Orbite5



 男ばかりの場所なのに、煙草の匂いが殆どしない。
最初に圭吾が感じたのは、空気の清浄さだった。
夜久が頻繁にではないが吸いつけるから、煙草の香りには馴れていると思う。
それなのに、入った場所―――多分ロビー―――は、女の子が好むような禁煙ルームのように空気は湿りを帯びて落ちついている。
消臭スプレーを振り撒いているわけでもないだろうし、香料のような気配もない。
空気清浄機で絶えず、綺麗にしているのだろう。
 足は、沈むとまではゆかないが、ふうわりした感触を靴底に受ける。ドアの手前は黒と白のタイルや磨き上げられた壁にかっちりと区切られた印象だったが、くすんだ淡いライラック色の絨毯は毛足が長く、抹茶の泡のような色の壁紙と不思議によく合っている。
 照明は壁にさり気なく嵌めこまれ、或いは一隅をうまく利用してある棚の上に置かれて入ってくるものを絨毯と違う柔らかさに包む。
本当にホテルのロビーのような細長いカウンターが置いてあり、つや消しのメタリックめいた塗装のしてある電話と、いかにもなペン立てとメモがきちんと置いてあった。
 乏しい知識で予想していたような場所ではない。
ごてごての観葉植物ではなく、小奇麗な花々が丈の低い花瓶に活けられて視界から外れる少し手前に置いてある。白とグリーンの中に、一つだけ黄色い、レモンみたいな植物があって生け花のようで面白い。
 誰か、スタッフに心得のある人がいるな。バランスがいい。
ちら、と花を見た圭吾はすぐに顔をデスクに向けなおす。
夜久が不審に思ってこちらを向く前に、後で色々説明しなくてはならなくなるのを避けるために。
 デスクに居るのは、割合小柄な男だった。
平均的な身長と言えないこともないが、全体的に部品が小さいのだろう。
明るめの髪の色合いが、上着の夜空のような色に映えている。
顔立ちは二十代後半と見えるその男は、するりとカウンターを回って出てきた。
「夜久さま、お待ちしておりました」
 その声は大きすぎず小さすぎず、耳に快い。
立ち姿も綺麗な男は圭吾に向き直り、
「オルビットへようこそ」
先ほどの雑賀の更に上を行く礼儀正しさで一礼した。
今度は、一礼したものかどうか迷う。
「初めての方でいらっしゃいますね」
夜久が先に頷いてくれたので、圭吾は初めての『客』の立場でうろたえずに済んだ。
促されるままに、送られてきた封筒を取りだし、男に渡す。
中に入っていた『紹介者』の名前は、圭吾が知らない名前だった。
風花だなんて、芸能人みたいな苗字だと言ったら夜久は吹きだしたものだ。
呼べと煩かったのはその人だって話しだけど、どういう人なんだろう。
「古河さま……ご紹介状のほう、確認致しました」
 現在の仕事場でも『ケイ』と呼ばれ慣れている圭吾は男が苗字で自分を呼ぶのがくすぐったいような気がした。
それでも出来るだけ背筋を伸ばす。夜久のように尊大な態度なんて取れないし似合わないから、せめて姿勢だけはぴっちりと。
「当倶楽部フロア担当の入江と申します」
 何時の間にかカウンター側にもう一人男が出てきていた。こちらは入江より背が高いが上着の色が違う。くすんだ黒のような、黒服のようで黒服でない。
入江はその男に案内状を手渡す。
ひた、と向けられる男の目からも、入江は黒服を束ねる位置にいるような気がした。
「カードは」
「もうすぐ、山野が」
程なくして小さな、恐らくドアの開閉音がして、また別の男が出てきた。
整ったハンサムな顔立ちは淡いグレーのスーツが良く似合い、フロアスタッフとは別の仕事なのだろう、控えめさともの堅さはは二人以上だ。
きびきびとした動きでやってくると、彼は手にしていた鈍い銀色のカードを山野ではない方に差し出した。
「お待たせ致しました」
 ちらり、と、注視と言うほどもなく視線を向けられた。
顔は全く見覚えないのだが、またしても何かが意識を過る。
(……あれ。この声、どこかで……?)
