ノイズ


『ん〜、聞こえないなぁぁ、ノイズ酷すぎ……』



「気がついたら、過ぎていたな」
 曇天続きの三日目、教授が例の如く切り詰めきった言葉を発し、僕は意味を取りかねて 皿を洗う手を止めた。
 教壇では教授はくどさ寸前までの丁寧さで、学生に教えている。
私立大学の医学部、順繰りに押し出されて実家の跡目や親戚の、或いは大学の病院に収ま る予定の連中にもそれは伝わるらしい。面白くないからサボる、ブッチする、と言う連中 を他教室の学生で見た覚えはない。少なくとも僕の知る限りでは。
 だのに私生活では。
おいだのこらだの言われるわけでもないし、ジェスチャーだけで分かれとまでは言われな い。言われないが、極力言葉を省略されるのはどうしたものか。
日本語が幾ら前後の流れである程度把握できると言っても、いきなり最小限では情報を取 りようがない。
 これがソファーでの呟きとかだったら無視しても問題はない。
しかし困ったことに、教授は態々僕の脇に来ていて、ビタミン剤を飲んだ後のコップを渡 してくるでもなく、僕の反応を待っている。
 確かに事件に巻き込まれて、忙しく張り詰めた日々をお互い送っていたわけだが、入学 式も一通りの行事も終えて新環境で動いて行く準備が出来るまで、何か見過ごしたものが あっただろうか?
記憶を探ったが、何も出てこない。
大学の行事―――ゼミの歓送迎会は終わった。レポートの締切―――取りあえず急な提出 はなかった。
教授と僕とで他に約束したか?いや、出歩くのは二人とも最小限だ。
何かのキャンペーンの優待期間?DMの類は捨ててしまうからこの線はなさそうだ。
 事件が起きてからは遠出はしていない。
何だろう。何があっただろう。
アリバイもあり、裏付けも取れたのか、加えて七瀬側の圧力もあったのかも知れないが、 大学近辺で僕たちが尾行されたりするようなことは殆どなかった。
勿論僕にも動機はない。
 被害者が僕に対して無防備だったとはいえ、動機らしきものもなく、死亡推定時刻が早 朝だったためもある。
僅か争った痕跡があったそうだし、複数の人間の犯行ではないかと結論付けられた。
複数の外傷からの出血多量に因る失血死。
普通なら死亡診断書だが、祥代さんは死体検案書を書かれた。
どちらも同じ用紙を使うわけではあるし、結果としては同じ『死亡』だ。
どんな騒ぎが世の中で起きようとも、生物として一個の個体がなくなった、という単純な 記号に医学は変換してしまう。
 沈みかかる気持ちを押し込めるように、僕は無理やりな笑顔を相手に向けた。
「何でしたか」
 時々、僕は宇宙人に見えるのだろうかと思うことがある。
時々どうでも良いような些細なことで、会話していた相手が、奇妙なものを見るように僕 をまじまじと見ることがある。
今の教授のように。
ややあって、コップはそっとシンクの中に置かれた。
「自分の誕生日も忘れたのか」
地動説のこの世に天動説でも唱えている相手にものを説こうとするような声だった。
誕生日。誰の。じゃなくて、ああ、僕のか。
「いえ、二十二歳になったのは分かってますが、それが」
 僕は何か相手に頭痛を起こさせるようなことを言っただろうか。
教授はコップを置いた手を額に当てていたが、すぐに非常に腹立たしい眼差しで僕を見て 言った。
「いいから、洗い物を終えてしまいなさい」
返事も待たずにリビングに戻って行く。
非常にむっとしながら、僕は取りあえず壊さない程度の勢いで、再び皿を洗い始めた。
朝っぱらからなんで、小さな子供に道理を説くような顔をされなければならないんだ。
 これが教室内なら腹も立たない。学生の僕が担当教授に敵うわけはないし、そも質問や ディベートの時以外に逆らったりするものか。
普通の学生なら成績が下がるだけだろうが、僕の場合歪んだ形で反抗のつけが返ってきそ うで怖い。
出来るだけ波風立てないように、とは思っているが、人間の感情は負の方へ振り切れるの は容易いので、こうした時には腹も立つ。
お互い公私混同する性格ではないが、やらないという保証はどこにもない。
 洗い終わったシンクの回りの水滴をふき取ってから水量を控えめに手を洗い、洗濯に出 すつもりだからとエプロンの汚れていない部分で水気を拭った。
リビングのソファー、向かい側に座ろうとすれば、無言で手招かれる。
首を横に振ろうとしたら教授が席から立とうとする。
 来客もないのに横に座れと仰る?向かい側じゃ駄目なんですか?そうですか。
座りかかった所を引き寄せられそうになったが、用心していたので取りあえずそれだけは 避けた。
べたついた態度で会話なんかするものか。
相手を睨みつけると、困ったような笑顔が返ってくる。
「怒る事もないだろう、寧。故意に忘れたわけでは……」
「一寸待ってください教授。何を忘れたんです」
「だからお前の誕生日を」
「別に忘れてたって僕は」
 大体覚えていてどうだと言うんだろう?何で忘れられてたら僕が怒らなきゃならないみ たいに言われるんだ?
しかし僕の困惑を他所に教授は手を伸ばし、肩を軽く叩いた。
「出かけようか。今日はお前も久々に空いているだろう?」
「僕の誕生日と外出と何の関係があるんです」
どうにも繋がりが分からなくて聞いたのだが、また呆れた顔をされただけだった。
「そんな言い方はないだろう。ここ暫く忙しくて、雑事をお前に押し付けていたことだ、 今日ぐらい外へ出ようじゃないか」
外へ出るのはこの際構わないのだが。
「何処へ行くんです?」
用心深く尋ねて良かった。何処か空っ惚けた返事が返ってきたのだ。
「お前の欲しい物にも因るだろうな」
「別に何も」
要らないのだと言おうとすると、肩から頬へ手が移る。
「そう怒らないでくれ」
「別に怒ってません」
ぞわぞわとした感触を堪えて言うと、再び教授は少しだけ歪んだ笑みを見せる。
唇の下側に小さな傷があって、それが微笑程度の笑みを歪ませているのだと、最近気がつ いた。その傷がなければ、もう少し優しい顔に見えるだろう。
「それなら、仕度しなさい。半日ほども回れば、決まるだろう」
「回るって何処を」
と言いさして、テーブルの上を見た。新聞の脇には、何時もなら広げられないようなチラ シが広がっていて。
一番上のそれは、車のディーラーのものだったりする。
少し郊外へ出れば、街道沿いにそうした店は山ほどあるわけで。
まさか……。
思わずチラシと教授を見比べてしまう。教授は笑顔のまま、とんでもないことを言っての けた。
「管理会社に尋ねたら、ここの駐車場はまだ空きがあるそうだ。良かったな」
 良くない。
長期戦になることを覚悟して、僕は息を一つ吸いこんだ。


