Paradox4


 先ほどまでレジの近くにいた二宮が血相変えてやってくるのを見て、橋はホースを落としてしゃがみこみ、蛇口を閉めた。
跳ね回る水が、自分と相手の心を映したようで、落ちつけない。
やってしまったことはいつか相手に知れる。
それでも、即気がつくとは思ってなかったのだが。
 蛇口を閉めて立ちあがった橋の数メートル手前、勢いを失ったホースがわだかまった位置で、二宮は足を止めた。
「ちょっと、事務室」
 それだけを言って中へと戻ってゆく。
橋は寄ってきたバイトにタオル拭きと、終わり次第中の客を誘導するように言って、事務室へと向かった。
ドアをくぐる前に帽子を取って片手に握る。
二宮はまだ、こちらを向いていない。
スタンドで客に対するのと同じ、きびきびした声で、上司である男の背中を叩く。
「……お待たせしました」
「閉めてくれ」
 厳しい声に、久々に喧嘩することになるか、と腹に力をこめる。
ドアが閉まると同時に、背を向けていた男が振りかえった。
「お前、この前の客に教えたのか」
一瞬、『どのお客さまでしたっけ』と惚けようかと誘惑が頭の中を過り、すぐに煙草の煙よりも儚く消えうせた。
二宮が手にしているのは、POSレジから出てきたレシートの控えだ。
カード払いの客の名前を見れば、橋が担当したのが誰だったかはすぐにわかる。
「あの客に対しては、俺に回せと言ったはずだな?」
「丁度、所長は昼休憩中だったんで、俺が」
「関係ねぇだろ」
 薄い紙が弾かれたような音を立てる。拳を一瞬震わせた二宮は、しかしまだ感情を押さえてはいるようだ。
「何かケイの義伯父さんに渡してたってな」
他のバイトが、見ていたことをそのまま話したようだ。口止めすべきことではないにしても、余り嬉しいことでもない。
 つかつかと寄ってきた二宮の怒りは分からなくもなかった。
「自宅の電話番号だけなら、教えましたよ。携帯はしらないけど」
「馬鹿っっ!!」
 どん、と肩を突かれてよろける。
「勝手に客の個人情報を漏らすなって言ったろうが!」
 確かに、親戚だからって話したのは拙かったかもしれない。既に職場の連絡先は知っているはずなのだから、それ以上の情報を与える必要は必ずしもなかったかもと思った。
「でも、お客さんは、今日も電話して出なかったから、どうにかして連絡したいって」
「言われたからってほいほい教えるのか、お前は。信用問題なんだぞ!」
 これが、他の客だったら、俺は教えただろうか。
橋は、何度か繰り返していた疑問を、再び胸中で繰り返した。
「住所までは知らないし教えてない、旅行や仕事でいないなら諦めつくだろ」
「しつっこい客なんだぞ、ケイだって嫌がって……」
 橋は思いきり、手の中の帽子を握りつぶしていた。
「あんた、いつまで辞めたバイトのこと気にしてんだよ!」
 どうにか声だけは押し殺したが、その分眼光がぎらついていることに、橋本人は気づいていない。
ケイ、ケイ、って。いい奴でも、二宮は構いすぎている。
好きだったのだろうと、思う。橋だって一生懸命だった圭吾を嫌いではない。
でも、あいつは今このスタンドにはいないし、二宮所長を見てもいないのだ。
「橋……」
 眦を決して何かを言いなおそうとした二宮を、橋は壁際へと押しつけた。
「あいつにはあいつで見てるものがあるだろっ。だったら、伯父貴だかなんだか知らないけど、あいつが一人で解決すりゃいいじゃないか!」
圭吾に悪いな、と思わないわけではなかった。
 けれど、一人前になったなら。
社会人になったのなら、そこまで甘やかす必要なんかない。
立派な服装をした伯父を名乗る男が、圭吾を迎えに来たのだってどうして悪い一方に考えるのか。