引っかかる間もなく、男は踵を返す。
そういえば先ほど雑賀が『入江か山野』と言っていた。これでスタッフのうち、雑賀、藤川、入江、山野と四人の名前を聞いたことになる。
一度で一致させるのは難しいが、どの男たちも雰囲気は独特で、忘れ難い。
何より夜久が、勉強になると言うほどのスタッフなのだ。
「本日より、ビジターとしておいでの際はこちらをお持ち頂くことになります」
 入江の説明に、名前を知らない男がカウンター上に置かれていた皮製のトレイにカードを滑らせ、圭吾に促す。
「どうぞ」
 歩み寄って取れば、カードの一隅には惑星とそれを巡る軌道が金色に光っていた。
最初は土星なのかと思っていたのだが、手の中で傾けると惑星ではなく輪の方がくっきりと浮かぶ。
「館内でご利用頂ける施設は限られておりますが、正会員の同伴でご見学になれます」
 背後の男がパンフレットらしきものを取り出しかかったが、夜久が視線で制するとそれ以上は動かなかった。
夜久は正会員だ。何より、オーナーの親しい友人と、スタッフは周知するところである。仕事とはいえ、くだくだしく館内説明を行って、正会員の時間を削ぐこともない。
 この時の圭吾はそこまで把握したわけではなかった。
それでも男が夜久の意図する所を察するのは馴れだけではないだろう、と感じとる。
「今日は、蒸すな」
 夜久に言われて入江は頷き、
「宜しければラウンジで軽く……」
 と言いさして止めた。
視線の向く先はラウンジに繋がる奥。
そこから出てきた青年に、また圭吾は驚かされる。
彫りの深い顔立ち。明らかに血が純粋な日本人ではない、美貌の主。
オーナーってこの人かな、いや、違う気がする。
 上着の形は入江と同じ、ただし夏向けか生成りで涼しげな美青年は、立ち止まると入江に勝るとも劣らない優雅さで一礼した。
「オルビットへようこそ。オーナーがお待ちかねです」
「大仰に予告したわけでもないが、新倉」
 夜久の言葉に美青年―――新倉はにこりと微笑む。
「ですので余計に残念がられて」
 その笑みが向いて、控えめな驚きを示してまた笑みに戻る。
「フロントの新倉と申します。古河圭吾さまでいらっしゃいますね」
 圭吾はただ頷くのみである。
フロントとフロアってどう違うんだろう。そんな疑問も次々現れる男たちにうろたえずにいるのがやっとで、傍らの夜久を見上げて視線で尋ねる余裕もない。
「オーナーズオフィスまでお越し下さい。冷たいものを運ばせます」
 夜久は表面上は平静を保っていたが、歩き出した一歩に非常に不穏なものを感じたのは果たして圭吾だけだろうか。


 気になる。
珍しいことに、とても気になる。
この俺が。
 ほんのちょっと、相手の顔を見ただけだ。
目を見張るってほどじゃない、身体は多少締まってるけど極上の部類じゃない。
でも、してみてもいいな、と思う。
どんな声を出すのか、背に絡む腕の強さは、あの素直そうな目が潤んだら、どんな風に見えるのか。
 困ったことに、とても、気になる。
一晩貸し出してくれるって相手でもないだろうから、本当に欲しければ奪わなくてはならない。
その前に気づかれたら、当然無事では済まないだろうし、痛いだけで終わるのは嫌だ。
俺の執着に見合う相手かどうか、見極めよう。


 電話が、軽やかに鳴り響く。
音をわざと違えている相手だと判るから、ワンコールで出る。
「私だ」
 相手を知っても知らなくても、浅井はいつもこれで通す。
『あ、時雨。今仕事終わった』
 おっとりしたところもたまに見せる声がする。
『特に用事がなかったら、こっちに来ないか?』
「残念だが」
 用事は、ある。
「『彼』が来ているのでな」
 電話の向こうは数秒絶句による沈黙を電波で伝えた。
『……嘘っ』
 押し殺した声で他に数語、育ちに似合わぬ悪口が聞こえる。
『あの男、徹底して……』
「澄?」
『行くから。一時間で行くから、絶対帰らせるなよ!』
「分かった、事故は起こすな。……あ」
 珍しく乱雑に電話は切られたが、浅井の口元には僅か微笑の気配がした。