『まぁだ雑音が入ってるなぁ』


 二時間後、僕はすっかり疲れ果ててBMWのシートに沈んでいた。
教授はセカンドカーが欲しいわけではなく、僕も現在車を維持できるほど余裕はない。
全く経済感覚が違うことは分かっているけど、まさか車一台買ってやる気でいたなんて思 ってなかった。
いや、以前に妙なディーラーに名刺貰ったりはしていたし、教授が車好きなのは充分に分 かっていたんだけれど。
分かっていたけど、どう考えたって非常識だ。
それに、他人の要らざる注意を引いてしまう。『教授のお気に入り』というレッテルを張 られた僕としては、黒々とした文字をぼやかすべく色々と頑張って滲ませてきたつもりだ が、嫉妬は容易くそれに上書きが出来るらしい。
ゼミの後輩連中の認識も、それと似たり寄ったりだった。
 碓氷ゼミには、三年次の後輩を面倒見るはずの五年次の学生が、一人しかいない。
丁度教授の奥さんが亡くなられた時期だったため、一部の学生は他のゼミに移ったりして 元々少ないゼミから更に人数が減ったのだ。
残っている黒崎という五年次は大人しい性質で、後輩達を面倒見きれない。それで、四年 次となった僕と板倉、小田と樋口に三年次のフォローが回ってきたのだが。
去年の僕も、あんなに手が焼ける存在だっただろうか。
勉強以外では鳥の雛のように喧しい連中のことを、取りあえず頭から追い払う。
「どうした」
 先程よりは機嫌を悪くした教授が、それでもシート位置をずらした僕に気がついて前を 見たまま声をかけてくる。
「大丈夫です」
平穏な時間を出来るだけ保つために、僕は素早く答えを返す。
 大体、僕は丈夫な方だ。今まで倒れたのだって、得たいの知れない花の成分だの、殴ら れたり踏まれたりだの、出血多量による貧血だの、……スタンガンだの……、碌なことは ないが、とにかく体力の所為ではない。
僕が悪いんじゃない。
反論しかかる自分をねじ伏せて、僕は、アルバイトで覚えた『理想的な家庭教師の笑顔』 を作って運転席に微笑みかけた。
 結局、ごねられてこちらもごね返して、不毛な価値観の擦り合わせが『欲しい医学書を 買ってもらう』で済んだからほっとした。それだって間違いなく高額だ。
本なら、学生が貰ってもどうにか誤魔化せる。後で誰にばれようと、どうとでも言い訳が 出来る。
 こう言う時、別に何かをくれるわけでもなかった所長の態度はあり難いものだったのだ なと思った。
祥代さんの事件に不愉快な係わり方をしてしまった僕は、学費のことで揉めるかと思って いたのだが、間違いなくそれは全納されていた。寄付金だって振り込まれたのだろう。
契約は契約と言うわけだ。
何かを買ってはくれなくても、僕に必要なものは与えてくれる。
所長とは、事件以来まだ顔を合わせて話しをしていない。
告別式で遠くから見かけた程度だ。きっとバイトの話しも出てくるから来週辺り会いに行 かねばならない。
「それより、こちらだと少し遠回りじゃないですか」
 医学書の数が豊かな大型の書店目指して車を走らせているのだが、心もとない僕の記憶 では、目指す書店はもう一つ向こうの通りを走った方が近い筈だ。
「ああ、少し寄る場所がある。構わないか」
自然と半眼になると、丁度信号停止になったのをよいことに教授は片手を上げた。
「車ではない。急にサインさせたりもしない」
「分かりました。どうぞ」
信号は変わり、車は発進する。
教授に断って窓を開けると、指一本ほどの隙間から春と呼ぶには寒い風が押し入り、車内 の空気から熱を奪いにかかる。
撥ねまわりたいほどの活力と薄ぼんやりとした空の色のような倦怠感とが誰の体内でもせ めぎあっている。
せめて、あと一人。
無菌室の奥の誰かに、その活力を僕は与えられるようになりたい。
あと三年。それまで、いや、僕が治せるようになるまで、生きていてくれ。
硝子だけでなく広い空間を隔てた相手を思い浮かべかけた時、僕の頭髪を弄っていた風も 止まった。
「降りるぞ」
促されて一応前後を見ながら、車を降りる。
 教授について入っていったのは、『Jewel&Watch Shimizu』と入っている店だった。入
り口近くは照明を落とし気味にして、左右のウィンドウにあるネックレスや宝石入りの時 計が際立つようになっている。
