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単車は、風の只中に飛び込んでゆくような気分にさせられる。
山野にアームバンドの類を借りて上着や裾の始末をし、ヘルメットを被っていても、湿気をたっぷり含んだ空気のうねりが袖口に飛び込み、襟足を乱し、時に身体が持ち上がるのではないかと思うほどの勢いで身体を撫でてゆく。
黒く光る車体が青から赤に変わる光の前で停止すると、その度に、『怪物』の呼称をつけられた機体が、丁寧に磨きこまれているのが見えた。
大きくて、獰猛な金属の生き物。
その乗り手の腰に手を回しているのだが、見た時には細いだけと見えたのが、予想以上に引き締まっていると知る。
背丈やバランスが違うから一概に比べようはないが、夜久並には鍛えているのではないだろうか。
なのにこのウエストかよ、と、圭吾は複雑な気持ちにさせられる。
運動不足だとは思わないが、もう少し圭吾だって引き締められるのかもしれない。
夜久のようにスポーツジムで頑張ってみるしかないだろうか。
ハンドルを握る手は薄手の皮のグローブに覆われ、関節の盛り上がりからも、先ほどの藤川の反応からも、殴られたら相当に痛いのではないだろうか、と思わせる。
風がどれほど強く吹きつけようとも、その手はしっかりとドゥカティの手綱を握って離さず、違反すれすれの速度だが楽々と道を走りぬけてゆく。
会話は殆ど発生せず、大きく曲がるときだけ「右」とか「左」の声が、ヘルメット越しでも耳障りの良い声でかけられて、相手の動きに付き合う程度で済んだ。
圭吾でも、山野がそれなりの技量の持ち主だと分かる。
ぴたっ。と停止線の直前に停まれる。
かと思えば、後続車との間合いを見つつ、信号の変化を見極めて黄色を走りぬけたりもする。
ラフな動きではない。無造作に見せていても、細心の運転をする人間はすぐに分かるものだ。
腕を回した胴体は、確かに圭吾よりは細くても、遥かに柔軟で、弾き返してきそうな感触を伝えてくる。
思ったより体温が高いのか、風圧に少しずつ冷えてくる足と違って、胸板には決して不快とは言えない熱さがある。
夜久以外の誰かとこうして一定時間以上接触する事はなかったから、不思議な心地はするが、腕を緩めたりなんかしたら道路に転がり落ちてしまうだろう。
第一、相手は先ほど藤川をタンデムしてきたのだから、圭吾が後ろに乗ったところで客へのサービス、程度にしか思っていないはずだ。
山野の右手首が動き、ヘルメットがちらり、と、腕時計に向く。
黒い盤面を確認した男は再び正面を向きながら少し大きな声を上げた。
「ちょっと飛ばす。しっかりつかまって」
「あっ、は」
はい、と言う前に怪物が低く喉を震わせ、すぐにそれが長い尾を引く歓喜の雄叫びへと変わる。
ごうっ、と耳元で唸りをあげたのが風なのか単車の音なのか、これまでよりもはたきつけるような勢いとなった風に負けまいと、山野にしがみ付く。
何だか笑うような振動が山野から感じられたが、すぐにそれも消え、道を確かめる余裕もないうちに、圭吾は山野と共に一筋の具風となって道路を疾走していった。
降りる足元が、僅かにふらつく。
何だか怪物にまたがっていたというより、追われていたような気分だな、と思いながら圭吾は腕と足に巻いていたバンドを外した。
だとしたら連れて逃げてくれたのは山野になってしまうわけだが。
「ありがとうございます……」
受け取ったバンドをポケットにねじ込み、ふと思いだしたように山野が尋ねてくる。
「今日はカードはお持ちで?」
「あっ……と」
鞄を探ったが、途中で圭吾は青ざめた。
重要なカード類はさほどないものの、仕事の時とは違う財布に入れてある。
