| TUNEUP3 |
| 夏場、ボーナス前、仕事の追い込み。 本格的な夏の始まる少し前は、スタンドは奇妙に手すきになる。 今日の売上の額に内心がっくりとしながら、二宮正和は自分が所長を勤めるガソリンスタンドの後片付けに入った。 メンバーは何とか新規アルバイトを含めて確保したものの、接客態度のよいのが立て続けに二人も抜けてしまったため、二宮はかなり苦労する羽目に陥った。 休み返上で働いて、……漸く明日、ひと月ぶりの休日になる。 かなり伸びてきた不精髭の顎を擦りながら、二宮はサービスルームを出て配電盤へと向かった。 既にアルバイトの面々は、手に手にチェーンを持って待機している。これをどうするかというと。 「オッケー、消灯するぞ!」 パチリ、と電気が切れた瞬間、三ヶ所ある入り口の全てに、バイトが一人ずつ走った。両側にある柵にチェーンの端を引っ掛け、大人の腰の高さ辺りに固定するのだ。 電気が消え、入り口も閉じた状態になったスタンドは一日の営業を終える。 たまに、駆けこみで給油客が出ないわけではないが、今日は大丈夫そうだ。 仕事を終えた満足のうめきをあげて、バイト連中はスタッフルームに駆け込む。今日は二宮以外の正社員は(と言っても二人しかいないが)休みなので、帳簿の報告からレジの締めまで一人で行わなければならない。 伸びを一つして、ゆっくりと二宮は配電盤の蓋を閉めた。 「……おじちゃん!今日はもうおしまい?」 背後から甲高い声がして、疲れで引き結んだままだった口元を綻ばせた。 「おぅ。もう、今日はガソリンは出さないぞ」 振り向けば、黄色い帽子の小学生が、塾の鞄を持ったままの手を振り回している。 二宮のアパートの2軒隣に済む佐渡貴哉は、毎週塾の帰りにスタンドの脇を通る。 前は母親と一緒に通っていたのだが、最近は一人で頑張っているようだ。 「偉いな、今日もお兄ちゃんか」 へへっ、と、チェーンにつかまってぶらぶら揺れながら貴哉は笑った。年末には弟だか妹だかが生まれるらしい。最近は帰りにここで足を止めて、二宮と話しては帰るのが習慣のようになっていた。 たまにだが、一緒に帰ることもある。 仕事柄、顔を良く知られている二宮は、貴哉の親からも信頼されていた。 「うんっ!……おじちゃんまだお仕事?」 「おぅ。もうちょっとで終わるから、待ってな。一人で頑張ってるご褒美に、アイス買ってやるから」 「やぁぁったぁぁっ!!」 貴哉は文字通り飛びあがって喜び、チェーンをさっとくぐると勢い良く二宮まで走り寄ってきた。可愛らしい笑い声に、疲れも少し飛んだ気がする。 笑みを浮かべて見ていると、何かを思い出したのか、あ、と小さな声を上げて貴哉は黙った。あるかなしかの顎に手を当てて考え込む仕草は、最近のアニメの影響らしい。 「どうした、別に事件は発生してないぞ」 ぽんぽんと帽子ごしに頭を叩くと、貴哉は可愛らしく首を傾けてこう言ってきた。 「うん、……おじちゃん、ボクのも嬉しいけど、別のお兄ちゃんに1コ買っていい?」 別の。はて、誰だろう。近所の顔ぶれを二宮は考えた。反対側の隣にそういえば受験生がいたな。しかし、こんなおちびさんにそんな気遣いはないだろう。 「別のって誰だい?」 ついで、少年の小さな口から語られた話は、二宮を仰天させることになった。 「うん、ケイ兄ちゃん。今日も、シャツ着ないでガンバってんの」 全身を自分の身体から吹き出た汗でしとどに濡らしつつ、古河圭吾は這うようにして車から出た。 額を腕で拭い、ふぅ、と吐息を一つつく。しかしどことなく楽しげだ。 「ケイ兄ちゃ〜ん!」 目一杯大きく子供の声が響いて、一瞬ぎくりとなる。 「……ね、頑張ってるでしょ?」 何度も聞かされた子供の声は、誰かに向いているようだ。と気がつきそちらを見て、圭吾はもう一度身体を竦ませ、ややあって破顔した。 「所長!……お久しぶりです」 二宮は、圭吾にすれば上京して右も左も分からない圭吾を雇い、スタンドでずっと使ってくれていた恩人だ。 事故に遭ってスタンドを辞めてしまったとはいえ、それは変わらない。 幾分圭吾より低い身長、不精髭を散らばした顔。