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正規ディーラーの事務所と違い、夜久のオフィスには、厳密な定時はない。
場所としてのオフィスを閉めて出かけても、電話やメールによる連絡はたやすく転送がきくし、商品に係わるデータはインターネット上でもある程度確認が出来るからだ。
オフィスで正式に契約、となる時は勿論いなくてはならないが、それ以外では実は夜久自身も動き回っていることが少なくないのだ。
フットワークの軽さ、正確な情報、相手の心を捉えうる商品の提供。
圭吾は車を弄っていられれば幸せなのだろうが、売り手のことを全く分からない状態でも将来困ることになるだろう。
だから、浅井の元へ見積書を持たせて出したのだが、少々戻りが遅いようだ。
また、いつもの浅井の悪い癖が出たか、とも思う。
浅井が車を選ぶ時、或いは、誰かを斡旋してくる時、かなりごねる。
安くしろ、とごねる客とは違って、値段だけでどうこうは言わないものの、その分、色の指定、乗るシチュエーションや内装に至るまでとにかく細かいのだ。
圭吾にはあぁ言って送り出したものの、値切ってこない浅井だから、条件さえ整っていれば、否の返事はあるまいと思っていた。
それとも、風花が居合わせたか。
圭吾が自分と僅かでも繋がりがある、と知ってからは、風花は倶楽部でますます構いつけてくるようになった。
初めて、弟のような存在が出来て嬉しいのかもしれない。
圭吾は父親と風花の祖父の手前、最低限の礼儀と親しみの線を保っている。
だが、そうした態度が却って周囲の興味や反発を招くこともあり、出る杭とまでゆかずとも、悪目立ちする存在になりつつあることは確かだ。
叱るものでもない。付き合いの上手下手は教わるのではなく、自分で学ぶもの。
他者の間で早くから仕事をしてきた圭吾だから、年齢の割には卒のない態度でいられるのだ。
それでも、圭吾も言われるばかりではないと、夜久は知っている。
拒み、時に激しく抵抗してくる腕の力。
鼻先で笑い飛ばすには鋭い眼光を向けてくることもある。本気だと分かるから余計に押し倒したくなるほどの拒絶。
ねじ伏せたい、支配したい。それは夜久ばかりではない、男の性だ。
自分の目に入ったものを、自分が認めたものを、組みしき、膝下におき、有無を言わさず所有して占有して己の印をつけ、そしてそれに満足する。
また、新たな何かに目をつけない限りは。
軽佻浮薄な男とまでは思わないものの、夜久自身はさほど、欲望処理相手の固定に拘らないタイプだ。
相手の中に、自分に怯む瞬間を見出したり、その場限りの誘いの仕草に気づけば割と気軽に手を出す。
行為の結果、相手に執着されれば夜久の方が醒めてしまうので、大概、次に繋がるような関係にはならない。
圭吾はそんな夜久には気づいてはいるようだが、嫉妬や独占欲めいた言動をちらつかせもしないので、気楽でもあり、面白くないこともある。
圭吾にとって、夜久は車を介してだけの間柄なのか。
恋人、などと言われれば鼻先で笑い飛ばすだろうが、向こうだって吹き出したくなるような関係かもしれない。
身体の相性ならば、今までの経験からしてもさほど宜しいとは言えず、まるでスポーツのようだと思ったこともある。
心のつながりと言うには、互いの中に、あの、煩わしくなるような絡まりがない。
ビジネスライクとも言いきれない空気の温度。
泥沼でも鎖でもない、それでいて糸のか細さではない、距離感を伴った空間の近さ。
時には一点で繋がり、切り込むような眼光を向けられ、睨み返す。
(『いい加減にしてくれよっ』)
腕で押し返す相手を、全体重でねじ伏せ、素早く脚の間に身体を割り込ませて動きを封じる。
(『あんたのはすぐ済むこっちゃないだろっ!』)
噛み付いてくる、挑んでくる。息は抗いに大きく荒れて乾き、逆に肌はしとどに汗で濡らされて、手指の僅かな動きに、嫌でも鋭敏な感覚を相手に植え付けなおす。
どれほど滅茶苦茶にしてやっても、己を捨てきらない少年。
慣らされても、狭い部分を夜久に蹂躙される瞬間、苦痛のうめきを聞かせまいと堪えるのは、男への気使いではない。
自分が、ただ征服されて終わるだけではない、相手と同じ雄であることを、歯を食いしばって念じているようにさえ感じられることがある。
そう、だから良いのだ。
