| Orbite1 |
| 薄情な満月の夜だった。 こんな晩に客として呼ばれるのはその主が一人満月の下にあることを好まないからではないかと男は思っている。 満月には碌な話はない。 夫を見捨てて天に上り、蝦蟇に変えられた女の話。 処女神と友諠を交わしたために射殺された巨人には罪はなかった。 永遠に己のものにしたいが為に美しい青年を眠らせ、夜毎起きだしては寝顔に見入った身勝手な女神の物語。 この国の月は男性の神格を持っているのに、通常人は『お月様』などと女性のように月を扱う。 こんなことを考えてしまう辺り、男も宴の主と同じ様な思考の持ち主なのだろうか。 ぞっとしない話だ。 そう素直には愛でる気になれないほど、また今夜の月は白々と冴えていた。 「そう言えばあの話はどちらも不老不死に通じるな」 いつもは黒と白の濃淡で己に陰影をつける青年は、今夜は綿を抜いたばかりの千草色の着物姿だった。自宅ではないのにこうして寛いだ恰好ということは、主の元で泊るつもりなのだろう。こざっぱりとしているから、湯を使って準備万端らしい。 「不老不死、な」 男が手土産に持参した東北の酒を冷やで味わっていた主は、無表情に近い何時もの平板な声と視線を保ったまま、斜め向かい側を見てつぶやいた。 銀縁の眼鏡を、そっと拭いていた怜悧な眼差しが、侮蔑に近い細められ方をする。 その手で合法的に生命を暴ける男は、気配だけで首を横に振るよりも雄弁に主の言葉を否定した。 彼は車で来たのでと酒を断り、テーブルに並んだものも小鳥のように少ししか口にしていない。 眼鏡を直したこの男は、改めて口にしないが他所の、誰かのテリトリーに横たわることを嫌うのだ。眠っている姿を見たことのある人間は皆無に等しい。 どんな悪趣味な遊び場にいようとも、そんな風にして己を他者と切り離せる。 だから、彼は飛び入りで呼ばれたのだ。 ここにいる男達は、触れ合う相手を求めはしても、独りでいられなければ窒息死してしまう同士なのだから。 「極めてみたいとは思わないのか、ドクター」 揶揄するように言えば、今度ははっきりと首が横に振られた。 「そんなエゴイズムに協力してやる気もないし、そも不可能だね」 「人類共通の願いと言うものもいるだろうに」 主は興味を抱いたのか、呟きであったはずのそれを夜風に乗せられるほどに強めた。 冷笑の気配が強まる。 「一部の偏執狂だと、『個人的には』言わせてもらうよ。くだらない」 彼は、自分にと用意されたライム入りのミネラルウォーターで唇を湿し、続けた。 「自分はかけがえのない存在だとしたら、ナルキッソスのように果てるべきなのさ。粗大ゴミ扱いまでどうして待つことがあるのやら」 個人的な意見だと言いながらも、その言葉は誰にも効果があるだろう毒を微弱に含んでいた。溜まれば緩慢に死を迎えそうな静かな毒。 普段の真面目な仕事ぶりにも、或いは潜んでいるのかもしれない。 毒も僅かであれば身体を癒す手立てになることがあるのと同じことで。 「冷凍保存して治療方法を待つって言うのは?」 そう言いながら着物の青年はルイベを取った。この男も悪趣味だ。 「厳密な不老不死ではないだろうけど、生きたいと願う気持ちはあるよね」 凍らせた鮭がするりと形の良い口に納まったのを見て、医者は苦笑した。 「あるだろうけど、君は百年後の世界を思い描けるのかい?二百年後は?」 飛躍し過ぎではないのか、と問う前に片手が上がる。 「仮に、治療方法が見つかる。方法が確立されるまで十年はかかる。患者はその間は生きているとしよう。でも、彼が見なかった世界は、どんな環境になっている?孫やひ孫の代まで、人間は余り想像力が及ばないものだよ。空気の質は?水は?新しい物質やもっと致命的な病気だって発生しているかもしれない。そこに、患者は放り出されるんだよ。予備知識も、適応する能力も与えられないままにね」 世界と切り離されて、眠ったまま知らない朝を迎える。彼にとってその時間は己の身体で耐えてきたものではなく、立つ地平はあっても自分が踏み固めたものではない。 