Paradox1


 熱い車の下から出ても、照りつける日差しが身体から汗を絞り尽くそうとしていたのはつい数ヶ月前のことだったのに、繋ぎの隙間から入ってくる風は、慣れているはずの圭吾をもうめかせるほど容赦のない冷たさだ。
 雪はもう一度ならず降り、積もることはなかったが窓ガラスが霜に覆われる朝もあって思い出したように車の点検や部品の修理依頼が舞いこんで整備工場も忙しくなる。
背中に小さな台車を宛がったままで、古河圭吾は大きく伸びをした。
 車だって、生き物と同じだ。普段労ってない部分は、厳しい季節に弱くなる。カラカラ言う音が大きくなってきただの、ドアの部分が微妙に曲がっているだの、まるで転んだ時には処置をしないでおいて後から流血に気がついて騒いでいるようなものだ。
水が出なくなった?クーラントの補充をしてませんね。今朝急にバッテリーが上がっていた?スモール入りっぱなしになってませんでしたか、スイッチ捻られたままです。
霜がはって困る?フロント専用のカバー売ってますよ、スプレーもあります。そんなに値は張らないです。お子さんがくしゃみをするのは多分、シートにへばりついてる猫の毛です、ペットはケージに入れましょう。
来る客との会話はスタンドも整備工場も大差ないな、とこの頃思う。
 圭吾が月の半分を働いているのは、夜久が仕事上契約している整備工場である。出向という形で、どうにか整備士試験に間に合う日数を稼ぐ必要があったからだ。
試験自体は終わった今も、こうして通っている。
役に立つかと言われれば、ブランクもあった圭吾は半人前に近い。だから仕事の大半は工場内の清掃や道具の片付けとなり、雑用を片付けてから車を当り障りの無い程度に触らせてもらえるだけだった。
最近は、簡単な作業なら一人でもやらせてくれるようになったが。
 働いている整備士たちも、全てが優れて腕前のある人間ではない。不器用とまでは行かなくても、整備士になる前に他の選択肢を考えなかったのかと聞きたくなるのもいる。
そうした人間は決まって、圭吾が高校を出ていないことなどをあげつらってくる。
頭の近くに、青いブランド物のスニーカーが立つ。
「おい、中学出。へばってないで片付けておけ」
 黙っていると、
「返事はどうした」
「……はい」
 言うと、スニーカーはどかどかと遠ざかる。
むっと来る。むっと来るが、この程度で言い返して不意にしたくは無い。
試験を通れば一人前とは言えなくても、きちんと職業として二級整備士を名乗れる。
スタンドにはもっと嫌な客も多かった。それに比べれば、好きな車を扱えるここは良い場所だ。
それに、もっと前だったら……
 いきなり、腹に重たい圧力がかかった。
「……っ?!」
 呼吸が苦しくなる。腹筋が冷たさに気づく前に、わさわさと袋が揺れる音がした。
「もうギブアップか」
 錆を帯びた、男の苦笑。
「……夜久さんかぁ」
 手を伸ばせば腹の上に置かれたのはビールがどっさり入った袋である。
どうやら、工場への差し入れであるらしい。
基本的に夜久克征は仕事の関係を大事にしている。スタンドにいた時も差し入れを有難く頂戴したことはあるが、客先にも、ディーラー仲間にも、この整備工場に対しても不況に関係なく時候の贈り物をしたり、誕生日や記念日など聞いている情報を諳んじているのは常人技ではない。
 それを、普段は忘れたようにしていてその時にさり気なくやってのける。
仕事面では男女の別なくケアをするが、プライベートには不思議と踏み込ませない。
正直、客の中には年だけなら夜久と似合いの女性がそれなりにいるのだが、秋波を送られても超然としているため、圭吾にそれとなく根回しを頼んできたりもする。
 中には夜久の『嗜好』を把握している手合いもいて、ある時『偽装でも構わないから』と堂々と言われて仰天した。
