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一度音声が切れ、アンテナが三本と二本の間を往復する状態となった。
店の入口から離れて、三本に戻った辺りで携帯を握った腕を左右に動かし、三本のまま動かないのを確かめてから、再度コールを待つ。
殆ど何を言われているのか分からず、途中で切れてしまったのでは仕方ない。
それでも、二分ほど全く反応がなく、むっとする温気の中で夜久は携帯の画面を見やりつつ立ち続けた。
先ほど店内で圭吾にちらちら視線を向けていた奴がいたが、見掛け倒しのような気がしたので放っておいた。
今頃はそろそろと立ち上がって声をかけたりしているかも知れないが、悲鳴でも聞こえない限り駆けつけてやる義理もない。
馬鹿な真似をするようなら蹴りつけもするが、最悪の予想としても、一方的に圭吾がおたついて笑われるがせいぜいだろう。
それに、英語も中学どまりでは、会話になるかどうか。
勉強嫌いではなさそうなので、近所のスクールぐらい通えば一般の会話は出来るようになるのではないかとも思う。
そのぐらい自分で見当つけて行け、と思うから言いもしないだけだ。
圭吾は自分で進むべき道を見つけて家を飛び出した。
進む道で、もし石や砂利を掘りつつも進まねばならない状態になったなら。
その時には、手を伸べることもあるかもしれない。気が向けば、の話だが。
いっそ一服つけようか、そう思った時、画面が点り、手の中で携帯が震えた。
「―――遅かったな、冷水(しみず)」
『悪いね、急にハンズフリーが壊れたんで、路肩によろうと思ったんだけど』
今度は声も良好だ。
『煽られちゃった。で、後三十分ほどだと思うけど、そこでいい?』
「どういうことだ?」
冷水は、一杯飲みながら、と言ったので、互いに知っている店を指定したのだが。
『倶楽部から久々連絡。夏のフェアまだ食べてないから、良ければあっちで』
この男も、倶楽部オルビットの会員、夜久と同様一桁の会員番号保有者だ。
無沙汰が長いと、それなりにオーナーの浅井が呼び出そうとする。
「一人、余分なのがいるが」
電話の向こうは軽い笑い声を上げた。
『余分どころか、レアな存在だろう?君のお気に入りは』
お気に入り、の言葉に、自然、夜久の目が細められる。
冷水はまだ圭吾と顔を合わせて親しく話したことはない。
倶楽部に風花澄がいる時は、殆ど独占状態で、他会員のちょっかいを許さないのだ。
圭吾に対してやっかみを持つ会員や準会員が皆無ではないから、あの黒猫の玩具扱いで連れて来られている、と思われたほうがましではある。
伍堂とも話をするにはするが、出くわす率がそう高くはないのでよしとしよう。
だが、一桁の会員がこうも揃ってかまいつける何が圭吾にあるというのか。
そんな夜久の不機嫌を察しているかどうか、冷水は続ける。
『それと、私からも夜久にお願いがあってね』
「何だ」
『詳しくは、会ってから。倶楽部でいいのかな』
「良かろう」
返事するのに、間は、さほどは空かなかった。
『有難う、やっぱり夜久だね。それじゃ、あちらで』
一拍置いて、通話が切れる。
こちらも切断ボタンを押しながら、再び面白くない気持ちが増してくるのを、夜久は努めて表に出すまい、とした。
あくまで、今日の夜歩きは自分と冷水との筈だ。
自分が主なら、圭吾は従。
鼻面引きずりまわしても、誰にも文句は言えた筋合いではない。
なのに、冷水が倶楽部でよいかと尋ねた時、視線の隅っこに、背にしていた店のドアがちらり、と映ったのだ。
その奥にいる存在は瞬時に考慮の外へ押しやったものの、ほんの一瞬、揺らいだ視界が腹立たしい。