「極論を言えば、治療が終わった瞬間に彼が死んでいても、僕は驚かない」 「それでは、世界に拒まれるようなものだな」 そう口にした男が、今度は友人に苦く笑われる番だった。 「逆だよ。世界を、自分自身で拒むんだ。エゴでね」 勘違いしないでくれ、と医者は続ける。 「治療を切望する難病を笑う気はない。医者としても根絶を願っているよ。ただ、僕たちが共有できるのは、過去からの積み重ねであって、遠い未来を引き寄せるのは無理だよ。医学だけでなく、全てにおいて」 「私は、嫌だな」 夜風が青年の着物を揺らした。それに押されたように青年は主の傍らに寄りかかる。 「この時代だから、面白いこともある」 最後の希望で現在を氷の下に封印する人間は、本当にそれしか方法がないと思いつめてのことであるのだろうけれども。 迎えてくれる世界が暖かいのかどうか、青年は知らない。 誰かと知り合う可能性があるとしても自分が愛した人間は全て冷たい墓の下だ。 それよりは寒い肩を抱き寄せてくれる暖かさの中で終わりたいと思う。 こうして眼差しで撫でてもらえる心地よさが未来に保証されない以上は。 そう、男達は独りを好んでも寄りそう気持ちを忘れたことはない。 時に世と相容れない己の心を理不尽なほど厭い、憂えて、時には対立の構図さえ描いて見せながら、明日の朝には誰かに求められる枠に存在している自分に安堵する。 欲しいのは刹那。快楽にせよ、痛みにせよ、衝動を過ぎてしまえば安寧の日々に満足を覚え、秒単位でさえない何かが指の間をすりぬける時を待つだけなのだ。 「先のことなぞ、私も要らないな」 主は、現在の相手の体温を暫し保ってやるようにやんわりと引き寄せていたが、再び月に目を向けた。 「あそこに気軽に旅行できる時代まで、生きている保証などないし」 「月に行きたいのか、お前」 仰向いた貌は微笑とも諦観ともつかない翳りを口元に映しただけである。 主の沈黙に合わせたように、皆は暫し己を宴からも切り離した。 そうして、どれほどの時が経ったのか。 「―――そうだな」 聞かせるような大きさの声ではなかった。 「せめて、もう少し近ければな。衛星ほどで良いから……いや、ただ近くを巡っていられたらそれで……」 主の心は今ここにはなく、夜の大気と静けさを共にしている、そんな風に皆が思った。 だが、その後宙より視線を外して彼らに向き直った主は、月面ではなく地上の計画を語り 始めたのだ。 地上にありながら、衛星軌道上のような隔絶された空間の話しを。 重い樫の扉の前で、夜久克征はそれと分からない程度に深呼吸した。 怖じ恐れるようなことも何もないのだが、仕事の帰りに休息ではなく用件のみで『オルビット』を訪れるなど、考えもしなかった。 それでも夜久は傍目には何時もの堂々とした態度を崩しもせず、ノッカーに手を伸ばし、静かに、だがはっきりと二度鳴らした。 後は手を離して静かに、扉が開くのを待つ。 数秒は、何も変化は起きない。駐車場やエントランスまでのルートで確実に夜久の到着は分かっているが、この倶楽部の扉は自動ではなく、相手を見定めてから招じ入れることに 決まっている。 楽園の扉は、万人には開かない。 勘違いの特権を振りかざすような客はいないし、そも近寄れもしない。 ゆっくりと扉が開くと、深々と下げた頭が目に入った。 フロアマネージャーの入江である。 「オルビットへようこそ、夜久様」 暦ももう春を半ばに、花は例年より早く散り敷いて、今年のここでの桜の趣向は何だったのか、過ぎてしまえば詮無い事だが。 「オーナーは」 脇にするりと下がる男の脇を抜け、ラウンジに知り合いがいないことにほっとする。 もっと早い時間に来てさっさと用件を済ませてしまいたかったから、正直誰もいなくて助かった。 「はい、本日もオフィスに」 従順に答える入江の表情に、微妙な苦さが混じっていると見て取れるのは夜久くらいだった。と言うよりも、入江が内心を表に微量でも見せる相手が限られている。 