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夏の日差しと蒸気とが勢いを減じても、爛れきった桃の断面のように潤んだ夕暮れ。
水風呂でも肌の上から汗を拭いきれず、徒に肌の上だけを冷やすシャワーでは、身体の中の熱を冷ましきることが難しい。
かといって、ただの運動や、手元の存在を組み伏せるのでは、つまらない。
そう感じる時、夜久は独り出かける。
欲望は、一種類の酒や一人の肌だけで充たせない。見境なく盛る年齢ではないが、手綱を緩めて気ままにあちこちを歩き、転がっているものを時には撫でたり、踏みしだいたりして楽しむことも必要だ。
モラルは、仕事だけで十分だ。
勿論、夜久にも自分なりのルールがないわけではない。
ただ、いちいちそれを説明するくどさを持ち合わせないだけだ。
永続を望む相手でも困るし、その時の享楽のみで満足できないなら他所を当たれと言い切るだけである。
その点を、圭吾が弁えているのかいないのかは分からないが、何となし勘付いているのか、夜遊びに同道してくれとも、相手は誰かとも尋ねることがない。
事故以来の同居がこれだけ続いている一因は、その点での不干渉かも知れない。
もしかすれば、夜久の欲望が他者に向けば、自分の身体の負担が減る、と内心喜んでいるかもしれないが。
逆に圭吾は、さほど夜遊びに興味がないようだ。
一度なんだったか友人との馬鹿騒ぎにに行かせてやった時に、前もって弄ったので懲りたのもありそうだが、基本的に圭吾は家の中のことを片付けたり、夜久の取っている雑誌や新聞から、車関係のものを丹念に読んでは自分なりの勉強を続けている。
一級整備士の資格を取りたい、圭吾はそのことに集中する余り、家からの呼び出しにも、風花の誘いにも首を横に振る。
車と言う車に関してデータを持とうと、慣れない外国語のサイトにも目を向け、気づけば寝落ちして夜久に引きずり起こされ、そのまま寝る前にひと運動させられて、非常に辛そうな次の朝もあるが、ぼやいても投げ出さない。
自分の夢に向かってまっしぐらで、余所見の暇さえない圭吾。
久々の休みの今日はしかし、あまりの暑さに少々バテ気味で、二階の自分の部屋で扇風機を回して寝ているようである。
ゲームをしたがるわけでもない、持ち物は同年代の連中に比べれば―――どうにか揃えたスーツ類を除けば―――少ないほうだ。
車こそ持っていないが保険の類にも入っていなくてはならないし、身体を保つために食べる量も半端ではないため、貯金らしい貯金もできずに必死に前に進んでいる。
この前一応出してやったボーナスは、スーツの支払いと、車関係の書籍に消えた。
出してやれないことはない。経費として落とせるものも幾つかはあった。
それでも夜久はその申し出をしない。
足りない時、自分に欲しいものを得るには圧倒的に資金不足の時、どうするかは他人の財布を頼るより、自分の頭で考えたほうがましである。
飢えそのもので死ぬことはあっても、飢餓感だけでは男は死なない。
寧ろ、その感覚は悔しく、心地よく、考えるうちに頭を研ぎ澄ましてくれる。
サラ金には手を出すな、とは言ってあるし、本当に欲しい買い物が出れば相談に乗ってやらないこともないだろう。
ただ、圭吾が一番欲しいものが技術であり、資格であるなら、夜久には与えられない。
それは他者の手ではつかめない、自分が爪を立ててでも、社会からもぎ取らなければならない勝利だ。
そして取ったからと言って、すぐさま安逸な生活をもたらすものでもない。
階段を上がりながら、現在の目的が達成された時、青年は何を次の目標に据えるのだろうと思う。
しゃかりきに働いて、独立して工場を持つのだろうか。自分のように売るだけの側に回ることになるか。
まあどちらにしても、夜久の決定することではない。
和室の外で、一応声をかける。
「ケイ」
まだ寝ているかと思っていたが、短く答える声があったので襖を開けた。
羽の止まった扇風機の前から、少しばかり寝癖のついた前髪が持ち上がる。