あんまり目を丸くしていたら、『あら、恋人じゃなかったの?だったら君でも』と続いたのでからかわれたと気がついたが、その場にいなかったはずの夜久はきちんとその女性の言動を把握していたのにはもう驚きを通り越して呆れるほかはなかった。
手書きの顧客名簿に何と書かれていたかは圭吾のみ知る。
 ともあれ、と袋を持ち上げ、ついでに起きあがった。ころころと転げる台車を見もせずに片手で取り上げ、脇に置く。
「今日、早いな。上がり?」
「来るはずだった客がキャンセルだ。少々早いが、お前ももう終わりだろう」
 頷いて立ち上がると、嫌なスニーカーが戻ってくるところだった。
「ああ、どうも夜久さん。いつもお世話になってます」
 お得意様用の声を作って、揉み手こそしないものの媚びを売っているのが見えみえの男にも、夜久の姿勢は変わらない。
「お疲れ様です。つまらないものだけど、休憩時にでも」
「あー、いやぁ、いつも本当に有難うございます。ほんと、助かってますよ」
 へこへこと男は頭を下げ、圭吾の手から袋を受け取る。
「良く働いてくれまして」
「いや、こちらこそ仕事を教えて頂いてることだし。根気だけは保証しますから、鍛えてやってください」
 寄りによって一番嫌な奴の前で言うこともないだろう。言いたくなるのをまたぐっと堪えた。
工場のメンバーの大半は圭吾と仲良くなっている。おべんちゃら野郎の青スニーカーは別として。
「それと、こいつは今日はもういいでしょうか。忙しいところに使ってもらってる人間ですが」
「あー、いやいや、もう。今日も捗ってますから。ほんと、夜久さんの所にいるんじゃなかったら、うちで働いてもらうのに、って、皆して言ってます」
 ぬめぬめした笑顔なんか見たくない。
「道具だけ仕舞っといてな。道具は基本だから、ほんと、基本基本」
 日本語にもなってない言葉を使う奴相手に頭を下げるんじゃない。一緒にいる夜久さんに頭を下げてるんだ。
そう自分に言い聞かせて、圭吾は笑顔で一礼した。
「じゃ、上がらせてもらいます」
 工具を片付け、ざっと汚れをウエスで拭う。どうせ圭吾以上の働きをする相手ではないが、それなりにきちんと片付ける。
後は言葉は重ねず、さっさとロッカールームに引っ込んだ。
 つなぎを脱ぎ、スポーツバッグに突っ込む。タオルを取り出して、洗面所に向かうと、ざっと顔と首回りを洗い、乱暴に拭った。
ロッカーから、ここに来る時だけは履いているジーンズを取り出して足を突っ込んでいると、また嫌な足音が聞こえてくる。
「……正月でも景気のいいこったな、ディーラーさんはよ」
 ぷしゅ、と音がした。早くも一杯、しかも自分ひとりで始めるらしい。
「いいご身分だよな、早上がりもできて。儲かるんならこっちなんかやめちまえばいいのに」
 トレーナーに首を通し、コートも身に着けた。相手にしないのが基本。
「おぃ、聞いてんのか」
 工場長の娘婿、というだけで威張り散らす人間は理解を通り越して滑稽だ。
「……俺も夜久さんも、耳だけはいいですよ」
 立場だけで、人は引っ張れない。肩書きだけで、中身は満たせない。
「中卒はまともな口の利き方も知らねぇんだな」
 大学出、リストラ、不遇の末にここに来たらしい男は畑違いで苦労しているとしても、その憂さを仕事中の飲酒や年下の人間に絡むことで晴らせると思っているのか。
何のために、最高学府まで行ったのだろう、と不思議になる。人を嘲弄することを教える講座でもあるのだろうか。
「お先に失礼します」
 会話が成り立たない相手の前からは、立ち去るに限る。
スポーツバッグを提げて表に向かうと、足音はついては来なかった。
ことあるごとに中学を出ただけ、とは言われる。
何かへまをするたび、すれ違いの起こるたび、学歴の足りなさが原因のように大勢から言われる。
笑われる。罵られる。それが全てであるように。
でもそれを覚悟の上で自分が飛び出したのだと、相手は知らない。
