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夜久が帰ってきたのは、夕食と言うには遅く、夜食と呼ぶには早い時間だった。
玄関で微妙に汚れたらしい靴を、スポンジクリーナーで拭っている。
圭吾が裸足で歩いてきたからか、気づくのがいつもより数瞬遅かった。
「……お帰り」
僅かに眉が持ち上がったが、男はいつもどおり答えた。
「ただいま」
「夕飯は?」
圭吾自身の食欲は失せている。
夜久の前で出自―――と呼ぶほどのものでもないが―――を暴露されたにしても、義伯父の訪問さえなければ、もう少し落ち着いていられたことだろう。
「要らん」
素っ気なく答えられて、いつもなら平気なのにめげそうになった。
話すと決めたのに、また言葉に詰まり、気持ちも詰まる。
悪循環だ。
それでも、この家の主に茶ぐらいは、と踵を返してリビングに向かった時、背後から声がかかった。
「食べたいものを取れ」
「一人じゃつまらないし、いいよ」
今日もまた話がしづらいな、と思った。
夜久は、内面に入り込んだ話を聞いてくれないわけではない。
事故にあった時から、乱暴な、男なりのやり方ではあるけれど、圭吾の心理状態を良い方向に持ってゆこうとしてくれた。
感謝している男に何も打ち明けなかったけれど、と圭吾はリビングに入りながら、洗面所に向かう男の方をちらり、と見た。
夜久のことは、殆ど何も知らない。
同居して、食べさせてもらいながら、どこの出身で誕生日はいつで、ディーラーになった切っ掛けとか親戚はいるのかとか、全く知らない。
人の話は聞いてくれても、向こうから話をしてくれるわけではない。
愛想は客商売であるから非常によろしく、周囲の話題がどれほどくだらなかろうとも、合わせるのも抜けるのも上手だ。
それなのに、夜久自身の話は殆ど聞いたためしがない。
水を向けられても、身をかわし、すり抜ける。
危ない商売の匂いはほぼしない。夜久自身は危険な男だとしても、テレビの刑事ものに出てくるような裏だの闇だの言われるような真似もしていない。
聞かれて拙いとすれば、異性より同性を好む、という点かも知れないが、大きな会社ならばともかく、個人やディーラーどうしの繋がりに支障をきたすほどではないだろう。
何故だろう、と聞けば簡単かも知れないが、圭吾は問わずに来た。
プライバシーの尊重、相手の事情は仕事に係わらないなら問わない。
向こうが話題として振ってきた場合だけ、家族や恋人の話題に触れる。それが大人としての礼儀だと、圭吾の周囲は教えてくれた。
別に人の家のことなど、どうでも良いというのもあった。
けれど、夜久のことは少しは聞きたい。そう思いながらキッチンに入る。
薬缶を火にかけて、急須を途中で温めつつ、何を聞けば良いのかと自分を笑った。
今まで近くにいて、何も聞かなかったくせに。
自分のことだって、あんまり聞いてこないのをいいことに話さずにいたくせに。
相手が欲しがらないものを押し付けて、自分だけ欲しいものを手に入れるなんて図々しい考えを、いつ持ったのか。
足音が聞こえたので、薬缶に目を向けたままたずねる。
「お茶淹れるけど、珈琲の方がいいかな」
「任せる」
短い答えは全くいつもと変わりない。
安心と同時に、落胆も沸き起こった。
相手にはその程度のことなのだ。気をそそられる問題ではないのだ、と。
うまく吐き出せない気持ちを肩代わりするように、薬缶が甲高く湯気と悲鳴とを吹き上げた。
気づかれぬ程度に、夜久は圭吾の様子を観察した。
肖(に)ていない。
圭吾は、父親とは全く印象が違う。
『俺も仰天したよ』
二宮は、少し気だるげながら、知っていることはある程度白状した。
『養子じゃないか、なさぬ仲か、そんな噂はあったらしい』
それは長男自身が否定したこと、圭吾の母親とは周囲の反対で結婚できず、どちらが養育するかでも揉めたという話まで聞いて、二宮はこっそり父親と連絡を取ろうとした。
『俺も厄介は嫌だったんで、文句言うだけ言って切っちまったがな』
聞けたのは、家出が圭吾の意思であること、母親とは既に音信不通、親元に返せば圭吾の望むような将来は認めてはもらえないこと、それだけだった。
巣から落ちた雛鳥を拾い上げた二宮は、いたく保護欲をそそられたことだろう。
『ちっこくてな、擦れてなくて、無理だろって思ったくらいだった』
思い出した二宮が涙ぐんだところに、蹴りを入れてやろうと思ったが。