幾分かの浅い睡眠でじっとりと汗をかいた肌、首がゆっくり左右に振られるに連れて、目が徐々にこげ茶の光を取り戻してゆく。
「……出かけんの、夜久さん」
黒いシルクのシャツ、アクセサリーはつけていないが、金鎖を垂らしていればもろにその筋かホストに見えるだろう夜久を、やや下からの目線で圭吾は見ていった。
「夕飯は?」
「不要だ」
遊びに行く時の決まったやりとりは、これぐらいのものである。
浮気も本気もないし、ただ、同居人だから家事をやったり、声をかけるだけ。
恋人でもないから、冷めた関係とさえ呼ばない。
今も、圭吾の視線に、咎めるような色合いはない。
車を通じて、或いはシーツの上でだけの関係と割り切っているのだろうか。
今だって押し倒せなくはないだろうが、身体は屈服しても、こうして夜久とは別、という態度を取られると楽なようで面白いとはいえない。
押し倒して這いずり回らせて、足腰立たないくらいに鳴かせても、どこかでけろっと元通りになってしまう圭吾。
夢に邁進する真っ直ぐさはこの年齢には貴重だと思いながらも、どうやって堕落させてやろう、と思う瞬間がある。
何かに惑溺する、車のほかに、手に入れたい何かを得させて、それを自分が押さえ込んで一泡吹かせてやりたい。
大体、年の割に落ち着き払っているのがおかしいとさえ思う。
大体この年齢なら、形ばかりの恋愛に憧れたり、身体の欲望からお手軽でステディな関係を持てる相手を探そうとする。
しかし、圭吾は車以外には割と淡白で、夜久以外の誰かと一定以上親密になる気配が見られない。
強いて親しい相手を挙げるならば、以前働いていたスタンドの所長である二宮なのだろうが、二宮は圭吾に手出しを躊躇ううちに思いに気づかれることもなく夜久に取られ、更には夜久に組み敷かれてしまうほど情けなかった。
スタンドのバイト仲間だった雪登に対しても、未だ意識としては「先輩」だ。
色事を商売とするような青年たちも、圭吾の琴線に触れるようなことはなく。
唯一外部と接触があるような工場は殆ど男ばかり、事務の女性は既婚者ばかりとあっては出逢いそのものが枯渇している、と言ってもいいだろう。
夜久の客にも、後腐れない関係をほのめかす女がいないわけではないが、圭吾は客と火遊びをするような愚かしさも持ち合わせていない。
それでも大体、皆、圭吾のことは好青年としてみている。
寝起きは間抜けな前髪を見ているうち、何となし腹立たしさが増してきた。
こちらを不審げに見ている眼差しも。
平凡な好青年、が、何やらどこかの落し物のような立場にいることも。
ある程度は自分の側にも、その事情が立ち入ってきそうなことも。
「そっか、じゃあ俺……」
「支度して来い」
短くストレートな命令に、見る間に寝起きの顔が青ざめ、強張ってゆく。
返事の有無を気にかけず、夜久は踵を返して階段へと向かった。
夜勤から変則的に昼間で勤務していた筈なのに、溌刺とさえ言えそうな山野を、新倉は着替えつつ横目で見やった。
無駄に暑い午後、北の育ちの自分のゲージは下がる一方だ。
いつも、山野の表情はもう少し涼しげで、バイク乗りだってライダースーツ着ればばてそうなものだが、警備担当は体力が違う。
服を着ていれば同じくらいの体格に見えるのに、脱いだら凄いんです、と古いキャッチフレーズを思い出させるほど、シャツの下の胸板は引き締まっている。
「―――スケベ」
背を向けてシャツを着ているはずなのにどうやってこちらの視線に気づいたのか、山野は小さく、しかしはっきり聞こえるように呟いた。
「彼氏見慣れてんじゃないのか?」
むっ、とした空気まで読み取ったのだろう。
「それともご無沙汰?」
反射的に投げた空き缶を、平然と片手で受け止める反射神経のよさ。
缶はそのままゴミ箱に放られて、首を軽く左右に振ると、山野は新倉の方を振り返って相変わらず涼しげな顔で言った。
「水風呂でも入って迫れば?」
「とっくに実行済」