女々しいすすり泣きなど聞きたくはない。
戦いで感極まってあげる鬨の声のように、自分と向き合って、あくまでも自分を保とうとする圭吾だからこそ、夜久は欲望を維持できるのだ。
矛盾を抱え込みながら、傍らから逃げようとしない圭吾。
いつまで、その態度が続けられるか、見届けてやる余裕は十分にある。
たやすく、倶楽部の誰かの玩具になどさせてやるものか。
そう思いつつ、夜久は携帯の短縮ダイヤルを押した。
堪えていても、小さい衝動は身体を震わせる。
ヘルメットを被っていても、くしゃみって出るものなんだな、と思った時、ドゥカティは一旦、路方に停車した。
風邪引く前兆か、注意しなくては、と思いつつも、前の山野が振りかえり、ヘルメットを押し上げてこちらを見るので、首を横に振った。
「あ、大丈夫です、済みません」
「"Bress you!"(お大事に)だね」
何を言われたやら、ときょとんとした圭吾に、山野が笑う。
声と同様、いい感じの笑みだ。
接客慣れしている相手に続いて取りあえず降りると、丁度目の前の自販機に、山野は小銭入れを取り出して、コインを数枚放り込んだ。
こちらを向かずに、
「駄目なもの、ある?」
「あっ。いいですよ、そんなの……」
がこん、がこん。と無情に音は二つ鈍く響き、取り出した缶コーヒーを山野は圭吾の手に押し付ける。
「冷えるから、単車は」
しっかりした指先がこちらに、じんわりと熱を伝える飲み物を握らせた。
指の腹が手の甲に当たる感触に何となしどぎまぎする。
すぐに指は離れ、男はヘルメットを外すと、一度額に張り付いた髪の毛をかきあげ、缶のプルトップを押し上げて、一口煽った。
「この時期、あったかいのここしかなくて」
どうぞ、と言われては従うほかなく、『頂きます』と挨拶して圭吾も同様にヘルメットを外して缶コーヒーを飲むことにした。
山野は砂糖もミルクも入っているものが好きなのか、薄甘ったるい液体が、それでもかなりの熱を伴いながら口の中を潤し、缶は指先を暖める。
相手にしがみ付いてはいたけれど、あれだけの風に晒されれば、山野の言う通り、冷えてしまうようだ。
「……こんなので」
悪いけど、なんて、ああまたさり気なく良い感じに笑う。
送らせてるのは俺の方なのに、余計に気遣わせている。
「そんなことないです、有難う、山野さん」
有難うございます、と言うべきだったかとちらっと片隅で考えたが、山野の笑みが少しばかり深くなったので、内心ほっとなった。
この人それにしても、俺がなんかバカみたいにやってるんで、おかしいんだろうか。
「あの、お……」
「覚えてもらえるのは嬉しいな、あ、何か」
あぁ、そうか、と何となし分かった気がした。
警備スタッフでは、そうそう客前には出ない。
倶楽部のフロアにいるスタッフの場合は、指名を貰うこともあるだろうが、バックグラウンドの面々は地味な仕事だから、そうした形では気づいてもらえない。
客に良い印象を持ってもらえれば、やはり何らかの形でプラスになるのだろう。
大変なんだな、と思って何か適当な話題を探す。
「いえ。あの……あっ、いい匂いだな、って……」
うわっ、また妙な事を口走ってしまった。
「匂い?」
「あっ、コ、コロンの」
今度は、くっ、と小さい笑い声が聞こえて、もう俺は黙っていたほうが良いのかも知れない、と圭吾が反省したときだった。
「いい香りだと、思う?」
声が、耳たぶすれすれを掠めてゆく。
ぐっ、と、山野が、まるで抱きつく寸前のようにすれすれの位置まで寄ってきた。
見下ろす形になった圭吾に、形良い鎖骨や、ゆっくり上下する胸板の動きが見える。
健康そうな肌色が見えて、シャツにはくっきりと胸のラインが出ていて、うっかりすると乳首だって覗けてしまいそうな感じだ。
慌てて一歩下がると、背後の自販機にぶち当たった。
下から見上げてくる視線はすっ、と流れて、口元は再び緩やかに弧を描く。
「ヒューゴのダークブルーっていうんだけど、好きな香り?」
するり、と離れる身体からは確かに、先程の残り香がする。
やや時間が経ったためか、どちらかというとスパイスのような刺激的な香りが強くなっているように思えた。
確認するため近寄ったのだろうが、あぁ、びっくりした。
男とはいえ、出し抜けは心臓に悪い。けれど山野はあっさりした笑顔で立っている。
故意に圭吾をからかったわけでもなさそうだ。