要するに、二宮は圭吾のことを諦めきれていないのだ。
手元に戻ってくれば、と叶わぬことを心に残している。
 それが何よりも、橋をちりちりと焦がしていた。
「お前は知らないだろうがっ、何も」
 圭吾のこととなると沸騰するこの男を、今、見ているのは一人だけなのに。
思われている相手は、二宮の感情など知る由もない。
更にその二宮を思う人間がいるなんて、針の先ほども考えやしないだろう。
「あぁ、俺はケイのことは知らない、けどな、二宮さん」
この場で相手をどうにかしてしまいたい、狂おしい感情を橋も必死で押さえこむ。
「あんたのことだったら知ってるんだよっっ」
 二宮は、一度懐に入れたものにはとことん甘い。
相手のことばかり考えて、足元を掬われてしまうほどに、お人よしなのだ。
それがしばしば、バイトを庇っての言動になるたび、自分は苛立ちながらも従ってきたけれど。
もう我慢できない。
その性格故にしばしば身動きが取れなくなる男を、橋は精一杯壁と自分で挟みこんで、抱きしめた。


 車の中の空気が、これほど重かったことがあっただろうか。
きっと、アルファロメオを駄目にした時以来だ、と、圭吾は膝の上で拳を握り締めた。
夜久は何も言ってくれない。車を走らせ、行きとほぼ同じルートを辿って、もう二十分もすれば家に帰りつくだろう。
 いっそ腹立たしいほどに、男は落ち着き払って見えている。先ほど、風花老人の前で見せた苛立ちが嘘のようにも思えるが、ひょっとすると、夜久なりの判断で抑えこんでいるだけかも知れない。
どちらでも、圭吾では相手の気持ちを変えようがない。
ただ、何か言って欲しい。糾弾、或いは説明を求める言葉、罵詈雑言、何にせよ、沈黙は痛い。
 何を考えているのか。俺は、何を言えばいいのか。
言われたくないことだけは、はっきりしている。
『出て行け』『帰れ』。
こればかりは、言われたくない。夜久の口から聞きたくはない。
 家族はいない。
圭吾はそう言って押し通してきた。誰の前だろうと、何を言われようと、戻る場所はないのだと、躊躇いなく、翳りすら見せず、ただの事実としてそう告げた。
 実際は、そう、『父』がいる。
いるにはいるのだが、説明がしにくいことこの上ない。
どこから話せばいいのか。父親のことか、家のことか、話そうと思っていたけれどいざとなると頭の中で関係ない百年以上前の話とか、妙な逸話だとかも混ざってごっちゃになってしまう。
 人にまた、好意とは言え暴露されてしまったのが気まずい。
風花老人の十徳を見るに、相当の年季が入った茶人だろう。茶道の関係者には、今後、自分のことが知れてしまう可能性がある。口止めの類もあの場では出来なかったし、電話して頼む、という類のことでもない。
それに今後、風花側からのお誘いは恐らく増えるだろう。
 そうすると、居場所が家に知れてしまうのは時間の問題だ。
最悪の形で、自分の素性が夜久に伝わっていることに、頭を抱えたくなった。
それでも、膝の上から手をどかさずに、やっとのことで耐える。
俺は、大人だ。大人の男は、じたばたしないし、言い訳だってしない。
 夜久にどんな風にされるのか、突き放されるか、物のようにただ抱かれるか、それも恐ろしい。しかし、みっともない真似をして、惨めな姿を晒したくはない。
 改めて、相手の横顔を見上げる。
必要以上に笑まないくせに、幾らでも愛想よく振舞える男は、今は、男らしい沈黙を保って口を閉じ、真っ直ぐに正面を見て運転している。
 商売先が地獄だったとしても、この男は傲慢と取られる落ち着き振りで赴くだろう。
夜久の分まで背負ったような苛立ちと、そんな風に泰然としていたい、という羨望が入り混じり、圭吾は軽く奥歯を噛み締めていた。