手前には比較的安いらしい宝飾品が幾つかのケースに分かれて展示されていたが、教授は 一切構わず奥の方へすたすたと歩いて行く。
ブランドものの時計なんかが並んでいて、何事かと思ったがすぐに分かった。
「いらっしゃいませ」
一人で見るようなものでもないので、僕は教授の後からついてゆき、笑顔だけなら見習い たいような店員に、教授がしていた時計を差し出すのを見て納得した。
「電池の交換をお願いしたいんだが、それと竜頭が少し緩んでいるようだ」
「かしこまりました、おかけになってお待ち下さい」
促されて、教授も僕も椅子に腰掛けた所で。
「ああ、それと」
「はい」
「幾つか、見せてやってくれないか」
 教授の顔が、店員ではなくこちらを向いた。
僕を、手ではなく視線でポイントしている。
またしても省略しきった言葉だが、意味くらいもう分かる。
僕に、時計を、買うつもりだから、幾つか、候補を、見せてやれ、と。
嵌められた……。
「ご子息さま向けですか、少々お待ち下さいませ」
今更席からは立てない。すぐに別の店員がやってきて、僕の前ににこやかに座る。
「スタンダードなものをご希望ですか、それともカジュアル、スポーツ……」
スタンダードなのは大学の時計で、普段使いでもう持ってる。
「じゃあ、スポーツタイプで……」
 横に座ってる教授の足を踏んでもいいだろうか。一寸でいいから。
何時もの忍耐の針がレッドゾーンまで振りきれそうな苛立ちを覚えながらも、ケースに顔 を俯けて見ている振りをする。
 ちょうどケースの中はそんな感じの時計ばかりだ。値札が凄まじい……定価が福沢諭吉 の団体旅行ほどもするものばかりで、僕としては遠慮したいが。
「クロノスイスがお好みでしたら」
内側のキィが外されて、ずらりと黒や白銀の文字盤が目の前に並ぶ。
学部の連中も持っていそうだ。二つ三つ見た覚えがある。
「こちらが最新のレギュレーター・トゥールビヨンです……お気に召しませんか、それで はデルフィス、カイロス・ルナ、ルナ・クロノグラフなども……スケルトンがお好みでし たらオーパスかパトスは如何でしょうか」
うわあ、分からない。
何でそんなに幾つも幾つも高級腕時計なんか作るんだ。
不景気不景気言っていても需要は高いわけか?
僕の感覚が一般庶民なだけか、それともここが狂ってるのか?
くらくらきそうなデザインと値段の中、やっぱり出ようかと思ってなんとなしさ迷った視 線の行く先にあった一つの時計。
黒い文字盤に、通常の時計のほかに四つも円盤がついている。三時に当たる部分に日付、 九時の部分は……スモールセコンド?十二時と六時も何かを計測できるようだ。
そんな複雑なものもあるのか、と思った視線の先で手が動き。
「これが良いのか」
ひょいと取り上げた教授の手の中で揺れ動く値札に僕は絶句する。
少なくともこの時計一つで中古の車が買える。
「あ……」
「クロノメーター、お試しになられますか」
時計は店員の手の中に移動し、申し分がない笑顔が僕に言う。
「右腕をお出しいただけますか」
いつもしているのを外して仕方なし手首を差し出すと、するり、と上から緩めに載せられ て、見れば確かに恰好良い時計だ。時計なんだけど……。
「クロノ以外にはパテック・フィリップや、もう少しカジュアルでしたらコルムなども面 白いかと存じますが」
これ以上見ろっていうのか?!
色々な意味で麻痺してしまいそうな感覚に、僕は首を横に振った。
「では、こちらで」
「お願いする」
売買契約は、売り手と買い手の意志が一致すればその場で成立してしまう契約である。
民法で習ったっけ。
全く僕の意志とは無関係に決定した中古車一台分の時計は、まあ教授の支払いなのだろう けど。
小奇麗なケースに時計は収まり、袋に入れられ、リボンをかけられ。
「……碓氷様、いつも有難うございます」
渡された顧客用のカードを確認した店員が慇懃に頭を下げ、精算が行われて袋がこちらに 押しやられるまで、僕は丸っきり蚊帳の外だった。
「宜しければご子息様も」
「……いや、今度にしよう。寄る所があるのでね」
電池を換えた時計を教授は腕に巻き、ある種の達成感を湛えた顔で僕を見た。
最初っからこのつもりだったわけか。
「さ、行こうか」
僕の内心なんかお構いなしで、さっさと出ていってしまう。
踏むなんて生易しかった。蹴飛ばしておくんだった。