暑さのせいだ。そう思いながらも、夜久は店の中で困惑しているだろう相手をすぐには救ってやろうとせず、別の短縮番号をプッシュした。
ノンアルコールのメニューに、十種類くらい、見知らぬ名前が並んでいる。
ウォッカやジンを使ったカクテルと違い、説明がきがないので、名前だけではどんなカクテルなのかさっぱり分からない。
「頼めば、これ以外でもやってもらえるよ」
店には何度か来ているらしい山野は、そんなことを言ってくれるものの、圭吾はまだ、好みの味というのも決まっていない。
「……さっぱりめの、って、どれですか」
それでも、夜久と違って、山野には尋ねやすい。
夜久は、何かを決めることに驚くほど躊躇いがない。熟慮していないわけではないのだろうが、イエスかノーか常にはっきりと告げる。
寧ろ、間が空けば、怖いのだ。
考えうる限り最悪の事態が待ち受けているようで。
僅かの空白に、どれほどの思考が流れて、どれだけの、圭吾にとっては悪意さえ感じる冗談や遊戯が待ち受けていることか。
「そうだね……同じのでいい?」
山野もバイクでいるため、ノンアルコールだという。
頷くと、男はバーテンダーに短く英語で告げ、頷き返されて、圭吾に顔を戻した。
じっとりと髪を湿らせる汗に、再び、スパイスのような香りが混じる。
端っこに戻ってしまったスティーブが、今度はちらちらと山野を見ている。
そりゃそうだよな、と、自分の場合と違って圭吾は非常に腑に落ちた。
ほどほどの背丈の、身体だってスリムな青年。ライダースーツも似合うし、汗をかいたって臭くない。
いかなる時にもさわやか笑顔。とくれば、圭吾だって否応なしに注目する。
……変な意味じゃ、ないからな。と、自分に付け足した。
「お仕事お疲れ様。それとも、休み?」
声もいい。不躾にならないほどの視線も、店の中のどこか湿ったものと違うような。
もっとも、外で一度お世話になっていて、山野を知っているからこその安心感なのだろうが、偶然にせよ、知り合いにここで会えたことは―――って、この店。
男ばかりのこの店に、山野がいる、と、いうことは。
「休みです。あ、山野さんは……」
「サッカー観戦と、あぁいうの観察」
視線で示された先には、先ほどよりは大人しいものの、手をつないだ野郎が二人。
つまり、この人も……なんだな。
そういう思いはしたものの、現時点までで、圭吾は嫌らしいものを覚えていない。
先ほどのスティーブの視線には、気づいてくれないか、という下心らしきものがあったわけだが、山野の場合、せいぜい自分のグラスの飲み物を飲まれた程度だ。
それだって、バイクで喉が渇いたからだし、一度、缶コーヒー奢ってもらったから、お礼みたいに考えてもいいだろう。
口をつけたにしても、量はさほど減ってないし、スタンドでも時々、後輩に勝手に一口取られたりしていたから、それほど嫌な気分にはならなかった。
「……可愛いよ。表じゃそう堂々とはできないからね」
世間からは眉を顰められる性癖の男は、圭吾にだけ聞こえる小さな声でそういった。
「匿名の回覧が回ったりとか、変な落書きされたりとかするから」
「はぁ」
少し間が抜けた返事だと思ったので、付け足してみた。
「どっちでも、ばかっぷる、ってのは、あんまし」
正しくは、どっちの性別でも、だ。言葉の足りなさに気づいて、補おうとすると、山野は何か感心したような顔つきになった。
「そう?見てる分にはあからさまで面白いけど」
言いつつ背後に手を伸ばし、カウンターを滑っててきたコリンズグラスを、見もせずに受け止める。
それを圭吾に押しやると、もうひとつ、間髪いれずにバーテンダーから滑らされた同じグラスを、全く変わらぬ姿勢でキャッチ。
後ろに目がついているんだろうか?