今日は、取っておきのもてなしを準備してある。
観客が一人足りないと思っていたのだが、これで問題はなくなった。
数名の人間の足音がする。
 ゲストとして迎える相手が、このもてなしにどう反応するのか。
あの男がそれを見てどう思うかは想像ついているが、それも含めて、楽しみだ。


 通されたオフィスにはオーナーはおらず、はて、と思うまもなく奥まった方へ新倉と夜久が当然のように向かうのに戸惑い、圭吾は何とか転ばずについてゆく事が出来た。
その数メートル先、やっぱりどこか造作が違うドアの前で、新倉は立ち止まり中へと声をかける。
「お二方がおいでです」
「入って頂くように」
 低めだが、よく聞こえる声が答えると新倉はドアノブに手をかけ、開くと同時に腰を折って身をかがめた。
どうぞ、とも言わないが、夜久は足を進める。圭吾を振り返りもしない。
 圭吾は出来るだけ静かに、足音を立てないように注意しながら二歩遅れてその後に続いた。
背筋はぴんとする。肩はいからせない。下腹に力を入れて、足はまっすぐに。
そして視線をそのまま、相手の顔に向ける。
 重厚そうなデスクを隔て、夜久と大して年齢差がないだろう男が、座りごこちが無駄によさそうな椅子に腰をおろしていた。
夏に相応しいような明るめの麻の上着を着ている。一瞬、外国の人かと思ったが、良く見れば彫りはそんなに深いわけではない。
髪の毛の色が淡かったり、肌の色が圭吾ほどではないが薄茶がかっているからだろう。
それをいっそう印象付けている目の色の薄さ。一応茶色をしているが、それはこげ茶と言うよりは琥珀のような明るみを帯びていて、宝石に見られる無機質さと、学者か何かのような冷徹な好奇心とを感じさせた。
 男は、怖じずにこちらをまっすぐに見ている圭吾の目に、やはりこちらも容赦のない眼差しで見入っていた。
日本人の容姿とは違う雰囲気の外見は話に聞くモデルやホストのような、だけど人に媚びる姿勢は絶対にないと分かる。
 この視線には、慣れている。
身ぐるみ剥ぐような、相手の緊張を見て取って楽しむ容赦のない眼差し。
左斜め、二歩前にある背中が、絶えず圭吾をこの緊張の下に置いて、決して逃さなかった。
強いられたものが、今は逆に自分の支えになっている。
 男は、数秒後夜久に視線を移し、口元に辛うじて笑みと見える円弧を形作った。
「またご無沙汰だな、夜久」
「そろそろ避暑だろうと思ってな、顔だけでも見せに来た」
「つれない事を。……紹介してくれないか」
 夜久はちらり、と圭吾を視線で示すと、
「古河。私の、新しいスタッフだ」
さらりと言う。それ以上何も付け加えない様子に相手は肩を優雅にすくめた後、再び視線を圭吾に向けた。
中指にごつい金の指輪が嵌った手が、差し伸べられる。
「初めまして、古河くん。オーナーの浅井時雨だ。オルビットへようこそ」
「古河圭吾です。ご招待有難うございます」
 軽く握って離れた手は、思ったよりも暖かく乾いていた。
油断は出来ないけれど、落ちつける。
浅井はそのまま手を横に動かし、ソファーを指し示す。
「飲み物は。寂しいことは言わずに、ゆっくりしていってくれ」
 諾の返答は与えないものの、当然の如く腰を下ろす夜久に従って、圭吾もソファーに座る。程よい加減の堅さに、深すぎず浅過ぎず位置を占めるのを待っていたように新倉が寄ってきて、同じ様に腰を落ちつけた浅井の脇に立つ。
「本日のお勧めは、カフェはアレクザンダー、ティーはマチェドーニア仕立てのアイスティーになっております。他にもお好みを仰っていただければ、ご用意致しますが」
 控えめな微笑の新倉に、もしコーラだのこぶ茶などと言ったらどうなるのだろう、と珍しく冗談めいたことを考えてしまう。
 次の瞬間に夜久が間違いなく圭吾を蹴り倒すことだろうが。
「……この前、臣が面白い茶を出してくれたが、あれはメニュー入りしたのか」
 夜久が珈琲といわずお茶について質問したので、圭吾は一瞬驚いた。
飲まないわけではないが、飲み物に関しては珈琲が圧倒的に多い。