 信号で停止して、ほんの数秒。
夜久の顔がこちらを向いた。
それでも、何も言ってくれない。どうして、思っていることがあるにせよないにせよ、一言もくれないのだろう。
 見上げた圭吾に何も言わず、夜久は再び正面へと向き直る。
何も、言ってもらえない。今度は唇まで噛みかかった時、男はハンドルを握ったままで肩を竦めた。
「先に言うことがあるのは、そちらだろう」
 信号が、赤から緑に切り替わる。
セオリー通り一秒の間を置いて車は走り出した。
僅かに背をシートベルトに引かれ、圭吾ははっとなる。
 夜久は、話しも聞かずに圭吾を放り出すような男ではない。
きちんと話し合いたいことがある時は、何時だって聞いてくれたではないか。
相手の怒りを考えていたから、そんなことも忘れていた。
「……ごめん」
少なくとも、これからどうなるかは、圭吾自身の説明にかかっているのだ。
「ややこしいんだ、あそこは」
 家とは呼べなかった。呼びたくはなかった。
父親がいても。嫌なことばかりではなかったとしても。
あそこは、俺の家ではない。
でも。夜久さんと一緒にいても、あそこが俺の家かと聞かれれば返事に困る。
自分の居場所は、決まっているわけじゃない。
 もう一度、無意識に拳を圭吾は握り締めて、言葉を探した。


 住宅街の一角に、その家はあるようだった。
スタンドの店員に聞いた電話番号から、住所を調べるのは手間取ったが、どうにか特定できたことにほっとしつつ、男は運転手に地図をめくらせ、メモの場所へと向かうように指示を出した。
 仕事場に直接向かえばまたしても休み。どういう稼業なのかと危ぶんでしまう。
動産を扱うなど、決して安定した商売とは、思えない。
一応は人を使って調べたものの、素性の知れない男らしく、そんな場所に長く、義甥を預けて置けるものかと、口元を引き結んで真正面を睨みすえた。
「……そろそろでございます」
声をかけてきた初老の運転手は謹厳実直さだけが取柄だが、それこそが最良の取柄だと男は信じている。
 義甥に何が起きているか知った時は、正直驚いた。家人が自分の耳に入れなかったことにも憤慨したが、肝心の義兄がまず、経緯を話そうとしなかったのだから、妻はともかく入り婿の自分に知れない状態が長いのは無理からぬことだった。
 五年もの月日、自分の迂闊さに臍をかみたいが、まだ周囲に知れ渡らぬうちに、生じていた綻びを繕うことはできるだろう。
小柄な、浅黒い少年は五年もの間、迎えに来ぬ家を恨んでいたかもしれないが、連れ戻して分けて聞かせれば、少しは納得する年齢になっているはずだ。
 もちろん、相応の処遇も考えているし、悪いようにはなるまい。
義兄も文句を言わないはずだと、内心頷くと車が減速した。
視線を上げると、男にはさっぱり興味のない外国産の車が、数メートル向こうに停まっている。
国産車なら運転席の位置に座っている若者を見て、男は喉を鳴らした。
「……とし……」
 大きくなった甥だと気づくまでに、身体が一度震えた。
しかし、見違えるほどになった相手は、思っても見なかった存在に肖ていたのだ。
「旦那さま。こちらでございます」
「あ、……ああ。ご苦労、少し待っていてくれ」
 頼まなくてもドアは開いて、予期していたものの、一瞬転がり落ちるのではないかと、男は足を踏ん張った。


 十メートルと離れていない位置に、黒いクラウンが停まっていた時、圭吾は自分の眼差しが険しくなるのを感じた。
「……ケイ?」
 珍しく問うような男の声にも答えず、ドアが開くのを予期していたように思いつつ前方を睨む。
 もったいぶって車から下りてくる男には、嫌というほど見覚えがあった。
血の繋がりは一滴たりとない。苗字だけが同じだ。