「いい加減、ワーカホリックだなオーナーも。……言っておこう。取り次いでくれ」 「有難うございます。……では」 再び礼をした後、入江は躊躇うことなく奥のオフィス、そしてオーナー専用のオフィスへと続く側へ夜久を案内する。 案内は不要なほど、夜久はこの建物の内部も相手も知っている。 それでも、ここは相手の王国で、相手の法がある。 オフィスの脇を抜ける時、奥に座って仕事をしていた新倉が、夜久に気がつき立ち上がる。 北方の血が混じっていると聞く色白の新倉は、先ず客に一礼した後、少し童顔の入江に頷きかけた。 入江は黙ってオフィスから出て行く。別に新倉は入江に指示を出す立場にはないのだが、 オフィスにこの男がいる時、入江は必ず新倉を立てる。 「夜久様、お久しぶりです。花の折には皆、寂しがっておりました」 「無沙汰をしてるな。……頼む」 新倉は頷いて奥の扉に向かい、ノックする。 「オーナー、夜久様がお見えです」 応えらしき声があったようで、新倉はそこを開けてするりと入り、待つほどもなく戻って来た。ドアは開いている。 「どうぞ」 ちら、と返事代わりに新倉に視線を向けてから、夜久は新倉の快適そうなオフィスよりも地味ながら贅沢さが伝わってくる部屋に足を踏み入れた。 オリーブ色の濃淡にクリーム色の配色が多いオルビットの内装と、オーナーのオフィスは微妙に異なっている。どちらの色も微妙に濃さを増し、地紋の模様も複雑な壁紙や、黒褐 色の分厚いデスクや棚の重厚さが何処か上流の趣味を感じさせる。 そこに座って書類にサインをしている男は、しかし大概の客を驚かせる。 ベンチャー企業と言うわけでもないのに、こんなに若いオーナーがいるものかと。 茶系の髪の毛は、別段脱色や染めたわけでもない。それより薄い瞳は東洋人のものなのにヨーロッパの人種に時折見かけるような酷薄な色合いに映る。 浅井時雨。紳士倶楽部『オルビット』のオーナーで同名の会社の社長。資産家。 取りあえず世の中で男はそう呼ばれ知られている。 「久しぶりだな、夜久」 「相変わらず忙しそうだな、オーナー」 「いや、それほどでも。直に終わる、座っていてくれ」 夜久は返事はせず、来客用のソファーに腰をおろした。 新倉が数歩寄ってきて腰を屈める。 「お飲み物はいかがされますか」 「今日のカフェは何だった」 「メランジェです」 ウィンナーコーヒーは少々いただけないな、と思う。僅かの間から何を思うのか、 「本日は岩佐と臣がおりますので、何か面白いものを」 「頼んだ」 「畏まりました」 新倉は身を翻して部屋を出て行く。 少しだけ背を崩してソファーに凭れかかりながら、夜久はちらり、と書類にサインをしている浅井の横顔に少々刺のある視線を投げた。 「不機嫌そうだな、夜久」 こちらを見もしないで言って来る男の声には熱がない。 「うちのスタッフに招待状など出されてはな」 「何時ものように言ったらどうだ、『貴様が悪い』と」 サラサラと万年筆の音がする。漆黒のキャップには、鈍い金色の輝き。 一見して土星のように見えるマークは、傾きを微妙に変えれば、中心の円よりそれを取り巻く輪の方が強調されるのだ。 軌道―――オルビット―――フランス語で記されるこの倶楽部のシンボルである。 「オーナー」 これは私情ではない。何度も夜久は来るまでに自身に言い聞かせてきた。 「会員として、年端も行かないものをここに参加させるのは私は反対だ」 オルビットでの夜久の会員番号は2番。別段望んでのことでもないし、一桁の会員であることを誇るわけでもないものの、番号なりの役割があると夜久は思っている。 この暴走しがちな、常識知らずに。 「大体、ビジターに低い年齢を指定し過ぎだ。あと最低五歳は引き上げても現時点で不都合はないだろう」 社会で働いて数年を経ていることも、一応オルビットの参加条件には入っている。 職種や就業年齢などもあって、どの程度を数年と呼ぶのかはオーナーの裁可による。 企業に所属して大学で学ぶケースもあるが、そうした人間の準会員申請については浅井は例外なく却下した。 