UnderAge3


 席を辞してから外へ出ると、薄曇の空の下でも陽は大きく西へと傾いているのが感じ取れた。
食事に招かれたのは辛うじて到着が間に合うと計算したからだが、話らしい話もさほどしないうちにこうも時間が経ったとは気づかなかった。
尤も、相手の話を聞いていたのが大半で、自分は十語も発したかどうか。
戻るのは多少遅くなるかもしれない。
そんな風に思いつつ廊下を歩きながらも時計は見ない。招待してくれた相手に非礼な真似を、相手の目の届く範囲でなどするわけにはゆかなかった。
暇人といえるほどの暇はないが、それでも仕事を持っている。
それでも、年上の相手に向かって声高に言い放つほど多忙でも無謀でも、これみよがしな態度を示す愚かさも持ち合わせない。
ましてそれが、機嫌を損ねてはならない相手と来ては。
広々とした玄関には昼下がりのためか見える場所に人はおらず、ぽん、と一つ手を打てば遠くから応えと足袋裸足の音が近づいてくる。
藍海松茶の着物の従業員が、男を認めると腰と声を低めた。
「お帰りでいらっしゃいますか、浅井様」
浅井時雨(あさいしぐれ)はひとつ頷いて、預けておいたコートを頼み、そのあと別の従業員が下駄箱から自分の靴を取り出すまで待った。
背は随分と高い男である。モデルやホストにしては腕や胸板の男らしい厚みは少しばかり邪魔になりそうだ。実践的な筋肉のつきかたではないと見るものは見ただろうが、男の発する雰囲気は超然としすぎても、逆に馴れ馴れしくもなかった。
強いて言えば、無関心だ。
コートを肩にかけようとするのを断り―――第一、従業員の方が低すぎる―――自分で身に纏う。
ボタンはしない。
上質のカシミヤの下にあるダブルのスーツを覗かせつつ、一歩踏み出す足はコンパスの長さを強調するようだが、男の何事も無関心そうな眼差しは、容姿を意識してのものとは映らない。
有難うございました、の声に鷹揚に首を動かしたものの、薄い茶色の目はもう店さえも写していないような酷薄な色合いをしていた。
整えられた植え込みの間を通って、玉砂利が靴の踵を汚す駐車場へ到着すれば濃紺のベンツが浅井の車である。
キーを開け、身ごなしよく乗込んだ浅井は、腰の辺りに振動を感じた。マナーモードの携帯の画面に映る『新倉』の文字を見て、スイッチに手をかける。
「私だ」
『オーナー、失礼いたします』
何時もと変わらぬ従業員の声を聞きつつ、浅井はドアロックをかけ、シートベルトを締めた。
『お手すきでいらっしゃいますか』
「聞こう」
短い一言に対し、澱みなく電話の向こうの声は報告をはじめた。
『本日、ご不在の間に伍堂様がオーナーを尋ねておいででした。ご用件は封筒で頂いております。また、風花様とご一緒に夜久様がおみえでしたが、ほどなくお帰りになられました。風花様はお部屋で休憩されているご様子ですが、ご伝言は』
「二時間半で戻る。いや、特別に伝えなくても構わない。他に、緊急はないか」
『後は例会の会場選定が来週の頭に迫っておりますが、お決めでしたら』
「それも待て。間に合うように返事は入れる」
『かしこまりました。それでは、お戻りをお待ち致しております』
折り目正しい男の声の後も、暫く電話は浅井が接続を切るのを待っていた。
無沙汰の友人であり客である男達と話す時間を逃したことを、少なからず残念に思う。
元来自分が、余り遠出をしない性格から、各地を飛び回ることもある相手と話すのは年に片手に入る程度のこともある。
何も今日、自分が滅多に会えない人間が複数連絡をしてくることもないだろうに。
一人の招待に応じたため、この結果だ、とキーを指しこんだ時、もっと大事なことを頭の隅に追いやろうとしていた自分に浅井は溜息をついた。
もっと機嫌を損ねてはならない相手は、多分相当に拗ねている筈だ。
「恨むなら祖父を恨め、というわけにもゆかないな」