それがお茶とは。
「まだ、正式には。お気に召されましたか」
「頼む」
「……同じものをお願いします」
 メニューを頼んでも良いのだろうが、ここは無難に同じものを頼んでおいた方が良い気がした。
夜久は今日、挨拶をして引きとめられないうちに帰るつもりでいる。
酒を飲む時には運転をしないと知っているから、飲み物にアルコールは入らない。
ナビゲートに従って行けば、無事に早く帰れる。だから、倣っておけば良い。
「いつもの通りに」
 浅井はオーナーだけに好みを熟知しているのだろう、新倉は『畏まりました』と答えると元来たドアを開けて出て行った。
 ドアの音が静まってから、徐に浅井は口を開く。
「随分だな、夜久」
「何がだ」
 浅井は僅かに目を眇めるようにして、男に殊更に憤慨したような表情を作る。
内心はどれほどかは分からないが、面白くないことを相手にわざわざ大袈裟に見せているのだ。
 左手を上げて掌全体で圭吾を示し、言葉を被せて黙らせる。
「ここまで来て上着に皺を寄せずに座っていられるだけでも大した胆力だ。しかもお前がスタッフとしてきちんと『契約』するほどなのだろう?もう少し早くに紹介してくれてもよいようなものだ」
 良く分からないが、誉めてもらっているらしい。
気後れをせずに座っている圭吾を浅井が気に入ったらしいことに気がついた夜久は、少し考えて言葉を発する。
「仕事を覚える前に息抜きもないだろう」
「それならお前だけでも来れば良いのに」
 殊更に穏やかな物言いに、僅かな、本当に僅かな怨嗟を感じる。圭吾は何だか首筋の毛がちりちりと逆立つような気がした。
 が、夜久はにべもない。
「だったら、猫を黙らせろ。お前が構いつけてないから、一体どうしたと騒々しい」
 はて。『猫』って何のこと、或いは誰のことだろう。
内心首を傾げる圭吾とは逆に、浅井の表情は苦笑に変わる。
「仕方あるまい。ここ暫く多忙でな。新規会員も暫く増えていないから、退屈しているのだよ」
「私は猫じゃらしか。……わざわざ、電話していないだろうな」
 夜久の声にもどこか剣呑な響きが混じる。どうやら『猫』とは仲が良くないのか。
「していない」
 即答した浅井を暫し眺めてから、夜久は面白くないとはっきり書いてある顔で圭吾の方を向いてくる。怖い。
「気にするな」
 と、言われても。
「普段の挨拶だ、安心してくれ」
 と、仰られましても怖いものは怖いです、浅井さん。
言えないがありありと出ているだろう圭吾の硬直ぶりを他所に、二人は剣呑にも聞こえる会話を続ける。
「脅かすこともないだろう、夜久」
「作り笑いなどするからだ」
「久々にビジターを紹介してもらったのでな、頬が緩んだ」
「希望者は少なくないだろう、一人や二人くらい」
「……現在基準に達するのがいない」
 良く分からないが、浅井のハードルは相当に高いのだろう。
俺だって基準未満じゃないのかな。と思っていると、
「お待たせを致しました」
 早々と新倉が、トレイを持った入江を伴って戻って来る。
トレイの上には、色からするとアイスミルクティらしいグラスが一つ、もう二つは涼しげな翡翠色をしたグラスが二つ、他にも果物を盛り合わせた皿があった。
 サーブされた飲み物をそれぞれ手に持ち、一口啜る。
日本のお茶じゃないな、と思った。色も香りも違う。それに何か混ぜてある。
それでも冷たさは程よく、作りおきでは出せない味わいは悪くない。
 浅井は圭吾の様子を見て取ったかスタッフに頷き、二人は一礼すると出て行った。
グラスの中身が半分ほどの丈になると、また会話が再開される。
「ところで、晩はどうする。今日は三雲も岩佐もいるから、愉しめると思う。酒も、新しいのがある。お前が以前言っていた……」
「だから今日は、挨拶だけだと。……酒は、今度でも」
 後半渋々付け加えたのは、夜久なりの浅井への譲歩だったが。
「すっかり薄情になったな」
 浅井は常人なら居心地が悪くなるまでじろじろと、相手を見まわした。
「そんなに『二人きり』がいいのか?分からないでもないが」