ペナルティを負ってでも好きな道に進みたかったのだと、話した相手はまだ限られている。
その中に、今の圭吾の雇い主は含まれていない。
 コンクリートが打ちっぱなしになっている工場の床と、表の寒さは大して変わりがなかった。
まだ、待っていてくれた男のすぐ傍にある新しい車には慣れることができずにいる。
ある日、相談もなしに前のマセラッティは売られていた。
中古でもよい、譲ってほしいと頼んできた誰かに、夜久は二つ返事で乗っていた車を手放した。
圭吾の車ではない。相談されたところで意見も反対もあったものではないことは分かっている。
でもどうして、前もって一言、と口篭もりつつも相手に尋ねた。
返事は一言。
「慣れろ」と。
 確かに、一台に愛着を持ちすぎていてはいけないのかも知れない。
ただ、それが喉に引っかかった小骨のように、相手に対する妙なこだわりとなって抜けてくれない。
だからまだ話せない。ある程度は話しておくべきなのに。
それとも、話せば迷惑だと撥ね付けられるだろうか。
 まだ革の匂いも残るシートに座る。
「今日は、えーと」
 オフィスから上がったということは、どこかへ出かけるのだろう。
「知り合いから電話があってな。食事でもどうだ、と」
 仕事柄、客との食事もないわけではない。
「お前はまだ会ってないだろうが、私と同じで常連だ」
 省略されきった言葉でも、これは分かった。
初っ端から呆然と引き回されるままになった倶楽部。
あそこにはもう数回顔を出している。
風花は時折、会員登録を勧めてくるが、諸経費が誰の懐から出るかを思うととても頷けない。
ラウンジにある視線の幾つかは、優遇されている自分に対して冷ややかだったようにも思う。
会員である夜久に伴われてくるビジター、というだけでも注目を集めやすいようだが、それ以上の立場でないことを弁えていれば、手も口も出てこないだろう。
整備工場でさえ学歴を問われるとなれば、あの場所において何を言われうるか。
車以外のことを知らなくても、自分の居るべき場所から逸脱しないことだけは圭吾も学んでいる。
「多分連れがいるが、気にするな」
 付け加えられた言葉の意味はすぐには分からなかったが、黙っていろ、ということだろうと圭吾は頷いた。


 見事なスキンヘッド。上等なダブルのスーツ。
深緑のジャガーから降りてきた人物は笑顔こそ浮かべていたが、一瞬回れ右したくなるような気後れを感じる。
横も縦も申し分なくある壮年の男性から少し遅れて、サングラスをした二十代半ばほどの外見の男が降りてくればもうこれはその筋の人かと思いたいほどだったが、夜久の反応は違った。
「伍堂」
 呼び捨て、というのにも怯んだが、やあやあと相手が気にした風もなくやってきて雇い主の肩に手を置くさまもなかなかにおっかない。
「済まなかったな、唐突で」
「いや、夏ごろからか?無沙汰をしていることだし」
 父親と息子ほどには年の離れている男たちが対等に会話しているのは何だか変なものである。
あからさまに変な顔をしていたわけではないが、圭吾の動揺は相手も見抜いていたのだろう。
「初めまして、古河くん……だったかな」
 噂は聞いているよ、と手を差し出されたから仕方ない。
強面の人なだけだ、万が一刺青とか入れてるような職業だったとしても俺は一般人だ。
「初めまして、古河圭吾です」
声は震えてないので、取りあえず圭吾自身としては上出来だった。
「伍堂通鷹(みちたか)だ。生憎今日は名刺を持ってきてないんだが」
 彼相手なのでね、と言われるほどに夜久は親しいらしい。
「こちらは、もしかすると会っているかもしれないな」
 伍堂の後ろにいた青年がサングラスを外す。
外してから気づいた。倶楽部のスタッフだ。
「あー……」
 倶楽部の、と出かかった言葉を飲みこんだ。オルビットはキー・クラブだ。表でみだりに名前を口にすることはいずれ迷惑に繋がる。