「あ、や、俺そういうのは詳しくなくって……つけるもんなのかなって」
もうこうなったら、無知をさらけ出して相手に聞く他はない。
夜久にはそんなことも判断できないのかと笑われそうで聞けなかったのだから。
でも、山野なら、夜久よりも年は近いし、そう馬鹿にした様子は見せなさそうだ。
「全然持ってない?オーデコロン」
「なんか、貰ったのはあるけど……青い瓶に入ったのとか」
「ウルトラマリンかな、ブルガリブルー?青いのだと一杯あるから」
自分のも青だし、と言いつつ山野は指を折る。
「後は知ってるのだと……まあ、フルーツっぽいのから、ラストでスパイスっぽいのが好きだったら、パラドックスとかライトブルーってのがあるかな」
割と流行りだよ、と言われても何がなんだかなのだが、戻って瓶の名前を確認しようと圭吾はまだどぎまぎしながらも思った。
山野はそんな様子には気づかない風で、自分の珈琲を飲み干してしまう。
缶を器用に離れた位置のごみ箱に放り込むと、頭を軽く左右に振った。
「まあ、汗が気になったらつけても。最近はミニ瓶なんかもあるから、色々試してみたら楽しいんじゃないかな」
先程の圭吾の発言から、こんな会話になったと山野は思ったようだ。
「きっと集めたくなるよ」
頷いて、再度礼を言おうとした圭吾の鞄の中で、小さい音がした。
携帯の呼び出し音、そして、わざと一番短い間でなる音にしてあるそれは、夜久からのものだ。
一度、元スタンドの後輩、雪登が「ぴったりのテーマがあるよ」と教えてくれたのが某SF大作の黒騎士のものだったのには笑ったが、知れたら後が怖いので却下となった……。
慌てて珈琲を飲み終え、缶をごみ箱に捨てて圭吾は鞄を大急ぎで開けたが、携帯は受話ボタンを押す前に沈黙する。
「……タイムリミットかな」
小さく呟いた山野の声を聞きつつ、圭吾は慌てて受信履歴から夜久にかけ直した。
切れたばかりだったからか、すぐに繋がる。
「―――済みません、お待たせしました」
『今何処にいる』
「あ、今途中で……」
何処の何丁目何番地と言えずにどう説明したものかと思っていると、山野が口を小さく動かした。
その動きを追って声を出したのは、言い訳を借りようとしたわけではないが。
「『小松さんとこに、行く用事があるスタッフがいたので、頼まれて案内し』……っ」
『時雨の奴』
受話器の向こうで夜久が旧友に対する低い怨嗟の声を漏らした。
やばいっ、と何か言おうとしたがもう遅い。
『分かった、案内が終わったら戻ってこい』
言うと同時に電話はぶつり、と切れてしまう。
あぁぁ、浅井さんに文句がいってばれたらどうしよう、と嘘を教えた相手をみれば、涼しい顔だ。
多少恨みがましい顔になっている自分を感じつつ、圭吾は山野に言った。
「……拙いですよ」
「大丈夫、今から特急で送るから」
「いやもうあのっっ」
有無を言わさぬ笑顔で、山野はヘルメットを取り上げて圭吾にすっぽりと被せる。
「小松さんまで戻ると時間余計にかかって怒られるかな、駅まで?それとも職場?」
「け、けどっ」
コンコン、と軽くヘルメットの上から指の出っ張りで叩いてきて、山野自身もヘルメットを被りなおし。
「任せて」
また心地よい声に、何となし騙されている気にはなったものの、知らない場所から帰るのは確かに大変だ。
タクシーを拾ってもよいが、財布の中の所持金を考えると微妙なところである。
「誘ったのはこちらだし、道分かる所まででも。住所は?」
圭吾の返事は溜息混じりとなった。
そう長時間の滞在ではないが、風花澄の機嫌は良いようだ、と、浅井時雨は運ばれてきた蟹を使ったサラダを食しつつ見て取った。
雨の時期、向かい側に座るこの青年はたやすく失調する。
とある豪雨の夜、自分をおいて出かけた両親を事故で失ったことが遠因らしいが、その折の大人の心無い言動が、トラウマとなって彼をさいなむ夜を、浅井は学生時代から何度も傍に付き添って見守ってきた。
単なる友人から恋人に昇格した今も、先手を打って会っておくなどして、どうにか負担を軽減させようとしているのだが、二人とも仕事を抱える大人の男同士では、そう頻繁な逢瀬もままならない。
今夜は互いに仕事の付き合いで、日付が変わろうと隣に休むことはかなわない。
せめて遅い昼食を、相手の店である「ジルウェット」で摂ることで、幾分かは彼の気持ちを和らげておこう、と来たのだった。