圭吾が目を白黒させていると、山野はグラスを持ち上げ、圭吾にも取るように促す。
「"Keep Sober"。素面で、って意味」
「きーぷ、そーばー」
トニックウォーター、その上に白っぽい液体、上からゆっくりと沈む赤。
口にすると、柑桔の香りに、甘い味がしたが、確かに全体にさっぱりとしている。
「どう?」
「美味しいです。覚えておきます」
答えると、山野は薄く笑って、色々試してからでも、と言いつつ自分の分をあおる。
倶楽部や、一度連れてゆかれた風俗系の店では、どうしても圭吾は違和感を感じてしまったが、山野とは、何となし話しやすい心地がする。
年齢的には上の人間だが、山野は圭吾の周囲にはいないタイプだ。
夜久ほどに強引ではなく、二宮のように保護者風でもなく、浅井のように冷たくはなく、風花のような構いたがり風でもない。
一度バイクで送ってもらったのと、倶楽部での処理をスムーズにやってくれただけで我ながら現金なものだが、圭吾としては、先ほどまで気詰まりだった店に、急に酸素でも送り込まれたような気分になっていた。
夜久はなかなか戻ってこないが、キーは自分が持っているから、車で話しているわけでもないだろう。
戻ってきて欲しいことは確かだが、その途端に、山野との会話は打ち切られてしまいそうで、もう五分か十分ほどは気にしないことにした。
その間にも、山野は二杯目を三分の一ほど飲んでいる。
「山野さんは、サッカー好きなんですか?」
圭吾も幾つかはチームや選手を知っているし、選手自身が追いかけてゆくボールのようにすっ飛んでゆく姿を見るのは楽しいが、詳しいほうではない。
「そうだね、TVよりスタジアムの方が雰囲気好きだけど」
夜勤明けで、都内の蒸し暑い夜はちょっとハードで、と言いつつまた水分補給。
「時間的にも、入れてもハーフタイムだったから、こっちでいいや、って」
画面と圭吾の顔を交互に見つつ、くいくいとグラスを傾ける。
それでは、観戦に圭吾は邪魔ではないだろうか。
思ったものの、そう尋ねるだけでも邪魔の気がしたので、口には出せなかった。
「今日はこっちで大正解だったし」
そう山野が言った瞬間、ゴール前で攻防が沸き起こり、再び店内がどよめく。
『いけーーっ!』『よぉーーーっし!!』などの叫びが沸き起こる中、さっきのカップルが、今度は肩を組んで仲良く画面の中の選手たちを応援している。
先ほどの生々しい嫌さも、山野の言葉を聞いたからか、今はさほど感じない。
大正解の意味が良く分からなかったが、圭吾にしてみれば、自分を助けてくれた山野に出くわせたことは、非常に有難かった。
山野が教えてくれた飲み物は、店の中の暑さを減じてくれるような心地がする。
柱の陰から、一つの視線はその光景を見守っていた。
恐らく無理やりに連れてきたのだろう男に置き去りにされ、スツールからずり落ちんばかりに、話しかけてきた外国人相手に怯えていた青年。
助けに出ると色々と厄介なことになるか、と思いつつ、あの切羽詰った表情をそのままにもしておけず、葛藤していたら。
新たに店に入ってきたライダースーツの男が、外国人に声をかけ、あっという間に青年を横合いから奪う形でスツールに座ってしまったのだ。
おまけに、飲み物まで注文して一緒に飲んでいる!
会話は、店の中のサッカー騒ぎでほとんど聞き取れず、ほっとした青年の表情から、知り合いかもしれないとは思ったものの、彼の前の職場であるスタンドに、あんな見栄えのする客が来た覚えがなかった。
もっとも、そこまで長くいたわけでもないから、久しぶりに出くわした、ってこともあり得るのか。いや、それは変だ、とすぐに思い返す。
ここは、その手の嗜好の店だ。旧い知り合いがセクシャルマイノリティだと知らされれば、自分は兎も角、青年はかなりの衝撃を受けるだろう。
それが、最初はびっくりしていたものの、ハンカチを差し出したり、飲み物を取られても怒らなかったり、いや寧ろ、ライダースーツの男の顔ばっかり見ている気がする。
こちらからは顔を斜にしか眺められないが、確かにいい男だ。
いい男だけれど、青年のような、人を和ませる顔つきとは違う。