「臣です。お目にかかっております」
 男にしては長い睫をした相手は胸元のポケットにサングラスを落としこむ。
夜久に連れられて倶楽部に滞在する間に、圭吾とほぼ同じ位の背丈ながら優雅に動くスタッフがいて、それが臣だった。
後で色々と他の人に話を聞くことがあって分かったのだが、目を悪くして余り光の強い場所では働けないらしい。
倶楽部のような間接照明を主体にした場所は動きやすいのだろう。
独特の制服ではなく、大きな襟のカラーシャツとカーディガン、コートだから気づけなかったが、伍堂が差し出した腕に片手をそっと置く姿は倶楽部での動きを思い出させた。
 入ったのはメニューの値段が普通の店の数倍はするような焼肉店だ。狂牛病騒ぎもあったが結局人は欲望にいつまでも逆らえない。ここの店も店頭に安全宣言なる紙を掲げ、席には既にちらほらと客が入っている。
通常なら乾杯となるところだろうが、夜久は車での移動時には一滴たりとも飲まない。伍堂はそれを心得ているようで、臣と圭吾にはどうぞと言ったのだが、年長者を差し置いて飲むような性格でもないから遠慮した。
 一通りのコースを頼んで、伍堂は夜久と近況を話し始める。
時折向けられる問いに一言二言答える程度で、圭吾は臣と共に大人しく二人の会話を聞いていた。
 スタンドにいた時は、店員や二十歳を過ぎたバイトの酒が入る集まりには参加させてもらえなかった。
酒が入ると人格は変わるもの、どんな失敗をしでかして後で気まずいことになるか、そればかりか犯罪になり得ることもある、というのが所長である二宮の考え方だったので。
さほど入りたい集まりでもなかったのでそれで良かったが、楽しみと言えば飲むばかりのたまに漏れ聞こえてくる男たちの話題は、テレビや家族、下卑てくると風俗、とお定まりだった気がする。
 ところが、今は。
海王星に衛星が新たに発見された話や、流行りの本の科学的なデータの不備、政治や経済―――新聞で読んでもまだまだ分からない―――別に肩肘を張っているのではなく、天気の話しをするような軽い口調で、圭吾の知らない世界の話題をかわす。
 臣がいなければ、黙って聞いていなければ居心地が悪い思いをしたかもしれない。
全ての話題が分かっているのかいないのか、穏やかな表情で男たちの会話を聞き、はこばれてきた皿から適度に食べられるものだけを取り分けて食べている。
 勿論、夜久や伍堂二人にも取り分けられているのだが、本当に久々に会ったらしい二人は会話のほうが楽しいらしく、圭吾や臣には時折、『遠慮せずに食べなさい』『それは空けてしまって構わないぞ』と声をかける程度だ。
 年長者二人がまじまじと臣を見たのは、生レバーの皿が運ばれてきた時だった。
「……臣さん?」
 固まったまま、臣は返事をしない。
「嫌いか」
夜久の言葉にも頷くのが精一杯、の臣だが、伍堂のほうが複雑な顔である。
「なあ、臣。少しはこうしたものも食べたほうがいいのだよ」
分かっていますと頷いたものの、臣はやはり、その皿からは目を逸らしている。
「食べたことがないなら、一口だけでも試してみたらどうかな?ほんの端だけでも」
箸先は揺らいだが、結局ナムルの皿にいってしまう。
「調味料がたっぷりかかっているのだから、気持ち悪い味ではないと……」
「伍堂」
 まるで年下を宥めるようになってしまった自分を笑うような、夜久の苦笑まじりの言葉に、スキンヘッドの中年が顔を赤らめる様は、他所に視線を向けていないと笑ってしまいそうだった。
 と、逸らした通路の先。
「おい!待てよ、別に俺は……」
 男が呼びとめるのも聞かずに、いや、聞こえていても知らぬげに身を翻して去る女性が見える。
ほんの一瞬。
ちらりと長い髪からのぞいた顔立ちが、誰かに似ているような気がして、目を瞬いた。
(えーっと?)