ジルウェットでは個室を用意する、と言ってくれたのだが、庭がなかなか綺麗なので、浅井の気に入りの、その辺りを見下ろせる席を選ばせてもらうこととした。
シーフードは浅井の店のシェフの作るものがなかなかに良いのだが、うっかりそんなことを言うと恋人の機嫌が悪くなる。
手放しで誉めても怪しまれるから、控えめに良好な評価を下し、相手の目がゆったりと笑むのを眺めていた時だった。
「―――失礼いたします」
支配人の室井が、本来なら邪魔するものとてないこの主客の脇に立った。
きちんと撫で付けた頭髪と、剃刀をあてて滑らかな肌とがなかなかに見栄えのする壮年の男なので、浅井としては目の保養になる一人なのだが、うっかり長く視線を注ぐと、恋人に引き抜きかと勘ぐられる。
「どうしたの、室井さん」
澄がまだ幼い頃から店を守り、仕事上の片腕でもある男は、そっと、一枚の名刺が載せられた銀盆を、若い主の左側に滑らせた。
「こちらのお客様が、少々お時間を裂いていただければ、と仰っておられます」
古風な和紙を用いた名刺には、明朝体ではない書体で名前が記されていた。
逆さで読みづらいその文字を浅井が読み取る前に、澄はさっと掌に掬い上げてしまう。
無言で暫しその表面に浅井が好みの黒い瞳を当てていた表情は、最初不可解に、次に軽い驚きに、そして疑念を含んだ微かな好奇へと変わる。
「後で参りますとお伝えしてください」
二人に深く一礼して室井が去ると、眺め飽きぬ恋人は、多少済まなそうな顔を浅井に向けてきた。
「ちょっと外すよ。長くはならないと思うけれど、ゆっくり召し上がれ」
店に来る折に居合わせると、予約の有無を問わず煩い相手が、中座を選んだことに浅井は内心軽い驚きを覚える。
祖父の呼び出しの電話にすら、頑として応じようとしないことがあるこの青年が。
いったい誰に呼び出されたというのか?
「ああ、済まなかった。約束が?」
「違うんだけど、ちょっと、会っておく人だと思う。すぐ戻るから」
頷いた浅井に、申し訳なさそうな笑みを見せ、身を翻して恋人は去ってゆく。
こちらからは良く見えない位置まで遠ざかってから足を止めた影の話す相手を見定めようと、浅井はワインのグラスを取り上げる振りで視線を凝らした。
テーブルのその席が、自分が立った席からは死角になることに感謝しながら、澄は立ち止まる。
ここからならば、話す相手は判り難いだろう。
「どうぞ、そのままで」
母親譲りと賞賛される端正な顔に、儀礼程度のにこやかさを乗せて、テーブルに腰掛ける黒髪の人物をゆったりと見下ろした。
「それにしても唐突なお越しですね」
カーラーで裾を丁寧にカールさせているが、この黒髪は結い上げて布で結んだほうが似合いそうに思われる。
やや浮かせた腰を再び落ち着けて、ロングスカートの襞を整えた娘は、細面の顔を上げて相手に目礼した。
「申し訳ありません」
声は細いが、決して暗くはない。弓なりの眉は元々の形が良いのかそう細くも太くもなく、少し蕾んだ唇は古風な人形のようだ。
やや黒目がちの目はそれでも、彼女の従兄弟を思わせた。
「ケイさんが―――いえ、圭吾さんと親しいと御前様に伺いましたので」
やはり祖父がらみか、と、澄は内心腹立たしいのをどうにか堪えた。
浅井と恋仲だということは流石に祖父の冬海には言っていない。
激怒して要らぬ悶着を起こした挙句、ずたぼろになって愛してもいない女性と結婚させられたりすれば周囲も自分もいい迷惑だからだが、こうして、年頃の女性が周囲に現れると自分の元へ送り込んでくる祖父の腐心は正直嫌がらせに思われてくる。
にしたって。と、知っている青年の顔を思い浮かべつつ澄は祖父にあきれる。
二十歳そこそこの許婚も決まっているらしい娘さんまで寄越さなくったって。
とはいえ、若い娘を放っておくと暴走しかねないのは、澄自身にも従姉妹がいるから良くわかっている。
直接には関係のない自分のところにまでやってくるのだから、何をしでかすやら。
手短に用件だけ聞いて、時間がかかるなら後日に連絡を取るしかない。
「古河ちぐささん……でしたね」
従兄弟とはあまり似ていない、まだ少女の丸みの方が多い少女は、小さく首肯する。
祖母の血筋で自分と繋がっているらしいおとなしい娘に、別段、興味はない。
それよりも、『彼』は元気でやっているだろうか。車の前を弄っている頃だろうか?
