TUNEUP3      


 ふと、スプリングが程よく利いたベッドの上で、卯月は身を起こした。
目覚める前に見ていた夢が、瞼を開けてもはっきりと思い出せる。
タイマーが切れて、エア・コンディショナーは止まっていたから僅か身体に汗が浮き出ていた。額を拭うと、しっとりと汗を含んだ指先をシーツで拭う。
 傍らで、この夏の暑さにも係わらずシーツにもぐりこんだ体が身動きした。
「どうしたの、せんせ?」
 くぐもった声の主を片手で探り、安心させる様に手を置く。
「何でもないよ」
 ずるずると、シーツをたぐりつつ少年が傍らに近寄ってくる。
首だけがひょいと出て、寝ぼけ眼でこちらを見つめてくる。
「眠れないの?暑いから?」
「そうでもないよ。それよりも、ユキは暑くないのかい?」
「俺、潜ってないと嫌なんだ」
 こちらも湿った肌が、腿の当たりに押しつけられる。付け根の緩やかに溶け合う辺りを指がまさぐる。
「熱、取ったげようか?」
「いいよ、タイマーセットしなおしたら僕も寝るから。お休み」
「うん。……おやすみ、せんせ……」
 すっと弄う様に撫でて、手が退いた。
くうくうと、獣のような寝息と態勢で眠ってしまった少年を残して、卯月はベッドから滑りでると窓際に歩み寄った。ブラインドの隙間に指を差し入れ、雲が僅かかかった夜空を眺める。
「道理で、思い出すのに時間がかかったわけだ……」
 溜息に似た静かさを含んだ声。
しかし、この声には毒がある。口元に浮かんだ笑みには暗い歪みがある。
小さく金属音を立てつつブラインドを閉じた指を見やる目には邪悪と呼べそうな光が浮かび、先程雪登が触れた辺りは、徐々に勢いを取り戻しつつある。
「実に、久しぶりだね。『彼』は覚えているのかな?覚えているよね」
 喉の奥で押し殺しつつ、漏れるのは過去を示唆する言葉。
過去の思い出に笑うものは、何かしら嫌らしい、醜いものを押し込めているという人間もいる。
だとしたら、卯月の記憶には何が浮かんだのだろうか?
「さて、ストレートに行くだけでは面白くなさそうだ。どうしようか……」
 空調では冷ませない熱が、暗がりでひっそりと色のない光を灯す。


 翌朝。
とあるアパートの一室で、凄まじいとしか形容しようのない悲鳴が上がった。
住人が駆けつけて、さほど立たないうちに騒ぎは取りあえず収まった。
しかし、それからその部屋の住人は3日間以上も、表に出てこようとはしなかった。


 前の日どんなに夜更かしをしようとも、夜久も圭吾も朝の5時には目を覚ます。
軽い掃除をしたり、食事を作ったりとしていると、あっという間に時間は過ぎて、新聞を読みながら朝食を摂る頃には2時間などあっという間に過ぎている。
至極健康的な生活を送っているとは言えよう。
その日の朝も、二人はお互い多少の疲労を覚えながらも起きだして、シャワーを浴びなおし、洗面台で身支度を整えていた。
「……そう言えば、お前。余り髭は伸びないな」
 圭吾は夜久にそう言われて、一応当たったばかりの顎をそっと撫でた。
「そうかなぁ……でも、薄いって程じゃないと思うけどなぁ……」
 夜久も多分標準的な方だと思う。髪こそ整髪料を多用しているものの、いつも余計なものを殺ぎ落として、圭吾から見れば無駄も隙もない男らしい姿だ。
「下も余りないしな。私の年くらいになったら剥げるんじゃないか?」
 むっとして、圭吾は鏡の中の男を睨みつけた。
「そんなことないよ、所長だって髭だけはなかなか伸びないって言ってたし。こんなの個人差だろ?」
 と、クリームを満遍なく泡立てた夜久の顔が、こちらを向いてくる。
「どうしてそこで二宮を引き合いに出すんだ、ケイ」
面白くないといわんばかりの眼差しを向けられて、何となく焦って壁に背を預ける。
「あ、だって、……所長なかなか髭が伸びないの気にしてんですよ」
「あの不精髭が?」
 胡散臭げな表情を見て、圭吾は内緒ですよ、と前置きしてから説明を始めた。
「昔、俺が入ったばかりの頃、スタンドの親会社の本部長が所長の髭が濃いって言って、無理やり剃っちまったことがあるんだ。で、その後大騒ぎになって……」
「良く分からんな」
 剃ったら見られる顔だとは思えん、と夜久は剃刀を滑らせながら言ってくる。
「ま、ハンサムって言うんじゃないけど……うーん……」
 暫し表現に困った圭吾は、やがて何とか当てはまる表現を見つけ出した。