 夜久の顧客の一人には思われないから、スタンドの客だろうか。
それにしては最近見た印象が強いな、と思っていると、左足にじんわりと重みがかかった。
痛さに変わる前に正面を向きなおす。
別にどちらが客だというわけでもないだろうが、長い余所見は失礼だ。
今度は伍堂が静かに笑う番だった。
足は離れたものの、隣に座る男の横目が怖い。臣はまだ硬直している。
「あの、焼いても駄目ですか、臣さん」
話題をレバーに戻したのは半ば無理やりだったが、
「火が通っていれば……」
と、返事があったのでどうにか空気は元に戻る。
「考えずに悪かった、今度からは気をつけるとするよ」
好きな人間にはもったいないと悲鳴を上げられそうだったが、極上のレバーは網の上に置かれた。


 にこやかに会食を終え、車に乗り込んですぐのことだった。
「何を見ていた」
 相手の声の調子から、疑問ではなく糾弾の響きを感じ取る。
何を見ていたか分かっているのではないだろうかと思ったが、きちんと返事をした。
「……お客さんらしい人がいた、気がして……」
 まずいな、と思う。臣は違ったが、夜久や伍堂は明らかにそちらがわの人間だ。
しかも、本当のことを言ったところで言い訳にもならない。
「別に、食事先では挨拶はいい」
 向こうが気にする素振りでも見せれば話は別だが、食事時は気をつけろ、と教わっている。
わざわざマナーが設けられるくらい、何かを食べる姿はみっともない。知人同士ならばともかく、見ぬ振りが正しいのだ、と。
「はい」
 何度もミスを繰り返せば、当然怒られる。今度はすまい、と圭吾は自分に言い聞かせた。
「申し訳、ありませんでした」
 ややあって、返ってきた声は少し和らいだ感があってほっとする。
「気づくのが悪いとは言っていない。私は特に見た気がしなかった。……目がいいな」
 ああ、悪くは取られていなかった、そう分かって嬉しくなる。
だからといってきょろきょろするな、と付け足されてももう構わない。
夜久はちゃんと評価してくれる。自分の努力を認めてくれる。
まだ拘りは抜けないけれど、もう少し落ち着いたら、きっと話そう。
もうすぐ、仕事して一年にはなるのだから。


 その頃、もう一台の車の中では。
「聞いていたよりおとなしい子だ」
 伍堂の言葉に、助手席の臣は黙って頷く。
「倶楽部でもああなのかな?」
「……とても、ビジターとは」
 再び目を守った青年は、ゆっくり首を振った。
成人の記念に若者を連れてくる会員や準会員はいないわけではない。ビジターとして数度、その間に何か勘違いしている風情が見えたなら、連れてきた人間のほうで次の招待は自粛する。
外付けのステータスだけではなく、内面が伴っているかどうか問われる場所。
元から下駄を履かせてもらっている人間は、サービスを受ける意味を取り違えていることもある。
それは育った環境だし、かしずかれるだけの生活をしていればある程度無理からぬこととも言えるだろう。
けれど、スーツがまだまだ馴染んだとはいえない年齢が、準会員はおろか会員の間に落ち着いて座っているのだ。
青二才の分際で、と、陰口を叩くものもいる。それだけのメンバーの間に黙って座っていられるだけの胆力を持っている相手に対して。
「ふむ。古河……」
 伍堂の目には、ただの青二才とは映っていないようだ。と、臣は安堵した。
ハンディキャップを持つ臣を、陰に日向に庇ってくれているのが伍堂だ。
臣自身は気持ちに一定以上の答え方はできない、それでも相手は尊敬できるし、休みの日に時間が合えば、食事に行ったりもする。
触れられて嫌だと思う日がくれば離れるだろうが、自分を尊重してくれている伍堂は、段差の大きい、あるいは明暗に差がある場所でしか手を伸ばしても来ない。
女性ならのぼせてしまうのではないかと思うほど、エスコートされる自分が男だろうと問題ないと感じるほど。