 僕はもうシートから起きあがる気力を失いそうだった。
「どうした、遠出で疲れたか」
 全部あなたの所為なのに、どうして僕は礼を言わないとならない立場なのだろう。
世の中の不条理さに一つ付け加えるとしようか。
「いえ、大丈夫です。今日は有難うございます」
 学費を除いては、僕の一生で一番高いプレゼントになる。間違いなくお返しの出来ない レベルのものだ。
これ以上にしないには、どうすべきか。
「気に入ったか、良かったな」
この上ない上機嫌な様子で、教授は本来のルートへと車を向ける。
「あの……」
「本屋だったな、それとも先に昼にするかね」
首を横に振る。
「本はもう、いいです。自分で買います」
「何を言うんだね。お前の誕生日だから出たのに」
温情や優しさも極まると凶悪だ。この日そう思った。
時計で充分買い物はしたと思わないんですか、教授。
「まあ、本程度は。お前は本当に真面目だから、そうしたものでも嬉しいんだろうが」
いや、あの。また何かずれてるな。今度は何だろう。
「えぇと、もう既にプレゼントは頂いてるんですが」
 時計の袋を示したが、そも僕と教授の認識のずれは、そこ以前の問題だと思い知らされ ることになった。
また赤信号で停止した教授は、ちらと僕を見遣って言ってのけたのだ。
「電池、お前のは切れているようだぞ」
……は?
思わず車の時報と右腕を較べれば、確かに、止まっている。
止まっているけどどうして店では教えてくれなくって。
「あの、博光さん」
「あそこで換えるとお前のことだ、高くつくとか騒ぐだろう。それよりはもう一つ時計を 買ったほうがいいと思ってな」
 いや、あんな高級品を扱っている店で騒ぎ立てやしないけど。
もう首を一寸曲げて相手を見る気力さえ失われてしまった。
さっきの抵抗を根に持ってるな、教授……。
やっぱり屈折して仕返ししてきたじゃないか。
「まあ、日用品だ。一つくらい増えても問題はないだろう?」
スクランブル交差点なので、道はなかなか開かない。
「どうした、この世の不幸を一心に背負ったような顔をして」
 ……いや。
「僕は、多分……幸せなんですよ」
 シートに沈んだまま、僕は人の波が過ぎるのを見ていた。
望まぬものを容易く与えられて、望んだものにはまだ手が届かない。
それでも、何か掴めるだけ、僕は幸せなのだろう。
抗うのさえやっとな彼に較べなくとも、きっと。
「そうか」
 否定でも疑問でも、しかし肯定では有り得ない呟きを発して、教授は青になった道路に アクセルを踏みこんだ。


『んん〜、本当に幸せなのやらなぁ?』

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