三級整備士と免許の取得を勧めてくれ、車がただ好きだっただけの圭吾を半人前には仕込んでくれた。 あのままスタンドにいれば、一人前になれたかも知れないけれど。 「結局、やってることは変わらないんだな、ケイ」 少し斜めになっているガレージの入り口を、半分まで二宮は下っていた。持っているコンビニの袋を、何度もジャンプしている貴哉に渡す。 受けとった瞬間、少年はたたっ、と急ぎ足に圭吾に向かって走ってきた。 「ケイ兄ちゃん、サシイレだって!」 「あ、こら走るなって……!」 圭吾と同時に、二宮も動いていた。 走りだし、程なく廃油らしきものが入った空き缶に躓く貴哉。缶はへこみ、鈍い音を立ててねっとりした液体を弾かせ、小さな飛沫をあちこちに飛ばした。 咄嗟に圭吾はその缶を脇にずらし、二宮は背後から子供を抱える。 飛沫が散り終えた後、二人は小さく吐息をついた。 貴哉はきょとんとしている。 「こら。駄目だろう、ここは色々な物が置いてあるから、気をつけないと」 圭吾に言われ、ぱちぱちと瞬いた後、貴哉はしゅん、となった。 「ごめんなさいぃ。でも、アイス」 「でも、はないだろ。貴哉だってお兄ちゃんになんだろ?」 こくり、と頷く少年をそっと脇において、二宮はぽんぽんと軽く頭を叩いた。 「スタンドと同じだ。車の近くでは走ったら駄目だって覚えておけよ」 「はいっ」 圭吾の眉が、無意識のうちに寄った。が、脇の工具箱からウエスを出して、少年の顔に飛んだタールのような液体を拭い始める。 「シャツ、大丈夫か?顔、洗ってけよ」 ふと二宮は、圭吾が今までその下に潜りこんでいた車を見た。クラウンだ。 「これ、誰んだ?お客さんのか?」 どこかで見たような気もするが、何故か思い出せない。 圭吾に顔を向けると、照れたような笑みが返ってきた。 「あ、卯月先生のです。最近左のタイヤ辺りで音がするって言ってたから、俺久しぶりに見てみたくなって」 それでも声音に残された躊躇いに、二宮はサイドミラーを見るふりで視線を外した。 事故さえなければ。その思いは、圭吾を知る殆ど皆の胸にある。 あれさえ、なければ。ケイはまだ俺のスタンドにいて、楽しく働いていられたんだ。 奥の扉が、ばたん、と開く。 「ケイ、何時までやってる?」 家にいても黒を好むものなのか、クリーム色のシャツの下に黒いスラックスを穿いた、眼差しの鋭い男が顔を出した。 ここの主、夜久克征。事故に遭った圭吾を引き取り、といえば聞こえは良いが、二宮からしてみれば、大事に育ててきた社員候補を横合いから掻っ攫って自分の稚児にしたとんでもない男だ。 一瞬、ぶつかった視線が火花を散らす。 夜久は夜久で、二宮に対して敵愾心が抜けていないようだ。 (何でお前が) そう視線だけで言いかかった夜久の前に、貴哉が飛び出した。 「夜久のおじちゃん!!アイスあるの、一緒に食べよう?」 見上げる少年の手にあるコンビニの袋を覗きこんだ夜久は、中を見て再び呆れた様に二宮を睨んできた。 「貧乏ったらしいな。せめてハーゲンダッツくらい買えないのか」 「だったらあんたは食うなよ」 ふん、と唇の端を歪めて夜久は笑い飛ばした。 「安月給の懐を痛ませるような真似はせんさ。個数をそろえるのに手一杯か」 「あ、でも夜久さん。それおいしいですよ。氷ガリガリしてて」 圭吾が多少引きつった笑顔でフォローに入る。本人は好きだといいたいらしいが、二宮は何となしガックリとなりかかった。 「俺も好き〜!おじちゃん、一緒食べよ?」 袖を揺すぶる貴哉に和んだ顔をした夜久は、ふと後ろを振り返った。 「だ、そうだ。卯月。車は多分直ったとは思うが、どうする?」 夜久が少し脇に避けると、理知的な、難を言えば冷たげな印象を与える青年が、小柄な少年を連れてガレージに入ってきた。 この青年には見覚えがある。 「僕は要らないよ……ユキ、食べるかい?」 「ケイさんと食べられるなら、俺はいてもいいんだけど……センセ帰るなら、一緒がいいや。……あ」 青年の腕に縋りついた少年は、二宮を見て動きを止めた。 吉川雪登。圭吾の後輩で、家の事情とやらでスタンドを急に辞めてしまったもう一人。 何故か引きつった笑顔が青年の背後に半分隠れて挨拶してくる。 