一瞬だけ額に掠めた感情の切れ端は、重々しいエンジン音に吹き飛ばされた。


 ソファーに腰をおろして、圭吾はふう、と一つ息をついた。
Yシャツの袖には皺がより、ズボンのプリーツも所どころ崩れている。上着だけは壁の一隅にかけてあるから大丈夫だが、少し汗を掻いた額には一応は櫛を通していた前髪が張りついてしまっている。
小松は圭吾には目もくれず、後ろ手に手を組んで元通りに布が積まれた棚を見て一人頷いていた。前に訪れた時と殆ど変わらぬサスペンダーに大きめのシャツといった姿だが、何故か今日は胸元のポケットにガーベラが一輪挿してある。
ピンクの花弁が妙におかしかったが、圭吾は右斜め後ろから小松の背中を見ていた。
あ、言うな、と思った瞬間に、
「……ふん」
小松が鼻を鳴らす。やはり、夜久と同じ癖だ。いや、小松老人の癖が夜久に移ったと言うのがきっと正しいのだろう。
『オヤジ』と夜久が呼ぶほどだから、余程古い付き合いなのだろう。そこまでは推測が容易だったが、どのくらい前から、というと想像が出来ない。
例えば十年、とすれば夜久はまだ圭吾と大差ない年齢だ。そんな夜久など考えられなくて一人内心に笑いを押しこめていると、
「うりゃ」
ひゅん、と目の前で物差しが唸った。どこから取り出したのだろう、小松の手には腕の長さほどもあるそれが、鼻先近くにつきつけられ、
「何を笑っとるか、若いの」
仏頂面で老人は圭吾を睨みすえていた。
「何でもありませんっ」
「一人笑うのは助平なことを考えてると相場が決まっとる」
「そんな無茶な」
「じゃあ、何を考えとった」
 言葉で押し捲られて、あれ、と思った。
この無理やりな断定と否定する間もなく聞き出そうとする態度は……。
「やっぱり、似てるや」
顔立ちなんかは論外だけれど、夜久と小松の言動はどこか被る所がある。
圭吾が言わんとするところを理解したのか、小松は皺を更に深く顔に刻ませた。
「生意気言いおって」
ひょい、と物差しが振りかぶられて一瞬身の危険を感じたが、
「ま、手伝ったから聞かなかったことにしてやろう」
現れた時と同じ様に物差しは何処かに消えた。まるで手品のようだ、といえば大袈裟になるだろうが、小松はエプロンやシャツのポケットに道具をしまっているのだろうか。
「有難うございます」
神妙な態度を取る圭吾をどう見たか、小松は向かい側の席にどっかりと―――と言いたいが実際はちんまりと―――座った。
手を膝の上にかけて放つ眼光の鋭さは、客商売と言うよりは職人の姿勢だ。
「前は、何処にいた」
唐突な問いだったが、すぐに意味はわかった。
「ガススタンドです」
圭吾の大きな手をちらと見たかどうか、小松は頷いた。
「何年勤めた、店は移ったのか」
「三年です。ずっと同じスタンドでした」
何の質問だと思いはしたが、まあ顧客情報みたいなものだろうと素直に答えた。
「その関係か。『客』としてはどう思った?」
尋ねられて、今度は少しばかり複雑な気分になった。
去年の今頃は、夜久と自分がこうなるなんて微塵も想像してなかった。整備士の免許を取って、あのスタンドに就職するつもりでいたのだ。
なのに、今の俺はスーツなんか作ることになってる。
スタンドじゃなくて、オフィスみたいな場所に暫く通うらしい。
「そうですね……車が車だから緊張したけど、でも、夜久さんは……」
 ある日突然、洗車を任された。
鈍い銀灰色をした車を洗った時の緊張は今でも忘れない。まだ真新しい外車に乗って、洗車スペースで降りるだけでもぞくぞくした。少しでも不手際と見なされたら怒鳴られる、そう思ったけれど嬉しくて作業を続け、気がついたら全て終わっていた。夜久は上機嫌で帰っていった。
 自信が持てたのは、その辺りからだったような気がする。
皆して、職業に貴賎はない、と言う。実際はスタンドのバイトと高級外車のディーラーでは天と地ほども開きがあるけれど、一生懸命な姿勢だけなら負けないと、圭吾は夜久に文句を言わせない仕事を心がけてきた。