少しとがり気味の頤。目は割と普通そうだけれど、無遠慮に全身を眺めていると、青年は気づいているだろうか。
手には青年のハンカチ。あぁ羨ましい。……じゃなくて。
唇は微妙に赤い。リップとか塗っているようだ。髪だって乱れているには乱れているが、その乱れさえ計算した上、整髪料で整えている。
絶対、遊んでるタイプだ。それもこう、さらっ、と誰かを攫ってしまえるような手馴れた遊び人。
青年を普段独占しているあの男に負けるのは、年齢くらいのものだろう。
思いっきり狼なんじゃないだろうか、と思うけれど、青年は無警戒。
有り得ない。知り合いがその手のだ、と分かっただけで半ば腰が引ける彼が。
最前まで怯えきっていただろう心理が、ライダースーツのヒーローの登場で、まるでヒロインのように全幅の信頼を寄せている。
あれは、誰なんだろう。
現れただけでああも青年をひきつける男性が只者のわけがない。
勇気を出して近寄ってどういうこと、と聞こうか、となけなしの勇気を振り絞ったときに、背後からやってくる別の危険を察知したため、観察はそこそこに、視線の持ち主は再び注意深く、柱の陰に身を潜めることとなった。
何か視界の隅にこそこそ動くものを捕らえた気がしたが、夜久は気に留めず店内の一点へと顔を向けた。
黒い皮革の背中越しに、先ほどよりは随分とくつろいだ風情の圭吾の顔が見える。
「―――あ」
夜久が戻ったことにホッとしたのか、それにしては何かひっかかったような変化が圭吾の表情に表れた。
その手前に腰掛けた男の背は動かない。
振り向いて確かめることもしない背にある種の図々しさを感じたが、この店で、ましてフーリガンの発生しやすいサッカー観戦で、眼を飛ばすほどのこともない。
ここに集うのは、夜久と同種の男達ばかり。迷い込んだと見える圭吾に声をかけたくなるのは不思議でも腹立たしいことでもなんでもない。
自分の先ほど占めていた位置に戻り、スツールには座らずに、相手を見やった。
誰かは見てすぐに分かったが、何も言わない。気振りにも出さない。
相手も、穏やかな無関心さ、とでも呼べばよいような雰囲気を漂わせる。
笑みもせず、眼差しは、まれに出くわす時と違って幾分は剣呑な輝きがあるが、それでも夜久の内側を波立たせるものではない。
男たちは互いに、瞬時に状況を把握し、お互いが取るべき態度をとった。
「……あの……」
挟まれた圭吾は、まだ何も分かっていない。
まるっきり、ガキだ。
ここで道理を教えてやるのは構わないが、店の邪魔や興ざめではあることだろう。
観戦の邪魔をされたと誰かが怒り出さないとも限らないし。
「場所が変わった」
圭吾にきっちりと顔を向けて、夜久は短く告げた。
「行くぞ」
「えっ」
圭吾が目を白黒させているうちに、再び店の出入り口へと向かい、歩きながら、ウェイターへと一万円札を滑らせる。
大したものは飲んでいないので、「清算を」の声を片手で押しとどめ、「有難うございました」の声に、ひる返す手首で店のドアを押すと、熱気が、女のうっとうしい腕のように絡まってきた。
この店で小銭を貰った覚えはない。これからも貰うことはない。
滞在時間も短かったことだし、余裕はありすぎるほどだ。
何事か短く背後で自分以外に言い、慌てて追いついてきた圭吾が、駐車場の手前で声をかけてくる。
「夜久さん、あの人―――」
「出せ」
鼻白む圭吾は、一瞥してきた夜久の表情に、何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
どこか不可解、そして僅かに不機嫌そうにキーをいれ、マセラッティのドアを開ける。
飲んだ自分は助手席に座りつつ、夜久はまだ説明を始めようとはしなかった。
「倶楽部だ」
短い命令に、やや間が空いたものの、イグニッションはすぐさま、店の中の応援と同じように低くやや騒々しくも感じられる音を立てた。
駐車場を出て、オルビットの方角へと向かう街道筋までは、圭吾も我慢していた。
それでも、やはり納得できないものがあったのだろう。
「……山野さん、一度、世話に……」