「父が本来はご挨拶に参るべきでしたけれど、一度、圭吾さんの知人に失礼な態度を取ってしまったようです」
声は小さく、ただ、立っている自分にだけ聞かせるように響かせている。
年齢よりは中身を育てているようだ、若いうちから人の師になるだけのことはあるな、と古河流の後継者を澄は少し目を伏せて見守った。
知人となると、やはり、あの男のことだろうか。
黒服なんか着ていると妙な商売に思われそうな、鋭い眼光の持ち主は、車のことに関しては、色々と謎も多い。
「ですが、叔父―――圭吾さんのお父様は、圭吾さんに会いたがっておられます」
陽和といったか、と、記憶から名前を拾い上げる。
会う機会がなかった、現古河流の長子。
本当に会いたいのだったら、息子をどうして外に出したのだろう。
「それは、叔父上が古河君に仰ることだろう」
おや、と、悲しげな表情を裏切る目の輝きに、澄は初めて、ちぐさと圭吾の共通点を見つけた気がした。
泣きそうな目ではない。
青年が物事が思うままにならぬ時に、ふと、傍らの傲岸不遜な存在に向ける視線。
それと、どこか似ている。
「叔父は依怙地になっています。けれど、圭吾さんが無事かどうか、とても気にしておられるはずです」
その言葉から、ちぐさという娘が、何度か叔父を説き伏せようとしたのだろうと澄は推測した。
頑なな態度の叔父と、数年会っていない従兄弟。
後者の気持ちだけでも和らげるべく、外堀を埋めにきたというわけか。
本来、自分には関係ないことである。
関係ないことだが、祖父が手出しをしてきたからにはそうも言っていられない。
「古河君には、あなたにお会いしたことはお話しておきますよ」
まあ、一言くらいは教えてやってよいだろう。
あの青年に会って、遊ぶ口実ができるのだから。
それを嫌がっているらしい、あの男は、今回の件では口を挟めない。
決めるのは、夜久の仕事ではないからだ。
「心配されていた、とね」
「できれば一度、古河に戻ってお話を、と」
澄の言葉に覆いかぶせるように、ちぐさが必死な顔を向ける。
「せめて、連絡を私に入れてくれるように伝えてください。ケイさんの困るようなことがないように、母とも相談しています、と」
言ってしまってから、澄が本来なら部外者、と気づいたように口を噤む。
「……申し訳ありません、私……」
今度は流石に消え入りそうな声は、演技か、本音か。
祖父に会って根回しする程度のことはできるのだろう。
従姉妹ということだし、悪いようにはなるまい、伝言だけなら後で風花が横槍をいれたなどとも言われずに済むし、祖父経由ならそも文句も出ない。
親戚関係には極力手を出さずにいる澄だが、今回だけは頷いて見せた。
「必ず伝えておきますよ、ではごゆっくり」
もう一度掌で、立とうとする相手を押しとどめる。
なおも何か言いたげなちぐさにはもう興味がほぼ失せたまま、ちら、と遠くの席に目をやり、そこから今しも立とうとする長身の影に気づいて内心慌てた。
気づかれた。
「では、私はこれで」
「風花さ……」
願いは聞くのだから、冷たい仕打ちではないはずだ。
澄は慌てて浅井を追いかけた。
こうしたことは少なくない。
少なくないから、することは決まっている。