「愛嬌ってのとは違うけど、動物系の顔してんですよ、所長。縫いぐるみみたいな可愛いってのか、……ほら、一時ペットで流行ったイタチの仲間……あれに、似てるんだ」
 そんな動物もいたか、と呟きつつ夜久は一通り剃り終え、微温湯を出してさっぱりと顎を洗い流した。
剃りあげて引き締まった顔を鏡に近づけ、確認していたその動きが微妙に止まる。
「で、それにしてもどうして騒ぎなんだ」
「本部長、所長見て吹きだしちまったんだ。『可愛い』って」
 それだけじゃなくて、近所のお客さん達も。所長はショックで、暫く欠勤しちまったんですよ。
男に可愛いはねぇよなぁ。と宙を上目遣いに見る圭吾は、自分もその客たちに『可愛い』と評されていたとは知らないらしい。
圭吾の説明に、夜久は再び眉根を寄せて考え込んだ。
「お前は、可愛いと思ったのか?」
「ヤだな。俺、所長をどうこう思ったことないですよ」
「当たり前だ」
 先日、夜の団欒の邪魔をしてきた(というのは言い過ぎだろうが時間は潰れた)男の髭面を、夜久は思い浮かべた。
不精髭はトレードマークだと思っていたのだが、どうやら童顔を隠しているわけか。
あの顔から髭がなくなったら、と思い、また僅かに引っかかった。
タオルを取り、顔を拭う。拭っている手が、途中で止まった。
あの、顔は――
「夜久さん?」
 圭吾が不安げに問いを発した時、リビング側で電話が鳴った。
「……私が出る」
 大股に歩いて、受話器を取る。こちらが声を発するまもなく、相手は挨拶してきた。
『おはよう。やあ、早くに悪いね、夜久』
 友人の声がした瞬間、不安定な拘りは確証へと形を瞬く間に変えた。
――間違い、ない。
「卯月、覚えていないか」
 電話の向こうの気配は一瞬間を置いて、何故かニヤリと笑んだように夜久には思われた。
『タイミングが良いね。説明が省けそうだよ』
 受話器を持ちなおしつつ、持ったままでいたタオルを夜久は脇に置きなおした。
その顔に浮かんだ笑みは、後から入ってきた圭吾を後ずさらせるほど凶悪なものだった。
「お前が忘れるわけはなかったな」
 喉の奥で漏れるのは、獲物を貪る肉食獣に似て低く濁った笑い声。
『勿論さ。夜久には色々ご教示いただいているからね』
 朝の爽やかさとは程遠い笑みを見た圭吾が、じりじりと廊下に戻って行く。
それを横目に眺めながら、夜久は再び受話器からの声に耳を傾けた。


 部屋で夏休みの宿題をやりながら、貴哉は何度も、一方の壁に眼をやった。
キャラクターのついたシャーペンを握り締め、YAMAHAのレーシングカーが映った大きなポスター、たった一つの壁の飾り物を見る。
そのポスターの下には、貴哉がマジックで書いたまま、消せない落書きがある。親に怒られて、廊下に出されて泣いていたら、通りがかった二宮が部屋から持ってきてくれたものだ。
(おじちゃんは、まだ怒ってるのかな)
 よい事をしたつもりでいたのに、おじちゃんからすれば嫌なことだったみたいだ。
おとうさんも『小さな親切大きなお世話』だったんだとグーでこづいた。
お兄ちゃんになるのにイタズラばかり、とおかあさんにはしかられた。
二宮のおじちゃんは……出てきてくれない。
もうアイスも……じゃなくて、きっと、おうちにも入れてくれないだろうなぁ。
小さな溜息が、部屋の空気を揺らす。
大仰に、と大人は言うだろうが、貴哉の小さな胸は今までで一番大きな挫折を味あわされて痛んでいた。
空は真っ青に晴れ渡り、夏休みに相応しく日差しが照りつけていても、貴哉の胸には雷雲が立ちこめて、雷が頭上に落ちてきそうな不安で一杯だ。
ぱん、とシャーペンを離して両手を机に置いたとき、外で小さな音がした。
扉が開く音だ。あの、ちょっと引っかかってからキイイッ、と聞こえるのは二宮の部屋のドアであることを、貴哉は良く知っていた。
「あやまんなきゃ」
 椅子から慌てて降りようとして、そのままバランスを崩して一緒に倒れこむ。どたり、という音が聞こえたせいか、かちゃかちゃと鍵をかける音と殆ど連続して、廊下を速い足音が遠ざかってゆく。
 痛くて涙がにじんだけど、貴哉は泣かなかった。踏ん張って立ち、ドアを開けて外に出ようとしてまた転ぶ。コンクリートの廊下はやっぱり痛かった。
擦りむいた膝こぞうを撫でている間に、制服姿が遠ざかって行く。帽子を目深に被っているようで、顔ははっきりとしない。
「おじちゃあん!」
 手すりにしがみついて貴哉は叫んだ。前に何度か、ここで呼んで手を振ってもらったことがある。だから、もしちょっとでも手が上がれば。