目を眇める伍堂がどの程度少年を気に入ったのかといつもより気になるほどには。
「今日の報告は、オーナーにはせずとも良いよ」
 私からするから、と言われて臣はうつむく。
「どうせ浅井も、風花の懇請に負けただけだ。今日明日に答えの出ることでもない」
 伍堂も多忙な男だ。それが年下の友人と会うため時間を割いたのには、訳があるだろうと思っていた。
若い友人に、ビジター以上の待遇を与えたいと、会員の一人が強く望んでいる。
手順と時間のかけかたさえ間違えなければ、本人が遠慮していようともいつかはそうなるだろう。
周囲にそれを可能にするだけの存在がいるのだから。
「知っている相手だから同席を頼んだが、すまなかった」
「……いいえ。いつも、気遣って頂いて、有難うございます」
答えるには少しだけ間があいた。
越えようがない、越えたくないラインが相手と自分の間にはある。
それだからこその相手の詫びの言葉に、居たたまれなさを覚えることもあるのだ。
もっと自分を利用してくれても良いのだ。好意を分かっていながら、突き放しも受け入れもしない自分を。


 いつにもましてにこやかな風花澄を、浅井時雨は、クリームを一鉢舐めてしまった猫のようだと思った。
本人に言えば叩かれてしまうだろうが。
「茶会?」
「都合、つかないか?」
 もうすぐ梅もほころぶ、祖父宅の離れがあいている日が数日あるから、出来れば一緒に、いやあの二人も誘って、と恋人は視線で揺すぶりにかかってくる。
切っ掛けは、言われているうちに思い出したことがあって予想がついた。
正月明けに妙なアンケートをスタッフが作って持ってきたのだ。
浅井を含めた四名が回答したが、その一人の、とある項目に対する意外で生真面目な回答が、青年を刺激したのだろう。
車一辺倒と聞いていたから、茶道の免状を持つなどと聞いて確かに自分も驚いたが。
同じように免状を持っている恋人は、接点が増えたと喜んだのだ。
「茶室となると、着物だろう?あの二人にも着せるつもりか?」
「別に、スーツでいいよ。それに俺たちだけだし」
 オーナーズオフィスだが二人きりということもあり、一人称が『私』ではなく『俺』になっている。
スーツで斜めに机に乗りかかられると、階上に行ってしまいたくなるのだが、もう少ししたら、相手は仕事場に行ってしまうのである。
「爺さまには内緒にしておくし、終わったらどこか遊びに出てもいいから」
 孫の心配をする祖父が、聞きつければ黙っているはずもないが、と思うが相手は思わず抱きしめたいほど近くにいて程よく清潔な香りをさせている。
「時雨には時々爺さま当たるものな、だからちゃんと根回しはするよ」
 八つ当たりではなくばれているのだと知ったらどうするのだろう、と思うが流石に言い出す勇気はない。
早くに両親を亡くした孫を大事に育ててきた老人は、許しはしないものの、孫の支えとなっている自分をある程度認めてくれている。
二人の関係が『親友』以上のものだと知れないように、表沙汰にならないように気を使っているからでもあるだろうが。
 まあ、見つかったところで、暫く自分が堪えればよいだけのことだ。
友人二人も同席、とあれば、多少は老人の追及も緩むことだろう。
「分かった。余り仰々しいことにならないなら、お邪魔させていただこう」
 苦い茶の前に甘い菓子を口にするような、そんな口付けがかえってきた。




U1 U2 U3 
O1 O2 O3 O4 O5 O6 O7
P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8 index



Copyright 2003 PleasurePrinciple Web master:ai-shiba@mbi.nifty.com