背後からできる限りのスピードでやってくる男を無視し、浅井は店の階段を上る。
廊下の、個室とテーブル席との境の辺りまで足を進めた時、背後の靴音が高くなった。
急いでくることもないだろうに、ゆっくり話せばよい。
ただし、自分の目の前以外で。
「……時雨」
人目をはばかって小さな声だ。だが気にしない。
「ちょっと待ってくれたって」
前を向いて歩いたまま、浅井は独り言を呟いた。
「私がどういう性格で何を好むかは、知っているはずだ」
そして、何が我慢ならないのかも、澄ならばよく知っているのだ。
知っていて、嫌な真似をされて気分の良い人間がいるものだろうか。
椅子の高さで長髪が揺れるのをちら、と見た。
澄ができる限り作った顔つきでそれを隠す位置に立ったのにも。
浅井よりも話すことを選んだ相手が誰なのかは知らないが。
この世の、浅井が属さない側の性別というだけで、十分だ。
席を立つには、十分すぎる。
「時雨っっ」
ぐい、と袖を引く恋人に、冷たいまなざしは見せたくはなかった。
雨の日はすぐに精神のバランスを崩すと知っているから、せめて、離れることでこちらの不快で相手を苛むことがないように、とこれでも思いやったつもりだ。
「爺いがらみだよ、あそこで無視すると後日逆に煩いから」
そんなことも、関係ない。
人間外の何かなどお目にかかったことはないから、神だの悪魔だのが絡もうと、浅井にはまったく問題とはならない。
ただ、性別だけが。
「―――何故、かくも女とは鬱陶しいものだろうな」
声に、いつもの冷えではなく毒滴る熱を感じつつ、なおも澄からは顔を背けて浅井時雨は呟いた。
「悪かったよ、ふる……」
尚も何か言おうとする相手の袖が、嫌な記憶ばかり呼び覚ましてゆく。
抱かれて心地よかった異性の腕は数えるほどしかない。
ただ一人とは言わないが、全てこの世から去っている。
自分に下心なく、二心なく、ただ安堵と信頼を与えてくれた存在以外の女性は、すべて憎悪か無視の対象でしかないのだ。
それを、最も理解しているはずの澄が。
自分と話す時間を削って、自分の目の前で、女性と話すことを選んだ。
帰るのに、これ以上の理由が必要だろうか?
「何故、当然の顔をして入り込む?自分の居場所が世界中にあるような顔をして」
こちらを向かないことに業を煮やしたのだろう、澄が正面に回ってくる。
「だから、話を聞いてくれ……」
自然、視線は険しさを増す。唇が歪む。
彼は何ともない。何ともないが、浅井時雨のようではない。
寛容に異性と接することのできる青年だ。
祖父の命ともあれば、誰であろうと女性に笑顔くらいは見せてやれる男だ。
それが。
「私には、我慢ならない」
思いは呪うように唇からほとばしり出た。
「女の図々しさが、世の半分にいる以上に男の間に割り込む臆面のなさが。誰も用意せぬ席を要求して座り込み、かしずく手を当然と見做して礼もおざなり」
脂粉の匂い。控えめに装った幾つものねだりごと。
「弱いからと男の奉仕を期待し、子を産む見返りに安泰のみを期待する。我々が好戦的であるといいながら、自分たちは影でこそこそと悪口を交わすのみ」
意味ありげな眼差し。思わせぶりな仕草。
あぁ、どうしてそんな生き物をいとおしいと思えよう?