だが、二宮は気づいた素振りすら見せず、ひたすら足を早めて貴哉から遠ざかっていった。
「……おじちゃあん……」
 今度の声は届かないほど小さかった。後を追っかけてまた怒られたら、と思うのと、それ以前に相手にされなくなったら、という不安が貴哉の中で渦を巻いている。
どうしたら、また遊んでもらえるのだろう。小さい頭は、再び必死で考え始めた。


 お客には誠心誠意、真心を込めて接客を。それは二宮が信じ、店員にもバイトにも言い聞かせてきた言葉だった。
だが、今日は身が入らない。情けない、だらしないと自らを叱咤する。
何の為に三日も休んだ。店員達にも迷惑をかけたのだ。幸い大きなミスはなかったから良いものの、何か間違いがあったらどうするつもりだった。
自分がとった行動は責任ある大人のものではない。
それでも、二宮の胸から蟠りは消えない。殊に、お客の数名が何となし彼を見上げて物言いたそうにするとき、自分はある種の答えを予期し、それを回避しようと余計な言葉を連ねてしまう。
何人かが、そうしても疑問を消せずに言った言葉が、二宮を更に打ちのめした。
『イメージ変えられたんですか?』
『お若いんですね、本当は』
『何だかその方が可愛いわ、そうしていらしたら?』
 余計なお世話だ、と叫びたいのを堪え、苦い愛想笑いで誤魔化す自分が更に嫌気を催す存在になって行くようで、途中二宮は何度かトイレに行ってこみ上げてくる胃液を口中から洗い流した。
今日、これで何度目だろう。
だがどんな一日にも終わりが来る。もうすぐスタンドが終了するのは時計を見なくてもとっぷりと暮れた空が示していて、二宮はほっとなった。
と、どこか悄然とした社員の橋がやってくる。自分がこんな体たらくだから、余計に過重をかけたことだろう。心の底から感謝と詫びを言うべく、二宮は彼に近寄った。
「橋、今日は済まなかったな……」
「所長、済みませんでした」
声はぶつかって、どことなく熱気でやられたような弛みを残してスタンドに響いた。
「どうした?俺が今日はへたばってたからな。明日からはもう少し気合を入れるから、お前は休んでくれて良いぞ」
この数日、二宮の不在を補ってくれていた社員は、首を振って手にしていたビニールの包みめいたものを手渡して寄越した。
「昼間来たお客さんから、所長に渡してくれって頼まれたんですけど。俺、忙しくてロッカールームに放りっぱなしだったんですよ。ほんとは飾っておくもんなんでしょうけど」
 包みは、花束のようなものだった。
何故花束と言いきるのに問題があるのかと言うものも、これを見れば首を傾げるだろう。
花は、たった二輪。
真紅の薔薇と紫の薔薇が、一輪ずつである。
それだけで一輪挿しに生ければ人の目を引くだろう。
単純に、一輪だけの包みを買ったわけではなさそうだ。何故なら、根元は良くある花屋の輪ゴムではなく、直接ピンクのリボンで結ばれている。その上を、ビニールを被せて更にもっと濃い色の、しかしやはりこれもピンクのリボンで結んであるのだ。
「変なんですよね。これじゃ一輪挿しじゃなくて……っと」
 最後の1台になるだろう車が、入ってくる。
「俺、やりますよ。いらっしゃいませ〜!!」
 走って行く橋の背中が、二宮の視界からぶれた。
一輪挿しじゃ、なくて。
その後に続かなかった言葉が脳裏で聞こえる前に、意識は現実を脳から締め出した。
ついて行けなかった身体が崩おれる。
視界の隅に、驚いて振り返った橋の顔が映った。
えずくものは何ももう体内に残っていない。なのに強烈な吐き気がする。
収まったばかりの苦痛が内側から二宮を苛む。
唾さえももう沸いてこない。色彩も僅かな視界から消えてゆく。
あぁ、違う。コンクリートの床だからだ。ラインがない側に倒れてしまったからだ。
立たなくては、と思うがこの数日の疲れが二宮の意志から最後の気力を奪い去った。
「所長?!」
 だらしない、一日くらいで……。


 鬱陶しいほど暑い夜だった。
直接の上司である係長と散々飲み会で遣り合った挙句、殴り飛ばされた顔が痛い。
部長の女婿だと言うだけで威張り散らす男、しかし酒宴での素行の悪さは流石にマイナスになっただろう。
得意先の前でまで理性をなくしていたことは、緘口令が敷かれた所でいずれ上にばれる。
自分が辞職させられるとしても、あの部下を殴った印象の悪さでこの先そう伸びることはあるまい。のさばった所で、また繰り返せばいずれ奈落の底だ。