会社に入ってまで学ぶべきことがあっての学生なら、倶楽部に入り浸っている暇はないだろう、と。 かように厳しい男が、どうして圭吾に招待状を出したのか。 ちらり、と、会員番号1番の冷たい微笑が思い浮かぶ。 「まあ会則は定例会で修正を求めるが、これは不相応だと貰った本人も言っていてな」 そう言いながら、懐から皺を極力つけぬようにしていた封筒を取り出す。 「返却させていただくとのことだ」 冷え冷えとした視線がこちらに向き直る前に立ち上がり、デスクに歩いて行くと封筒を浅井の横に滑らせた。 金色の軌道が目を引く、鮮やかな封筒を。 圭吾は、自分の元に来た二通の封筒について、正直最初は心当たりがなかった。 間違いなく自分の名前である。しかも、住所は夜久の家の方になっている。 スタンドにいた時代、所長の二宮に言われたこともあって、アンケートとかに容易に記入したことはない。 だから、郵便物が自分宛に届くことは皆無に等しいはずなのだが。 夜久が勝手に圭吾の名前を使うとも思いがたい。夜久は圭吾の雇用者になるので、色々と手続きは代行してもらった部分もある。しかしそれについてだって、夜久は丁寧に説明し てくれたのだ。 幾らだって誤魔化しは利くだろうに、質問にも躊躇ったり面倒がったりしなかった。 成人したら何でも自分でやるものだと言われたが、実際にはまだまだ足りない部分を補ってもらっている。早く、こうしたことも覚えなくてはとノートを取ってると笑われたりも するが、とにかく何でもいい。やりすぎだったら怒られるからそれまではやる。 それはさておいて。 圭吾の現住所を知る面々からのにしても、封書が届くなど考えづらい。 しかもどちらも宛名が手書きだ。 ダイレクトメールとはちょっと違うぞ、とオリーブ色をベースにしたマーブルの封筒と、 紺色と水色のラインでエンボスの縁取りがされたもう一方の封筒を交互に睨む。 前者の宛名は"Orbite"。もう片方には"Girouette"。とあるだけだ。 見覚えはない……と片付けようとして、後者はどこかで見たことを思い出した。 夜久にあちこちへ連れていったもらった時、色々なアルファベットの店を見ている。 読み方が変わっていて、後で調べたけど英語の辞書になかったのがあった。 発音も聞いたのだが、流石にそこまでは思い出せない。 多分あのレストランだ。夜久に後で意味を尋ねようと思って、すっかり忘れていた。 でも、俺の名前をどうして知っているんだろう。夜久さんの知り合いの店なのかな。 ともあれ夜久に尋ねれば分かる、と、仕分けした郵便物を持って夜久の書斎のドアを圭吾はノックした。 「夜久さん、郵便です」 「入れ」 ドアを開ければ、さほど大きい部屋とは見えないが三面をぎっしりと本棚が埋めて、重厚な背表紙の幾つかはアルファベットの上に長く専門書のようで、書斎の主の博学さに驚かされる。 自動車関連の専門書も一隅にあるのだが、図面のある部分はともかく文字だけとなると圭吾にはさっぱり分からない。 しかも時々増えている。 座りごこちが良さそうなリクライニングチェアに、夜久は浅めに腰をおろしてこれまた横文字のシールが張ってあるファイルをめくっていた。 「大概DMだろう、分かる分だけシュレッダーしておいてくれ」 「はい」 と答えた圭吾が少し動きを止めたのに気がついてか、視線だけがファイルから上がる。 見上げられるのは非常に怖いので圭吾は問いかけを引っ込めようと思った。 「どうした」 「あ、いえ、シュレッダーですよね」 頷いて再びファイルに降りる視線に安堵しつつ、踵を返す。 その時、圭吾が片手に持っていた二通の封筒が、床に落ちた。 「……っ、と」 一旦他の封筒を脇に挟んで、それを拾い上げた時、再び声がかけられた。 「ケイ、それは」 それが普通の声なら答えやすかっただろう。 しかし、その時の夜久の声は鞭のようにしなって、圭吾の手を打ち据える。 やっぱり、怖い。 