それは、夜久も見ていた筈だ。だから、洗車は何時だって圭吾に任せてくれた。
混んでいる時も焦らず騒がず待っていて、『任せたぞ、ケイ』と言ってくれる。
「……凄くきちんとしたお客さんだと思います」
 早く、仕事がしたい。圭吾は心底そう思った。
夜久の目に自分が映ったのは、仕事をする姿勢が先だった筈だ。単なる欲望処理ではなくて、働いている姿を良しとしてくれたからこそ、雇ってくれたのだと証明したい。
そうしたら、傍らに置かれる理由も片付けられるから。
圭吾の複雑な心中を察したかどうか、小松は口元をひん曲げただけだった。
「あの、俺からも質問していいですか?」
「何だ」
「あの布地……どうして並べ替えなおしたんです?」
 店内に入った途端、圭吾は「これを持ってろ」と小松に生地の束を押しつけられた。
それはここの棚、あちらはこの生地、と言われるままに動き回って気がついたら整頓が済んでいた。
結構布地は重いのだと知ったが、この大移動の理由は何だったのだろう。
小松は重々しく頷いた。
「ああ、棚を一つひっくり返した馬鹿もんがおってな。元通りにしろと言ったのに、ごちゃ混ぜに突っ込んで帰っていった。そのついでで入れ替えをしたくてな」
だからといってこの老人、仮縫いに来た客にそれをさせるのはどういうものか。
「弟子どもはそれぞれ用事に出しとるから、ま、空いた手があれば充分の作業だ」
圭吾は正直呆れたが、一を言えば十返ってくる、いや、拳だって飛んできかねない老人相手に騒ぎ立てるのもみっともないと諦めた。
「ふふん…………怒らんのか」
気の利いた答えが返せない圭吾を小松は面白がるような眼差しで眺めた後、やおら立ちあがった。
「ま、夜久の下で働くなら、この程度のことでムカついても始まらんな」
思わず頷き返した圭吾を見て、肩を揺らす。
くるりと背を向けなおし、
「駄賃はやるから、暫く休んどれ。おっつけあの男も来るだろう」
ひょこひょこと奥へ消える。
圭吾は少し伸びをして、改めて小松の店を見まわした。
 濃紺や様々の灰色の生地は、門外漢でも分かる手触りの良さがあった。各棚に、色別で並べるよう指示されて動いたが、一番左の棚は色も生地も異なるものが既に積んであって何も動かさなかったように思う。
その棚の中ほどに、何となく見覚えのある気がして立ちあがり、寄っていく。
 そっと端っこを持ち上げて、布目をよく見てみると、夜久が普段着ている黒の布地のようだった。
こうして見てみると、黒いが漆黒ではない。上の濃い藍色の生地と見比べると、ほんの少し茶色がかっているようにも見える。細かく織られた生地の布目が、微妙な光沢を生み出している。
他の生地に比べて、布地は減っているようにも思えた。それだけ、夜久はこの生地を使ったスーツを好んで小松の店で仕立てているのだろうか。
一緒に暮らしていても、まだ圭吾は夜久のことを知らなさ過ぎる。
 布を元通りにしてソファーに戻り、圭吾は大人しく小松が戻ってくるのを待った。
元からスタンドで長く待つのには慣れている。タオルを洗い、オイルのノズルを拭き、雑用を終えればコンクリの上でずっと背筋を伸ばして立っていた。
入ってくるどの車にだってすっ飛んでいったけれど、夜久が車を乗りつけてきたと分かると、今日だって文句は言わせない、と一瞬だけ拳を握って気合を入れたのは昨日のことのようだ。
スタンドに夜久がいる間は自分も随分と意識していた気がする。
車に関する知識では所長の二宮と互角以上だったし、車によって違う給油孔やクーラントのキャップ位置だって一瞥しただけで判断でき、何度か教わった正社員とびっくりした。
あの時は、他にも夜久を意識する人間と一緒だった。スタンドのスタッフほぼ全員、女性客、そしてやはり車を好きでたまらない男達。
だから、気になってもそれだけの客だからと片付けていられたのだけれど。