「お、お久しぶりです所長……」 二宮の頭の中でパズルのピースが揃った。 思い出した。卯月祥郎。圭吾が事故を起こした時の主治医で、夜久の知り合いだ。 当然とは言い過ぎかもしれないが、碌な知り合いではあるまい。 そして甘えるように腕に縋っている雪登。と、いうことは。 「お前ら……」 呆れ果てたと言うか、情けないと言うか。要するに俺はこいつらに大事な雛鳥を二羽も取り上げられて食われた親鳥か。 帽子に押しこめているが脱げば結構豊かな黒髪を、二宮は片手でかきまわした。 「何だ、今更。もうどっちもお前の所の従業員じゃないんだからな。文句を言うな」 当然のように言う夜久とは対照的に、卯月は目を細めて二宮を見た。 途端、ざわり、と背筋に寒気のようなものが走る。 い、いやいや、何でこんな若造が恐いんだ。そんな筈ないだろう。 「おや?どこかで……お会いしてなかったかな?」 そんな言葉が自分に向けられるとは思わなかった二宮は、大きく横に首を振った。 「そう?それは失礼…………本当に?」 心臓がバクバクいい始める。恐い。筋者が来たって怯まない筈の自分が、どうしたことだろう? 尚も幾分探るように見つめてくる卯月の袖を、再度雪登が引く。 「センセ、だってスタンドの所長さんだよ。一度は見てるってば」 何となく不機嫌そうなその頭上に、夜久はカップのアイスを二つ置いた。 「ほら、とっとと持って帰れ。お前は二度と来ないでも構わんぞ」 ぷうっと膨れながらも、雪登はカップを手に取る。 「ひっど〜い。ケイさん一人占めしたいからって俺まで邪魔もの?」 赤くなる圭吾と、きょとんとしてその様子を見ている貴哉に、二宮はほっとした。 小さい子に聞かせるような話ではないが、幸い分からなかったようだ。 夜久でさえ、ノーコメントといった風だから常識はあるらしい。 (最近の子供は早熟だからな……妙なことにならんようにしないと) 先ず二宮は、しっかりと自分に言い聞かせた。 「ま、帰ろうよ、ユキ。夜久は早く二人きりになりたいようだよ」 腕を卯月に向けて振り上げたものの、夜久は二人がクラウンに乗りこむのを待って、ガレージのシャッターを全開にした。 「じゃ、お休み、夜久。お休み、……パパさん」 一瞬後、自分が貴哉の父親扱いと知って二宮はむっとした顔になった。 「父親じゃないぞ〜!」 しかし、貴哉は『ばいばい、おじちゃん』などと言いつつ、二宮のズボンにつかまりながら動き出したクラウンに向けて片手を振っていた。 これは説得力がない。後部座席から甲高いげらげら笑いが聞こえてきて、すぐに夜道を遠ざかって行った。 「所長。それより、アイスと……汚れたとこ洗ってください」 圭吾が、先ほどのウエスを二宮に渡す。ふと見ると、点々と腕やシャツに廃油が散っていた。どうせ汚れたのを着ていたからたいしたものではないが、多少めげる。 「貴哉も、腫れたりしたら困るしな」 「ボク、お兄ちゃんになるから大丈夫だよ!」 「お兄ちゃんは関係ないだろ」 主張する少年に、何となし夜久までが薄い笑顔になった。 「ま。シャワーぐらい浴びろ。風呂は貸してやる」 子供には優しいのかもしれないと思いながら、二宮は促されるまま二人の後について、貴哉と共に卯月達が出ていったドアをくぐった。 ディーラーという職業は、儲かるとは聞いていたが、まさかこれほどとは。 4畳半近くもあろうかという広い風呂場に、二宮は茫然と立ち竦んでいた。 「すっご〜い!!お風呂屋さんみたいだね!」 少し上のほうに大きく開いた窓、ユニットとはいえそこらの安宿についているような貧弱なものではない。大人二人がゆったりと浸かれそうな広さに、普通の風呂では見られないタイプの孔が開いている。 オフホワイトとそれに近いブルーで構成された風呂場は、一人が使うには余りにも豪勢な印象を与えた。当然圭吾も使うのだろうが、それにしても贅沢だ。悔しい。 「ねぇねぇこれ何、二宮のおじちゃん?」 「あぁ、ジャグジーだよ。泡の出る風呂」 アイスを仕舞って脱衣所に入ってきた圭吾が答える。 「わ〜!いいなぁ……」 目を輝かせて覗きこむ貴哉に、自分はまだジーンズを穿いたままで、圭吾は浴槽に近づくとジャグジーを捻った。