もちろん、オルビットの内部カードも。
そして今日はそちらを持ってきていない。
「……忘れた……」
表側からは入れない、厄介な事になるかな、と顔を上げると、ヘルメットを脱いだ後髪に手を差し入れ、軽く乱していた山野が軽く笑みを浮かべた。
「じゃあ、ちょっとここで待っててもらえますか」
待つって、こんな路上で?と周囲を見回す間に、山野のヘルメットを手渡され。
「すぐ、戻るから」
短くてありふれた言葉さえ、聞き良いな、と思わせる声。
アナウンサーのようにはっきりした発音とまではゆかない。
ただ、耳にした時に聞いていたくなる声だ。
頷くと、山野は口元の笑みを一瞬だけ深いものに変え、身を翻して住宅とビルの混在する角を曲がって消えてゆく。
直接倶楽部の前に乗りつけたりしなかったのは、ひょっとして自分がポカをやってないかと気遣ってくれたのかもしれない。
だとすると、何だかドジだと思われていそうで、少し恥ずかしい。
まだ熱気を放つドゥカティに目をやりながら、圭吾は、ふと、何かの香りをかいだ。
手にした、山野のヘルメットだ、と気づくまでにはそれほどかからず。
オーデコロンかヘアトニックかの移り香だろう。
一瞬刺すようでいて、果物のような甘さを思わせる香りがした。
鼻を近づけてから、何だか犬にでもなったようで恥ずかしく、顔を上げる。
オーデコロンの類は、夜久もつけている。
圭吾自身は買ったことがないし、余り詳しくないが、一度、夜久のところに立ち寄った伍堂に、海外土産だから、と、一つ二つ貰ったりして、そのままになっている。
そうしたものをつける男は何だかちゃらちゃらしている気がして、第一、整備工の自分はすぐにオイルに塗れるから、と、圭吾はつけずに来た。
やっぱり、つけるものなのだろうか。
そうしたことは他人に聞いて決めるものではないだろうが、こうして、自分より少しだけ年上―――少なくとも夜久よりは圭吾に近い―――が身につけているものは気になる。
実家の父親の部屋には香が焚いてあったりしたが、それは茶事の関係だった。
ひょっとして、自分は今、汗臭かったりするだろうか。
恐る恐るスーツに鼻を近づけて嗅いでも良く分からない。
夜久に聞くと何だかとんでもない目にあわされそうだし、第一、一緒に暮らしているので慣れてしまっているかもと思うと、正確な判断は下せない気がした。
山野は、臭いと思っただろうか。
僅かにかいた汗は風で大半吹き飛ばされたろうが、急に気まずさが押し寄せてくる。
何となく困って、手にしたヘルメットをシートに置くと、手の匂いもかいだ。
良く分からない。臭いとも臭くないとも分からない。
分からないのが一番まずいんじゃないだろうか。
倶楽部では顔である夜久の連れて来るゲストが、機械油臭いってのはどう考えてもよくないに決まっている。。
スタッフに迷惑をかけて、印象も悪かった、などとなれば、浅井や風花が倶楽部で気遣ってくれた意味もないではないか。
どうしよう。
自分にまずいところがあったらすぐにでも修正したい、けれどここでは分からないし、聞きたくとも山野にバイクごと置いてゆかれてどうしようもない。
倶楽部の客、という点では洗練されていないのは分かりきっている。
一流を自認する男たちの間で圭吾ごときが映えるはずもない。
だから余り気にしなかったのだが、山野は、スタッフだ。
圭吾は今日は夜久のスタッフとして浅井に会いに来たのだから、引き比べて未熟だったりみっともなかったりしては困る。
ドジを踏みがちと見える藤川だって、たまたま出くわした場所が廊下や小松の店だったりしたからかもしれない。
毛足の長い絨毯を敷いた倶楽部では、客の前では卒がない姿を見せるかもしれないじゃないか。