出世街道から転がり落ちろ。そう言おうとして、寧ろ吐き気がした。
大して酒も胃袋に収めていなかったのだが。
むかむかする内臓を抱えたまま、独身寮から近い公園まで差し掛かる。
公園といっても遊具は古すぎるほどで、ブランコの鎖には錆がびっしりと浮いている。
トイレが一つ、ベンチが三つ、植えこみは手入れも殆どされず生い茂り、ここの管理人は一体何をしているのだろうと思う。
或いは、取り壊されるのだろうか。そんなことも別に気にしたことではないが、寮まで帰る前に一休みするとしよう。
 上着を脱ぎ、襟を緩めて、一番手前のベンチに横たわる。
腕を目の前に上げて、弱いとは言え公園の内部の灯りから光を遮った。
「……イイ具合に出来あがってるな」
 聞こえてきたその声も錆びついていて、一瞬洋画劇場で悪役ばかりやる俳優のそれを思わせた。
「放っといてくれ」
 言った所で気がついた。声は、自分の背後、ベンチの背中のほうからしている。
背後は植え込みだ。誰だ?浮浪者か?強盗か?金なんかないぞ。
財布を出せといわれたらとっとと出して逃げよう。
「おいおい、『ここ』に来て放っといてくれとは挨拶だな兄さん」
 声の主は軽々と植えこみから出てきた。腕を上げて相手を見ては見たが、灯りは丁度逆光になっていて、顔がわかりにくい。ただ、体つきからすると自分より数歳年下だ。
ナイフや鉄パイプらしきものもなさそうだ。
「煩いな、俺は一休みしているだけだ、気にするな」
 腕を振ると、相手は呆れた様に肩を竦めた。
「だから、一休みしたいんだろう?……構って欲しくて来たんだろうが」
 その言葉の意味を取る前に、相手はさっさと歩いてきて胸元に手をかけた。
「おい?」
 殴り合いならご免だ、そう言おうとして、硬直した。
「な、な、何をするんだっ!」
 胸の一点に、ひやりとした、次いで熱くざらついた感触。
「感度良い割にはまだ弄られてないな。初めてか?」
 言う合間に手は容赦なくYシャツの前をはだけ、ベルトに手を伸ばして金具をさっさと外す。ことここに至って、自分が何をされかかっているのか理解できた。
「ちょ、ちょっと待った……あ!」
 カリ、と音がした。相手の歯が当たり、そこが今まで感じたこともないような感触を伝えてきたのだ。
「ま、任せてみろ。ちゃんと手ほどきしてやるからな」
 容赦なく、手が開いた前から入りこみ、スラックスから更にトランクスの中へと指が蠢く。まるでそれ自体が侵入を求める芋虫のような、しかし分厚く熱い男の手だ。
「わ、ちょ、ちょっと、俺は別に……!!ぁ!」
 鎖骨を舐められた。と殆ど同時に先端を剥かれて指で弾くように触られ、びくり、と自分自身が震える。
「感じてるな、結構綺麗な肌してるからな、男の癖に」
 身の内が一瞬の怒りに燃えた。
「言うなっ!!」
 上司が言ったことを思い出し、叫び返す。腕で相手を押し戻そうと抵抗する。
(『女みたいになよついた肌して』)
 色が白いのは生まれつきだ。毛が薄いのだって、別に望んだわけじゃない。
精一杯鋭くして相手を睨むと、同じ様に目を細めて挑むように視線を合わせて来た。
黒い、磁場でも持っているような鋭い目。
まだ若い。ひょっとするとハイティーンかもしれない。
唇が歪み、それに相応しい声を吐き出す。
「きちんと勃ってるぜ」
 圧迫感。痛みと感じたそれは、背中を走りぬける間に快感をもたらした。
「……ぁ!ぁ……っ」
 幾らそこを刺激されたからと言って、男相手に……驚愕で、身体全体から力が抜けた。
「欲求不満だな。しっかり手ほどきしてやるよ」
 もう一度、更に与えられるきつく甘い刺激。
汗ばんだ肌を唇が、舌が這い回る。ひく、ひくと身体が揺れた。声を堪えるのに必死で、抵抗の意思を示して動く身体は徒に衣服を乱し、相手を刺激するだけだ。
そこへ、足音が聞こえてきた。
誰か来た!ベンチからずり落ちんばかりになったが、ともあれ首を相手に向けた。
恥ずかしい、と思う気持ちもあったが助けてくれるかもしれない。
 今度の影は、少年らしい背とラインを見せていた。
「……楽しそうだね」
 朗らかな声は年相応だったが、相応しくない冷たさと老成を示してもいた。
「なら、他人の楽しみを邪魔するな」
 鋭い眼差しの青年は、相手を何となし知っているような口ぶりだった。
「いや、僕も混ぜてもらおうかな。折角『ここ』に来たわけだしね」
 鞄らしき影が隣のベンチに投げられる。
