」
躊躇いがちに聞いてみると、僅かに五十嵐の口元が引き締まった。
「そう長くは。二時間ほどで、皆様お帰りに。教授は、悠架様と相談なされた後、部屋で お休みでした」
相談と言う言葉よりも、過去形に引っかかった。
「でした?」
「温室の方に向かわれました。今もそちらにおいでかと」
そんなものまでここにはあるのか。
あるものなんだろうな。と、ついた息をどう取ったか五十嵐は結構、そして恐らく熱心に 言ってきたのだ。
恐らく、とつくのはそれでも声が平板であることからである。
「ここにしかない植物もございますよ。宜しければご案内致しますが」
「―――それは、私がする」
 違う返答が背後からするほんの一瞬前、五十嵐の顔は見る間に機械に戻った。
まるで、押し忘れていたスイッチをオンにした人間のような狼狽が、さっと上を撫でた後 のことだったが。
自動人形の主は、ここには一人しかいない。
僕は振り向いて、先ほどの五十嵐ほどには出来ないだろうと思いつつ丁寧に一礼した。
「おはようございます、七瀬さん」
鷹揚な頷きが帰ってきた後、七瀬はおはようとは言わずに五十嵐に声をかけた。
「五十嵐」
「はい」
「……年休は明後日からだったね。仕事が出来た」
「畏まりました」
余りに簡潔に切り捨てていて、休暇取り消しを意味すると気づくのに間が開いた。
声に残念そうな響きはない。むしろ誇らしげに聞こえて僕は五十嵐に顔を向けなおそうか と思った。
「朝食まで休むように……ついておいで」
後半の言葉が僕にかけられたと今度は即座にわかったため、五十嵐の表情を見る暇はなか った。
ここの絶対者の後について歩きながら、僕は五十嵐が自分にあてがわれた場所で休む姿を 想像しようとしたが、うまく行かなかった。
僕と数語を交わした五十嵐と、今の彼とどちらが七瀬の言う『休む』に相応しい姿なのか 決めかねたのだ。


 後について、と言っても、七瀬悠架は小道でも館の奥に近いほうにいて、僕は反対に表 側に近い場所にいたから追いつくには小走りになった。
数歩の差まで追いついた時、前を歩く黒い影は歩を緩めた。
前方に目を向ければ、道の途切れる辺りに金属と硝子らしき素材の建造物の角が見えてく る。
植物園にあるような大仰なものではなかったが、それでもしっかりと温室とわかるそれは 薄闇から徐々に黎明へ這う世界の中、未だに闇を好むようにほの暗かった。
異国で狭い場所を宛がわれて死を免れた植物たち。
生来の場所と近い空気を封じこめた扉の前で、七瀬悠架はひっそりと笑む。
いつもの、唇の孤だけの笑みではない。こちらをちら、と見た目にも、面白がっているよ うな微かな気配があった。
「身内以外に、あれほど語る相手は久しぶりだ」
空白の間に省略された語を補って五十嵐のことだと判った時、取っ手に女でも羨みそうな 白い手がかかった。指が長い。
すい、と引かれた扉からは、押さえ込まれていた偽りの熱帯が溢れてきた。
「君は花が好きだったか」
今度は主語は省略されず、僕は七瀬の後について温室に入る。
どうにか向こうまで見渡せる程度の空間に、教授の姿はない。
「擦れ違ったようだね」
僕の困惑に気づいたか七瀬はそう片付け、生命の溢れる空気の中をゆったりと進む。
「教授はここで、妻となる人を見初めたそうだよ」
僕は奥歯を噛み締めただけで何も答えなかった。それを期待していたわけでもないのか、 或いは充分だったのか、七瀬は尚も奥に歩む。
「大概の人間は、窮地に陥れば誰彼構わず助けを求めて足掻くものだ。正直、私は意外だ った」
ひた、と足が止まる。黒い背中と髪が僕を向いたまま、七瀬の顔は今は見えない。
「君の年齢で、皮一枚にせよ落ちついて振舞える人間はそういない。『迷惑をかける』と はね。良く言えたものだ」
声の調子も、嘲っているのか、感心しているのか、つかめない。
僕は、何を答えれば良いのだろうか。
戸惑っている僕ではなく、七瀬は自分の足元辺りに目を落とした。
漸く真後ろではなくなったが、表情はまだ分からない。
「この花を、見たことがあるだろう」
「……花?」
 七瀬の足元にあったそれを見て、僕はもう一度、先程よりは強く、奥歯をかみ締めるこ ととなった。