古河次良(つぐよし)。義理の伯父にあたる男は、羽織袴の乱れもなく、こちらに歩いてくる。
「……ざけんな……」
 押し殺した呟きのまま、ドアを開けた。
険しい顔の圭吾を夜久が驚いた目で見ているのが分かる。
それでも、ある意味最低最悪の奴が来た以上、圭吾は態度を軟化させる気はなかった。
何で、来るんだよ。
最低最悪の日に、止めとばかりに嫌な奴に出会う。
 いつもなら、もう少しは穏やかに対処出来たかもしれない。しかし、慣れぬ茶事の主客を勤め、年上の人間に囲まれて素性を悪い言い方だが暴露され、ストレスがかかった圭吾はある意味逆上していた。
いや、最後だけを取れば、今日に限ったストレスとは言いきれないが、そうした判断もしかねるほど、圭吾の苛立ちは沸点に達している。
 どうやって調べたのかしらないが、用件はロクでもないことだろう。
義伯父が自分の前に立つ時、決まって言うのは『家』のことだった。
子供の都合は聞かないとばかりに、何を言っても聞いてくれなかった。
「……圭吾か。大きくなったな」
「何しに、来たんだよ……っ」
 義伯父のたじろぎにも気づけず、思ったことを浴びせてしまいそうなのをそれでも堪えていた。夜久の家の前だ。
ギリギリの所で圭吾が堪えていると知ってか知らずか、次良はとんでもないことを言ってのけた。
「お前が、妙な……いや、知らぬ人のご厄介になっていると聞いた」
 小さく誤魔化そうとした声を、鼓膜は逃さなかった。
「古河の家の人間を、他人の養われものにしておくわけにはいかん。帰るぞ」
夜久にまで届く声ではなかっただろうが、抑えに抑えていたものが、全て吹っ飛ぶには充分な言葉だった。
ドアが開く音が背後でしたが、構わず、圭吾は義伯父に向かって突進した。
「あんた……っ、その言いぐさはなんだよ」
相手はまじまじと圭吾を見ている。唇が僅かに動く。
「私は、お前がまさか……」
「どういう話を聞いたか、どうやってここ調べたのか知らないけどな」
 全身が震えるほどの怒りを抱え、圭吾は両足と腹に力をこめて相手を見据える。
「普通、連絡寄越すものじゃないのか、留守だったら後日改めるだろ?夜久さんに失礼とか、あんた微塵も思っちゃいないんだろ」
「圭吾……」
「大体、厄介ってなんだ、養われものってなんだよ。俺は、あんたたちに探してくれって頼んだ覚えもないし、迎えも頼んでない」
「圭吾、私の話しを……」
「それに、知らないからってなんだよ。失礼な。普通、本当に親戚が厄介になってると思ったんなら、頭を下げて挨拶をするもんじゃないのか。義甥がお世話になってますって。それを、なんだよ偉そうに。何が『帰るぞ』だ……」
 頭上から、衝撃が走って、舌を噛みそうになる。
次良は、薄い唇を僅かに開き、わななかせている。しかし、手は動いていない。
「……何で……」
背後から一撃を加えた夜久を、圭吾は衝撃で潤んだ目で見上げた。
男の、いっそ冷ややかとさえ見える目に、恐怖と憤りとが自分の中で混ざって渦巻く。
「お前が無音だったことを棚に上げて、何を言っている」
 錆びついた金属を思わせる声は、こうした時なぜか通りがよい。
「わざわざ尋ねてきた相手に対して、挨拶を欠いて罵詈雑言を浴びせろと、私も二宮も教えた覚えはないぞ」
 まだ、身体は震えている。しかし、相手の言葉は耳に入り、心をかき乱しながら脳裏に一言ずつ染みてゆく。
「け、圭吾……」
「成人した身にもなって、年上に『あんた』呼ばわりも問題だが」
 視線をちらと投げるだけで、夜久はこちらに来ようとしていた圭吾の義伯父をその場に縫いつけた。
「留守電のチェックはしていたのか。それともお前が、連絡を消してしまっていたと言うことはないのか」