「君だけじゃそのお兄さんも痛いだけだろうし。ちゃんと、解してあげないとね」
 救いの神どころか、堕天使のような言葉に驚愕で呼吸が止まる。
「それもそうか」
 了承なんてするな!と叫びたかったが、次の瞬間悲鳴が喉から迸った。
年かさの今まで抑えつけていたほうが上を、新しく来た少年が足を持って、植えこみのほうへと自分を運び去ろうとする。
「やっ、やめっ……何を……だ……」
 殆ど野山のような繁りは、男にしてはか細い悲鳴を飲み込んだ。
「あそこだと増えそうだからな。相手をこれ以上増やしたいなら別だが」
 下ろされると殆ど同時にYシャツが取り去られた。
「……取りあえずここでしてる分には手出しはされないからね」
 スラックスは引き下ろされ、前を押し上げているトランクスは膝のあたりに引っかかる。
「おい、それも取ってやれよ。お互い邪魔だろう」
「一回達かせてあげてからの方が良いと思うんだけどね……じゃ、きっちりと」
 前を抑えることも叶わず、腕を取られて胸を吸われた。
その間に今度は幾分細い指が、緩急を弁えた動きで自身を翻弄してくる。
「……ゃ、……やめ、……あ……」
 暗い中、美少年と呼んでも良さそうな顔に微笑が浮かんだ。
「え?『止めないで?』それは嬉しいな」
 裏筋を伝って、指が下から上へ、上から下へと往復する。溢れた液は、その指に絡められて下へ移りたっぷりした膨らみを撫でまわし、更に奥へ向かって、見たことも見られたこともない部分に擦り付けられた。
「ぁ……はぅ、ぅ、……ぁっ……ん」
 脇腹のラインを辿られて、背が反った。腰骨がぐらつく気がする。
同性だから、分かる部分があちこちと探られ、やがて夜の空気に負けない熱を放つ身体が二人の若い男の目に晒される。奇妙な匂いが、植えこみにこもり始める。
「……ライト忘れたな。触るとひくひくしてるけど、見られなくて残念だ」
 喉からはもう、掠れたうめきしか出てこない。
「ぁ……ぅ、……ぅっっ……」
 年下とはいえ男二人に押し倒され、脚を上げさせられて甘い声が出る。
これまで感じたこともない恥ずかしさに、しかしどんな酒より酩酊した。
「準備、出来たか?」
 引き起こされた。背後から、固く熱いものが押し当てられる。
前からも、静かな興奮に熱くなった眼差しが抱きついてくる。
「僕も、協力した取り分は欲しいね」
成熟した身体に、若々しい肢体が絡みつく。
NOと言うべきだった。なのに怖くて、この期に及んでも悲鳴ひとつ上げられない。
いや、本当は……我慢できないのだ。先ほどから弄られて、己の欲望を示した部分が、解放されるなら何でも良いからと脳裏に囁きかけてくる。
首筋に吐息がかかる。自分より年下ながら、より雄であり男である逞しい身体が、腰を撫で上げて浮かせ、膝を抱えて固定する。
前に、自分のものではないが、同じ性別の器官が押し当てられた。一瞬感じた互いの熱さは溶けるほどで、身もだえする間に更に相手は奥へと進む。
奥の狭い部分に、二つの異なる熱が押し当てられた。
「あ……待って……く……」
 唇に、ぬめった感触。舐め上げられたのだ。
耳元で、軋んだ声が囁く。まるで見えない鎖の音のように。
「息、止めろ」
 二つの楔が侵入を開始した時、再度起きた悲鳴は、夏の茂みを甘く揺らした。


 急に視界が戻ると、見なれた事務室の天井がそこにあった。
暫くぼうっとして、ああそうか倒れたのかと奇妙なほど冷静に自分を分析する。
疲れきって、今更なことばかり気にして、挙句昔のことを思い出していた。
何か大事なことが抜け落ちているようだが、それも疲れているのでは仕方ないだろう。
橋には、すぐ謝っておこう。それから、しっかり仕事をやって……。
額に当てられていた生ぬるくなったタオルを、二宮は取りあえず手に取った。
何となし上に持ち上げて、少し眩しい蛍光灯をさえぎる。
と、事務室にたった一つあるソファー、二宮の食事と睡眠とを支えるそれが軋んだ。
目を上げると、何故かいたのは橋ではなかった。
「夜久……」
 腕を組んでいた男は、ひょいと二宮の手からタオルを取り上げた。
「すっかりへたばった顔だな」
 では、倒れる前に入ってきた車は夜久のものであったのだろうか。そうとも気づけないくらい、自分は憔悴していたのだろうか。
そんなことを考えつつ空っぽになった手を元に戻そうとしたら、そのまま手首ごと夜久に掴まれた。
「あ……?」