頬が僅か赤らむ。
 客の中では確かに、一番気になる存在だった。思ったより間が開いて来なかったりすると一体どうしたのだろうと皆と噂した。他の店の方が応対が良かったのだろうか、と気を揉んでいた自分は、入ってきたアルファロメオのエンブレムに気がついた時一際大きい声を張り上げて、笑われたんだった……。
思わず片手で口元を押さえる。
あああ。丸っきり俺は馬鹿じゃないか。今とあの時と、どう違うっていうんだよ。
「どうした、ケイ」
そんな意味じゃなかったけど、でも、夜久さんからすればもろバレってくらい気にしてたの知られてる、きっと。
「おい」
座っているソファーの左側が引っ込んだ、と思うと頭を抱えられそちらを向かされた。
「ひゃっ?!」
すぐ目の前に何時だって鋭い眼差しがあって、竦む間もなく額に冷たい掌の感触。
「具合悪くしたか」
ぼうっとなっている圭吾をどう誤解したか、夜久はまるで医者が患者にするように、圭吾の下の瞼を引っ張って裏側を見た。
「……風邪ではないようだな」
どうやら、遅いので迎えに来てくれたらしい、と分かったもののまだ仮縫いは済んでないわけで。
「オヤジはどうした。もう済んだのか」
「それが、まだ……」
説明しようとした時、奥から足音がやってきて。
「人の店でいちゃつくなら、他所に行ってもらうぞ」
湯気の立つカップを載せたトレイを持った小松を、夜久は少しだけ不機嫌な様子で睨みつけた。
「うちの従業員を勝手に使ったな、オヤジ」
「お前こそ労基違反すれすれの真似をしとるじゃろうが」
カップは三つある。小松は本当に夜久が来ると予想していたのか。
受け取りながら、圭吾は改めて二人を見比べた。
夜久は出かけた先で何か面白くないことがあったようだ。押さえこんだ不機嫌さが、無表情にも見える顔の下で時々波打っている。
小松はそれを見て取ったようだが、どうしたとも聞かず珈琲を啜った。
「ま、浅井の所のよりこの若いのの方がまともじゃな」
聞いたことのない苗字が出た瞬間、夜久の眉根が寄る。
転んで擦りむいた部分を立ちあがる拍子にぶつけたような感じだ。
「ほほほぅ。奴がらみか」
「……あそこの飼い猫が騒々しかっただけだ」
何が何だか分からないが、圭吾は口出ししないことに決めて珈琲を飲んだ。
「おぉ、そうだ若いの。うちの皺くちゃが今日は苺をタルトにしたとか言ってたんでな。土産にやるから帰ってから食え」
「は?」
唐突に言われて、口の中を火傷しそうになる。
皺くちゃなどと言うからには、小松の奥さんなんだろうが、何故タルトなんだろう。
夜久も持っていたカップを一旦唇から離して、小松をまじまじと見た。
「オヤジにしちゃ大盤振る舞いだな。明日は雪か」
「煩いわぃ。ここで食われたら掃除が面倒なんでな。それ飲んだら仮縫い見るからとっとと飲め。いいな」
客なんだか顎で使われているのだか分からないままだったが、圭吾は黙って言われた通りにした。


 浅井がオルビットに戻ったのは、きっちり二時間半あとのことだった。
地下の駐車場から、エレベーターを選ぶ。まずはオフィス。エレベーターを降りればそこにはもう、二人の従業員、新倉と入江が待っていた。
「お帰りなさいませ」
格別な動きを見せずに、ゆったりとした足取りで執務室に向かう。声を揃えて挨拶したフロントとフロアのチーフ二人は、当然のように後に付き従う。
そうそう見られる光景ではないが、こんな時の浅井を見たオルビットの客たちは少なからずこう言う。
王者の行進でも見るようだと。
客がいれば挨拶はする。快適かどうかは尋ねてくる。客は一様に頷き、空間の心地よさやサービスを誉めるが、浅井はそれを当然のものと見なしていて、通りすぎる間に客自身のことは当座の関心がない限り、それ以上の扱いをしない。
万人には開かない楽園の扉。快適さは春のようなのに、それを保つ男は冬将軍を思わせる冷たさで、人を反発させ、また引き寄せる。