『……二宮さん』
凶悪なまでの怒りをはらんだ声がして振り返ると、面白いことに良く知っている社員が立っていた。
一瞬だけだが、こちらを睨みつけた表情は、誤解しようがない。
更に二宮が身体を強張らせ、怯えを僅かに見せた。
すぐに夜久の視線に気がついて顔を引き締めたが、もう遅い。
『邪魔をしたな』
懐にいれたものに対する甘さから、とうとう二宮は手近の存在にさえ、所有権を主張され始めたようだ。
しかも、たやすく怒りを欲望に置き換える年代の男に。
今後の遊びが増えたと内心ほくそ笑みつつ、夜久は相手に哀れな獲物を引き渡して帰ってきた。
圭吾は、父親のような優雅な線を持ってはいない。
どちらかと言えば荒削りに近く、肌は浅黒いのは、母方の血が濃く出ているのではないだろうか。
眉の太さや形、強い意思を示すときには真一文字に結ばれる唇も男らしい。
好青年、誰もがそう形容するタイプ。
だが、その父親はどうだ。
あの雑誌の切抜きの男は、日本画から抜け出てきたと言われてもおかしくないほど、柔らかい線でできている。
髪の毛も恐らく、時折それを自慢にする女がいるようにさらさらと細いものだろう。
目はきれいなアーモンドの形、唇は滅多に笑まないが、きっと緩ませれば見惚れるような柔らかさを隠している。
色は恐らく白い。雑誌は四年ほど前だから多少は老けたとしても、よほどの崩れがなければかなりの美形だ。
何も知らなければ美青年と呼ばれてしまいそうな若さがある。
きっと、家の中で総領としておっとりと育ったからだろう。苦労知らずは時に人間の表面から皺を遠ざける。
優艶、儚げ、端然、そうした形容が奉られるような男を父にしては、小さく色黒な少年はさぞかし見劣りがしたことだろう。
どんな陰口が叩かれたか、何を耐えてきたかは想像に難くない。
視線はさほどしつこくないつもりだったが、やはり敏感になっていたのか、圭吾は多少睨むように夜久を見返してきた。
不肖の息子、か。
世間や父親がどう思っているか知らないし、どうでも良い。
改めて、浅井の問いかけを夜久は思い出した。
『十年前の私達が今の言葉を聞いたら、一体何と言っただろうな』
十年前なら、若造だ。
世界が自分を押し潰すこともあると知らないで、闇雲に、直向に挑むことができる最後の時間。
圭吾はそれを、父親という後ろ盾を蹴って進んできた。
まだ守られるはずの年齢で叩かれ、押し潰されて、大人を理解する前に嫌いぬく年齢を、脇目も振らず、車だけを見て。
自分が立つ位置を、父親の影には求めなかった。
真っ直ぐな、挑む眼差し。
ただ無闇な欲望に押し流されることもなく。
自分がどれほど痴態を強いても、体内を暴くような欲望を与えても、この眼差しが爛れた光を浮かべることはない。
「……何?夜久さん」
身体の疼きに耐え切れず、自分に脚を開く時も。悪戯に仕掛けた手の動きにあっけなく果てる時も。
様々の体液に塗れた肌が求めるのではなく拒むような艶を見せるのを、腹立たしく、或いは不可解に思っていた理由が幾分かは分かった。
文字通り弱冠十五歳で背水の陣を決意したこいつが、並の欲望に溺れるわけがない。
そういうことか。
夜久は、口元だけで笑ってやった。
追い詰めても、踵ぎりぎりで落としきれない焦燥感。
這い蹲らせても、指一本は立てて堪えているようなむず痒い抵抗感。
だったら、こいつはまだ堕落どころか悦楽さえ知らないのだ。
絶望に近いほどの何かに、未だに身を浸したことはない。
私に抱かれてさえ。
「ホームシックで泣いているかと思ったが」
心にもないことを言って相手の眉がきつい形に変わるのを見つつ、内心呟く。
お前は、私のものだと言いながら、飼いならされたつもりはないようだな。
まだこれからだ。
陥としてみせる。お前をのた打ち回らせて、泣き喚かせて、それでも私の傍にしかいられないほどに縛り付けようか。
お前が全く知らない、想像もしていない世界に足を浸して、その毒にも平気でいられるかどうか、この目で見てやろう。
私に生殺与奪を握られても、そうして睨んでこられるかどうか。
これからだ、ああ、これからだとも。
さぞかし、楽しくなることだろう。
最初にからかってきたものの、夜久はその後は真面目に話を聞いてくれた。
一度組み立てた説明だから、どもったりせずに話せたように思う。
形式、格式、儀式とは無縁だと言いつつも、そこから僅かに離れた位置にあった親子への冷淡さ。心無い言葉、ひそやかな、時にはあからさまな仕打ち。