スレスレに、掴んだ手はそのままに顔を近寄せてくる。引っ張り上げられるような、それでいて押されるような接近は奇妙に胸を高鳴らせた。
「えーと」
 眼差しの鋭さに、先ほどの過去が重なる。
この、視線は。
「あの時も具合悪そうだった」
……この、声は。
「具合良くしてやろうか?」
慌てた精神に、まだ疲れた身体はついて行かず。腕をますます引っ張られて抜けるほど痛い思いをした。
「ぁいたたいたたいたっ」
「大袈裟な」
 二宮が腕を抑えている間に、夜久はさっと前に回ってソファーに体重をかけた。我にかえる前に、そのまま上体を押しつけてくる。
 心臓が。凄まじく。跳ねあがった。
「なっ、なっ、なっ……」
「かなり前だな。殆ど十二年前か……」
 目の前が比喩でなく暗くなった。
十二年前。そんな、まさか……まさか。
「覚えてない……訳はないな。暗かったから、お互い顔も何もあったものじゃないが」
 パタン、と背後で音がした。
「なぁ、卯月?」
「お目覚めかい?橋くん心配していたよ。今帰ってもらったけどね」
 このどこか冷たい声は。
歩みよってきた卯月は、呆気に取られたままの二宮の頬を撫でた。
「花は気に入ってもらえたかな、十二年前のお兄さん」
 まるで、二輪挿し。
脳裏にその言葉が浮かんだ瞬間、二宮の全身を音を立てて血が流れた。最初赤くなり、ついで青くなった男は改めて夜久に抱き寄せられる。
「どうした。あんまり嬉しくて失神か?」
 一体どこのどんな奴がここまで自惚れられるのだろうか。
三日剃らないでおいても殆ど並の男の一日分伸びたか伸びないか、その髭を指の腹でぐい、と押されて二宮は夜久を睨みつけた。
「ふざけるな、……大体何だ、ここはスタッフ以外立ち入り禁止だぞ!」
「倒れていた人間を看病するのは医者の努めでね」
 無邪気さは二桁の年に奪われたとしても、この笑みをどうして忘れていたのだろう。
だが、ぶつけようと思った怒りより、身体があの夜の恐怖に震えた。
あの時、二宮は普通の商社づとめだった。それなりの嘱望もされていた。
だが、二人とは言え年下の男に押し倒された記憶から、前の会社で働く気力を失い、結局係長ともども責任をとって退社に追いこまれた。
あれからあの公園は閉鎖され、現在は二宮の記憶を刺激するものはないと言って良かった。
今日までは……。
「そう、怯えるな」
 頭を抑えこまれた。十二年前自分を押し倒した男に。
後ずさりすればするほど、深く、強く押しつけられる。
考えろ。恐怖の中で、二宮は自分を叱咤した。あの時と違って酒は入っていない。万全の体調でなくても動けるはずだ。
昔と違って腕力もついた。対抗できない筈はない。少なくとも、隙を見て逃げられないわけではないだろう。ドアはまだ施錠されていない。
「そうそう。一度はこう、……ね」
 やんわりと不快な記憶を刺激する声。鋭く突き刺す眼差し。
「だったら何だと言う、ともあれ帰ってくれ。俺はもう大丈夫だ」
 気力を振り絞って平静な声を出すと、頭にかかっていた手が頬を撫でるようにして顎に移動した。
「どうだかな。確かめようか」
「アフターケアしなかったのが心残りでね。大丈夫、前よりもっと色々知っているから」
「お前らっ、何を考えている?!」
 ふっ、と同室の笑みが夜久と卯月の口元に浮かんだ。
「いやあれは、結構貴重な経験だったからね」
 襟元を容赦なく、前よりもさっさと緩めにかかる夜久の指。狭いソファーなので卯月はまだ動かず、それでもドアのすぐ前に立っている。
「お前だってあの時、悦んでいたろうが」
 襟元から覗いた肌は、首だけ黒く日焼けして、下はやはり十二年前とそう変わらない白さと男にしては艶のある様を夜久に晒した。
「やめ、止めろ夜久、ケイはどうしたんだ、ケイは?!」
 漸くまともな牽制の言葉を口にしたつもりの二宮であったが。
「それとこれとは別問題だろう」
 鎖骨のあたりがむず痒くなった。舐められたのだ。
「ひっ……!」
「相変わらず、感度は良好だな。良し」
前はすっかりはだけられた。どうして、容易く今でさえも扱われてしまうのか。
胸を押してつき返そうとしたとき、その余りの逞しさに二宮は茫然として手を緩めた。
「……どうした?その程度か?鍛えてないな。ジム、紹介してやろうか」
その前に一汗かくか?などと笑いつつ、夜久はさっさとベルトに手をかけた。これは二宮も必死で振り払おうとする。
「離せっ、お前らなんかと……!」
二度と嫌だ、あんな目に遭うのは!!