「そんなことしてないっっ」
「どうかな。前もっての連絡なしに、不在の家においでになるようには到底見えないが。まあ、お前がうっかりしていたのだろう。私に取り次ぐのを忘れて、目上に要らざる恥をかかせるような真似をするな」
言葉は厳しいが、一瞬、視線が合図をするように動いた。
 ほぼ同時に、長い言葉の中、ある響きがあるのに気がついて圭吾は頭を押さえていた手を外すと、首を小さく横に振った。
アポイントなしに他人の家にやってくるのは、非礼だ。それを相手がしてないように振舞うことで、逆に詰っている。
留守電は出先でもチェックしているから、何かかかってきていれば、すぐに分かる。
 誰が間違っているか知っていて、夜久は敢えてこうした態度を取ったのだ。
「い、いきなり甥に何をっっ」
 弁当箱を変形させたような顔だと圭吾が内心思っていた次良は、しかし、夜久に見られてまた硬直した。
「……失礼。ケイの……いや、圭吾君のご親戚でしょうか」
 営業で使う表情を見せているが、夜久の目は笑っていない。
「お……義伯父だが」
 それはそれは、と笑んでも、迫力がある。
「ご挨拶が遅れまして。夜久と申します。遠方よりのお越しに、このような場所でのご挨拶、お許し下さい」
 相手が名乗らないでも、苗字だけは告げる。まっすぐに立つ男の発する空気に、大概の人間は格下だと思っているだろう義伯父が怯むのは、内心とても愉快だった。
「申しわけありませんが、本日は」
ちら、と時計に顔を向けて、夜久は時間を計算する振りをした。
「……二十時に、約束がありまして。後二時間も経たず出かけなくてはなりません。それで間に合うご用でしたら、どうぞ拙宅へお上がり下さい」
用事なんか入れてはいない。嘘っぱちだ。だが、圭吾は何も言わなかった。
 二時間、というのは短い用件が片付くかどうかの時間でもある。
そして、今回のことはまず、相手が一方的に喋って終わる用件ではない。
「む……」
 流石に、短い時間ではどうにもならないと思ったのだろう、次良は顔色を変える。
「いや、甥に話があってきたもので、あなたではないのだが」
「然様ですか。ですが、私の用も彼なくては難しいので、……恐れ入りますが、またご都合の宜しい日時をお知らせください」
 更に、言葉で夜久は相手の余裕を削る。
不意に選択を強いられるとは、次良のような者は余り考えていない。
たちまち、義伯父が困惑と焦りの只中に置かれるのを見、圭吾は改めて、自分の雇い主である男がやり手なのだと思った。
「なくては、というと……」
男は僅かに片方の眉を動かし、また形ばかり圭吾を睨む。
「何だ、合格も知らせていないのか」
 声に混じる驚きが、わざとらしさのラインの一歩手前だ。
これに応じる余裕が、どうにか圭吾の中に生まれた。
「二級受かっただけで、連絡なんか……」
「合格……二級」
目を白黒させている次良に、夜久は感じの良い笑顔を見せる。
内心何を考えているか、圭吾にも分からない。
次良はもっと、困惑させられていることだろう。
「整備士試験に合格したばかりですよ、甥ごさんは。証書でもご覧に」
 立て続けの攻撃に、防戦一方となった相手は、どうにか深呼吸を一つすると、いつもより数段歯切れの悪い口調で答えた。
「あ、いや……こちらもお留守かどうかと迷いつつ、近くだったので思わず車を向けてしまったので。ただ、甥は……」
「ああ、こちらとしたことが、失礼を」
 内懐から名刺入れを、名刺入れから一枚を、滑らかなな動きで出し、夜久は相手に歩み寄ると差し出した。
「こちらの方が事務所になっております。不在の際はお手数ですがメールでも」
 笑みは儀礼的なものだ。自宅へ押しかけた相手に渡す名刺で、連絡方法を限れと言うのも、この場でこれ以上は話したくないと、言外に匂わせている。