そうしたものを積み上げれば小さな塔がひとつできるだろうけれど、そこまで細かなことまでは話さなかった。
話すうちに、昼間の茶室での時間のように、精神が落ち着いてくるのがわかる。
今、過去を語るのは、それが大事だからではない。
そこから作り上げた今日の状態を、明日どうやって望むほうへ向けるのか。そのために、語るのだ。
二度ほど、口を煎茶で湿した。
相手はまず静かに聞き、ひとつ、質問を投げかけてきた。
他の誰かが、穏便に実家に帰るよう求めてきた場合、帰る気はあるのか、と。
これには即座に、首を横に振った。嫌だと答えた。
今まで、圭吾の居場所はなかった。それをどうにか場所を空けて隅っこに置いてやろうという申し出ならお断りだ。
半畳ほどの場所に控えさせてやったと生涯言われるくらいなら、恩知らずにも出て行ったきりと罵られたほうが増しだ。
「……ここには、厄介になってるけど」
そのことには触れず、次の問いが来た。
「お前は、この先何がしたい?」
いきなり、熱い茶を飲ませられたように圭吾の喉は詰まった。
漠然とした問いを発した夜久は、自分の湯呑みには全く手をつけず、真っ直ぐにこちらを見ている。
不可解な、鋭い眼差し。
スタンドで最初に洗車を頼むというよりは命ぜられた時も、退院の日に病院のロビーで捕まり、そのまま夜久の膝下に押さえ込まれた時にも、この黒い目に射竦められてきた。
この目を怯まずに睨み返して、力み過ぎた足元を引っくり返されたりしながら、自分なりに頑張ってきた。
いつも、敵わないのだけれど。白旗をただ振るだけの敗北は嫌だ、と思っている。
そんな男だったら、夜久は一瞥もくれないに違いない。
ふっと、全く異なる顔が思い出された。
いや、思い出したと言うのは微妙に異なる。
たった今までその人物について説明していたのだから。
父さんも、いい加減な奴だと思った弟子には声をかけなかった。
「一級整備士を……」
「それを取ったら?」
まだ、言えない。
その時までに、夜久にアルファロメオを一台返せるほど、稼ぐとは。
守られる存在ではなくなる前に、認めさせてみせる、などとは。
この場では言えない。別の言葉を探す。嘘にならない、男を満足させる言葉を。
古河陽和は、布団の上に静かに座していた。
外にいつの間にか誰か控えているのについ先ほど気づかなければ、そのまま横になって休んでいたことだろう。
ひっそりと、控えめに気息を伺う気配が誰だか、暫くの間考えた。
「……ちぐささんか」
「叔父さま。遅いのにごめんなさい」
今時の娘には余りいない、おっとりとした声がする。
「雨が降っている、長くなるなら明日の朝うかがうよ」
姪は頭を振った。襖越しに見えてはいないが、分かる。
何を頼みに来たのかも分かっている。
「唯次さんを、どうぞ大寄せ茶会の時に」
「それは、あなたがお願いすることではないと思いますよ、ちぐささん」
穏やかに言ったつもりだが、姪の名前以外は思ったより鋭い声になった。
「叔父さまは、唯次さんを誤解しておいでです。きっと、叔父さまに認めて……」
「ちぐささん」
姪の名前は、柔らかく呼んでやれる。
「あなたは、あなただ。彼が彼であるように」
いつもなら、ここで立ち去るのだが、姪は姪なりに引けないらしい。
頼まれれば否とは言えない娘だ。逆もまた得意な娘だが。
「叔父さま、ケイさんが見つかったとうかがいました」
陽和は一瞬目を見開き、また閉じた。
あの子を名前の一字だけで呼ぶのは、自分の他には、この姪だけだ。
「風花の御前さまが、母にお知らせくださったそうです。叔父さまは、叔父さまは、ケイさんのことを……」
「圭吾は、家を出ました」
敢えてきちんと名前を呼ぶ。
感情は声に出なかった。姪の前であろうとも。
「でも叔父さまは、ケイさんに……」
「雨も強くなる」
静かでも、柔らかくても、天気の話でも、陽和の今の言葉は命令だ。
姪の抵抗はそこまでだった。
「はい。お休みなさいませ、叔父さま」
「お休みなさい、ちぐささん」
姪が立ち去る音にも、陽和は目を開かなかった。
風雨の音だけが離れを取り巻き、もう誰もいないことを確認して目を開く。
「私は、ここにいる」
部屋の中、男は静寂に囁きかける。
「ここを出て、どう変わったろう……」
手が動いて、虚空を撫でる。
ひと目たりとも見ていない存在が、どんな風に育ったか目の前にしてでもいるように目を細める。