回れ右、とまではゆかないが、帰りたくなった圭吾はふと、ドゥカティのミラーに小さく映る自分の姿を見、やや乱れた髪の毛に気づいて慌てて撫でつけた。
ヘルメットを被っていたが、どうやら櫛が必要なほどにはならなかったようだ。
二輪であれ四輪であれ、自動車についている鏡は普通の鏡ではない。
遠くのものをきっちり映すための鏡には、やや風でよれたスーツを纏った圭吾が在りのままの状態で縮小されており、細かいところは見づらい、と思いつつも、襟元の乱れだけは整え、姿勢を正すと足元をみて、もう一度裾を引っ張って直した。
身を起こす途中で、足音が聞こえた。
山野が戻ってきたのかと思い、一瞬、視界の端に覗いたスーツの足に違うかと思い直して顔を上げ。
「お待たせしました」
声と共に、スーツの首から上が間違いなく山野であることに絶句する。
まだ、五分と経っていない。はずだ。
ラフな服装だったから着替えられたのかも知れないが、それにしても早い。
特撮ヒーロー番組の、詳細な説明つき変身シーンの次くらいに素早い山野の灰色のスーツ姿に、圭吾は口があんぐりと開きそうになるのをどうにか堪えていた。
それをどう思ったにせよ、山野は穏やかな、営業向けなのだろう顔つきで白いカードを差し出す。
走って、ビルに入って、着替えて、カード持って戻ってくるのにどうやったんだろう、息も切らさないで。
これだけ出来ないと、倶楽部のスタッフになれないのか、浅井や夜久たちが求めるだけのサービスができると認められないんだろうか。
「臨時のカード取ってきましたので、表から入ってください。用件がお済みの際は、小暮がいるはずなので、彼に返却を」
ぼけっとした圭吾に尚もカードを差し出したままで、山野はやや口元を緩める。
呆れて笑われたか、と、流石に圭吾もはっとなって、それでもひったくらないように、できるだけ落ち着いた風でそれを受け取った。
「有難うございます。それで、入口はどう行ったらいいですか」
山野が動くと、先程の僅かな、鋭くも甘い香りが漂った。
「そこの角を右へ曲がって、次のビルの脇を抜けた正面。エントランスホールに入ってください。そこからは、普段のルートで」
「あ、ありがとうご……」
すっ、と、山野の手が伸びた。
指先が、唇に掠めそうな位置に伸びてきて、圭吾は慌てて一歩下がる。
「こちらこそ、お礼だから」
時折、尊敬語を欠く物言いも、別段不自然には感じられない。
これだけ良い声なのだ。罵声ででもない限り、或いは余程の気難しい人間でない限り、気にする人間は少数派だろう。
言葉はたった今封じられたので、圭吾は一礼すると、山野が先程曲がった角へと足早に向かっていった。
迫る指は触れなかったのに、何故か感触があって、角を曲がった時に唇を擦る。
相手が引き返してこない事を確信できるまで、山野は姿勢を崩さなかった。
まっしぐらに倶楽部に向かった、と思われるだけの時間を待ってから、ゆっくりとシートに掌をおき、やや凭れるように己の単車に身を寄せる。
「―――いいな」
小さな呟き、僅かな笑み。
それとは対称的に、目は輝きを増して、相手が通り過ぎて行った空間を見つめる。
「なかなか、抱きつき上手だし」
くっ、と小さく笑う。
胴体をぐいぐい締めるのではなく、相手の動きに合わせてできる限り運転しやすいようにしようとしているのが分かった。
ドゥカティにかかった重みは、車輪や車体こそ違え、同じような機械を相手に作り上げた若い身体のものだ。
まだコロンや煙草の香りに馴染まない、酒はどうだか分からないが、倶楽部では失敗しない程度に自省できている。
スタッフである自分に対しての態度も悪くない。
「さあ、名前は覚えたよな」
ぽんぽん、と、とりあえず、送る役目を終えた単車を叩く。
「どうやってその気にさせようか」