「……ご丁寧に、どうも」
 記憶の中では堂々と、人に頭を下げさせていた男が、気後れしたように受け取った後、自分の名刺を差し出している。
社会的地位の大きさなんて分からないが、年長者を立てる振りをして怯ませ、思い通りに動かせる夜久は、なんて男なのだろう。
「……車を入れておいてくれるか」
 こちらを振り返った男は、いつものように『入れておけ』とは言わない。
「はいっ」
 答えて車へ向かえば、義伯父がはっとしてこちらを向く。
それでも、無視して圭吾は乗りこんだ。
キーを捻り、ハンドルを握る。僅かに温かみのある革が、車庫入れだけに気持ちを向けさせてくれた。
サイドミラーの男二人が、小さくなる。


 他人相手に激昂する圭吾を、見るのは初めてだった。
圭吾は、元気は良いが、他人に苛立ちや腹立たしさをぶつけるようなことはない。
最初にねじ伏せた時だって、反抗心よりも夜久に対する詫びの気持ちが、少年を絡め取っていたのを利用していたようなものだ。
 家から、飛び出した少年。
地方の茶道の一流派など、大きな存在とは言えないと車の中で圭吾は呟いた。
そこの長男が圭吾の父親だが、流派には宗家が置かれず、実質は長女―――圭吾の伯母―――が婿を取って後を継いでいる。伯母には娘が一人生まれただけなので、さらに義伯父の血筋から婚約者を定めていて、跡目には問題がない。
 車が好きだった自分は、整備工になりたかったが反発は見えている。
だから飛び出したのだ、と言った瞬間に、圭吾は前を睨んだ。
 車から瞬時に飛び出て、敵に対して身構えた姿はなかなかに良かったが。
まだまだ子供であることだ。
義理の伯父とやらを、夜久は瞬時に上から下まで眺めおろす。
 人を使う立場の人間は、手首を掴んで連れ帰れば、家出少年が言う事を聞くものだと思っていたのだろうか。
およそ五年もの間、隔たっていれば、他人の中で苦労した子供は変わる。
そんなことも予想がつかなかったのだろうか、どこか間抜け面のままいる弁当箱の後ろから、初老の運転手が主を気遣うように下りてくる。
 いつまでも、招かれざる客とかかずらってはいられない。
住所が漏れたルートはおおよそ検討がついているが、自分の家の前で押し問答など、誰のためであろうとご免被る。
 これからやるべきことに、頭の中で素早く順位をつけた。
自分のこと。そこに、サンドウィッチの具のように折りたたまれて入りこんでくるだろう圭吾のこと。
他人の事情など、深いかかわりを持つとは思っていなかった。
今でも、煩わしいと思わないわけではない。圭吾を追い出して片がつくのなら、その方が自分にかかる負担は最小限で済む。
 車が、半地下になっている車庫へと滑り降りてゆくのが、背中からでも分かる。
落ちつかせるには、車に触れさせるのが何よりだ。
「圭吾……」
 呟いた男の顔は、何か信じられないものを見た後のように驚きを残していたが、五年ぶりの甥の反応がそんなに意外だったのだろうか。
「それでは、お気をつけてお帰りの程を」
 一礼すると、呆けたような顔が幾分引き締まった。
「夜久さんと仰ったな、あなたは……」
「今日のあの様子では、落ちつくには時間がかかるでしょう」
 遮られたことに相手が怒り出す前に、話になる以前だと車庫のほうへ顔を振り向けて見せた。
人の機嫌を取るより抑えつけるタイプのように見えるが、茶道など今日の肩の凝る代物しか知らない自分にとっては、微塵も価値のないことだ。
「……分かった。圭吾に、事務所の方へ電話するように伝えていただきたい。市川と言うものに、話が通ずるように言っておくので、と」
「伺いました」