「伍堂の時と一緒にするな」
あれが山野温という警備スタッフで、館内のデジタルな面を全て把握していることくらいは、夜久は知っている。
客の中で彼を見る機会があった者は少なからぬ興味を示すが、彼自身は、職場で何事かモーションをやり取りすることを好まないようだ。
店であったのは意外にも初めてだが、別に驚くほどのことでもない。
倶楽部のビジターとして知っているから、窮地に声をかけたのかも知れないが、それ以上のモーションを見せていれば、元々ノーマルの圭吾は、警戒心の塊になるだろう。
普通に、世話になったスタッフとして紹介したかったから、こうやって圭吾は膨れ面寸前なのだ。
「キー・クラブの外では、内のことは話さないのが鉄則だ」
視線さえ合わせないことも多い。スタッフに出くわすことがあっても無視、客同士だったとしても、譲歩して、会釈のみだ。
倶楽部を知らない第三者に引き合わされれば、平気で「初めまして」という間柄。
それが、あの毛足の長い絨毯で人を傅かせる男たちの最低限の資質だと、圭吾は理解しなくてはならない。
伍堂と会う時に臣が同席しても、慎ましい態度を取るのはそこにある。
視力にハンディキャップのある臣は、伍堂に庇護者のような立場にいてもらっているためによく一緒にいるが、一歩倶楽部を出れば、噂話どころか、オーナーの浅井の名前さえ滅多に口にのぼせることがない。
仕事では、最低限の情報しか相手に提供しなくて良いのだ。
「……分かったよ」
渋々ながらの態度が、山野が圭吾の警戒線の内側に踏み入らなかった証拠。
好印象のスタッフが、穏やかさが心地よい臣や見目麗しい新倉ではなく、地味な警備の仕事である山野だったとは。
いかにも、ケイらしい。
可笑しくなってきたが、笑い飛ばすと、これから会う倶楽部の人間に対しても渋面を見せることになるかもしれない。
聞き分けの良い様子に免じて、倶楽部で弄くるのは止めにしてやるとしよう。
まだグラスを干してはいなかったが、山野はウェイターを手招いた。
「……"CherryZest"を柱の陰に」
その後はゆったりと顔をテレビに向け、画面や、その手前の男たちを視界の中に浮かべつつ自分のコリンズグラスを揺らす。
普段の態度が、いざと言うときものを言う。
仕事場で出くわす相手に、プライベートで近くに立たれるのはやはり気まずいもの。
まして、目の前にいたのは、非常に美味しそうな、彼のデザートで。
横合いから攫うような場面ではないし、エキサイトする店の中で、いきなり喧嘩を売ることもない。
徐々に、間を詰めてゆくことはそう難しくはなさそうだ。
グラスの氷がからん、と揺れた時、背後から、少し軽めの足音と、変声期を終えた男にしては微妙にキーの高い声がした。
「俺、奢られるいわれなんてありませんけど」
そういう声の微妙な棘に、カクテルの意味が分かる程度の頭を持ち合わせた相手だ、と判断して山野は軽くグラスを上げた。
「あんな場所じゃ、涼めないだろ」
乙女の熱情、いや、この場合は童貞君の熱視線と言うべきか。
見られていた相手は全然気づかなかったのだが、山野はきちんとチェックしていた。
背後にすとん、と腰を下ろす気配からして、自分よりも小柄だ。
「いいのか、憧れの人の席じゃなくて」
振り向かない相手に、一瞬、激怒の気配が立ち上ったが、幸いグラスの中身をぶっかけられることもなく、その少年は先ほどまで圭吾が腰を下ろしていたスツールに席を換え、山野を睨みつけつつ微笑んだ。
圭吾と大差ない、二つか三つ年下だろう。
背が低い。体つきもそれに比例して細く、傍目には中学生から高校生に見られかねない柔らかさを輪郭に残しているが、酒を出すような店に夕方を過ぎているからには、相手はもう少しは年がいっている。
目元にやや、年頃に相応しくない、険と艶を織り交ぜた色合いがある。
商売臭さはないが、経験が皆無ではないな、と、相手を頭の中で脱がせつつ、次々と山野はプロフィールを作り上げてゆく。
「―――あんた、ケ―――あの人たちとと知り合い?」
蓮っ葉な口調を作って、向こうがこちらを探ろうとしているのが丸見えだ。