最初はコポリ、という小さな音。やがて少しずつ大きな泡が出始めて、浴槽をゆっくりと沸き立たせてゆく。 「すごーぉい!すっごーーい!!」 目を輝かせて見入る貴哉に自分も笑いながら、圭吾は脱衣所に戻るとジーンズを下着ごとさっさと脱いだ。 「ん?お前も入るのか?」 二宮は圭吾よりも小柄な体格だし、貴哉は小学生だからこの広い浴室が手狭になることはない。 スタンドで走りまわり、働きに働いて鍛えた体が入ってくる。 「ざっと浴びちまおうと思って。あ、所長の次でいいですから」 すぐには答えず二宮はシャワーの栓を捻り、貴哉に顔を向けた。 「ほら、たぁ坊、シャワー浴びないと風呂は駄目だぞ」 「はーいっ」 あっという間に戻ってきて、シャワーの勢いに笑いながら湯を浴びる貴哉。そちらに意識を向けるようにして、二宮は人知れずそっと息をついた。 存分に湯を浴びて、腕や脚を擦り、廃油の辺りをきっちりと落とす。汗や垢で死ぬことはないが、化学物質は問題だ。 「じゃ、悪いなケイ。ちょっとだけ入れてやって良いか?」 シャワーを渡すのは、さり気なく出来た。 「あ、どうせなら所長もどうぞ。結構、楽しいですよ」 引き締まった下腹部に目がゆき、一瞬どきり、となった。 「そ、そうか。悪いな。少しだけじゃあ……」 たぁ坊の介添えだ。俺はたぁ坊をこの後送って行くんだ。二宮は懸命に自身に言い聞かせつつ泡立つ風呂に入った。 その様子に陰りのない笑顔を浮かべながら、圭吾がシャワーを浴び始める。 貴哉を遊ばせつつ、何となしやはり目がゆく。 両肩の逞しさ。すっきりと伸びた背筋の良さ。棒のようにではなく、要所要所くびれていて、筋肉の張りを見せる肉付きの良さ。 少し浅黒くて、それでいて朱の色に染まると艶さえある肌の色。 湯が飛び散る。泥と汗と廃油の匂いを吹き飛ばして若々しい身体が動いている。 やはり、ケイは綺麗だ。 少しだけ腰の辺りが変わったと思うのは先入観だろうか。それとも―― ――すっと、音も小さく、しかし幅は大きく浴室のドアが引き開けられた。 整っているはずだが柄が悪い……と二宮が思っている……男が、顔を覗かせる。 「すっかり保父だな」 そう言いながらもやっぱり目で牽制してくる。見るなと言ってくる。 煩い。シャワー時までうだうだ言うな。ケイは元々は俺が面倒見てたんだ。 シャワーを浴びている圭吾が夜久に視線を向けたのを幸い、二宮は思いっきり夜久を睨みすえた。 この身体を作ったのは自分だ。そう言えないこともない。身体を壊すほどは働かせず、しかし怠けさせずにしっかりと大人の身体になる様に育ててきたのだ。 自分の好みはさておき、スタンドマンとして、プロとして問題がないようにと、それを再優先に考えてきたつもりでいる。 少なくとも、こいつみたいに弄ぶことしか考えてない男とは違う。 何となし険悪な空気に圭吾が怪訝な顔をしてシャワーを止めにかかる。 二宮の腕に、急激に柔らかい重みがかかった。 「あ、夜久のおじちゃん、このぶくぶく楽しいね!!」 貴哉が二宮に甘える様にしながら、夜久に向かって小さな片腕を振りまわす。 途端、スタンドとは違って優しいと言えなくもない笑顔が少年にだけ向く。差別だ。 「そうか。余り遅いと家で心配するだろう、アイス食ったら良い子で帰るんだぞ」 ちょっと、と夜久は圭吾を手招きし、圭吾は『お先に』と二宮たちに声をかけると脱衣場に出て行った。 途端、この広い場所を占拠していることになんとなし罪悪感を覚える。 「たぁ坊、あがるか」 「うん……よそんちのお風呂だもんね」 名残惜しげだが、二宮にぴったりくっつくようにして、貴哉は風呂から出た。 ジャグジーは止め、もう一度シャワーを出しなおして、最後に足元や床を洗い流す。 きちんとなったことに満足して、二宮は小さな子を先に脱衣場に出すと、自分の一部を見下ろした。 (元に戻りきって……いるよな。) 事故のどさくさで、圭吾は夜久に強引に奪われてしまった。戻って来いと言ってやりたいが、あの男が手放すわけもないだろう。 自分は圭吾の将来に対して金銭的にはさほどのことをしてやれない。