抱きしめて守るだけの存在ではなく、傍らで戦える、時には切り離して立っていられる相手を求める男には、それは柔らかいだけの生き物とそう大差はない。
「来てくれと誰が言った?いてくれと誰が頼んだ?」
滅多に表に出さない苛立ちが、次々と形を成してゆく。
「危険も理解しない、たまに出てくれば足を引っ張って邪魔をするだけだ。それで貢献したからと、見合わぬ請求を突きつけてくる。そんなものは不要だ」
「時雨、だから……」
「私のテリトリーに、女性の滞在を許した覚えはない」
あの男なら、と、暗い上着の背中を思った。
絶対に、私を失望させることはしないのに。
女と話せるだけの度量があっても、決して私をないがしろにはしない。
何を最優先にすべきか、知っているのに、と。
「……ごめん、私が悪かったよ、だから席に……せめて個室に」
「悪かったと思うのなら、袖を離してくれないか」
声にびくり、と大きく震えて、澄が一歩退く。
その顔に不安と後悔とがありありと出ているのに気づき、自分の短い言葉が相手を抉ったことに気づいたが、もう取り消しようはなく。
「悪かった、けど。言わせてくれ」
肩を落とした澄は、どうにか姿勢をまっすぐに保っている。
「古河君の従姉妹が、会いたいのに会ってくれない、と、爺さんを頼ったらしいんだ。だから、挨拶だけはしておいて、一度帰省してくれ、って伝言頼まれただけ」
拳がそっと握られている。目がやや揺らいで、何もない壁を見るのにさえ時間をかけている。
このまま放って帰ればどうなるか、浅井には良くわかっている。
丸くうずくまり、声だけは殺して、ひたすらに泣くだけの澄を、やはり不憫には思う。
普段の彼が、外見に見合うだけの気位の高さを維持しているだけに。
他の事では決して、引こうとしないだけに。
打ちひしがれた姿は、哀れとしか言いようがない。
「だから……だから」
未だ、不愉快さは胃にわだかまっている。
努力して、浅井は穏やかな声音を作った。
「個室でなくて良かった」
「……え?」
意味が分からず、数度、長い睫毛が瞬く。
「澄が何食わぬ顔をして誰かと会話して戻ってきても、個室では見えないからな」
「そんな真似しない!個室だったら後にしてもらったさ……」
再び手が、こちらの袖を握ってくる。幼子の必死さで。
「邪魔が嫌だから、いつも部屋にしてるんじゃないか」
懸命に口説いてくる。
「今食べたくないなら包ませるから、その間だけでも部屋に……時雨っ」
低めながらも、潜めながらも、声で懇願を続ける相手。
多少の意地悪で、こんなにもたやすく人は揺らぐ。
けれど心を傾け続けさせるには、数倍の努力を要する。
浅井は男で、澄をいつだろうと異性に奪われうる存在なのだから。
恋人を魅了し続けるには、どれほど細心の注意を払い、努力し続けているか。
柔肌と化粧の塊のしていることなど、児戯にも等しい。
「そうだな。私も我侭を言った、部屋に移っても良いだろうか?」
綻ぶ相手の唇を、ここで吸うことさえ、世間には許されないことなのだから。
飲食店に大概一台は公衆電話があることに感謝をしながら、彼女は09で始まるナンバーをきっちりと押した。
携帯電話も持っているが、なるべく履歴を残したくない。
今回のように、デリケートな問題のあるときは、余計に。
三回鳴らして切り、またかけなおす。
手順としては携帯より厄介だが、あまり頻繁にかけたい番号でもないのだ。
相手はどう思っているか知らないが。
「……もしもし、私です」
廊下に目を配りつつ、小さいがはっきりとした声を受話器に送り込む。
「今、御用は済ませました。伝言はお伝えいただけるそうよ」
名刺に添え書きを貰うのは、彼女の年齢からすれば生意気なことだったかもしれない。
しかし、祖父の一筆があったからこそ、あの細面の青年があたふたとやってきたのだ、と分かっている。
すぐに戻っていってしまったから大事な接客中だったのだろうが、それを動かしてくれた老人に挨拶したことが無駄にはならず、彼女は小さく感謝した。
耳の中に、返されたどこか気だるげな声にその感謝も散らされる。
「待って、それは違います」
何のために、誰のために自分が動いているか、相手はちっとも理解していない。
それは今思い知らされることでもなかったが、辛抱強く言葉を続けた。
「今、私たちの味方をしてくれるのは、『彼』だけなのよ」
今回のことは、母には知らせていない。
正しくは、老人に挨拶をすることしか予定のうちにはなかったのだ。
買い物をしたいから、と貰った数時間を、できる限り有効に使わねばならない。
「はっきりしたお返事をいただけるように、ちゃんと説得しなくては。……もしもし、聞いていらっしゃるの?」
生返事が歯がゆい。
どうしてこの相手は、現状に危機感を覚えていないのだろう。