小ぶりな、植物。それは朽ちかかった切り株から生え、小ぶりな花をすっと伸びた茎に咲 かせつつ、濃密な香りを放っていた。
見たことがあるもない。
僕は思わず後ずさっていた。
「ああ、やはり教授は大事にしておられるようだね」
植物に真っ直ぐに向けられた七瀬の横顔に浮かんだ笑みは、人に対するものと違って優し いとさえ言えた。
「これは、まだ二株発見されただけでね。あえて名前をつけるならpolystachya sinus、
いやsomunusの方が的確か」
僕はさっぱり判らなかった。
「済みません。仰る意味が」
「私もだよ。ラテン語に『催眠』という言葉はなくてね」
七瀬の顔が、ゆっくりとこちらに向き直る。
「この花には人の警戒心を解く作用がある。詳しい成分はまだ分析中だが、人によっては 随分と打ち解けて、色々なことを語ってくれることもあるようだよ」
もう一歩、僕は退がった。この花の香りは、後から効いてくる。
春の、曇り空の下での過ちが蘇る。
僕と教授を歪に結びつけてしまった花。
「逃げることはない」
七瀬は穏やかな顔をしていた。
「この花と同じ様なことをしている君が、何故怖れることがある」
同じ?と聞き返すのも嫌だった。それだけ花の撒き散らす香りに触れる。
「君はそうして人を引きつける。碓氷教授を賦活させ、五十嵐に語らせた。亡くなった女 優も君のことは高く評価していたと聞いた。君はまだ医者ではないのに、どこか他人の気 持ちを緩ませるところがある。それは努力ではなく、生来君が持ち合わせる才能だ」
淡々と、七瀬は語る。
「私が手を延べた理由を一つだけ教えてあげよう。君は、教授や私にしか、君を救えない ことを知りながら、警察の前では、対等な立場のように振舞い、精神的に依存していない ことを示して見せた」
「……そんな、ことが?」
少し、目の前が揺らいだ。まずい。ここで倒れては騒ぎになる。
額を押さえた指の間から、七瀬の笑顔が見えた。
「そうした人間にこそ、膝を屈してもらいたいものではないかね」
せめて、ここから出たい。なのに、身体が急速に倦怠感を訴え始める。
七瀬に背を向けるのは怖かった。もう一歩下がると、バランスが崩れる。
「まあ、色々とまだ抱えているようだし、暫くは放っておいてあげよう。後のことは、他 の者に任せたまえ」
片方の膝をついた僕の傍に、七瀬が少しずつ近づいてくる。
「楽しみにしているよ」
僕をか、昨日の事件の結末か、聞く余裕はもうなかった。


 会話が、聞こえる。
「……そんな風だって俺、思わなくって」
板倉の声だ。何故か罪悪感さえ感じられる。
うっすらとした意識のまま探れば、僕はどこかに寝かされているようだ。
近くに気配は二つ。もう一方は随分と馴染み深い。
「苦労してたろうけど、加納は全然そうしたこと言わなくって。相談とか……」
「流石に、重い話しは君にはしかねたのだろう」
ああ、教授の声だ。さっき何処に行っていたんだろう。
「私が言ったことは、黙っているように。君は、変わらず彼の友人でいてやってほしい。 今回のことで君達に傷が付くようなことだけは、私がさせないからな」
 何度も頷く板倉の様子が、目を閉じていても伝わってくる。
教授、板倉に一体何を話したんだろう。単純なところはあるが、容易に騙されるような馬 鹿じゃない。……多分。
ひょっとして僕が七瀬と話している間に、教授は板倉の所に行ったんだろうか。そうした ら、さっきのことは、二人が合意の上でなした計画の可能性もある。
大人しくしておくのが一番だ。そう片付けた時、瞼が震えた。
「あ……」
もう寝たふりも面倒で、目を見開く。
教授と板倉が、ずっと心配そうな顔を保って椅子に座っていた。
「目が醒めたかね」
「倒れたんだって、お前。起きたらいないから心配したんだぞ」
―――ああ。そういうことか。
時間稼ぎだ、と思った。僕と言うよりは、教授や七瀬側の人間のだろう。
心労にせよ過労にせよ、倒れたとなれば尋問は延期される。
その間に状況をこちらの有利に整えてしまえば良いのだ。
「心配をおかけしました。板倉も、ごめんな」
起きあがろうとすると、教授に止められた。