「あ、いえっ、これはその、何でもないですっ」 一応は俺のだしな、機嫌が悪いなら後で聞こう。 内心相当慌てて、しかし出来るだけさり気なく外に出て行こうとすると。 「待て」 絶対の命令が短く告げられる。 逆らうと碌な結果にならないと、言外に教えてくる声。 その場で固まった身体に、背後から手が回り。 「どうした、何を怖がってる」 耳朶を弄いつつほくそえむ声、ついで伸びた指が圭吾の手から封筒を抜き取る。 封筒を一瞥して、男の喉が唸りを上げた。 「あいつら……」 低く低く錆びついた声。自分は絶対こんな声を向けられたくない。 恐ろしい声に竦んでいると、顎に蒸しタオルを当てられるような感触が走った。 「……ぁ」 思わず仰け反る首筋に沿って、夜久は吐息と舌を這わせてくる。 「や、夜久さんっ」 「どうした?怖いのか」 相変わらず後ろからだけの声は急に和らいで、圭吾を戸惑わせる。 一瞬の夜久の不機嫌は自分が原因ではなく、二通の封筒を見たことによるものか。 それなら、差出人たちを指して『あいつら』と言ったことになる。 一体誰なんだろう。俺の知っている人達ではない、夜久さんの知り合い? 「だ、大丈夫です……」 ともあれ自分ではないのだと必死に言い聞かせる圭吾の焦りを知ってか知らずか。 「そうか?それなら寒いのか?」 夜久は慎重に封筒をデスクに置いて、空になった手で圭吾のシャツをまくった。 鳥肌の立つ脇腹を探り、指は腹筋を逆に辿って胸を探ろうとする。 「春先だからな、余り薄い恰好だと風邪を引くぞ」 「大丈夫ですったら!」 全身に及んだ寒気に圭吾は夜久をどうにか突き放した。 脇に挟んでいたほかの封筒がばらばらと床に散る。 まさか、書斎でまでこんなことされるとは思ってもみなかった。場所や時間を躊躇う相手ではないと知っていても、聖域みたいなものはあるだろうと考えていたのに。 ちゃんと、嫌な時は嫌だって言わなければ、とシャツを引き下ろしつつ唇を引き結ぶ。 そんな圭吾を、面白そうに見ている夜久は、もう一度封筒を見て税金の督促でも貰ったような不景気な顔になった。 「―――それ、何なんですか」 シャツの裾を念の為ジーンズにたくし込んでから聞いてみる。 唇の端があがったものの、夜久はすぐには答えてくれない。 「宛先俺だけど、それ、夜久さん絡みだよな。俺より、夜久さん宛ってこと?」 苦い顔のまま、夜久は無言で首を横に振る。 どうもすっきりしない。名前使われたってわけでもなさそうだ。 何時ものようにちゃんと教えてくれないのも何だか嫌だ。夜久らしくない。 こんなことでむくれる自分もどうかしているのだろうが、さっきの手や舌はからかいや誤魔化しのように思われたため流石に圭吾も機嫌を損ねかかっていた。 暫し、こちらも無言で相手を睨みつけた後、床に落ちた封筒を寄せ集めた。 「じゃ、シュレッダーしときますから」 「ケイ」 お互い、不機嫌さを押し隠す無表情を作って相手と見詰め合う。 「そちらが終わったらリビングに来い。話がある」 どこか観念したような響きは、それまで圭吾が聞いたことのないものだった。 運ばれてきた飲み物は、薄い翡翠の色をしていた。 冷やされて心地よい感触の硝子の細長いグラスから一口飲めば、果物のような香りと、見た目に反して強い茶の味わいが口中を清めるようだ。 日本の茶ではない。甘味もついているようだが、気持ち悪いほどでもない。 冷えているから分かりにくいが、何かの果物だろう。 「碧螺春ではないな」 夜久とは違って中国茶に詳しい浅井が、新倉に確認している。 「巷では龍井が流行っているようですが、臣の案で、台湾の青茶にライチを落としてみました。お気に召しましたら」 「来月、ラウンジでサービスするか」 浅井の評価に、普段は客室担当で、表には滅多に出てこない立派な体格の男が、壁際で笑みを作る。 「有難うございます」 大柄な身体に似合わぬ優美さを愛でつつ茶をまた一口含んで、少し気持ちがほぐれるのを 待っていたかのように浅井は言った。 「なあ、夜久。先ほどの件だが」 「断ったのは本人だ。