 通常、要件と言うのは復唱するのが当たり前だ。
しかし、夜久はわざと繰り返しなどせず、相手を苛立つままにさせておいた。
その程度で臍を曲げているなら、圭吾以下だ。
「では、これで」
 そう言って背を向けた男の前を、運転手が小走りに走ってクラウンのドアを開く。
そのドアの前で、男は再び夜久の方を向いた。
「甥を、もうしばらくだけお預けする。日を改めて、迎えを」
 返事を待たず乗りこみ、ドアがしまってほとんどすぐ、黒塗りの車は発進した。
目の前を通り過ぎてゆく後部座席の顔は、もうこちらを見てさえいない。
「帰ると思っているのか。……おめでたい限りだな」
 何が起きたのだか知らないが、圭吾の父親に不幸があれば、その場で告げただろう。
ケイの話を聞けば相続問題もなさそうだし、私の出番はほぼあるまい。
それより、肝心の当人は、と車庫に向かうと、運転席を下りたばかりらしく、窓ガラスに顔を映してしょぼくれているのが見えた。
さっきの勢いはどこへやったやら。
「ケイ」
 近づいてきているのは分かったようだが、圭吾はまだこちらを見ない。
「……おい」
 一応、助け舟を出したのにその態度はなんだ、そう思って肩に手をかけた時だった。
「夜久さんっ」
 胸に、全体重を乗せるようにして圭吾が身体をぶつけてきた。
一瞬息が詰まり、衝撃が収まる前に、二の腕に指が食い込んできた。
上着ごしでも、相当に痛い。
「っっ」
「……で、くれよ……」
振動が、腕を通して伝わってきた。
「ケイ?」
「俺、あんたのもんだよな?スタッフだよな?」
 真っ直ぐに見上げてくる圭吾の目は、指よりも深く、身体に押し入ろうとするようにも思われた。
「だったら、あんなのに押しつけないでくれよ。かっ……帰れとか……」
 見る間に、激情が潤みとなって目に噴き上げる。
急激に揺すぶられた反動が、今頃来たのだ。
今日は何度となく緊張し、叩かれ、むしろよく保っていたものだろう。
 涙を拭おうと、圭吾は片手だけでも夜久から剥がそうとした。震えているためか、うまくゆかない。
「……出てけとか、いっ、言わないでくれよ……」
 その震えにまるで夜久も巻き込もうとするように、御しきれないままの手で、揺すぶってくる。
「なぁ、……何か言ってくれよ、俺まだ、や……夜久さんがどう思うのか、きっ、聞いてな……」
 頬へ今にも転がり落ちそうな熱を堪えようとしながらも、圭吾は必死に言葉をつなぎ、喋りつづけることで与えられたプレッシャーを押しこめようとしている。
 大丈夫だ、と言ってやろうかと一瞬考えたが、そんな保証は、今まで誰に対してもしたことがない。
それなら、自分のやり方で慰めてやれ。
「脱げ」
 大きく見開かれた目の上で、最初の雫が形作られる。
「どうした、……お前は私のものなのだろう?」
 唇がわななき、一瞬、反抗を示すように横一文字に引き結ばれる。
しかし、かちゃり、という金具の音は、夜久の口元を笑ませた。
圭吾が自分のベルトを緩め、スラックスを下に落とす。
目は反らされず、夜久に食いつこうとするようにその顔を見据えたままだ。
「……いい、覚悟だ」
 最悪の一日の最後に、捨て鉢な気持ちになっただけとしても、滂沱の涙を流しつつ相手を睨むことができているなら。
こいつは、ただ家から逃げ出したのではあるまい。
 顎を抑えて、口付けを奪う。
何もかも失って一からやれる男は、なかなか手中におけるものではない。
ただで、親戚とやらにくれてやるものか。


 物陰からのぞいていた青いスニーカーが、少しずつ後ずさっていたことに、二人は気づかなかった。



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