 夜久の眉が上がるが、構わずに続ける。
「最初は耳を疑ったが、こうして見るとなるほど、ドクターの話も頷ける」
「卯月が何を言おうが、関係ない」
 思ったよりは強い口調になったのか、それだけ言いきって夜久は取り繕うようにグラスを再び手に取る。
「それなら、いいだろう?階下では気が乗らないなら、部屋はどうだ」
 そう、圭吾には到底信じられないことに、夜久はここに何と年単位で部屋を借りているらしい。
それがアパート一年分程度の額でないことは勿論なわけで、他にホテルを借りるよりは気心が知れていて楽なのだと説明されても理解の範囲外である。
「余り使わずにいると湿気てしまうぞ。東城の手入れも無駄になる」
 ついでにルームサービスの係までご指名なのだそうだ。世界が違いすぎる。
知らない世界とはいっそさよならして帰りたいのが本心だが、来たばかりで帰れるわけもないし、どうやら浅井は圭吾を悪くは思わなかったようだ。
もしかすると判断を保留しただけかもしれないが、ともあれ態度は嘘ではない。
「幸い今日は、私もひと段落ついたことだし、案内しようか」
 グラスを乾した男は、先程の作り笑いではなく、口元をゆったりと緩める。
「ビジターをわざわざオーナーが案内?」
「別にスタッフにさせても良いが、その場合夜久が不安なのではないか」
「誰が」
 と、素っ気無くしても、圭吾の目から見ても男は何かひっかかっているらしい。
「……電話したりしないだろうな」
「私は、どちらでも構わないんだが」
 明日は雷雨くらい降るかな、などと考えてしまう。
良く事情は分からないが、夜久が同性に笑顔で脅迫されている。
しかも、
「……頼む」
素直に白旗を揚げたと来ては、何か天変地異を思っても仕方ないじゃないか。


 青信号続きだ。ちょっと、吃驚する。
日頃の行いがいいのか、悪運か、それでもいい。
信号無視して飛ばしたいくらい焦っていたのが嘘みたいに、道も空いている。
落ちついて行こう。今日は逃さない。時雨が引き止めてくれている。
今日帰らせたら、あいつだって容赦しない。
 でも、どんな奴なんだろう?
久しぶりにわくわくしてしまう。


 ラウンジにレストラン、ミニシアター、簡易ジム、資料室。
メディカルルームもあるし、常駐ではないがスタイリストも呼べる、らしい。
本当に浅井オーナー自らの案内で館内を回った後、三人はエレベータホールへとやってきた。
 ここで必要なのは、数メートルの移動の他には手と口だけじゃないかと思うほど、どこも行き届いている。
口をぽかんと開けないのが精一杯で、地味ながら贅沢な建物と、いつのまにか静かに控えているスタッフ、傅かれるのを当然と見なす男二人に挟まれて、圭吾はどうにか立っている有様だ。
これだけ見せられたのだから、もう驚いている場合じゃない。
部屋だってきっと、ホテルのような感じなんだろう。夜久の好みはわかるから、逆に落ち着けるかも知れない。
 早い時間に来たために他の客は殆どおらず、興味の視線は向けられたものの珍獣を見るような眼ではなかった事もあって、予想していた程のストレスは感じられなかった。
それでも、やはり他の客が上がってこられない部屋に行けるのは有難い。
僅かに力の抜けた圭吾を見て、浅井が夜久に何か耳語する。
ともかく、あと少しだ。もう少し……。


 浅井は、何かを隠している。
いつもは誰が何をしていようと我関せず、の態度を取るこの男が、今日はどうしてか、足と手と口を二倍半は動かしている。
 胡散臭さに夜久はこのまま踵を返して帰りたかった。
いや、不可能ではない。最上階に着いたら浅井だけ降ろして、自分たちは駐車場へ下ってしまえば良いのだから。
与えられたプレッシャーに、思ったより圭吾は耐えている。むしろ予想していたより大人しく礼儀正しく振舞っていて、ガススタンドだけで身につく態度とは思われないほどだ。
 後で評価してやって、そのついでに出来れば、少しスタンド前の事を聞いてみようか。