経歴は殆ど知られていない。会員番号が一桁の男達でさえ、彼らの倶楽部の主催者のすべてを把握しているわけではない。
そうした男達自身、浅井より謎めいた部分を有していると言われているのだが。
「あれから、他には」
「オーナーレベルでの要望はなされておりません」
廊下を曲がると、普段はこちらに上がっては来ない警備スタッフが扉の数歩手前で待ち構えていた。
それが自分の予測していた男と違ったので、一度だけ浅井は瞬きした。
「お帰りなさいませ。現在、異常はございません」
「山野か。雑賀は」
「それが……」
 明るい灰色のスーツは、山野の割合に整った顔立ちを地味に見せている。
入江が口篭もった山野に声をかける。
「また、藤川か」
「教育的指導の真っ最中です」
まだ入ってさほど経たない警備スタッフはそそっかしい所も多くて、しょっちゅうチーフに怒られている。
「ほどほどに、な」
そう言うに留め、浅井は一旦フロントのではなく、その奥にある自身のオフィスに入る。一礼して戻って行く山野はもう気にも止めず、机の上に置かれていた封筒を開け、ぴっちりと折られた便箋を片手で取り出してざっと文面に目を通した。
すぐに畳んで元通り封筒にしまい、抽斗を開くと滑りこませる。
「伍堂氏には明日私から連絡する。―――例会の会場だが、プランはBで行おうと思う。それに合わせて打診して、一番早い所を」
「かしこまりました」
新倉が下がると、入江が前に出てくる。
「本日は三雲が4月のメニューを試していただきたいと申しておりますが」
「そうだな。……3時間ほどしたら、階上に頼む」
ここで一旦言葉を切り、
「……二人分。酒は任せた」
「承知致しました」
二人が扉から出て行くと、浅井は椅子には腰掛けずに卓上の電話を取った。
暫く鳴らしてみるが、反応はない。
「掴まえ損ねたな。忙しい男だ」
 貴様がいないのがいけない、と言われそうだと内心苦笑するが、表情には出ない。
そのまま受話器を下ろし、もうすっかり不て寝していることが確実な最後の難関を突破しに、エレベータホールへと向かう。
数字キーを押し、上る間も表情は崩れない。肌や髪の色だけなら南国育ちかと思うようなこの男は、その色彩に反して、氷の塑像であるように冷ややかな存在なのだった。
階上に到着し、表を歩いている時となんら変わりない、大またな歩きぶりで数少ない扉の一つの前に立つ。
鍵は多分開いているのだろうが、ノックした。
「……起きているか」
 部屋の中からはこそとも音がしない。だがそのことこそ、青年が部屋の中で身動ぎもせず自分を待っている証であることを、浅井は知っていた。
「入るぞ」
ノブを捻れば、まだ夕日は辛うじて空の端にかかっている時間だと言うのに、部屋はカーテンを引いて人工の夜だった。
広々とした寝台の真中だけが、盛り上がっている。猫が寝台の真ん中を占拠するように、丸くなっている姿が見えるまで、暫く目を細めて暗さにならした。
掛布をすっぽりと引っかぶっていて、ぴくりとも動かない。猫ならば尻尾や耳の先が震えて寝たふりだと示すだろう。
どこか強張った背中がこちらを向いている。
位置が良く分かるようになったので、浅井はコートを脱ぐと手近の椅子にかけた。
「澄」
 何気ない風に、小さく呼んでも身動ぎさえしない。頑なな心が触れなくても手に取るように伝わってくる。
寝台の端に腰を落とした。今度は動きがあった。
いかにも寝台が揺れたので身体が自然に動いたように見せても、左腕が不自然に腰の辺りに置かれたままになっている。
掛布を引っ張ると、艶やかな黒髪が零れ出た。指先でいとおしげにかきわけ、白く浮いた耳朶に囁きかける。
「済まなかった」
 そんな声は聞いたことがないと、オルビットの全従業員が口を揃えることだろう。
まるで、冬の氷が割れて春の小川の最初の流れが始まったような柔らかい声だ。