「まだ休んでいて構わない。七瀬さんからも、今日は安静にするようにと」
多分、先ほどの花の香りのせいだっただろう。
ふと浮かんだことを僕は口走ってしまった。
「でも洗濯物が」
板倉と教授は僕をまじまじと見つめ、先に板倉が溜息をついた。
「お前……洗濯物なんて言ってる場合かよ」
教授は苦笑している。流石に恥ずかしくなってきて、俯けないので横を向けば宥めるよう に重い感触が頭に、そこから少しずつ温もりが染みてくる。
「濡れようと埃を被ろうといいから、放っておきなさい。今は、回復が肝心だ」
これだけは偽りのないだろう言葉に頷くと、手は離れた。
染みたはずの熱が忽ち逃げるような心もとなさを覚えてしまう。倒れた直接の原因はあの 花とはいえ、弱っていることは否定しようがない。
「スープでも持ってきてもらうとしようか。その方が眠りやすいだろう」
「あ、俺言ってきます」
 眠ったことで回復したのか、板倉がさっと席を立つ。開け閉てする音がしてから、僕は そっと教授に向き直った。
「一体、何を板倉に吹き込んだんです」
「随分な言いようだな。お前の……」
苦笑して、教授は言葉を後半変えた。
「……私のためでもあるから、お前が恩に着ることはないな」
今度は、僕が罪悪感を覚える番だった。
上掛けの上に置かれた手。少しだけ体の位置をずらして、腕を伸ばし、その手に指を重ね る。手はすっ……と僕の指から抜けて、傷つけたかと思ったら横合いから指を包むように 握りこんできた。
「大丈夫だ。お前を見捨てはしない。お前はずっと私といたのだから」
そうだ。ずっと僕たちは一緒にいたのだった。
事実を教授が捻じ曲げるわけでもないのに、僕はいきなり詰問している。
少なくとも僕を助けてくれる相手に、僕は強がって、相手など要らないような言動をして 見せてしまった。
『精神的に、依存していない』
七瀬の言葉は正しい。僕が誰かに頼れば、その人間はいずれ僕の厄介ごとに巻き込まれて しまう。だから僕は、極力他人を近づけずにいる。
でも今回は、今回だけは教授に縋らなくてはならない。
まさか僕の窮状を全て知っているわけでもないだろうが、七瀬が言った通り、今回は嵐が 過ぎるまで他の者に任せておいたほうが良い。
それは分かっている。分かっているけど、僕は。
「……僕は、薄情者です」
実際はどうあれ、姉のような存在である人が亡くなった、いや、殺された。
それでも僕は今の自分の未来の方が惜しい。
浅ましいことは分かっている。誰よりも自分がそう思っている。けれど、積んできたもの を崩すわけにはいかないんだ。
「それでも、お前は私の弟子だ」
僕の手を掴んだ力は変わらなかった。
指を外そうとしても、相手が離してくれないため、体温がずっと伝わってくる。
自信に満ちた声が、鼓膜を揺すぶる。教え子がスキャンダルの渦中に落ちたことを分かっ ていて、どうしてこの人は微笑んでいられるのか。
「この程度で、私はどうにかなりはしない。安心してくれ、寧」
漸く手が離れた、と思ったら、教授はそのまま僕の頬に触れてきた。
と、ほぼ同時に、
「たっだいまーっす」
バタン、とドアを開けて板倉が入ってくる。
僕はどきり、としたが教授は焦りもせず。
「あ……すぐ、来るってさ。食事」
そして何故だか。
何故だか本当に分からないことに、板倉はあからさまに不自然な教授の手を見ても何も言 わなかった。
少し躊躇いはしたからこの状態を認識はしたのだろうけれど、元通り椅子に腰掛ける。
それとほぼ同時に教授の手も下りた。
「板倉……?」
「?どうしたんだよ、加納」
板倉は屈託がない笑みさえ浮かべて問い返してくる。
まさか今のを変に思わなかったのかと聞くわけにも行かず。
「いや……、食事は?」
「何だよ。お前が寝てる間に済ませたって、教授も一緒に」
「そ、そうか」
教授は普通にしている。殊更に不自然な態度はない。
これでは先ほどの言葉は撤回しないでも良さそうだ。
板倉が何を聞いてどう解釈したかは、後で聞き出そう。
教授の体温が残る指を、僕はそっと拳に握りこんだ。


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