男性の恋人のいる新倉と、恋人はいないがバイセクシャルの山野。倶楽部でも、そうオープンに性的な嗜好の話ができる知り合いは多くはない。
話せるのはほっとするのだが、あまりあけすけにやると、こうしてからかわれる。
「で、山野はデート?」
「いや、久々に」
「久々に?」
キーホルダーを抜き出して山野はチェックしながら、平然とこう言った。
「筋肉とか髭とか愛でてこようかと」
可愛い女の子も好きだと言いながら、体格の良い男たちも愛でられる。
博愛主義者というより性欲の塊なんじゃないかと思っても、うっかり言って藤川のようにヘッドロックでもかけられたら、と怖くて言えない。
今までのところ、新倉はその技をかけられてはいないのだが、からかわれた入江の話を聞くに、しないで済めば嬉しい経験らしい。
「……さよーで」
ハッテン場の方か。と、昔は自分も行っていた何箇所かを思い返す。
恋人が出来てからはすっかりご無沙汰……というか、そんな場所に行ったら元ノーマルの相手に愛想をつかされるのは目に見えている。
あの空気はあの空気で好きだが、恋人を無理に連れて行って万が一取られても嫌だ。
固定の相手のいない山野は、特に誰かとの長い付き合いも聞かない。
いつか聞き出して、お返しにあれこれ言ってやろうと改めて決意していると、ふと、楽しそうな雰囲気の原因かもしれない噂を思い出す。
「そういえば、山野にも気になるお客がいるって本当?」
「ん?」
動きを止めた山野は、ちら、と背後のベッドでもぞもぞとタオルケットに包まっている藤川を見た。
何となし、凶悪な視線のように見えたので、新倉は一歩遠ざかる。
「ほら、倶楽部の客の話、山野はあんまりしないだろう」
この話題は別に今まで地雷ではなかったと思うのだが。
「俺ら警備だしな」
何となし、漫画で言うおどろ線を背負っていそうな笑顔を向けられて、更に一歩。
「そ、そうか」
山野の背後のタオルケットも強張ったように、見えた。
クーラーの効いたスタッフルームだが、更に温度が下がった気がしてきた。
その笑顔で、山野は逆に聞き返してくる。
「たまたま、客と遭遇すればそれなりに愛想よくするものじゃないか?」
「そ、そんなものかもな」
ドアノブに指先が引っかかった。滑ったのでつかみなおす。
何だか分からないが思いっきり危険信号だ。
お前は鈍感だって、恋人に言われたばっかりだがこのくらいは十分に感じ取れるぞと言い返したくとも今はとにかく危ない。
「新倉、ところでその噂の出所ってのは……」
こきっ、と指の鳴る音を聞いて、新倉の、少しばかり彫りの深い顔立ちが強張る。
一瞬流れた視線は山野の背後を示してしまう。
新倉の視線を追った山野の笑みが深まった。和むどころか恐ろしい。
「……そろそろ戻るよ、邪魔したな、山野」
慌ててドアを開け、スタッフルームを滑りでて後ろ手に閉める瞬間。
「ふ・じ・か・わー」
犠牲者の悲鳴を聞かずに済むように、新倉は廊下を急ぎオフィスまで戻っていった。
夜になっても熱気が篭る場所もある。
周囲は男ばかり、半袖シャツからスーツまでいるのはまあいいとして。
その合間に見えるレザーとか金鎖とか、あのぶっとい二の腕のはタトゥーのシールか本物か、動くにつれて髑髏マークなんか笑われましても恐ろしい限り。
明らかにそちらの嗜好のバーに連れてこられるとは、圭吾は想像だにしてなかった。
夜久の知り合いがやっている、とのことだが、国籍年齢雑多なバーの中は結構混みあっていて、うっかり動けば肘もぶち当たりそうだ。
今日はサッカー観戦の日で、店内に二つばかり置かれたテレビの前に、男ばかりがすし詰めで、冷房の効果も半減してしまっていた。
夜久はここで誰かを待つつもりらしく、客が来るまでカウンターでワンショット引っ掛けただけで、後は見るともなしサッカーの画面に目を当てている。
その横で用心しいしいトニックウォーターにライムを搾ったものを飲みつつ、圭吾は居心地の悪さをなるべく表に出さないように気をつけていた。
こっそり出て帰るにも、適当な口実が見つからない。