行きは白いカードを誰にも見咎められることなく、オーナーのオフィスまで通過する。
浅井はもう出るところだったのだろう、上着の袖にじゃれつこうとした小さな灰色猫の鼻先を軽く叩いて黙らせた後、新倉の後をついてきた圭吾を視界に入れた。
「古河君か」
「お久しぶりです。本日は、見積もりを持参いたしました」
圭吾自身は営業は不向きだと思うが、夜久の下で働く以上、整備以外にもやらなくてはならない。
鞄―――ポートフォリオと言うらしい―――から大判の封筒を取り出し、きちんと両手で相手に差し出す。
ファックスやメールで半自動的に見積もりを出すような時代でも、一番の礼儀は持参である、と、夜久も時折、上客に自ら見積書を運ぶ事がある。
浅井はデスク越しに封筒を受け取ると、一度書類を引き出し、ざっと目を通してからまた封筒にしまい直した。
「正式な回答は明日になるが、このままお願いすることになるだろう」
「有難うございます」
倶楽部のスタッフのように静かでも良く通る声になりたいな、と思いつつ、大きすぎないように声を絞り、一礼する。
スタンド時代ほどではないとしても、喧しい声なのは自覚しており、例えば山野のように良い声を聞いてしまうと、潰してしまった自分の喉が恨めしい事もある。
「思ったより早い、流石は夜久だ」
封筒をデスクにしまいながら浅井は呟き、圭吾を再び見て少しだけ口元を緩めた。
「蒸すようだ、私は出てしまうから、ラウンジで寛いで行ってくれ」
申し出は嬉しいが、白いカードと送って来てくれた山野のことを思うと、圭吾は素直に頷けない。
「有難うございます、本日はお……これで」
俺、という一人称を使いかかって慌てて言葉を飲み込む。
浅井の笑みはややあきれた風のものに変わった気がした。
「そう、畏まることもない」
浅井は会員や、会員の連れてくるゲストに殊更分け隔てはしない。
入れる場所には歴然とした差はあるにはあるのだが、ゲストでもここの極上のサービスを提供され、寛ぐ権利を持っている。
「今日は、仕事で参りましたので」
さっさと終えて、夜久に報告しなくては。それと、山野に送ってもらった礼を言えたらよいのだが、もう帰っただろうか。
急ぐ余り、悪い事をしたかな、と思う。相手の好意を受けたなら、返すべきだ。
角が立たない方法がないか、考えながらも圭吾はポートフォリオのジッパーを締めて姿勢を正し、改めて一礼した。
「それでは、今日はこれで失礼いたします」
「ご苦労だったな。今度は夜久と寛ぎに来てくれ」
浅井の声にもう一度軽く礼をして、圭吾は、同様の挨拶をする新倉の脇を抜け、失礼にならない程度の早足でオフィスからラウンジへと向かう。
振りかえりこそしなかったが、猫が小さく鳴くのが聞こえた。
主がいなくなるのを察して甘えているのだろう。
微笑ましく思いながら、小暮を探しつつエントランスまで来たのだが、いない。
カウンターの付近にいるスタッフは見覚えが薄く、少し逡巡した。
「あの……」
「はい」
やや優男と言えなくもない顔が、微妙にこちらを睨んでいるような気がして瞬いたが、急いでいるので余り気にはならなかった。
「小暮さんは」
「ただいま休憩に入りましたが、御用でしょうか」
素っ気ない声、不審げな顔、微妙な棘を感じるが、圭吾が若いからだろうか。
ここのスタッフにしては珍しい、と思わなくもないものの、休憩に入った人間を呼び戻すわけにもゆかず、圭吾は仕方なしにこの男にカードを渡すことにした。
「山野さんに、これを小暮さんに渡すようにと言われてます。預かって頂けますか」
白いカードに、山野と大差ないだろう年齢の男が僅かに眉をひそめる。
「カードをお忘れでしたか」