犯罪ででもない限り、人にはそれぞれの事情があると夜久は思っている。だから敢えて問わずに、圭吾が話すときが来ればそれで良いと考えてきた。
少しだけなら、知っておくのも悪くはないか。
「一息入れようか。疲れている」
 浅井の囁きが圭吾の事を指していると分かって、面白くなさが増す。
余計な事を企んだのは、貴様だろう。そうも言ってやりたくなる。
しかし、予想外な事に圭吾はここで然程取り乱したり、間抜けた反応を返すことがない。
階下で出くわした、藤川のように慌てたりしてもおかしくはないのに、緊張していてもしっかりと目を向けて、ここを理解しようと努めている。
 思った以上に先が楽しみだ。そう思った途端、
「歓迎する」
 吐息と同じレベルの小ささで発せられた言葉が頬骨の辺りを後ろから撫でる。
珍しい。何かを決めるのに慎重すぎるきらいさえある浅井が。
そう思いながらも、同じように音を切り詰めて返す。
「当然だ」
お決まりの、『ようこそ』以上の言葉をオーナーが口にする事はめったにない。
傅く側か、傅かれる側か。
他所では前者でも、ここでは後者だと浅井が認めたことになる。
まだ圧倒されてはいても。控えめな贅沢のもたらす心地よさを感じる余裕がなくても。
ケイはいずれ、正式な鍵を手に入れる。
 最上階の扉が開いた。
世の中の『礼儀』とやらでは、立場が低いものが真っ先に出てドアを保持する。
浅井はスイッチを押したまま、二人に出るように促した。
「"Alley je"」
何もフランス語で『お先にどうぞ』と言うこともあるまいに。
『"Je vous en prie!"(どういたしまして)』と答えるのはマナーだと知っているが、敢えて無視した。
ここは日本だ。つきあってやる必要はない。
 頷いて出れば、後ろで小さな会釈と、相変わらず何か含んだ笑顔の気配。
洒落にならん真似などしてみろ、即刻帰るからな。
そんな風に考えているのさえ、相手には分かっていることだろう。
「ここは三部屋だけにしてある。一人はいないので、今は紹介出来ないが……」
 しないでいい、しないで。
「基本的に、リザーブされた部屋に他の会員が立ちいることはない。勿論、呼べば別だが」
 背後の会話を聞き流しつつ、自室の前に立つ。左手のスロットにカードを差し込んで開ける、良くある形式だ。
「まあ、寛いでくれ」
嫌な笑い方をするな。
開けて、一歩踏み入って、ライトが点った瞬間。
思考が停止する。手がノブから離れてしまう。
 ばたむ、と大きな音を立ててドアを閉めてしまった夜久に、ドアの向こうから圭吾が不審そうな声をかける。
「夜久さん……?」
 目の前の光景に、ようやく浅井が何を企んでいたかが分かった。
いつも見慣れている静かな部屋は、跡形もなくなっていたからだ。
悪趣味、極まりない。
ここ暫くの忍耐が、快適だった部屋の記憶と共に神経から毟り取られる。
くるりと勢い良く向き直り、夜久は思いきりドアを開け放した。


 ここへ到着して、そろそろ四十、いや五十分にはなるんだろうか。
たまにちら、ちら、と夜久の機嫌が宜しくない瞬間を感じ取ってはいた。
エレベータの中だって、浅井の言に何か短く答えた夜久は面白くなさそうだった。
 それでも、圭吾としては最大限に努力して、良く言えば平穏な時間を保とうと、悪く言えば何もないふりをしようとしてきたつもりでいた。
自分がみっともない真似をしなければ、精々、一、二時間我慢すれば、紹介を終えて二人とも帰れる。
そうしたら、きっと機嫌だって直る、と。
 ここへ来てこの瞬間、思い違いを知らされる。
夜久が面白くなかったのは。
「……時雨っっ!!」
 ドアを開けると同時に大音声で叫んだ男に、思わず後ずさってしまう。
それほど、夜久は恐ろしかった。
「不満か」
 対照的に、浅井は冷静な、いや、幾分笑っているような声を出す。
表情は動かないから良く分からないが、多分笑っているのだろう。
「今日と知っていれば朝から準備して整えたのだがな。二時間と切られたのでは精一杯だった」
何かあったんだ。何があったんだ?