あの体験が二宮を狂わせたのだから。同性の暴力を厭いながらも異性に目を向けることを止めてしまった、今の自分は否定すべきだ。
相手の気持ちを考えない触れ合いなど、絶対に嫌だ。
 半身をソファーから乗り出すようにして抵抗を続ける二宮と、膝で抑えようとする夜久。
「さて、そろそろ……」
 一歩前進したのは、卯月にとって幸福だったのかどうか。
物凄い勢いで、ドアが開いた。
「……っ?!」
 どん、……ごすっ……という鈍い音に、争っていた二人の動きが止まる。
飛びこんできた小さな影は、ドアの衝撃に前のめりに倒れた卯月を飛び越えて、ソファーの前に仁王立ちになった。
「浮気しちゃ駄目!!二宮のおじちゃんはボクのなの!!」
ベルトの金具を外された二宮。ジッパーを下げかかっていた夜久。顔を起こそうとしていた卯月。
三人が三人とも、呆けた顔で所有宣言をした毅然とした顔を見つめた。
「……貴哉?」
「たぁ坊?」
 救いのエンジェルは、唇を引き結んで仁王立ちになる。
 ややあって、最初に夜久が少年に声をかけた。
「別に、浮気はしてないぞ。旧交を暖めに来ただけだ」
「……それ、あんまり分かるとは思えないけど」
「床は黙ってろ」
 寝転がったままの卯月に指をつきつけてから、夜久は尚も貴哉に言う。
「こればかりは、お前には早いぞ。前にも言ったろう、大人のすることは違うんだ。大人しくお家に帰ってゲームでも宿題でもやってろ」
 昂然と、貴哉は顔を上げた。
「夜久のおじちゃんは、ケイ兄ちゃんがいるでしょ。もう一人のおじちゃんも」
 と卯月を見やり、また顔を戻して、
「この前のお兄ちゃんがいるよね。だったら、ボクは二宮のおじちゃんを貰うの!!」
ソファーまで走り、二宮の腰の当たりに抱きつき、離れないぞと言わんばかりに夜久を睨む姿はなかなかのものだった。
苦笑を浮かべつつ、夜久は貴哉に言う。
「私は納得できないな。二宮がお前のものだって証拠はあるのか?」
「おい……!」
慌てた二宮の唇に、車だけを扱ってきたのではない指が当てられる。
「こうしてきちんと私に向かってきたのだ。子供だろうと対等に話すのが礼儀だろう」
 手は出さないだろうと思いながらも、二宮は心配でたまらない。
どうであれ、貴哉はまだ何も知らない子供なのだから。
再び鋭い視線が少年を向き、促す。
「私が二宮と仲良くしてはいけないなら、その理由を言ってみろ」
 少年は頷き、そしてまた誰もが思いもかけない行動に出た。
しがみついていた腕を引き、そのまま二宮のズボンを引き摺り下ろしたのだ。
「……ぁ、止めろっ、……たぁ坊!!」
 慌てて腰を引いたのが仇になった。
下着ごとずり落とされる。思わず夜久の、卯月の目が、二宮のそこに釘漬けになる。


そこには、確かにそれなりのものがあった。
しかし、あるべきものが存在していなかった。
急所を覆い隠すべき、茂みが。


 ややあって。
「……ぷっ……くくくく……」
 堪えきれない声と共に、床をぱしぱしと叩く音がし始めた。
卯月が、吹きだしたのだ。
「おい……一体?」
 慌てて股間を両手で覆い隠した二宮に、夜久は毒気を抜かれた顔で尋ねる。
真っ赤になった二宮に変わって、答えたのは少年だった。
「ボクがきれいにしたの!」
そう。これは貴哉の仕業だった。
眠りこけている二宮の髭を剃った貴哉は、風呂で見た下のお髭も綺麗にしようと、剃刀を下のほうにまで向けてしまったのだ。
器用な性質なのか幸い、二宮に怪我はなかった。少しひりついた程度だ。
ただし、……子供とは言えそこをいいようにされてしまった屈辱は耐え難いほどで。
大の男が、これで寝こまずにいられるだろうか?