「さあ」
薄まった液体を一口。
さっき、圭吾を救ったお駄賃代わりに貰ったドリンクのほうがさっぱりしていた。
ハンカチも、まだ手元にある。
少年の視線がちら、ちら、とそのハンカチを見やる。
「欲しいのか」
「さ〜あ?」
山野と同様の態度を取ろうとした少年は、まだ飲み物に手をつけない。
「安心しな、酒も薬もないから」
オレンジジュースとチェリージュース、上には赤いマラスキーノ。
用心しいしいタンブラーを持ち上げた相手に、山野はコリンズグラスをそっと当てる。
「どうぞ」
そして、相手がグラスを傾ける間に、ゆっくりとハンカチを見せ付けるようにライダースーツの内側にしまいこんだ。
少年の手が僅かにひきつり、目元が険しさをかなり増す。
多少遊んだつもりだろうが残念だな、チェリー・ボーイ。
これは、俺のこれからのためのアイテムだ。
有効に使える以上、高値だろうと売りつける気さえない。
シンデレラの硝子の靴。
いや、使いようによってはデズデモーナのハンカチそのものだ。
山野自身は、王子でもイアーゴでもないが、相手が舞台で主役でも、主役を食う脇役になれるなら、それはそれで面白いものになるだろう。
「……お兄さん、名前なんていうの」
目の前の少年は、急に普段のこ狡さを思い出したように声を変えて聞いてきた。
「チェリー・ボーイ、そんなに睨むなよ」
「……ユキでいいよ」
ユキ、ね。雪か行か由紀のような、名前の一部だろう。
別に呼ぶためのものであればポチでもタマでもよかったのだが、本名の可能性も一応は考えに入れた。
咄嗟の時や不意を付かれた時、人は完璧な偽名では名乗りづらい。
「ここだと、ヤマかなあ」
下の名前をここで誰かに漏らしたことはない。通称も色々持っているが、このユキと名乗った少年が圭吾と知り合いなら、変な名前は名乗らないでおくとしよう。
「ケイさんのこと、知ってるの」
その声に、愛称の既得権と優越感、あわせて微妙な敵愾心を感じて、内心おやおや、と肩を竦めた。
誰だか知らないが、あの男の他に、所有権を主張しかねないのがいたわけだ。
こんな未熟そうなのは、夜久という男は相手にしないだろうから、放って置かれて増長した口か。
適当に相手して情報だけもらって返してやろうと思っていたが、羽虫の類にまとわりつかれて、目標に敬遠される羽目にならないとも限らない。
大人しくさせておくとしよう。
方針を定めた山野は、残りのグラスを一気に干した。
少しだけ口元から溢れさせ、喉元を濡らさせる。
微妙に見え隠れする位置のハンカチに、再びユキの視線が向いた。
「抱きしめられた仲」
バイクのタンデムをそう告げると、勝手に誤解した相手の頬が紅潮し、呆然とスツールから立ち上がる。
「嘘っ」
何だか別の部分も勢いを増していそうだ。
カップルが振り返り、二人とも、山野に気づいて小さく手を挙げる。
指を前後に曲げて相手に示して挨拶代わりにし、山野も立ち上がった。
店の奥、テレビの手前の列が一旦切れる辺りに、トイレへの通路がある。
そちらへ足を進める彼を、再び睨んでくるユキが、ついてくるのは分かりきっていた。
オルビット地下の駐車場から、階段を上って3Fへ。
浅井や風花ではないだろう、見知らぬ倶楽部の客に出くわすとあって、やや圭吾は緊張していたが、夜久は相変わらずいつもと変わらず歩いてゆく。
この男を乱すものは滅多にないし、自分がその原因となることも殆どない。
それを、数分後から知ることになるとは、圭吾は予想もつかないことだった。
ソファーから立ち上がった、夜久と大差なさそうな年齢の、やや優男。
麻の背広を、やや着くずした感じのその男は、やってきた二人のうち片方にしか目を向けず、まずはその肩に馴れ馴れしく手を回した。
「ご無沙汰だねぇ」
「そうだな、冷水」
普通、幾らその手の趣味の男でもそこで離れるものだが、冷水はふと、顔を夜久の耳元まで寄せて、何事か囁いた。
「―――って、知ってる?」
圭吾には聞き取れなかったが、やや間が空いた。
「何だそれは、知らないな」
いつもと変わりなさそうな声。