「背は伸びたね、顔だってきっと……」
思い描く相手は恐らく、想像から殆ど外れてはいない。
針の先ほどにも。
「声は低くなっている、どのくらい文句も覚えただろう」
聞こえたように喉を鳴らして密やかに笑う。
「きっと、ますます肖(に)てきたよ」
呟きを否定するように雨が離れの戸を叩く。
思い出と確信を抱いて、陽和は身を横たえた。
それでも片腕が天井へ、差し招くように一度動く。
「……皆がお前を連れてきてくれる」
呟きは寝床に沈んだ。
話しているうちに、夜久が眉を片方だけ器用に跳ね上げた。
あの顔でやるから似合うというか変じゃないんだよな、と思う。
表情の崩し方を間違えば、おどけたつもりでも無様なだけだ。
或いは、時々鼻を鳴らすのと同様、無意識に染みた癖かもしれない。
「何だ、その『武家点前』だの『婦人点前』だの言うのは」
「えぇっと、話してなかったっけか」
家の歴史に係わる部分はすっ飛ばしたので、男には初耳の言葉だったかと、圭吾は慌てて頭の中で長ったらしい所から説明を切り張りした。
「俺のところは、大名の奥向きの茶道指南と、土地の郷士の茶道とが混じったものでさ。奥向きの方はどっちかと言えば大名茶道で、優雅……ってほどじゃないけど、女性が継いでる。だから『婦人点前』。で、角張ったとまではいかないけど、男が教わるのは『武家点前』って呼ばれてるんだ」
「……お前、確か跡取りは女だとか言っていなかったか。今は『武家点前』は誰が継いでいる」
「うん、伯母が『婦人点前』は継いでて、従妹がそっちの跡取り。武家の方は……」
「あの伯父とやらではないんだな」
夜久の確認に、ちょっと顔をしかめたが、圭吾は説明を続けた。
「……義伯父の息子、つっても養子だけどさ、そいつが従妹と結婚するから、そいつがいずれは」
「今は、誰だ」
相手は、圭吾がさりげない調子で誤魔化そうとしたことなどお見通しだった。
「うん……一応は、父親ってことになってるけど……」
「誰のだ」
もう、問いかけは確認でしかない。圭吾は観念した。
「俺の……父さん」
男の目がどちらかと言えば凶悪な意味で細められるのを見て、今日はもうどんな災難も勘弁してくれと天を仰ぎたくなった。
「けど、けどっっ。俺は、関係ない。どうせ唯次の奴は、今頃ちゃんと俺みたいな平師範どころか、宗家の手前まで行ってるさ」
「行っていなければ?」
「あいつ要領いいんだから、んなことないって」
脇を向いた圭吾に、夜久は舌打ちすると手を伸ばして手首をつかんできた。
「聞け、ケイ」
「問題ないって」
「どこが問題ない、だ。ガキが」
夜久の怒声は、不思議と大音声にはならない。
激するときほど静かになる。手首が締め上げられて圭吾は唇をかんだ。
「お前に嫌がられてると分かってるだろう義理の伯父貴が、わざわざ帰りがけに拾いにやってきた。五年も経ってから、のこのことな。跡取りがいるのなら、別にお前は要らないはずだ。外の水で育っている相手をわざわざ呼び戻す、理由は何だ」
「知らないよっっ」
「考えろ。何故、今頃来る」
思考を放棄することを、決して夜久は許してはくれない。
隙を見せた相手を、決して逃さない。それでも逃れようと圭吾は必死で考えた。
「えっと、……そうだ、披露目があるんだよ、きっと」
無理やりに聞こえないように声を明るくする。
「一応、二十歳過ぎたんだし、……そうだ、大学行ってれば来年か再来年卒業だから、ひょっとすると正式に……」
「本当に、そう思っているのか」
手首よりも、喉が痛い。目が痛い。
夜久に偽りを言うことは、難しいことだし、したくもない。
「それなら、住所が分かった時点で手紙の一本でも済むな。直に来る理由は」
手が離れてホッとしたが、腕組みした男をまだ真っ直ぐには見られなかった。
「……お前の父親は、家を出るのに反対したと言ったな」
「父さんは、車には興味持たなかっただけだよっ」
家のことは、未だに思い出すと辛いことが多い。
でも、父さんだけは俺の味方だった。俺だって父さんの味方だった。
「今更、俺のことなんて誰も跡取りとは思ってない」
それは確信しているから、ありったけの勇気をかき集めて夜久に言い放った。
「あんたに迷惑なんかかけるもんか」
男は腕組みしたまま、首だけ竦めて見せた。
黒衣の与える威圧感に、僅かながら不吉な予感も滲ませて。
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