きつい眼差しが楕円ほどには丸くなり二宮を穴の開くほど見つめ、
「……は、はははははははははっ!!」
 いっそ快いほどの笑い声を立て始める。
ソファーに腰を落ちつけなおし、身を二つに折って笑う夜久の近くに、
「これは傑作だね。本当に、一本とられたなんてものじゃないな……」
ひぃひぃ笑いながら卯月が立ちあがる。
「完敗だね……不戦敗だよ。なんてことだ……」
 肩をバシバシ叩かれたが、夜久もやはり可笑しくて気にしていられないようだ。
「はははっ、ははははは」
 今すぐスタンド地下のタンクにまで穴を掘って潜りたい。
そんなことを考えつつ、二宮はとにかくズボンを引きずり上げ、ベルトで固定しなおした。
「どう?分かった?」
 別の意味で茹蛸のようになりながら、貴哉は二人に、先ほど夜久が自分にしたように指を突きつける。
「ははは……ああ、分かった、分かったよ」
「はいはい、僕たちは大人しく帰ります……ぷぷぷっ」
 目混ぜして夜久と卯月は立ちあがり、二宮に意味ありげな目を向けた。
「お幸せに」
「しっかり可愛がってもらえよ、夜は長いからな」
 そして再び沸き起こる大爆笑。
二つの影がドアの外に消え、やがて車が発進する音が聞こえた後、漸く二宮は力を抜いてソファーに座りこんだ。
ゆっくりと、その目に涙が滲んでくる。
「あ、おじちゃん、ごめんね、ごめんね」
慌てて縋りついてくる貴哉が、ポケットからガーゼのハンカチを出して涙を拭ってくれる。
「ごめんね、おじちゃんのコカンに係わるんだよね、これって?」
「それを言うなら沽券だろう」
 溜息。ただ、この少年の機転に救われたことは確かで、今回は怒るわけにも行かず二宮は高屋を抱き寄せた。
「コケン……?」
「ん、まあ、男の印みたいなもんだ」
 少し考えていた少年は、また顔を輝かせ、
「じゃ、ここのことだね」
 と、ズボンの上から二宮を抑えてきた。分かってないと思うが訂正しようもない。
ひたすらソファーで脱力していると、小さな顔が耳元に寄せられた。
「でもね、おじちゃん」
「うん?」
 子供の悪戯だが、許してやるとしようか。それと、こんな真似はしないようにこれからきちんと言って聞かせなければ。
そう思った二宮は、聞こえてきた言葉に再度目の前が真っ白になった。
「おじちゃんにはボクがいるんだから、浮気したら駄目だよ」
 ……まて。それは、一体どう言う意味だ。
「ボク、頑張って早く大人になるから。大人でないと出来ないこととか一杯あるんだよね。ボク、二宮のおじちゃんが大好きだからってケイ兄ちゃんに言ったの。そうしたら、ちゃんと大好きだって言ってあげないとダメなんだって」
 多分、こんな風に誤解されているとは圭吾は微塵も思うまい。
「ケイ兄ちゃんと夜久のおじちゃんがしてることは、大きくならないとどうしようもないから、ボクにできること少ないけど。でも、がんばるから。だから……」
 横から正面に顔は回り、
「おじちゃんは、ボクのだよ」
 独占の意味を知ってか知らずか、小さな唇は呆けたように開いたそれに重なった。
「ちゃんとおっきくなるからね、背も、ここも」
 もう一度触れられたくない部分をぎゅっと触られて、痛みと疲れとショックとで意識は暗転した。
「あ。……お、おじちゃんっ?!」


 それからも、二宮は何とかスタンドで働いている。
目下の悩みは、年下の自称『恋人』の存在である。
周囲は呑気なもので、『二宮のおじちゃんをお嫁に貰う』という貴哉の断言を、大人になれば治る一時の勘違い、冗談としてしか受け止めていない。
実の母親にさえ『宜しくねお嫁さん』と言われた日にはどうしたらよいのか。
そして、夜久と卯月は訪れるたびに、『待ち遠しかろうな』『八年ぐらい待てば出来るね』だのとからかって帰って行く。
 本当に困ったことに、あれから二宮の視線に貴哉は敏感で、新しく入ったバイトの少年がちょっと可愛いな、と思っただけで指をつきつけて、『浮気、ダメ!』と言ってくる始末である。
果たして八年後までもつことはないだろうが、それにしても日常に復するには相当な時間がかかりそうである。
今日もスタンドに、スタッフの威勢の良い挨拶が響く。
お盆前の洗車ラッシュがやってきたのだ。


「いらっしゃいませー!」

(完)
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