傲岸不遜そうな態度は崩れず、冷水と呼ばれた男は『知らないの?』と今度は普通の声で言って尚も夜久の顔色を伺う。
変化があったのがそこではないことに、気づいたのはその場に居合わせた圭吾だけだった。
夜久の左手はそっと、まるで爪を食い込ませるような形で握り締められたのだ。
何かむずがっている少年を引っ張るようにして、先ほどのライダースーツの美青年が戻ってくるのを、スティーブはこっそりと伺った。
到底、あんな華やかな相手には自分はかなわない。
気軽に話してくれるお友達から始められそうな相手を見つけたと思ったのだが、残念なことだった。
あんな気さくそうな青年なら、或いはこんな気弱な自分を受け止めてくれたかもしれないというのに。
溜息をつきつつ、カウンターから目を逸らし、ちびちびとぬるまったアイスコーヒーを啜っていると、ぽん、と肩に手を置かれた。
見上げると、この店の常連客の大半の心を奪えそうな笑みが間近にあった。
ひぇっ、と声を上げてしまいそうなのをどうにか押さえる。
それが、自分に向けられているのだ、と理解するにはややかかった。
『な、何でしょう』
肝腎の会話でこう、気おされてしまうスティーブが自分に幻滅を感じているのが分かってかわからずか、相手は綺麗だけども余り種類の良くない笑みのまま、英語で言った。
『やるよ』
そう言われて、押し付けられたものに、再び仰天する。
可愛らしい美少年、それも、
「あっ……ちょ、ちょっと。酷いよぉ……」
前をすっかり隠しきれなくなり、目を潤ませきった極上のチェリー・ボーイ。
東洋人らしく控えめなサイズだろうが、それでも、前かがみとなった布地はパンパンに押し上げられている。
トイレでちょっとしたスキンシップはよく見ているが、フィニッシュさせてやらずにここまで連れ戻してくるとは!
呆れつつも崩れかかる少年を椅子にどうにか、と悪戦苦闘している間に、青年はさっさと出口に向かっていってしまう。
『あっ、あのっ、幾らなんでもこれはっ』
『要らないなら、前の連中にくれてやれよ』
こちらを振り向きもせずに声が返ってきた。
そして、短い清算の後去ってしまう。
「ひっでーよぉ……」
興奮だけは最大限に引き出されたまま、何もしてもらえないで放り出された少年は、椅子の肘をつかみつつも、今にも床に落ちてしまいそうである。
こんな美味しそうな―――いやいや、いたいけな子を、フーリガンにくれてやったらズタズタにされてしまうに違いない。
スティーブは咄嗟に自分の皮革ベストを脱ぎ、相手の前を隠すようにかけた。
ちょっと、肩と背中のタトゥーシールがはがれそうだったのが気になっていたのだが、可哀想じゃないか。
『あー、何があったのやら私にはねぇ……』
母国語でぼやいたのは当然のことだが、何故かきっ、と、少年はスティーブを睨みつけてきた。
『酷いと思わない?あのヤロー、トイレで散々人の身体触りまくって、ケイさんのこと話さないとイカせてやらないっていうんだよ?』
可愛いチューリップの花のような唇から、こんな破廉恥な言葉が出てくるとは!
もう何度目かのショックで麻痺しきったようなスティーブに、少年はぽんぽんと言葉を投げつける。
『耳とか舐めたりとか、あ〜っ、イケそう、って思うとぎゅっとタマ握ってきたりとかして、挿れもしない癖して、俺の方はずるずるにしやがってさぁ……』
一瞬だけ、スティーブは可哀想な少年のために神に祈った。
神様。私は今日、何かあなたにご不興を買うような真似をしたでしょうか。
この美貌でこの口の悪さはどうにか直してあげたくても、気弱な私では無理です。
『……ねぇ』
すがる声で呼ばれて向けば、触れなば落ちんばかりの、天使か堕天使か分からぬ美少年が、潤みきった目で自分を凝視していた。
『お兄さん、車ある?』
『あっ、あっ、ありますよ……ありますけど……』
『楽になるの、手伝ってくれない……?』
スティーブはその瞬間、神も、ライダースーツの青年も忘れて頷いていた。
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