やや尖った声だ。余りよろしいことではないと分かっているが、こうあからさまな反応を見せられると、カタブツに当たったようだ、と圭吾は内心運の悪さをぼやいた。
「一度ご連絡をいただいて、記帳していただくのが決まりなのですが」
男の制服の上着をみていて気づいた。小さなピンバッジはルームスタッフのものだ。
フロアスタッフではないのに小暮の代わりにここにいるので、もしかすると面白くないのかもしれない。
「……済みませんでした、以後気をつけます」
山野さんは特に言ってくれなかったぞ、と思ったが、もしかすると手続きの面倒さに、省略する方法を取ってくれたのかもしれないと、改めて感謝する。
ルールを守らない圭吾ではない。車の運転だって整備だって、最低限守るべきものを守っていなくては事故の原因になる。
だから、言ってもらえば最初からこの手続きをしたのにな、と差し出されたペンとノートを手にした時、男の後ろのドアが開いた。
「東城」
この顔は知っている。本来ここにいるべきだった小暮だ。
ちら、と圭吾を見て東城と呼ばれた男は後ろに引っ込む。
それを見送った後、小暮は圭吾の顔をみて、ノートに手を伸ばした。
「失礼します」
「あ、カードの」
小暮は余り愛想笑いをしないものの、決して悪くは見えない表情でノートをしまう。
「山野に聞いております。事情を知らぬものが失礼いたしました」
白いカードはしまいこまれ、小暮は、見習うべきかな、と時々圭吾が思う品の良さで一礼する。
「またのお越しをお待ちしております」
熱っぽくはないものの、本気でそう言っていると聞こえるから不思議だ。
さっきの男の態度とは大違いだ、と思いながらも圭吾は今度こそその場を離れてエントランスへ向かった。
自分だったら、東城のように事情を知らない場合、どう対応しただろう。
カードが正規のものではない、内部貸し出しのものだとは分かったのだから、小暮に問い合わせるなりして確かめたはずだ。
よっぽど東城の虫の居所が悪かったのかとも思うが、それをいきなり客に向けるっていうのは妙だ。そんなスタッフはオルビットにはいないだろう。
階段で、もう一回圭吾は自分自身をこっそりと匂った。
「やっぱし、……臭かったとか、か?」
東城はスタッフルームには戻らず、廊下を従業員側のエレベータへと向かっていた。
面白くない。
あの坊やは、会員ナンバー一桁の連れてきたゲストだ。
地位や、権力のある存在に、東城が求めるのは、規律や規則を優先する態度だ。
実際はそう簡単なことではないし、パワーを持っているものほど、一般常識や行列の後尾を嫌うのが現実だ。
彼を連れてきた会員、夜久はそれを守っている。
ルール優先、色々と噂も聞いたことがあるけれど、倶楽部内で乱れたり、誰かを論争に巻き込んだりもせず、いつも超然としている。
オーナーの友人、いや、親友と言ってもよい存在だが、それさえも逸脱の理由にはならない。それゆえに敵視する人間もいるほどだ。
だが、自分の位置を知っている男の振る舞いは、ほぼ完璧だ。
その男の部屋を、いつ来ても寛げるように完璧に整えている東城は、その部屋のベッドが複数に乱される日が来るとは思っても見なかった。
さっきの、まだ青年と言うより少年と呼んだほうがよさそうな男に。
東城の性向はノーマルだ、時々は付き合う女性もいる。
たいていは、東城の優柔不断さから長続きはしないのだが。
それでも、自分が成りえない理想の男とも言える夜久に、傷をつけそうな振る舞いをする存在ができるのは、やや面白くない。
特別扱いなんて、おかしい。
あんな若いうちからちやほやされていたら、きっと増長するに違いない。
自分がノートを出したらサインしようとしただけの素直さはあるから、これからも何かあれば指摘して、しっかりさせるしかないだろう。
「山野にも、しっかり釘刺さないとな」