誰かを養う余裕もない男が、傍にいて欲しいと望んだのが間違いだ。 それでも、身体は未練げに、強張りを残して欲望を主張する。 好きだったから、育つまで待つつもりでいたのに、結果はこれだ。 首を振って脱衣場に戻り、これまたふかふかなバスタオルを手にとって貴哉を拭いていると、少年は躊躇いがちに声をかけてきた。 「二宮の、おじちゃん」 「ん?」 「……ケイ兄ちゃんのこと、好きなの?」 咄嗟に答えられず、二宮はバスタオルを動かす手を止めた。 ごしごしと少年を、自分を拭いていると、やはり遠慮めいた声が腰の近くからする。 「ダメだよ、ケイ兄ちゃんと夜久のおじちゃんは一番好きなどーしなんだから」 ずきり、ときた。 結構手痛いな。子供の言葉でも。 好きな同士、か……え。え?! 「い、今……たぁ坊何て言った?」 慌ててバスタオルを少年からはぐる。貴哉は、両手に腰を当てて、一応睨む様子を見せて二宮に言ってきた。 「だから、ケイ兄ちゃんと夜久のおじちゃんは恋人どーしなの。二宮のおじちゃんが好きでも、邪魔したらダメなの。分かった?」 ぱちぱちと二宮は瞬きした。 さっき、分かってなかったよな。こいつ。 それが何で、一体どうして、二人が……こい、恋び、……。 認めたくない、という思いと、しかしどうして、という疑問がぶつかった。 夜久も特にこれということは言ってもいなかった。 良識ある大人と言う態度を示していた様に見えた。吹聴はすまい。 何せ圭吾はまだ未青年だ。万が一、そういう間柄と知れたら周囲の目もあるにはあるが犯罪者として捕まりかねない。 「な、なぁ、たぁ坊。どうして、二人がこ、こ、こ……って、分かった?」 恋人同士とは腹立たしさと照れのあまり言えず、ともかく理由を突き止めようと、二宮はその場にしゃがみこんだ。 壁に、鈍い音が響く。伸ばした両腕が、少年を追い詰める。 困惑に満ちた少年の顔に、ずいっと無表情に、視線だけを鋭くして一回りは上の男のそれが迫る。折悪しく自分はブリーフ1枚だったりする。 どうして、男にこんな風に迫られるのか。そうは思っても、この眼差しからは決して逃れられない。 車を運転するときとは別の、酩酊とも違う、不思議な高揚感。 「あの……」 何を言おうとしたのか自分でも判らないうちに、唇を塞がれる。 奪われ、貪られる感触。群れから逃げ遅れて猛獣に捕まった獲物の様に、無駄と知りつつ抵抗をしてしまう。逃れられないと教える様に、きつくきつく呼吸を止められ、喘ぎさえ相手の口中へと吐き出して酸素を失う。 数秒、強制から同意に、恐怖から微かな悦楽に行為の意味が変わる。 押しつけられた甘さに力が抜けたのを見計らって、顔は僅か離される。 眼光は相変わらず、それでいて前にも増して引きつけられるのは、どこか満足げな口元だからだろうか? 自分が、彼に与えた感触は一体どんなものなのだろう。 頬に血の色を上らせ、静かに少年は相手を見つめる。 「……まだ、キス程度では勃たないか」 残念そうな声でとんでもないことを言ってくる男に、今度こそ抗弁を紡ぐ。 「何するんですか!お客さんがいるんですよ!」 「客か、あれが」 鼻先で片付けた男は、しかしこちらを向いて、人の悪い笑みを浮かべた。 「なら、『客』がいなければ、良いんだな?」 血の気が引く。 「ちっ、そ、そういう意味じゃなくて……!」 もう一度、唇が被さる。胸板を叩くと、伸びてきた手が敏感な部分にかかった。 布ごしに、強弱を織り交ぜた刺激が与えられ、喉がひくりと蠢く。 「安心しろ。時間は十分にあるさ」 逃れようにも身体は今やぴったりと男によって廊下の壁に押し付けられ、さっきと違い感じる余裕を与える様に唇を合わせてくる。背筋に走る感触。一瞬だけ箍が緩む。 すぐさま勘付かれて腕が、手が動き始めた。 「だ、駄目だって……」 ちゅぷ、と音がする。唇だからまだ良いが、もしこれ以上刺激を受けたならば。 以前よりも、壊れやすくなっている自分は、呆気なく彼に組み敷かれてしまうだろう。 それがわかるから圭吾は抵抗し、夜久は斟酌なしに手を動かしつづける。 男に胸をまさぐられて、最初に来るのは屈辱。次に来るのははっきりとした快楽。 