私は返すよう頼まれただけだぞ」 スタッフのいる前で蒸し返すこともないだろうと思いながら、切り捨てる。 「大体、二十歳そこそこで何が出来る」 「もし。十年前の私達が今の言葉を聞いたら、一体何と言っただろうな」 淡々と、スタッフに退出の合図をしないまま、浅井は言葉を続ける。 「私達は生意気この上なかったが、年齢だの仕事だのの枠に相手を押しこめるような狭量さは持ち合わせていなかったと思うが」 十年前などと言われて、臣や新倉が流石に驚いた顔になる。 夜久と浅井は長い付き合いだと知っているが、軽く二桁に届くのか。 視線だけで二人は同様の驚きを交わした。 「オーナー」 夜久は語調を強めたのだが、浅井は敢えて無視した。 「それに、本人が分を弁えて断ってきたと言うなら、年齢にしては謙虚さを知っていると言うことになる。むしろ、私としては興味が増した」 「『猫』と遊んでいればいいだろう、オーナーは」 意味する所に気がついて、壁際の二人が従業員の仮面の下に笑いを押しこめる。 「あれにも招かれただろう。あちらだけ行って遊んでいると、こちらにも来いと騒ぎ出す羽目になるぞ」 ありそうだ。それは非常にあり得る話だ。 涼しげな顔をして、臍を曲げるとなかなか折れない浅井のパートナー、風花澄の我侭は夜久も知っている。 きちんと言いくるめのオブラートも用意しているから厄介だ。 「それよりもいっそ、こちらで披露目を済ませておかないか?例会の打ち合わせもあることだ、次いでという形なら大した騒ぎにはならないぞ」 スタッフの前で言うことで、浅井は自分の意見を真っ当に見せて通したいらしい。 夜久はそれに気がついた。 パートナーと同様に、話をこじらせると後々が怖い。 儀礼的な、しかし珍しい笑みを見せて、浅井は譲歩の言葉さえ紡ぐ。 「良かったら、改めて案内状を書かせてもらうが」 封を切っていない封筒は、まだ浅井の手にある。 「いや、二度手間も申し訳ないな。本人にはもう一度話してみる」 手を差し出す前に、封筒が滑らされてくる。 「そうか、助かる」 この男もそこそこに忙しいのだ。夜久としては面白くなかったものの、人の出会いを制限したいと言うわけでもない。 圭吾がもう少し年上ならば、別段異存はなかったのだから。 グラスを乾し、封筒を再び懐にしまうと、夜久は立ちあがった。 「何だ、もう少しゆっくりしていかないのか」 浅井が腰を浮かすと、 「岩佐が、久々に腕を振るえると楽しみにしております」 「せめて東城がまた整えられる程度にお寛ぎいただければと」 新倉と臣も、ここ暫く訪れなかった会員を引き止めにかかる。 確かに、来ては用件だけで帰ってしまえば、角も立つだろう。 圭吾が何か用意しているだろうとは思うものの、付き合いで遅くなると言えばいい。 更に、ここですぐ帰るのは、夜久が圭吾に執着しきっているようでばつが悪いのだ。 それでも躊躇うと、 「オーナーもまだ午後の食事を摂っておられないことですし」 聞き捨てならない新倉の言葉に、夜久は再び鋭くなった眼差しを浅井に投げた。 「また、ダイエットか。女でもあるまいし」 「別に修行僧ほど頑なな生活をしているわけでもないが」 浅井は目元だけで苦笑している。仕事に没頭すると、この男は体格の割に食べなくなってしまい、始終スタッフを泣かせている。 たまに倒れることがあるので、夜久や一桁代の会員は、オーナーの気紛れをその点では厳しく言うことになるのだった。 「分かった。匙で運んでくれる相手が来るまでは、付き合うとしようか」 言わなくても圭吾は食事をすることだろう。育ち盛りだ。 出かける前にベッドに沈めてきた若々しい身体を思いながら、夜久は三人に頷きかけた。 |
| U1 U2 U3 O1 O2 O3 O4 O5 O6 O7 P1 P2 P3 P4 P5 P6 P7 P8 index |
Copyright 2001-002 PleasurePrinciple Web master:ai-shiba@mbi.nifty.com