「―――何かあったのか、東城」
エレベータの前で東城は文字通り飛び上がった。
「おっ、おっおっ、オーナーっ……」
いつの間にか背後に立っていた浅井が、気弱なスタッフを無表情に眺めている。
この顔も、みていると怖かったりハンサムだったりで心臓に悪いのだが、ぼんぼんな出だからかルールを逸脱しがちな分、東城の理想からはややずれる。
こんな風にびくびくする自分も、夜久のように堂々とした男になれたら、と思う。
だから、やっぱり、あんなことは許せない。
「いえ、ちょっと考え方の相違があるだけです」
ここで告げ口しないだけの度量は、自分にもあるけれども。
近々山野と話をしておかないと、と、東城は静かに拳を握った。
角を曲がって、圭吾は、見たものがまた一転していることが信じられなかった。
「……終わった?」
にこやかな山野は、ここで圭吾を下ろした時とぴったり同じ服装だ。
長袖シャツ、皮のパンツ。
スーツはどうやら、圭吾が浅井の元を訪れている間に着替えなおしたらしい。
呆れ半分に時間の計算をしていると、山野にもそれが分かったらしく笑った。
「バイク乗りには当たり前だから、気にしないで」
気にしないで、と言われても、こんな早変わりを見せられては呆れるほかないだろう、と思ったが、それよりも礼を言うべき相手だと思いだした。
「有難うございます、山野さん。お陰で仕事が早く済みました」
「お礼はいいから……って、じゃあ、時間には余裕が?」
思わず頷くと、山野は何故かヘルメットを再び圭吾に放ってきた。
慌てて受け取ると、男はさっさとドゥカティに跨っている。
「乗って」
「え、でももう、仕事終わりましたし……」
「こちらも終わったから、帰るついでにドライブは?」
一瞬、ヘルメットから漂った山野のオーデコロンを思いだし、圭吾は顔をしかめた。
「でも俺、汗臭いから……」
答えると、一旦山野はドゥカティから降りてきた。
「そう?」
すいっ、と寄ってきた顔に、圭吾はのけぞりかかったが。
気持ちぶつかりそうな位置から、素早く山野は後退した。全く平静な顔つきである。
「全然」
「でも……」
「そう思うんなら、風に吹かれれば消えるよ」
身体を吹きぬけた空気の音と感触を思いだした。
怪物の咆哮と、それを楽しんでいる目の前の男の背中の暖かさも。
未だにバイク乗りを好きだとは言えないけれど、山野の印象は悪くない。
こんな運転をする人間ばかりだったら、圭吾も事故には遭わなかっただろう。
全員が悪い奴だとは思わないし、恐らく中型以上の二輪を取得する気がない圭吾には、今後も余りない体験だ。
こんなに気遣ってくれた相手のお誘いに、乗らないというのも失礼かもしれない。
「じゃあ、小松さんとこの辺りまで……」
「送るよ」
良い声で言って、男は再び怪物に素早く騎乗する。
「今日はどっかドライブと思ってたから、久々思いっきり走りたいし」
自分を乗せて思いきりになるのかどうかは分からないが、ここでしり込みするのもなんだか自意識過剰な女の子みたいだ。
それに、山野だって仕事が終わったからの気まぐれなのだろうし、良いだろう。
ヘルメットに目を落とし、それから圭吾は頷いた。
「じゃあ、―――お願いします」
「了解」
再びアームバンドを借りて、袖口や足元をたくし上げる。
ヘルメットを被る時に、圭吾はまたしても、山野の笑みを見逃した。
興味津々に、自分を見つめる黒い眼差しは、顔を上げるまでにシェードで隠される。
大まかな住所を告げ、知っているかと聞くと、言葉の代わりに親指が上がる。
ドゥカティは、再び走る道を得た喜びに低く咆哮した。
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