まだ動きはなかったが、応えはあった。
ゆっくりと、真っ白い耳を染めてゆく赤い流れ。
桜が開花の前に幹から花びらの色を溜めるように、薄闇となった部屋に艶かしく、澄の肌には色が昇ってきた。
「許してくれるな?」
 顔を覗きこもうとしたら、今度は丸まりきって見せようとしない。まだ腹立ちは収まっていないらしい。
焦らして楽しもうかとも思ったが、あっさり片付けることにした。
「いつもは」
妙な場所で言葉を切った浅井が気になったのか、腕の間からちらと片目だけが覗いた。
「ここで待つのは、私なのにな」
立ちあがろうとする浅井を制するように、青年はがば、と起きあがる。
「俺、いつお前を待たせた」
「……いや、済まない。今日はとにかく私が悪い」
「そうじゃないっ!時雨をいつ俺が待たせたんだっ」
待っていた間の寂しさがあればこそ、普段相手が待っているという言葉は澄を揺すぶる。求められている印に、人は弱い。
ほんの少し鏡の角度を変えてやるだけで、自分と他人の感情さえ取り違えるのだ。
自分さえ左右非対称の鏡に、本当の姿など映るはずもないのに。
「怒らないでくれ。私は―――」
「怒ってないっ!」
言いきってから、澄は耳どころか顔全体を真っ赤にした。
掛布を握り締めた手が、わなわなと震えている。
「澄」
普段の冷厳さを良く知るものが腰を抜かしそうな笑みが、浅井の口元に浮かんだ。
「本当か」
横をふいと向くことさえ許さず、腕の中に抱き取る。
拳が強く、弱く、肩の辺りを叩く。肩口から見上げてくる眼差しは怨嗟のそれではなく、少し噛み締めた口元から桜色が、一際艶かしく零れ出ている。
「澄」
「……仕事なら、仕方ないだろう」
 観念したように顔を胸元に埋める。まだ湿り気を残した黒髪を指先で梳き、思う様顔を擦りつけてくるのを上げさせて、色を吸い上げるように唇をあわせる。
何度か角度を変えるうちに、湿った音がして、互いの舌先が口中で縺れ合う。
「ん……っ」
何時もより積極的なのは、やはり待たされたのが効いているのだろう。何時もならまだ表にも出かけられそうな恰好をしているはずの澄が、寝巻き姿でいるのは久しぶりだから、というわけだけでもなさそうだ。
「時雨……」
タイが、子供がしがみつくように引っ張られたかと思うと、するりと解かれた。
指先だけで探り取った布地を投げ捨てながら、喉奥で澄は笑うと、ついでシャツのボタンを外しにかかる。
「シャワー浴びてくる」
「要らない」
時雨の手を取り、澄は自分のシルクの寝巻きの前に持ってゆく。
「もう戻って来たんだから、待たせるなよ、俺を」
声に潜む未だ甘えと恨みを残した声に、浅井は笑みを多少意地悪いものへと変えた。
「なら、こちらだろう?」
手を翻して、たっぷりとした上衣から、下衣へと素早く指を潜りこませる。
再び澄は慌て、頬を紅潮させた。
「ちょっ……!!」
しかしそこは、既にゆるやかに頭をもたげ、触れてきた指先に自分から掏りつくように揺れている。
「ああ、準備万端だな」
「こらっ、時雨っ、いきなりそんな……あ!」
 くるりとひっくり返されて、悲鳴を上げる暇もあらばこそ、下だけが引き剥がされて、下着を着けていない下腹部が露になる。
頭に昇っていた血が下肢へと逆流して行くのに、自分だけが昂ぶるのは嫌だと、澄は手を伸ばして自分から男を引き寄せた。


 圭吾のもとに二通の封筒が届いたのは、それから半月後のことである。


Next to "Orbite"...
U1 U2 U3 
O1 O2 O3 O4 O5 O6 O7
P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8 index

Copyright 2001-02 PleasurePrinciple Web master:ai-shiba@mbi.nifty.com