疑念を向けたら途端に殴り倒されそうな気配に、圭吾は声もない。
「貴様っ……」
「至らない点は我慢してくれ。意見は伺うが」
 淡々と言うその襟首を、血管まで膨れ上がりそうな男の手が、ぐいと掴む。
「ふざけるな」
再び背後のドアを片手で開け、夜久は自分と体格の変わらぬ浅井をそのまま引きずり込んだ。
ドアが閉まる前に、慌てて圭吾も飛びつく。
「この体たらくは何だっ!」
怒号は、とてもその部屋に似つかわしくなかった。
 壁紙は、オフホワイトで、これは別段目を見張るようなものでもない。
しかし。天井近くに弧を描いて垂れ下がっているのは、ライムグリーンのリボンだ。
所々が房になっていて、そこには白とグリーンを基調にした花がついている。
 椅子には真っ白なカバーが被せられ、クッションが置かれているのだが、そのクッションもレースのフリルがついた真っ白で綺麗なものだ。
飛び込んだ圭吾の目が、瞬き、泳ぐ。
 ベッドも当然の事ながら、あった。
そして到底、夜久の趣味とは思えない整え方をされていた。
 これまた真っ白な、シルクのシーツ。
枕カバーもレースフリルつき白、薔薇の花が同じ白い糸で刺繍されている。
ベッドカバーの折り返しは天井のリボンと同じライムグリーン、でもその上を更に白いシーツが覆っていて、わざとひだを寄せてまるで帆立貝のような形に作ってある。
その上に更に、少しだけグリーンを帯びた白い薔薇の蕾と、小さなデイジーの花が散らばしてあり、とどめに無造作に置いた風だが白薔薇の花束、縛ってあるのもやっぱりグリーンのリボン、今度は濃淡。
 これで"Happy Marriage"のカードとリングピローでもあったら新婚初夜のベッドだ。
呆然と圭吾は立ちすくむ。
「で、どの辺が改良の余地ありだ」
「貴様の脳みそから改良し直せっ!」
 ぐいぐいと締め上げて怒鳴る夜久にも浅井は平然としたもので、
「そう照れるな」
「……っ!どこをどうしたらそう見える!」
 真横では殺人寸前の光景が起きているのだが、疲れ切った上にとどめがこれでは、止める意欲など湧くはずもない。
いや、それ以前に正常な判断力を失わせる何かが、この間違った幸せさを演出し切った部屋にはあった。
「元から何か企んでいることは分かっていた。ああ、分かっていたとも」
締め上げたままで、夜久は凶悪な笑みを浮かべる。
「貴様の性悪ぶりは今に始まった事ではないからな」
「心外な」
 つまり。
浅井が何か悪戯をやるだろうと夜久は思っていたものの。
まさかこんな部屋を作り上げているとは考えてもいなかった、ということか。
ぼんやりと、圭吾はその事実を認識する。
(こりゃ、怒るよなあ……)
他人事のように、白く輝くベッドに呆けた目を向けながら、二人の間に割って入って止めることももう思い付けない。
「私の力作だぞ」
「こんなものは風花にでもしてやれっ」
「ふむ。やはり緑は嫌か。だったらピンクかオレンジの方が……」
 ぐぐっ、と、喉にかかる力が増して、浅井は無理やり黙らされる。
「いい、度胸だ」
 笑みが消えて凶悪さだけが残る。
果たして、浅井はこの部屋を無事に出られるのか。


 駐車場に、ダークグリーンのウィンダムが音を立てて滑り込んだ。
シャッターが開くのももどかしく、建物内の所定の位置に車体を突っ込み、
「……ちょっと斜め……ま、いいか」
 呟いて降り立ったのは、スーツ姿の風花澄である。
ナンバー2のブースが塞がっている事を確認し、珍しくはっきりとした笑顔を浮かべた。
迷わずドアを開けると、小走りにエレベータへと向かう。
それでも、頭を押さえつつそこらを掃除していた藤川に、挨拶するくらいの余裕はある。