こうも鈍くはなかった、むしろ学生になるまでは聡いとさえ思っていた相手の凋落振りに次第に周囲から糾弾の声が上がりつつあるのに。
「もう何年も会ってないし、ちゃんと顔をあわせて、お願いするの。お父様が失敗した以上、私たちできちんとしなくては」
今が正念場なのだ。それをいつまでも理解しない相手でも、今、手を離して見捨てるわけにはゆかない。
「……えぇ、そうね、ではお待ちしています」
受話器をおいて、ちぐさはため息を小さくついた。
それでも迎えに来ると言うだけ、優しい男だから、と自分に言い聞かせながら。
洗面台の脇の棚を、晩になってからごそごそ探っている背中に、夜久は声をかけた。
「髭剃りなら、明日にしておけ」
「あっ……うん、違うけどそうする」
こちらを見ずにあれこれ探っていた圭吾の取り出した箱は、髭剃りよりも時間的に、この青年には相応しくなさげなものだ。
「どこか出かけるのか」
「違うんだけど……」
口の中でもごもごと何か言っているのだが、圭吾の視線は夜久を向かない。
オーデコロンの箱のアルファベットを見つつ何か迷っているようだ。
確か伍堂がよこしたものだが、倶楽部で何か言われたのだろうか。
「やっぱり、俺向きじゃねぇよなぁ……」
「気になることでもあったか?」
使い方次第で相手を夢中や幻滅に追い込めるものだが、これまで興味をほぼ示さなかった圭吾が急に気にするようになったのは何故だろう。
ガキが色気づくときには要注意だ、と思いつつも、さりげなく問いかけてみる。
内心とは違って、興味はほぼなさそうな様子を保って。
『ニル・アドミラリィ』と浅井が呼ぶ態度は、夜久が彼をライバル視していた昔、それだけは見習うべき美点と思って身に着けた。
相手を征服する瞬間はともかく、それ以外の時に牙や爪を剥き出しにすることはない。
超然たる態度を保つこと。必要なら喉から手が出るほどほしくとも無視すること。
そしてそれを気取られぬほど超然としていることが大事なのだ。
「うーん、スタッフの人でさ、何かきちっとした人がいい香りさせててさ。俺、汗臭くなかったかな、って」
相手の返答に、その程度のことか、と、安堵以前に考えを放棄する。
倶楽部のスタッフは、殆ど言動に外れることがない。
圭吾には、接客業の参考になる、と言ったことがあるから、遊びではなく仕事で行った時に、じっくりと見る機会があったのだろう。
浅井や風花といった、目上の人間に首根っこを抑えられていないのが幸いしたようだ。
誰かの好ましい部分は、猿真似にならないなら大いに見習うべきである。
いつもとは違った立場で送り込んでみて、よい影響が得られたのなら、遅い帰着もよしとしよう。
正直、圭吾の実家とやらの絡みを考えれば、あまり野放しにもできないのだが。
「そうか、頭から被ったりはするなよ」
「なわけないだろ」
在り処を確認してとりあえずは気が済んだのか、Paradoxと名のついた瓶を箱のまま棚に戻しつつ、圭吾はようやっと軽く夜久を睨んだ。
「つけてみないのか?風呂はこれからだろう」
「そうだけど」
「コロンの類はな」
自然と覚えればよいと放っておいたが、まあ一言くらいは教えても知ったかぶりにはならないだろう。
「汗と混じってでも変わる。後から嫌な匂いになることもあるぞ」
困惑した圭吾が置いた瓶を取り上げ、軽く一回だけひじの内側辺りを狙って吹き付けてやった。
首筋だときつく感じるかもしれないし、手の甲ではすぐに洗ってしまうだろう。
「少し置いて、確かめてみろ」
甘い香りにやや顔をしかめ、圭吾は夜久を見た。
「変な匂いになったらつけない方がいいってことか?」
「その瓶はな。どれがお前に合うかは、お前自身が決めることだ」
再び顔をしかめた圭吾の手に瓶を戻す時、指先に僅かにコロンがついたので相手の手の甲に擦る。
そんな風に撫でられるのは別に違和感がないことだろうに、何故だか圭吾はびくり、と身を竦め、ついで視線を泳がせた。
「どうした?」
いつもならすぐに『何でもない』と返事があるのに、圭吾は慌てたように瓶を棚に突っ込む。
「や、やっぱり俺これ今落とす」
なぜか視線を反らしたままの、余りに子供っぽい反応に、夜久はおかしくなって鼻先で笑うと、圭吾の腕をつかんだ。
「待て。一汗かかないのか」
夜久の言葉の意味に、誘導されかかっていると気づいて慌てた圭吾だが、もう遅い。
「風呂場のほうが洗えるか、ちょうど良い」
「ちょっ、んなこと言ってまた夜久さん……っ!」
この肌が香りを得てどんな風に変化するか、知っておいても悪くはない。
片手のもとにしっかりと相手を押さえこみつつ、夜久は浴室の扉を押し開いた。
圭吾が反応したのは自分の刺激ではなく、別の手が昼間もたらした、微かな記憶だと知らぬままに。
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