酒こそ飲まないでいるものの、夜久を置いて帰ってしまったら後日どころか数時間後が恐ろしいし、帰って何をすると言われてもせいぜい簡単な片づけだ。
そろそろ腹が減ってくる頃なのだが、誰かと待ち合わせの夜久を差し置いて注文もならないし、ぎちぎちの店内で目立つ動きをして、誰かに食指を動かされても困る。
さっきから何度か、二の腕も逞しいレザーベストの男性がこっちを見ているのだ。
日本人ならまだ滑稽だが、目の色が薄い灰茶色で、偏見だろうが酷薄そうに見える。
夜久にだったら正直どうとでもしてくれと思わなくもない。夜久は圭吾に対する倣岸さを想像できないくらい丁重な態度も取れるし、嫌だとなれば体術もかなりのものだ。
自力でどうにかできる。
俺だったら冗談じゃない。あんなのに向かってこられたら逃げるし叫ぶ。
警察が見えたら真っ先に飛び込むだろう。
そんなことを思いつつ、見ないふりで、こんな場所に連れてきた男性を睨む。
夜久の口元が微かに緩んだので再び画面に目をやろうとして、顔が強張った。
比較的近くに二人の男性が並んで立っている。
サッカー見てるんじゃないのか。あの腰の辺りでゆるゆる手ぇ動かして……あああ後ろポケットに突っ込んでるよ、恥ずかしくないのかあれは。
五分刈りの男の頭が、首の後ろで髪を縛った男の肩に持たせかけられて、少し斜め横を向いた相手が、顎の辺りで相手の頭を軽く小突くようにしながら笑っている。
上目遣いに、女のように相手を見上げた男の顎にはびっしり髭も生えていて、それでいて相手に対して甘えたような姿勢は女以上に何だか生々しい。
夜久がどっちかのような真似をしてきたら、殴ってしまうだろう。
そう思って男を見ると、圭吾の狼狽に気づいているのだろう、喉の辺りの筋肉がぴくぴくと震えている。
足くらい蹴っ飛ばしてやろうか。そう思った辺りで喚声が沸き起こり、すぐに失望のうめきに取って代わられた。
その様子を見たまま、夜久がポケットから携帯電話を取り出して耳に当てる。
「……私だ」
間違い電話だったら如何するのか、と思う第一声を、相手は何と思うのか。
「店に入ってるぞ」
そんな言い方から察するに、電話の相手と待ち合わせらしい。
背中に嫌な視線。さっきのレザーベストの男だ。
モーションのつもりなのかも知れないが気づかぬふりに限る。
こんな場所に連れてきた夜久が、気まぐれにでも圭吾を置いていったりしたら、生命と、それ以上の危機だ。
「……聞こえんな」
店のすぐ外の駐車場で、来たのか帰るのか分からないが、バイクや車が低くも騒がしい音を立てている。
夜久は口の形だけで「ちょっと出てくる」と言った後、カウンターから立ち上がって店の外へ向かい始めた。
圭吾も慌てて出ようとしたのだが、手で制される。
背後の視線が突き刺さってくる気がした。
トイレに立つ振りで……と考えて、個室にでも押し込まれれば恐ろしい事態が待っていることに気づく。
かといって、その手の趣味の店でモーションをかけられて大騒ぎすれば、つまみ出されて恥をかくのは圭吾のほうだ。
夜久が電話を終えて戻るまでの数分、来ないでくれればそれだけでどうにかなる。
サッカーに熱心になっている振りで画面を見ていたのだが、またしてもすぐ手前の二人が怪しげな動きを始めた。
誰も見ていないと思っているのか、五分刈りが長髪の顎にキス。
ふっと笑った長髪が、手を伸ばして相手の耳朶を弄り始める。
くすぐったがった五分刈りが、額を相手の肩口に擦り付けるようにして手から逃れようとして、今度は相手の掌にキスしている。
男でも、馬鹿っぷるっているもんなのか、と、唖然として見やった圭吾は背後をすっかり忘れていた。
「"Good evening"」
ほぼ胴間声と言ってもいいだろう、低く恐ろしい声が背後から英語と共にやってきた。
気づいた時には、夜久の席とは反対側のカウンター席に、さっきのレザーベストが座ってにこやかに圭吾に笑いかけている。
「"Speak English?"」
さっきのがこんばんは、で、今のが、英語を話せるか?ってことか?