捕まれば溺れてすべてを受け入れるしかない。鎮痛剤よりも緩慢に身体に染みる何か。 「嫌では、ないんだな」 錆びを含んだ声が、耳元で笑う。 渾身の力をこめて、圭吾は夜久を突き飛ばした。とはいえ、普段鍛えている夜久は壁に軽く肩が当たっただけで、意地の悪い笑みを見せて怒りもしない。 自分のことなど全てお見通しとでも言いたげなその態度に、圭吾は自分でも説明がつかない憤りに体温が上昇するのを感じた。 「早く着替えて来い。私以外にサービスなどするな」 「……お、男の裸見て楽しいのは夜久さんぐらいだよっ!!」 真っ赤になって言い返すと、圭吾は2階へと駆け上がっていった。 朱に染まる肌を見送りつつ、夜久は壁際に凭れて笑みを深くする。 「子供もいるってのに、何をしてたんだ」 苛立った声が脇からかかる。夜久は首だけを捻じ曲げた。 再び汚れた服を着なおした二宮が、手で貴哉の目を覆って立っている。 「ケイを玩具にでもするつもりか?」 勘違いも甚だしい男だ。夜久は内心嘲笑した。 「あれはスキンシップと言うんだ」 「どこがだ」 二宮の手を、貴哉が小さい手に力をこめて引き剥がし、夜久を見て好奇心に満ちた声を発する。 「夜久のおじちゃん、ケイ兄ちゃんといつものキスしてたの?」 「たぁ坊!」 一度ならず、夜久は先ほど圭吾にしていたようなことを貴哉に見られている。しかし、それについて罪悪感を感じたことはない。 何せ、最初に見られたのはもっと凄まじいことをしていた時なのだから。 「二宮。今更何だと言う?ケイはお前の雇い人ではないんだぞ」 「だからって、子供に見せるか!」 食って掛かる二宮は、しかし膝のあたりを捕まれて驚いた様に貴哉を見た。 「どうして?夜久のおじちゃんはケイ兄ちゃんが好きだからキスするんでしょ。二宮のおじちゃんがどうして怒るの?」 言葉に詰まる二宮は、夜久を睨みつけてきた。否定は、できないだろう。 どのような経緯であれ、実際圭吾は夜久の家にいて、二人で暮らしている。夜久との場合それが何を意味するのかは、二宮には良く分かっているはずだ。 圭吾に言っていなかったにせよ、こいつも同類だ。 と、ふと記憶を何かが掠めて、夜久は瞬きをした。 同類……何かが引っかかる。 そういえば卯月も、こいつに会ったことがあるように言っていた。 夜久の変化に気づいた様に、二宮も不審げな顔になった。 「一つ、聞きたいんだが。二宮」 「何だ」 「お前、どこで卯月と出くわした?」 純粋な驚きの後に、何故か恐怖を覚えた様子で首を振る二宮。 まばらな髭面は、ここ数年スタンド以外で見た覚えがない。一体何時のことだろう? 「な、何かの間違いだ」 一体、こいつと私の接点はどこだ?卯月なら、どこの発展場だろうとその手の店だろうとおかしくないのだが。 考えつつも身体は前に進み、あんまり見たくもないが自分よりは幾分か年上の取りあえずは男の顔を覗きこんだ。 「妙だな」 「な、何が、妙なんだ」 「私とは、どこかで出くわしているか?」 凄まじい勢いで二宮は髭面を横に振った。嘘をついている様には見えないが、それでも絶対にこの男は自分と会ったことがあると夜久は直感的に感じ取った。 「別に、恥ずかしがることでもないだろう。男同士、正直になったらどうだ」 「俺はお前たちのような見境ない男じゃないぞ!」 失敬な。半ば脅しの意味も込めて、夜久は圭吾にした様に、しかし片腕だけをついて二宮を壁に押しつけた。 「だったら、何処で会ってる?」 「か、かっ、勝手に決めつけるな!」 この声の上擦り方。一体何処で…… ぐい、と肩を引かれ、足に小さな抵抗を感じた。 「夜久さん!所長を脅さないで下さいよ」 湯上りでもきちんとTシャツとジーンズを着た圭吾が夜久の肩を抑え、 「おじちゃん、浮気しちゃ駄目!」 小学生の精一杯の思考でも勘違いをした貴哉が足にしがみついている。 「誰がこんなの相手にするか」 短い言葉を誰に向けたものか、夜久は曖昧なまま終わることに不快感を覚えながらも、二宮からさっさと離れた。 「あ、じゃ、俺はこのままたぁ坊連れて帰るからな。またな、ケイ」 凄まじい早口で言い、二宮は言葉どおり貴哉を引っつかむと玄関に向かう。 