「やあ、藤川」
「ちわ……こ、こんにちわ、風花さん」
怖いボスはいなくても、びくっとした様子の本来『警備』スタッフは、何故か塵取り一杯の花を持ったまま一礼した。
「こんにちは。それ、どうしたんだい」
「あ、何だか、東城さんがオーナーの命令で買ってきたらしいんすけど、ここでこけてばら撒いちまったんですよね」
「ふうん、で、今日は誰か来てる?」
 カードを差込んでから、数字を打ち込むとランプが最上階から下ってき始めた。
よしよし、目標補足だ。上にいる、と。
「あー。何だか、ビジターが一人」
「ふうん。どんな印象だった?」
「何だか……年は俺くらいっすけど、すんごく落ち着いてて、感じよくって……」
 話半分としても、いけすかない相手ではないと。それは嬉しい。
エレベータのドアが開く。
「有難う」
「どーいたしまして……わわっ!!」
また礼をした折に、薔薇をばら撒いてしまった藤川は、閉まるドアの向こうで慌てて箒を動かしていた。
 くすくすと笑いつつ、最上階に運ばれる。
目指すのは、奥の方の一部屋。先ず入る事はない、自分と浅井以外の占有者の部屋だ。
ドアは閉まっているが、気軽にノックする。
 ばっ!と引きあけられたが男の不機嫌は想像の内にあったため、優雅に一歩退いて、
「やあ。お久しぶり」
 凄まじい形相で恋人の首根っこを掴んでいる夜久にも平然と、澄は挨拶して、図々しく入ると部屋を覗きこみ。
 優雅にしつらえられた様子を見て取った途端、爆笑した。
「……っ、はっ、ははははは!」
 身を二つに折って笑う澄は、流石の夜久も浅井も見た事がない。
二人は首だけを捻じ曲げて、しげしげと同じ階に部屋を持つ青年を見つめた。
が、笑い終えても澄は二人の事など見向きもせず。
「で、『彼』は?」
 夜久の眉根がよるのも気にせず、浅井が僅かに口元を引き締めても構わず。
二人の脇を回って、呆然と突っ立っている相手、名前だけ知っている圭吾のすぐ脇に立った。
違う気配に気がついて、少しだけ斜めに身体を引いた圭吾が、澄を見る。
 素直そうな顔。手入れとかはしないだろう、それでも真っ直ぐな形良い眉。
動揺と疲れで少し潤んだ、正直そうな目。
体格は良く、肌は滑らかに浅黒く、見られている事に気がついて引き結んだ唇も、まだスーツが身についていない様子も、とても二十歳らしく、青年とどうにか呼ばれる年齢らしく映る。
「古河、圭吾くん?」
「はい」
 声に少し錆があるのが、逆に印象としては、良い。
とても、良い。
「初めまして、風花澄です。ようやっと会えたね」
 理解の瞬きが、少々幼い部分を残している事を見せる。
「あ、初めまして……それじゃ、あなたが」
 背後の二人は沈黙し、しかし姿勢は変わらず澄と圭吾を見ている。
でもそれも気にならない。
はっとなった圭吾は、背筋を正すと上着のすそを引っ張ってから、堅苦しいほどの挨拶をした。
「風花さん、ご紹介頂いて、有難うございます」
 出くわしたら言うつもりで、きちんと準備していたらしい。
礼儀正しさは、到底、夜久の手元にいるとは思いがたいほどだ。
「ああ、いいよ、そんな畏まらなくったって」
 紹介者になって後悔しないで済むのも嬉しい。
こんな弟がいたら良いのに。
自分と数センチの目線しか違わない圭吾を、思わず澄は抱きしめて、背後を振り返った。
屈託なく笑う。
「時雨、この子可愛いなあ」
氷の女王だの、クールビューティーだのと陰口のように言われている澄とは思われないほど、その笑顔は明るいものだった。



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