ノーだけで通じるレベルの会話でも、目の前にいるのが、外見なら夜久に数層倍する恐ろしさの男では、すんなりとは出てこない。
「"ニホンゴ、only?"」
頷くのがやっとの圭吾に、レザーベストの男は優しいつもり―――と思われるが正直思いたくないくらい恐ろしい―――笑顔を浮かべて更に言葉をつなぐ。
「"First time?...Ah...ハジメテ?"」
この店が初めてってことだろうか他に何か隠れた意味があるんだろうか、夜久さんまだ戻ってこないのか、外でかけなおしとかしてたらどうしよう。
男の腕で髑髏のマークも歪んだ笑みを浮かべている。
多分、いきなりあの長髪と五分刈りのような真似はしてこない、してこないと思う。
同意もなしに触ってくるようなデリカシーのない奴ではないんだろう。
けれど、プロレスラー並みの体格の外国人男性と、いきなり英会話教室に放り込まれたような状況はどう対応してよいものやら分からない。
こんばんは、英語話せる?日本語だけ?初めて?
これだけの問いにびくつく自分を叱咤しつつ、尚もイエスとさえ言えずに頷く。
日本人と違う目の色はスタンドでも見てきたし注文だって受けたことがあるのに、何故こんなに腰が引けてしまうのだろう。
後から考えれば、日本人どうしでもレザーだのタトゥーだのを身につけた相手に、前触れなく話しかけられれば驚くに決まっているのだが、この時の圭吾は、冷静に自分や相手を把握できる状態にはなかった。
「"Ah...ワタシ、Steve.ニホンゴ、chobitt"」
す、すちーぶ?あ、スティーブか?ちょ、なんだって?
最後の発音が分からず、瞬きする圭吾を見て、何が嬉しいのかスティーブはにっこり笑った。
「"That man is your steady? He looks sharp....Sorry."」
本当に圭吾がスティーブの英語を理解していれば、前半は否定し後半は思い切り肯定しただろう。
だが、ぽかんとしたままの青年に、スティーブは相手が普通の日本人で、自分の英語の単語を拾うのも精一杯と理解した。
「"オサケノメナイ?Beer?Pepsi?オチカヅキ、イッパイ.OK?"」
要するに、飲まないかと誘っているだけなのだが、圭吾としては夜久に戻ってきてもらいたいばかり。
何で見知らぬ外人と酒など酌み交わさないとならないのか、と言いたい。
が、相手は単に飲み物を勧めているだけだし、断り方を間違えれば失礼だ。
ノーって言えない日本人だが、ノーだけでも失礼だし、ええと、夜久さんを待っている、ってのをどう言ったらいいんだろう。
圭吾の額に、汗が噴出し始めた。
店に入った途端に、この暑さにもレザーのライダースーツを纏ったままの男は目をぱちくりさせた。
柱の陰で、何かを躊躇っている少年がいる。何かを見ていられない、でも一歩を踏み出せない、といった感じ。
顔立ちは割りと可愛らしい系統だが、何だか棘もあるんじゃないかな、と思いつつその視線の先を追うと、自分と同じようなレザー姿の背中が見えた。
誰かにモーションをかけるなど、この店では珍しいことではなく、相手の顔を見ようと目を凝らす。
一瞬、見間違いか目の錯覚だと思った。
こんな種類の店で顔を見るとは思わない相手。
何故、ここに彼が存在するのか、と疑問を抱えたまま、その表情に浮かぶ焦りに、彼が何らかの窮地にあることは分かる。
柱の陰の知り合いらしい少年の顔を念のために記憶しておいてから、男はカウンターへ歩み寄った。
英語が分かれば、この困った状態から抜け出るのは楽なんだろうか。
悪い人じゃなさそうなんだけど、何を言ったら離れてくれるのか分からない。
「"I just chat to you...Ah,オシャベリ?シタイ?"」
日本人なら「人を待ってるんで」と断るよな。
中学以来ほったらかしの、ボキャブラリーと言うも恥ずかしい英単語を頭の中で必死で探る。
「あー、あいうえいてぃんぐまいふれんど」
動詞が引っこ抜かれているためスティーブが瞬きするが、すぐに笑顔になる。
「"You speak English a little? OK,OK. I wanna talk to you, a few minute."」
全部何だか分からない、けどこのスティーブが諦めてないのは圭吾にも分かる。
指先で「ほーんのちょっと」っぽい間を作って、とにかく何か話したいらしい。
……何を?