「……おじゃましましたぁ……またねぇ」 躾が良いのか、貴哉は引っ張っていかれながらこちらに手を振ってきた。 「あぁ、またな」 強張った笑顔で二人に手を振った圭吾の顔から、ドアが閉まると同時に笑みだけが抜け落ちた。 「夜久さん!何を考えてるんだよ、所長は違うってば!」 全幅の信頼というのは、腹立たしい。あのどこか間抜けそうな面では圭吾に手を出せず終いだったとしても、あの男が異性に興味を持つとは思いがたい。 まして、どこかで擦れ違う以上の何かがあったと摺り硝子の向こうの記憶が言っている。 「いや、絶対に出くわしている」 「だとしても、何で、所長にあんなに突っかかるんだよ」 本当だ。自分らしくないことは、夜久にもわかる。 しかし、圭吾にそれを指摘されたことは何となし面白くなさを増幅させるばかりだ。 「嫉妬でもしたか?」 尋ねると圭吾は余計に硬い表情になった。 「夜久さん、くだんないことなんか言わないでくれよ!今日変だよ」 くるりと振り向いて、さっさと階上の自室に上がろうとするその肩に、夜久は先ほど圭吾が自分にしたように手を伸ばした。 「……わっ」 「何が『わっ』だ。シャワー程度で綺麗になるものか、全部チェックしてやるから来い」再び、図体は大きいがまだ少年の抵抗が始まる。 ほんの数分前の口付けを思い出したのか、目を合わせまいとする。 「さっき、サービスするなって……」 「『私以外には』とも言ったな?」 もう、止める者もいない。卯月たち、次いで二宮たちと邪魔をされて、二人で過ごす長い夜は二時間以上は邪魔をされている。今夜はこれ以上、片時も手放す気がない。 引き寄せ、次の抵抗は許さず唇を塞いだ。 さっきより、緊張が解けるのには時間を要しなかった。 「夜久さん……」 決して美声とは言い難い圭吾の声に、聞くものの背筋を撫で上げるような艶が混じる。「今夜は寝かせんからな、覚悟しろ」 浴室の摺り硝子の向こうでこれから起こる出来事なら、記憶から去りそうにはないが。まだどこか片隅で過去を探りながら、次第に夜久は圭吾の肌に意識を向けていった。 「アイス、食べ損ねちゃったね」 それだけは貴哉にすまなくて、二宮は何度も少年の頭を撫でた。 「悪かったな。また、今度買って食おうな」 スタンドにはアイスクリームバーの自動販売機も入っているから、今度の折にはそれで奢ろうと思う。 「うん」 今日は貴哉の両親―――父親は理容師で母親が美容師らしい―――は二人とも遅いらしく、結局二宮の部屋で戻りを待つこととなった。 夏場、一日の殆どをスタンドで生活している中年男の冷蔵庫には碌なものもなく、何とかそれでも冷えたビールと麦茶の缶を出して、二人は安物クーラーのがたつく中、結構楽しく過ごしてはいた。 圧倒的に車関係の雑誌やチラシ、ポスターが多い、どこか雑然とした部屋にしょっちゅう貴哉は二宮のいるときに上がりこんでは、あれこれとめくって見ている。 こくこくと小さく音を立てて麦茶を飲んでいた手が、缶を離してぺとり、と二宮の頬に当てられた。 冷たさに気づいて見下ろすと、疑問で満たされた可愛らしい瞳が覗き込んでくる。 「二宮のおじちゃん」 「どうした?」 「……おじちゃんは、男の人が好きなの?」 これは、返答には窮した。即答できるのは、余程度胸の据わった男だけだろう。 「たぁ坊。……ケイと夜久さんのことは、誰にも言うんじゃないぞ」 夜久の弁護と言うよりは、圭吾の為を思って、二宮は少年に言い聞かせた。 「男の人は、大概は女の人を好きになる。でもなぁ……それだけで人を好きになるもんじゃないんだよ。男が良い、大好きだってのもいるんだよ」 小学校で性教育をする時代だとしても、これはまだ早い話になるだろうと思いながら、しかし誤魔化す気にだけはなれない。 過去に、自分が負ったものを思うと、躊躇いながらも二宮はそう言わざるを得なかった。少年は素直に頷き、 「うん、ボク、おじちゃん好きだもんね」 これには、微笑ましくて二宮はビール缶を取り上げて一口啜った。 「そういうんじゃねぇんだけどなぁ……」 この子供が大きくなって初恋などする時、今の話はどんな種類の記憶になるのだろう。