「"I like to talk to Japanese Boys, but some boys are afraid of me."」
何か溜息をついている。
「"But you don't afraid of me. You smiled at me. I'm very happy."」
スマイルとハッピーしか分かりません。
「あー、あいきゃんとすぴー」
「"...Excuse me. He is my friend. Any Problem?"」
圭吾の掠れた片言英語の声に、流暢で心地よい英語が重なった。
スティーブが振り返り、大きな身体の後ろに立つ、一回り半は細いライダースーツの声の主が見えた。
「……や、まの、さ……」
立ち上がろうとしてよろける。手をさっと差し出して、山野がスティーブ越しに圭吾の腕をつかむ。
一歩脇に退くと、スティーブが困った顔になっていた。
「"Sorry, he looked confused, so I just..."」
「"He is first time comming this place, don't mind. I talk to him, you're kind guy.Thanks."」
笑顔で何事か言ってスティーブの脇を回り、山野は圭吾の脇に立った。
「しょうがないな、一度出ようか?」
「俺、まだ支払いとか……それに夜久さんが」
夜久の名前を聞いた山野は、ちら、と、圭吾のトニックウォーターを見て、尋ねる。
「ノンアルコール?」
「あ、そうですけど……」
「じゃ、貰うよ」
返事の暇もなかった。
氷が揺すられる涼しい音を立ててタンブラーが持ち上げられ、縁が山野の唇に当たる。
あっ、と、小さく圭吾の声が漏れた時には、既に喉仏が悩ましく動いて、トニックウォーターは相手の体内へ吸い込まれるように消えてゆく。
僅か数秒で、タンブラーはカウンターに置かれたコースターの上に戻り、山野はふぅ、と、人によっては悩ましげに聞こえなくもない溜息をついた。
「暑かった。バイクだからどうしても蒸すから」
ライダースーツはレザーで、胸元も開いているのだが、スティーブのような体格ではないせいか、そう悪い印象ではない。
冷えた空気に、山野のつけているダークブルーの香りが僅かに混じった。
「それ、俺……」
「あ、まだ飲むんだった?ごめん、じゃ、もう一杯」
手を挙げてバーテンダーに注文をとろうとする山野の腕を、今度は圭吾がつかむ。
「い、いいですよ、何だか迷惑かけちゃって」
スティーブを見ると、何だか頬がうっすら染まっている。
申し訳なさそうに二人に笑いかけて、元の席に戻ってゆく男は、見た目と反して大人しそうで、何だか彼にも悪いことをしたようだ。
「迷惑?そんな、折角一息入れに来たんだし」
朗らかな笑顔の喉から、ライダースーツの胸元に、汗が伝い落ちてゆく。
何となしどぎまぎとしながら、慌ててポケットを探り、圭吾はハンカチを取り出した。
幸い、自分ではまだ使っていない。
「あの、これ」
「いいの?」
有難う、と首元に遠慮なくハンカチを当てた山野は、スティーブの座っていた位置を占めると、何か飲もうよ、と圭吾を誘った。
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