苦い、おぞましい記憶にだけはならないように、それだけは知識として与えておいたほうが良いのかもしれない。 「どうして?嘘吐いてないよ、おじちゃん大好きだよ」 「……有り難うな。嘘だとは思ってねぇよ」 この子が意味を取り違えていたことに気づくとき、俺はやっぱり一人なんだろうか。 きっと四十代も半ばの、草臥れたおっさんだろうな。 ぴったりとくっついてくる少年の頭をもう一度撫でながら、二宮はそっと脇にビールを置きなおした。 「でも、でも、ちがわないよ」 疲れ果てた身体に、淡くアルコールと炭酸の刺激が染み渡る。 必死に揺すぶって訴えかけてくる少年の目が自分の子供ででもあるようにいとおしくて、二宮は微笑みかけた。 「ありがとうな、たぁ坊」 それでも、少年は先程のように素直には頷かない。 「ケイ兄ちゃんや夜久のおじちゃんみたいにおおきくないけど、ボク大好きだよ」 そういえば、この坊やはもうすぐ兄貴になるんだったか。大人の仲間入りをしたつもりでいるから、しつっこくなってしまうのだろう。 「分かった、有り難うな」 幼いなりに、周囲の状況を分かってゆこうと思っているのかもしれない。元々鍵っ子だし、そうしてこれから色々なことに自覚を持ってゆくのだろうか。 ぼんやり考えているうちに、酔いがゆっくりと身体に回り始めた。欠伸が涌き出る。 「おじちゃん、もう眠いの?」 時計を見ると、夜の十一時近くにもなっている。たぁ坊の親は何をしているのだろう。何時もならそろそろ帰ってきてもおかしくないのだが。 「おじちゃんってば」 ゆさゆさと揺すぶっているつもりだろうが、ちびっこの腕力などたかが知れたものだ。寧ろその動きは身体の中に押しこめていた眠気を解き放ち、緩慢に身体に絡みつかせる。 「おーじーちゃーん……」 ごろり、と二宮は横になった。 「悪ぃな、たぁ坊。親御さん帰ってきたら、起こしてくれ。ちょっとだけ俺寝るからな」何時も、息子がここにいることをあの両親は知っている。だから、引取りにきたら嫌でも起こされることだろう。鍵もかけ直さないとならないし。 「おじちゃん、風邪引くよぅ……」 馬乗りになってゆさゆさと揺すぶってくる貴哉の体温は、少し高い。 子供って、大人より体温高かったんだっけか。ちょっとだけ。ちょっとだけだから……。瞼を閉じたと殆ど同時に、二宮は寝息を立て始めていた。 貴哉は、ぷっくりと頬を膨らませて二宮の寝顔を見下ろした。 「おじちゃん……それじゃおとうさんと一緒だよぅ」 疲れた、つかれた、で。寝ちゃったら、お話できないじゃないか。 寝たふりかな、そう思って顔を近づけてみる。いつもの車の匂いはなくなってたけれど、ひげが頬に当たってちょっと痛かった。 床屋のお客さんはしっかり伸ばしてるかきれいにしてもらうかのどっちかだから、こんないい加減な伸ばしかたをしているおじちゃんは、やっぱりいそがしいのだろう。 安月給って夜久のおじちゃんが言ってたから、お金もないのかもしれない。 「おじちゃん……今度おとうさんとこの床屋さん、いこ?」 言ってみても、返ってくるのは寝息だけ。 「上手なんだよ、ちゃんとバリカンとかかみそりとか。いっとう良いのだって、持ってるんだから」 ゾーリンゲンの何とかいうものだと、父親が自慢にしているのを貴哉は何度も聞かされ見せられている。どうやって仕事するのかも、何度も見ている。 でも、お話したいおじちゃんはすっかり大の字だ。つまんないの。 「……おつかれさま、なんだね」 ボクに出来ることはないのかなぁ。貴哉は、必死に考えた。大好きだっていったのに、二宮のおじちゃんはホンキにしてない。 小さな頭から湯気が立ちそうなほど考えた後、貴哉はイイことを思いついた。 きっと、おじちゃんも喜んでくれる。 必要なものは家にあるし、どうすれば良いかも知っている。 おじちゃんをくすぐってみたが、むにゃむにゃと呟いた後、また寝息を立てていた。 だいじょうぶだ。きっと、うまくいくよ。 小さな影は、それから何度かドアを開け閉めし、2階の廊下を往復した。 |
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